10 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 12

花鳥風月

気ままに回文歌、いろは歌を書いています。

まわりうた 

なかきよの ねむりてかみの
  きおくとく おきのみかてり むねのよきかな

(長き夜の 眠りて神の 記憶解く 沖の海が照り 胸の良きかな)

解説

海(み)は「〔‘うみ’の‘う’が脱落した形〕 うみ。」の意味です。

余談

この歌は、「NEON GENESIS EVANGELION [DECADE] Soundtrack」の中にある「心よ原始に戻れ」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2017/11/24 Fri. 19:02 [edit]

category: まわりうた

TB: 0    CM: 0

24

まわりうた 

よのくろみ きひへひあくま
  かいしんし いかまくあひへ ひきみろくのよ

(世の黒み 鬼魅蛇悪魔 改心し 以下幕間へ 引き弥勒の世)

解説

鬼魅(きび)は「鬼とばけもの。妖怪変化(ようかいへんげ)。きみ。」、改心は「今までの行いを反省し、心を改めること。改悛(かいしゅん)。」、幕間(まくあい)は「演劇で、一幕が終わって、次の一幕が始まるまでの間。舞台に幕が下りている間。」の意味です。

雑感

下記記事によると、地球の自転が速度低下を起こしているらしい。

『「地球の回転が《謎の速度低下》を起こしている」 :アメリカ地質学会の衝撃的な発表。そして来年、大規模地震の発生数は大幅に上昇するという予測も公開』(in deepさん)
https://indeep.jp/earth-rotation-mysteriously-slowing-down-and-earthquakes-must-increase/

そして、速度が低下していくと地震が大幅に増えるらしいのだが、下記記事によると、まあいわゆるポールシフトのような現象が起こって、大津波が世界中に押し寄せて来るそうなのだ。

『ピタゴラスとゾロアスター』(「サイババが帰ってくるよ」さん)
http://blog.goo.ne.jp/saiponics/e/3a9f7f8e9d272dd98e820939f7761563

『大艱難のメカニズム』(「サイババが帰って来るよ」さん)
http://blog.goo.ne.jp/saiponics/e/ad85726ff674449ed2985f078e563691

『最後の大津波とアボリジニ伝説』(「サイババが帰って来るよ」さん)
http://blog.goo.ne.jp/saiponics/e/4c1bd26fcde9b080b9a1132e1a653a1c

ということで、いよいよ、この世の幕引きが迫って来る兆しが見え始めているように思う。

出来得れば、いち早く、自らの中の鬼魅蛇悪魔を改心させておきたいものです。

おまけ。

『もしも地球の自転が止まったら?』(you tubeより)
https://www.youtube.com/watch?v=p0HowKZm78Y

Posted on 2017/11/23 Thu. 14:17 [edit]

category: まわりうた

TB: 0    CM: 0

23

まわりうた 

なかきよも のとかなるみの
  しあはせは あしのみるなか とのもよきかな

(長き四方 長閑なる身の 幸せは 葦の見る中 外の面良きかな)

解説

四方は「東西南北の四つの方角。」「周囲。」、長閑は「(外界の状態が)穏やかで、のびのびと気持ちよく過ごせるようなさま。」「天気がよく、穏やかなさま。」「心にかかることもなく、落ち着いて、のんびりとしているさま。」「(動作・態度が)落ち着いていてあわてないさま。悠然としたさま。」、葦は「イネ科の多年草。温帯および暖帯に広く分布し、水辺に自生する。地下の長い根茎から高さ2メートル 以上に達する稈かん(茎)を出し、群生する。葉は二列に互生し、ササの葉に似る。秋、ススキに似た大きな穂を出す。稈は簾すだれやよしずにする。‘あし’が‘悪し’に通ずるのを忌んで、「よし」ともいう。ハマオギ。」、外の面(とのも)は「家の外。戸外。」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

歌のニュアンスとしては、のんびりと過ごせる時間は幸せだけれども、特に幸せなのは、葦を見ている時だなぁ、という感じかと思う。

なぜ葦を見ることが幸せなのかというと、たぶんこういうことだ。

日本は古来、豊葦原の瑞穂の国と呼ばれていたが、日本には四季があって、山があり、川があり、森がある。また湿地帯には草木が自然と芽生え、そこには多種多様な動物や昆虫などが寄って来る。

なので、この部分には、自然が自然のままに循環して、共に歓喜弥栄していく、というニュアンスが感じられる。

そういう自然の風景を、穏やかでのんびりした気持ちで見られることが何よりも幸せだなぁ、ということを、この歌は詠っているように思う。

Posted on 2017/11/22 Wed. 12:08 [edit]

category: まわりうた

TB: 0    CM: 0

22

まわりうた 

よきをしへ かみのまたみの
  いつのめの ついのみたまの みかへしをきよ

(良き教へ 神の真民の 伊豆能売の 対の神霊の 見返しを着よ)

解説

真(ま)は「(名詞・形容詞・形容動詞などに付いて)うそいつわりのない、真実の、本当の、などの意を表す。」、神(み)は「霊的な力をもつものの意。‘山祇(やまつみ)’‘海神(わたつみ)’など他の語と複合して用いられる。」、着るは「(罪や恩を)受ける。こうむる。」の意味です。

雑感

伊豆能売(いづのめ)は古事記に出て来る神様のこと。通常は○○神とか、○○命とか、いわゆる神号がついているが、この神様はなぜかついていない。

「対の神霊」は、その時に一緒に生まれた、神直毘神、大直毘神のように思う。

難しいことはよくわからないが、これら神様は禍を直す性質を持っているので、おそらくそういう意味だろう。

どうやって直すのかというと、歌の最後の「見返しを着よ」の部分がヒントになっているようだ。

結論から言うと、省みる(=返り見る)ことが大事だ、と言っているように思う。

日月神示参照。

『省みると道見出し、悟ると道が判り、改むると道進む。苦しむばかりが能ではない。自分の中にあるから近よって来るのであるぞ。厭なこと起って来るのは、厭なことが自分の中にあるからじゃ。肉体は親から受けたのざから親に似てゐるのぞ。霊は神から受けたのざから神に似てゐるぞ。判りた守護神 一日も早く奥山へ出て参りて、神の御用結構。』(黄金の巻 第六十六帖)

またこれは、因果応報を示しているようにも思う。

嫌なことがあった時、我々はつい被害者側に立ってしまうが、因果応報の法則から言えば、それは自分が為したことが返って来ているだけであり、被害者でもなんでもない、ということになる。

だから物事の一切を見て、そこに因果応報の法則を見よ、と言っているのだ。

この世全てが神様が統治しているという視点に立てば、自分が病気になったり、不運な目にあったり、何かの被害がでたりするのは、本来とてもおかしいことで、そういうことが起こるなれば、それは自分に原因がある、ということになる。

なぜなら至誠至愛の神様が、病気にさせたり、不運な目に合わせたりするはずがないからだ。

しかし、そういうことがなぜ起こって来るかというと、そうしないとその人自身が気付けないから起こってくる。

因果応報の法則から言えば、過去その人が加害者であったがゆえに、今被害者となっている、ということになる。

たとえば、物を盗む癖がある人は、盗まれた経験をして初めて、盗まれることが辛い、ということに気付くことができる。そして自分が過去、どういうことをして来たか、ということもわかるわけである。

何か盗まれたその時点で、自分から深く省みることができれば、その人はもう物を盗んだりしないだろう。

物を盗まれたことは辛いが、そこで省みることが出来るならば、後々のことを考えれば、それはそれで良かったこと、と言える。

日月神示参照。

『反対の世界と合流する時、平面の上でやろうとすれば濁るばかりぢゃ、合流するには、立体でやらねばならん、立体となれば反対が反対でなくなるぞ、立体から複立体に、複々立体に、立立体にと申してあろう、漸次(ぜんじ)輪を大きく、広く、深く進めて行かねばならんぞ、それが岩戸ひらきぢゃ、低い世界は戒律なくてはならんぞ、人民の頭で、戒律と秩序、法則をゴッチャにして御座るぞ、平面と立体とをゴッチャにするのと同じ迷ひの道であるぞ、気つけ下されよ。病むことは神から白紙の巻物をもらったことぢゃ、この巻物をどんなに読みとるかによって新しき道がひらけるのぢゃ。神からの巻物おろそかにするでないぞ。』(碧玉の巻 第一帖)

『病むことは神から白紙の手紙を頂いたのぢゃと知らしてあろう。心して読めよ。ありがたき神からの手紙ぞ。おろそかならん。 腹八分、二分は先づささげよ。運ひらけるぞ。病治るぞ。』(月光の巻 第十一帖)

しかし因果応報は何も悪いことだけでなく、良いことも返って来る。その良いことの喜びを知ってほしい、という意味でもあるように思う。

そしてその喜びを通して、初めて天地の大恩というものが判って来るのだ。

『病、ひらくことも、運、ひらくことも、皆 己からぢゃと申してあろう。誰でも、何でもよくなるのが神の道、神の御心ぢゃ。親心ぢゃ。悪くなると云ふことないのぢゃ。迷ひが迷ひ生むぞ。もともと病も不運もない弥栄のみ、喜びのみぢゃ。神がよろこびぢゃから、その生んだもの皆よろこびであるぞ。この道理よくわきまえよ。毎日々々、太陽と共に、太陽について起き上がれよ。その日の仕事、与へられるぞ。仕事いのちと仕へまつれよ。朝寝するからチグハグとなるのぢゃ。不運となるのぢゃ、仕事なくなるのぢゃ。神について行くことが祈りであるぞ。よろこびであるぞ。食物、食べ過ぎるから病になるのぢゃ。不運となるのぢゃ。口から出るもの、入るもの気つけよ。いくさ起るのぢゃ。人間の病や、いくさばかりでない、国は国の、世界は世界の、山も川も海も、みな病となり、不運となってくるぞ。食べないで死ぬことないぞ。食べるから死ぬのぢゃぞ。 一椀をとって先づ神に供へよ。親にささげよ。子にささげよ。腹八分の二分はささげよ。食物こそは神から、親から与へられたものであるぞ。神にささげずにむさぶるからメグリつむのぢゃ。メグリが不運となり、病となるのぢゃぞ。運ひらくのも食物つつしめばよい。言つつしめばよい。腹十分食べてはこぼれる。運はつまってひらけん。この判りきったこと、何故に判らんのぢゃ。 ささげるからこそ頂けるのぢゃ。頂けたらささげると今の人民申してゐるが、それがウラハラと申すもの。衣類も家も土地も、みな神から頂いたのでないぞ。あづけられてゐるのであるぞ。人民に与へられてゐるものは食物だけぢゃ。日のめぐみ、月のめぐみ、地のめぐみだけぢゃぞ。その食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。病治るのぢゃ。人民ひぼしにはならん。心配無用。食物、今の半分で足りると申してあらうが。遠くて近いものヒフミの食べ方して見なされよ。運ひらけ、病治ってうれしうれしと輝くぞ。そんなこと位で、病治ったり、運ひらける位なら、人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理屈と申すもの。理屈悪と申してあるもの。低い学に囚われたメクラ、ツンボと申すものぞ。 理屈すてよ。すててやって見なされ。みなみな気つかん理(ミチ)、気つかん病になってゐるぞ。ツキモノがたらふく食べてゐることに気づかんのか。食物節すればツキモノ改心するぞ。先づ百日をめあてに、百日過ぎたら一年を、三年つづけたら開運間違ひなし。病もなくなってうれしうれしとなるぞ。三年目、五年目、七年目ぞ、めでたいナア、めでたいナア。』(冬の巻 補帖)

Posted on 2017/11/21 Tue. 15:08 [edit]

category: まわりうた

TB: 0    CM: 0

21

まわりうた 

かみのたみ よとみかきいつ
  いみにはに みいついきかみ とよみたのみか

(神の民 淀みが帰一 斎庭に 御稜威生き神 豊御田の実が)

解説

淀みは「水や空気などが流れずにたまっていること。また、その所。よど。」「底に沈んでたまること。どんより濁ること。」「物事が順調に進まないこと。また、その箇所。」、帰一は「別々の事柄が、同一のものに帰着すること。」、斎(いみ)は「他の語の上に付いて複合語を作り、汚れを清めた、神聖な、などの意を表す。」、御稜威(みいつ)は「‘いつ(厳)’の尊敬語。御威光。御威勢。」、生き神(いきがみ)は「生きている神。人の姿で現れている神。」、豊(とよ)は「助詞‘の’を伴って連体修飾語として用いられるほか、名詞、時に動詞の上に付いて用いられる。物事が豊かである意を表し、褒める意を添える。」、御(み)は「主として和語の名詞に付いて、それが神仏・天皇・貴人など、尊敬すべき人に属するものであることを示し、尊敬の意を添える。」の意味です。

雑感

歌の内容としては、稲を奉納して厳粛に祝う、いわゆる収穫祭の風景が思い起こされる。

大きく解釈すれば、米(神となった人)のその一粒一粒(一人一人)が、余すことなく天帝に奉納されて、共に収穫を祝う祭りとなる、とも見ることできそうだ。

……と書くと、何かイケニエになったような感じでおどろおどろしいが、これは肉体的にではなくて、霊的にという意味であろう。要するに「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」のごとく、善行を積んで謙虚に生きて来た人は、その心が神の心に近づいて、永遠の至福を得ることができる、という感じがする。

そういえば、もうすぐ新嘗祭ですね。

Posted on 2017/11/20 Mon. 14:46 [edit]

category: まわりうた

TB: 0    CM: 0

20

まわりうた 

ひましよの みやりてかひの
  まありけり あまのひかてり やみのよしまひ

(日増し世の 見遣りて佳美の 真在りけり 天の日が照り 闇の夜終ひ)

解説

佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、真(ま)は「本当。真実。まこと。」、終い(しまい)は「物事が終わること。物事をやめること。」の意味です。

Posted on 2017/11/20 Mon. 12:55 [edit]

category: まわりうた

TB: 0    CM: 0

20

まわりうた 

へしをるな うめのみかみつ
  まありけり あまつみかみの めうなるをしへ

(圧し折るな 梅の見が満つ 間在りけり 天津御神の 妙なる教へ)

解説

圧し折る(へしおる)は「物に押しつけるなどして曲げて折る。力を入れて一気に折る。」「勢いをそぐ。気勢をそぐ。」、見(み)は「ながめ。」、妙は「不思議なほどにすぐれているさま。霊妙なさま。」の意味です。

雑感

なぜにこの時期に梅なのかわからないのだが、出て来てしまったので載せておくことにしました。

内容もちょっと意味がわからない。

調べてみると花見ならぬ、梅見(うめみ)という言葉があるようだ。今は桜が主流だが、昔は花見と言えば梅を見ていたそうな。

何が「天津御神の 妙なる教へ」なのかよくわからないが、個人的な解釈をすると、満開に咲いている梅の花がいくら見事で美しくとも、その枝を勝手にへし折って、持って帰るな、という意味かと思う。

ちなみに梅の花言葉は「高潔」「忠実」「忍耐」「厳しい美しさ」「上品」などあるらしい。

大きく解釈するならば、全うな手段でもって花を咲かせた人を、大成した人を、妬んだり羨んだりするな、悪口や陰口をたたいて邪魔するな、その人を貶めてその手柄を横取りしようとするな、というような意味合いがあると思われる。

我を出して、それらを横取りして手に入れようとするよりも、大成しているその方を見倣って、そこから漂う品格や忍耐強さを自分も身につけて、常に忠実であろうとしなさい、ということかと思う。

Posted on 2017/11/20 Mon. 12:09 [edit]

category: まわりうた

TB: 0    CM: 0

20

まわりうた 

なかいけの ほとりかひみる
  むねのまの ねむるみひかり とほのけいかな

(長池の 辺佳美見る 胸の間の 眠る御光 遠の景かな)

解説

長(なが)は「他の語の上または下に付いて複合語をつくり、ながいことの意を表す。」、辺(ほとり)は「川や池などの水際。きわ。ふち。」、佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、遠のは「名詞に付いて、とおくの、遠方のの意を表す。」、景(けい)は「けしき。ながめ。情景。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「ウシワカ登場」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

歌の内容としては、池の辺で景色を眺めていたら、自分の胸の中に眠っている光景と重なって、その中に深い趣を感じてしまう、というもの。

この光景は、実際過去に見た光景でも良いのだけれども、別の解釈としては、ちょっとしたデジャヴのような、そういう感覚に陥った、というものでも良いかと思う。

個人的に感じる所では、この「御光」が特におもしろい。

ニュアンス的には、光がパッと見えるように、脳裏にその光景がよぎって、ハっとしてしまう。でも、その光景がなんなのか、どこで見たのか、その肝心な所が思い出せない。そうした中、その感覚はすぐさま「遠の景」となって消えてゆく。

そうして再び、目の前の景色に戻っていく。

今何か、ものすごく懐かしい感じがしたのだけれども、でも、それが自分でもよくわからない。よくわからないけれども、その余韻だけが残っている、という体験を、この歌は詠っているように思う。

Posted on 2017/11/20 Mon. 09:28 [edit]

category: まわりうた

TB: 0    CM: 0

20

まわりうた 

うやいたる ほのかなるをか
  しののめの のしかをるなか のほるたいやう

(礼至る 仄かなる丘 東雲の のし香る中 昇る太陽)

解説

礼(うや)は「うやうやしくすること。礼儀。いや。」、仄かは「光・色・香りなどがわずかに感じられるさま。」、東雲(しののめ)は「東の空がわずかに明るくなる頃。夜明け方。あけぼの。」、のしは「シオン(紫苑)の古名。」の意味です。

余談

この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「水晶のささやき」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2017/11/18 Sat. 14:05 [edit]

category: まわりうた

TB: 0    CM: 0

18

まわりうた 

なかきよき たまのみすまる
  かひのよの ひかるますみの またきよきかな

(長き良き 玉の御統 佳美の世の 光る真澄の また清きかな)

解説

御統(みすまる)は「多くの玉を糸で貫いて輪にした、古代の装身具。首飾りや腕輪にした。」、佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、真澄(ますみ)は「よく澄んでいること。澄み切っていること。」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2017/11/18 Sat. 11:51 [edit]

category: まわりうた

TB: 0    CM: 0

18

まわりうた 

しきのかの りはふしるなか
  とまりけり まとかなるしふ はりのかのきし

(四季の香の 理法知る中 留まりけり 円かなる十 玻璃の彼の岸)

解説

香(か)は「かおり。におい。」、理法は「道理にかなった法則。」、円か(まどか)は「まるくて欠けたところのないさま。」「穏やかなさま。円満なさま。欠けたところのないさま。」、玻璃(はり)は「仏教で、七宝の一。水晶のこと。」の意味です。

雑感

「四季の香の 理法知る中 留まりけり」は、毎年、自然の法則に従って四季が巡っていくという、その道理にかなった流れの中に、思えば自分は居たんだなぁ、という感慨深さを感じている。

「円かなる十」は円(○)に十ということで、○(始め)と十(終わり)が同時に有る世界観でも良いし、○(円満)で十(完璧)なる世界、という世界観でも良いかと思う。

「玻璃の彼の岸」は、言葉通りに解釈すれば、全てが水晶のように透き通る彼岸(=涅槃)ということだが、個人的には、この彼の岸はわざわざ涅槃と解釈するよりかは、そのまま彼(か)の岸、というニュアンスで見たい。つまり、彼方側の岸、という意味。

ゆえに「玻璃の彼の岸」は、こう何というか、自分が望んでいた理想の世界というか、そういうニュアンスだ。

また、玻璃(はり)の言葉の音感は晴れ(はれ)に通じる感じがする。彼(か)は箇(か)、岸は帰しに通じる感じがする。ニュアンス的には、晴れの心境が生まれる箇所たる「カ」が「キ」するという感じ。

つまり、理想の場所をずっと探していたのだけれども、今自分がここにいる箇所がそうであった、という結論に帰したんだ。巡り巡る四季の中に居て、ふとそこで立ち止まって見たら、常にそこに留まっていたことがわかったんだ、というニュアンスを感じる、ということ。

Posted on 2017/11/16 Thu. 10:52 [edit]

category: まわりうた

TB: 0    CM: 0

16

まわりうた 

ひのもとの いはとひらかれ
  まほらから ほまれからひと はいのとものひ

(日の本の 岩戸開かれ まほらから 誉れ唐人 拝の友の日)

解説

まほらは「すぐれた立派な場所。まほらま。まほろば。」、誉れ(ほまれ)は「ほめられて世間的に光栄であること。評判のよいこと。名誉。」、唐人(からひと)は「中国、または朝鮮の人。」、拝(はい)は「頭を下げて敬礼すること。おがむこと。」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

火水伝文参照。

『 新しき御代の体申すは、新た鳴る高き響きにて真釣ろい創りあるのぞ。響き一つ上ぐりて居るのじゃ。光一つ上ぐる伝え知らせあろうがな。この方が汝等に生きありても、死にありても三真釣り持ち行き、マコト磨け申したは、この事に関わりて大事な事にてある由、くどうくどう申し来たりたのじゃ。そは汝等のミタマ、マコトの響き無くあれば、新しき代の肉のお宮に入るは適わぬからであるぞ。光一つ上ぐりた肉のお宮に収まれるだけの、ミタマに鳴りておい出なされませ。
 申すも辛い事なれど、今ザマの人民様のありザマにありては、適わぬ事と知り置かれよ。なれば汝等皆々神の響きを行成す者と成り鳴りて、一人でも多くの方々に真釣りあるを知らせくれよ。三真釣り持ち行き鳴するがミチぞ。解かりたか。
 今今は心曇りて居るが由、ご自身自ら、アタマでご自身の体をバラバラに分け縛り付けて居られるから、体の各部は益々酷き有り様と鳴りて居るのぞ。日本が世界のヒナ型申すは、汝等も世界のヒナ型申すを言うのであるぞ。真釣り役の胴体がふ抜けて居りては、ご自身のお体が真釣れぬ同様、世界が真釣れぬも無理無かろうが。この方がヒノモトの人民様に厳しく申すは、この事在りて有るが由ぞ。汝等ヒノモトの民申すものは、地球世界を真釣り背負わねば鳴らぬ、スメラの御ミタマにござるのぞ。汝等の申す、人知に汚れた、への突っ張りにもならぬ話をして居るので無いぞ。数ある民魂の真中の御役、最も辛きご苦労の、地の日月の神と統べ真釣る導き御役の響きにておわすのぞ。辛きご苦労のお身魂であるが由、枝葉とタテワケ、一段も二段も上の響きのご苦労に堪えれる様、【元つキ】の直の御チ筋を引かせあるのぞ。中身のご苦労もなさらいで、カタチばかりで取り違え、日本は偉い偉いなぞ申し参りても、ハラにマコトの一厘も無きが者の成さり様は、犬、猫にも恥ずかしい限りであるぞよ。自らの真中のマコトが解からぬから、カタチばかりの言の葉で、体裁を作りて我が一番、我が一番等と威張り合うて参りたから枝葉の身魂にも劣る、悪き身魂に落ちてしもうたのじゃ。
 マコトを立て持つご苦労を、堪えて厭わぬおハタラキが、出くる身魂を上段の霊魂、申すのぞ。少しは恥を知りて下されよ。それだけの霊魂授かり、地の日月の神と鳴り成さる御チ筋にありながら、今のザマは何たる事ぞ。ハラが枝葉のやり方真似てどうするのじゃ。未だにハラにマコトの無き者は、アタマの毒に侵され居るから、自ら選んで成りた訳でもないに迷惑じゃ等、申す者も居られ様が何度も申し伝えある様に、そが者どもは、この方一人も要らんから、お邪魔せぬ様下がって見て居れ申し居ろうがな。枝葉は真釣るを知らんから、我善し勝手に持ち荒らし、やがて潰えてしまうから、そうなりてからでは遅いから、可哀想なから、枝葉束ねる汝等に早う五体統べ真釣りて下され申し来たのであるぞ。世界を統べ真釣りて下され申すも同じぞ。肝腎要の真釣りが外され居りたのじゃ。
 真釣り統べるがハラのハタラキにござるのぞ。ハラにマコトが据えてござらぬから、腰が座らんのであるよ。ハラに真釣りの何かが解かりてござらぬから、アタマが取り違えを致して、我善しで何をやりても良い思い込みて、五体を好き放題我善し力で使い動かしありたのじゃ。なれど真釣りて使うて居らぬから、バラバラに不都合出ありて、継ぎ接ぐマコトの無き世となりたから、五体各部も何が何だか解からぬままに、我善し力のやり方で自由勝手に真似だして、更鳴る魔釣り世となさしめたのじゃ。しかあれ皆々真釣りて無きが由、皆々段々衰えて参りて、先行き不安となりたところで、体(地球)の栄養を一人受け居る、結構なハラ(日本)が悪いとアタマが仕組み煽りて、四体を巻き込みハラを弱らせ攻め入りて、何としても真中のハラを我が物と致して、胴を奪いて五体(世界)の魔コトの王にならんと画策致し居るが解からんか。日本の上を預かる者どもは、これより訪れ参る外圧に、好い加減なところで妥協せんとなされるが、そは適わぬ事と知り置かれよ。この方が許さぬなり。そが時、汝等マコトの者は世間より悪く悪し様になされる由、今今よりシカリ、心鍛えてマコト護持出くる様、気張りて下されよ。
 アタマが何をなさろうが、ハラがマコト真釣りを少しでも致して居れば、如何様にも持ち直す事は出来たのであるぞ。今の世の酷き有様はハラにマコトが無い由に、アタマのやり方を善き様に吹き込まれ、思い込まされ、身欲に走りて信じ込み、行に結びたが終わりの始めとなりたのじゃ。今今になりても、世の識者呼ばれる者共や宗教家申す者共は、マコト耳に入れども聞きもせず、見せども見えぬあき盲ばかりでござるから、日本はだまされて居りたのじゃから、日本ばかり責めいで下され等と物知り顔で申すなれど、そは今今に至りても尚、ヒノモトの真姿の見えぬ大ウツケの申し様でござるぞ。マコトの事が解かりて無くあれば、人民様のお邪魔にならぬ様、口を慎み、心を慎み、行を慎みて黙って見て居れよ。
 汝等の申し様は、親が子にだまされ成せし悪なれば、ワレばかり責めねで子も責むが公平なり、と申すが如きぞ。何たる情け無きザマであるか。恥を知りて下されい。ユダヤのミタマ申すは、大き構えが陽の構えでござるから、ハタラキは水の御ハタラキと鳴りて居るのぞ。情けと花の表の音色じゃ。スメラのミタマ申すは大き構えが陰の構えにござるから、ハタラキは火の御ハタラキと鳴りて居るのじゃ。情けと花の裏の音色ぞ。どちらがどちらを背負うのか、これでハキリ解かりたでござろうが。世界の人民様申すは、すべて皆々大神のご大切なる御子なれど、汝等の兄弟にてはあらぬ者なり、汝等は親なり、世界の人民様は皆々、汝のお子なり。この神仕組み取り違い居りていては、世は滅ぶなり。今までの考え様、さっぱり捨てて下されと、くどう申して居ろうが。マコトの解からぬ神や仏にいつまでも使われて居るからそのザマであるぞ。
 よきか、今今の汝等のマコトの有り様申すものは、汝等ご自身のお子を自ら殺すか生かすかの瀬戸際に立ちて居るのぞ。今一歩踏み選べばどちらかに決まりてしもう瀬戸際じゃ、申して居るのぞ。人類皆兄弟等と腰抜けたる思い様にありては易きミチに入るは必定。目も当てられぬ残念ご無念でござるよ。
 親と申すものは、子にマコトを立て開くがハタラキでござるのぞ。マコト真釣りて行に結ぶを【口、心、行】にて開き渡すなり。顕すなり。子にマコトの開くのを【情け】と【花】にて見守るが、親たる者の有り様でござろうが。情けの表は【真釣る厳しさ】であるぞ。情けの裏は【忍ぶご苦労】でござるよ。花の表は【行に結びた形】にござる。花の裏は【散らぬマコトの花一輪】ハラに咲かせしことなるぞ。見守るご守護のハタラキは、表に立ちては適わぬぞ。下に下り下りて与えるが陰のご守護の基なり。親と申すはこれ程のご苦労の御役なり、さればそれだけの力与えあるは、幼子にありては尚、解かる道理でござるのぞ。
 【散らぬマコトの花一輪】汝のハラにも、お子のハラにも、見事咲かすが出くたなら、万古末代弥栄じゃ。どうでも利かぬお子であれば、強きメグリ背負いたお子なれは尚の事、今生に覚え無くありても、何時の世かで共に真釣りを崩す様な因縁を持たれたは、明々白々であろうから、お子を神と崇められ、お詫びの響きを感謝に繋げ、汝が三真釣り持ち行きて、マコトに結ぶご苦労を少しでも早うなさりて下されよ。メグリ申すものは、真釣りた響きで逃げも和するも致すのざから申して居るのぞ。やって見なされよ。この方がついて居る言うて居ろうが。
 汝等、世界の人民様の親なれば、世界の人民様より一段も二段も上の霊魂授けあるを伝え知らせあろうがな。偉い偉く無いの話で無いぞ。尊き神真釣りの基であるぞ。いつまでもイシヤの仕組みに引っ掛かりて居りて、この世にありもせぬ自由・平等・博愛なる戯言に振り回された挙げ句、不自由・不平等・不博愛なる世を創り上げてしもうた事に、まだ気付かんか。アタマの創りた『あやま知』の世にありては適わぬ事でありたのじゃ。自由・平等・博愛なる、マコトの響き言うは【真釣り】た全一如の和したる響きなかりせば、有りは致せぬ事なのぞ。親有りて子が有るのであろうが。神有りて人が有ると同じ事ぞ。汝等皆々、宇宙コトワリの似姿なると申し伝えあろうが。親なる中心が有りて、幹なる中心が有りて初めて枝葉に全一如のハタラキが出くるのであろうが。こに自由・平等・博愛なることどもは、猛々しく言挙げさるるも無く、至善に生き活かされあるのでござろうが。日本の人民様、良い加減にシャキッと目を覚まして下されよ。自覚無き申しても余りのザマでござるぞ。真中が真釣りを忘れて居りてはどうする事も出来はせんぞ。五体におきても同じ事ぞ。ハラは五体の基なり、親なり。胴が無くれば五体バラバラであろうが。五体すべてを真釣る由、元つ気ハラに集め居るのぞ。五体すべてをかまう由、滋養ここより取るる様、型に示しあるを忘るなよ。四体、枝葉も神の御子なれば、尊き御ハタラキ持ちて居るのぞ。なれどそはハラが真釣り統べりてあれば、の事にてござるのぞ。ハラが真釣らねばいつでも逆法に鳴りてしもうは、アタマの仕組みで型示しあるは、伝え知らせあろうがな。
 ヒノモトの人民様は、世界の父親なる責を忘れて久しくありたから、今今のザマと成り果てしもうてござるが、今、最期の時。子にマコトも示せず散りて果てるは末期の恥と知りて下されよ。今今に、汝の三真釣り持ち行くが、マコト鳴り成る響きにて、汝のお子にも世界にも、マコト知らしむ型と成る。解かりたか。
 ここまで申し伝え来たなれば、よもや不足は無かろうまい。今今の時節にありては、真釣りた響き無くれば、何事も成就致せんと、くどう申し参りたが。汝に一厘のマコト残りあるなれば、今を外して、何時に使うお積もりか。こ度は万古末代二度は無い、後にも先にも一度こっきりの大層でござるぞ。今までの世は、何あろう命ありての物だねでも良かりたのであるが、これからの世申すは、マコト無くては生きられぬ神代と成るのであるから、既にその響きに入って久しくあるから、マコト有りてのお命なるを、決して忘れんで下されよ。何に付け、今生にマコト懸けての花一厘、見事に咲かすか、果て散るか、今今、この場で決めて下され。ここ今に決めれぬ者はもういらぬ。お好きな様になさるが善かろうぞ。
 この方は死に急げ、申して居るので無いぞ。逆ぞ。汝等皆々、大事な神の御子様じゃ。タテナオシの尊き天命背負いて居られる、地の日月の神々様じゃ。魔釣りの魔やかす毒牙にて、尊きおイノチ散らさるるを、この方、見るに忍びぬ由、か程きつう申すのじゃ。何がありてもマコトを護持致せ申すは、汝のハラ内に末代倒れぬマコトを立て持て申して居るのぞ。マコトが大事じゃ申しても、ケガレ逆巻く悪き世に、ご一人でマコトを掲げて正面からぶつかられては、おイノチがいくらありても足りはせぬぞ。かたひじ張らずに、避けれるものはのらりくらり機転を利かして避けくれよ。汝がことさら荒立てねば、相手もそが以上の罪ケガレ、積まねで済むのじゃ。汝の思いは次にして相手善かれの心を持つも、神の心に適うマコトにてござるぞ。汝のマコトを貫くためにもそうして下されよ。そも修行の内でござるよ。解かりたな。無駄死にはして下さるなよ。神、頼みたぞ。
 汝等皆々、こ度のご用に使うてやりたいから申して居るのぞ。ハラにマコトの立ちてる者で無くればこ度使うは出来んのじゃ。曇り残りある程に、汝ご自身が苦しゅうて、とてもご用どころの騒ぎで無いぞ。由にくどう申して居るのじゃ。身魂相応に使う申しても、【足場】の【足場】の【足場】のアの字も出来て居らん様な身魂でありてはとても使うことは出来んから、早う三真釣り持ち行きて一成る花を二成る花へ、二成る花を三成る花へ、自らにマコト持ち行く情けを課して、堪えるご苦労に勝ち行く程に、楽にご用が勤まる様に成るのであるから、ご苦労を成された分、キッチリ見取って、楽に出来るだけのご用に回してやるぞ。マコトが一番でござるから、マコトを手にして下されよ。ケガレ多き身、思えど、残るマコトの一厘で何かの神のご用をさせくれと、ケガレたとは申せ、ひそかに思うがマコト日本の人民様じゃ。この方それを知りて居る由、汝が愛しいのじゃ。何かのご用に使うてくれ申す者、一人も余さず使うてやるから、残るマコトの花一輪、何かに付けて見事咲かすが汝の務めじゃ。一厘、磨き出されて見事、水晶と成して見なされ。この方しっかと見届け致して、アッバレご用に使うてやるから、ガンバリ成されよ。』

Posted on 2017/11/15 Wed. 14:13 [edit]

category: まわりうた

TB: 0    CM: 0

15

まわりうた 

なかきよの ひかりのみてり
  あいのちの いありてみのり かひのよきかな

(永き代の 光のみ照り 愛の智の 意有りて神法 佳美の良きかな)

解説

意(い)は「心の働き。思っていること。気持ち。考え。」、神(み)は「霊的な力をもつものの意。‘山祇(やまつみ)’‘海神(わたつみ)’など他の語と複合して用いられる。」、法(のり)は「法律。法令。」「道理。道徳。」、佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

何気に、この法(のり)はダルマを表しているように思う。

Posted on 2017/11/14 Tue. 08:54 [edit]

category: まわりうた

TB: 0    CM: 0

14

まわりうた 

なかひかり あまのみかとは
  とことはと ことはとかみの まありかひかな

(中光り 天の帝は 常と 言葉と神の 真在り佳美かな)

解説

中(なか)は「中央。まんなか。」、常(とことわ)は「永久に変わらない・こと(さま)。永久不変。」、真(ま)は「本当。真実。まこと。」、佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」の意味です

余談

この歌は、下記動画の曲を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

『組曲「白山」神厳の杜』(you tubeより)
https://youtu.be/1AYICYEWDTk

Posted on 2017/11/12 Sun. 10:42 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

12

まわりうた 

なかきよの ひかりのみつひ
  いねのほの ねいひつみのり かひのよきかな

(永き代の 光の満つ日 稲の穂の 寧謐実り 佳美の良きかな)

解説

寧謐(ねいひつ)は「世の中が治まり、おだやかなこと。また、そのさま。」、佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

歌の内容としては、秋晴れの空の下、たわわに実る稲穂が静かに風に揺られて、見事な黄金色の絨毯を作りだしている、という風景がイメージされる。

特にそこには、天と地の両方が光り輝いて、世の中が非常に平穏で大変美しい、というニュアンスを感じる。

Posted on 2017/11/11 Sat. 08:16 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

11

まわりうた 

ひのかなた はろはろここの
  きよまるま よきのこころは ろはたなかのひ

(日の彼方 遥々午後の 清まる間 良きの心は 炉端中の火)

解説

遥々(はろばろ)は「遠くまで、また遠くから動作・作用が及ぶさま。また、非常に遠くへ時間をかけて移動するさま。はるばる。」、清まる(きよまる)は「清らかになる。」、炉端(ろばた)は「囲炉裏(いろり)のそば。いろりばた。ろべ。ろへん。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「ウシワカ登場」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

下記日月神示によると、火の御恩は全て、日の大神様によるものらしい。

『日本の人民 餌食(えじき)にしてやり通すと、悪の神申してゐる声 人民には聞こへんのか。よほどしっかりと腹帯締めおいて下されよ。神には何もかも仕組てあるから、心配ないぞ。改心出来ねば気の毒にするより方法ないなれど、待てるだけ待ってゐるぞ、月の大神様が水の御守護、日の大神様が火の御守護、お土つくり固めたのは、大国常立の大神様。この御三体の大神様、三日この世構ひなさらねば、此の世、くにゃくにゃぞ。実地を世界一度に見せて、世界の人民一度に改心さすぞ。五十になっても六十になっても、いろは、一二三(ひふみ)から手習ひさすぞ。出来ねばお出直しぞ。慢心、早合点 大怪我のもと、今の人民、血が走り過ぎてゐるぞ、気付けおくぞ。』(風の巻 第十二帖)

思えば、太陽と地球の距離はほとんど奇跡といってもよく、これより近いと熱くなり、これより遠いと寒くなって、我々は地球に住むことすらできなくなる。

当たり前といえば当たり前のことなのだが、これをよくよく考えてみると、ものすごい恵みの中に、今我々は住まわせてもらっているということが、身に沁みるのではないだろうか。

夏が暑い、冬が寒い、と言っているレベルではないくらいに。

ということで、歌の最初の「日の彼方 遥々午後の 清まる間」の部分は、日(太陽)の光が、彼方から遥々地球までやってきて、私達が清々しいと感じられる午後の陽気の環境を作りだしている、というニュアンスを感じる。

また、日の大神様は火の御守護もされているという。

囲炉裏については、私は実際に見た事はないが、昔話などではよく見る代物だ。

その風景を見ていると、囲炉裏は家族団らんの場でもあり、友人と仲睦まじく語らう場でもあり、また食事を頂く場所でもある。その空間には何とも温かく、和気藹々とした雰囲気が流れている。

なので「良きの心は 炉端中の火」の部分は、良い心というのは、周りの人の心が温かくなるような気配りができる心であり、そういう心を常に絶やさない心でもある、というニュアンスを感じる。

大きく見れば太陽系も、太陽という火を中心にして、それを各惑星が囲みながら、共に和気藹々と活動している場である、という風に見えなくもない。

Posted on 2017/11/10 Fri. 10:38 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

10

まわりうた 

なかれくも きありてかひの
  ふゆとりと ゆふのひかてり あきもくれかな

(流れ雲 木有りて佳美の 冬鳥と 夕の日が照り 秋も暮れかな)

解説

佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、冬鳥は「秋、北方から渡来して越冬し、春、北方に去ってそこで繁殖する渡り鳥。日本ではガン・カモ・ツグミなど。」、夕(ゆう)は「日が暮れて夜になろうとする時。ゆうぐれ。ゆうがた。」、暮れは「ある期間や時節の終わり頃。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「ウシワカ登場」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ

という有名な歌があるが、儚さのニュアンスとしては、この歌の情景に比較的近いと思う。

この「木有りて」の木は、既に落葉していて一見するとどんな種類の木かわからない、という、そういう寂しさを漂わせているように感じる。

冬の気配が近づいて来る中、流れる雲があり、落葉した木があり、そして空を飛ぶ冬鳥と共に夕日が輝いている、というその情景の中に、晩秋の匂いを感じてしまう、というようなニュアンスの歌かと思う。

Posted on 2017/11/09 Thu. 12:07 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

09

まわりうた 

きみたみと まやのくらしの
  きひよきよ ひきのしらくの やまとみたみき

(君民と 真屋の暮らしの 気味良き代 氷木の至楽の 大和御田見き)

解説

真屋(まや)は「棟の前後二方へ軒をふきおろした家。切妻造り。」、気味良い(きびよい)は「気持ちがよい。愉快である。きみよい。」、氷木(ひぎ)は「千木(ちぎ)のうち、先端部分が横削ぎになっているもの。」、至楽は「この上なく楽しいこと。」の意味です。

余談

この歌は新日本風土記のテーマ曲「あはがり」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。「あはがり」は奄美の島言葉で「全てが明るい」という意味だそうです。

雑感

千木には先端が縦削ぎ・横削ぎのもの2種があるそうだ。

一説には、縦削ぎのものは男性的、横削ぎのものは女性的な性格や願望を表しているのだとか。

なので、御祭神が男神女神どちらにしても、天災や飢饉、或いは争いごとが絶えない場所では、それに立ち向かうために男性的な縦削ぎのものが多く、逆に気候が穏やかで、治安が安定している場所では、それらがずっと穏やかに推移して欲しい、その状態が長く保たれて欲しい、という願いから、女性的な横削ぎのものが多い、という見方も、ある意味では出来るのかもしれない。

よって、歌で「氷木」とあるのは、女性的な性質が現れている、と言える。

世の中が治まっているので、君主と臣民が共に、楽しく愉快な日常を過ごせている、というニュアンスの上に、さらにそれが氷木によって、未来永劫続くことが担保されている、という、非常に穏やかで平安的なニュアンスが、この歌からは見て取れる。

特に最後の「御田見き」は重要で、これは大和の国が皆上から下まで揃って、衣食住が常に保証されている状態を示している。

何気、過去に書いた「日の光の政治」を思い出す。

下記記事参照。

「山彼方 海の地の岸 霞止み 清しき後の 神歌流れむ」
http://uresitanosi123.blog.fc2.com/blog-entry-1220.html

ちなみに氷(ひ)は、単なる当て字であって、氷(こおり)の意味はないと思われる。それが証拠に、他の所では比木(ひぎ)の漢字が当てられていたりする。

では、この千木のチ、氷木のヒとは何であろうか。一つ思いつくのは、これらに共通するのは霊(ち)、霊(ひ)であるということ。

まあ詳細はわからないが、これは霊木(ちぎ)、霊木(ひぎ)と見ることが出来るようにも思う。木は神霊の依代にもなり得るので、正味の所はわからないけれども、天から降って来る神様の最初の出入り口、玄関口、といった感じを受ける。

これは個人的な想像だが、チギ(千木)、ヒギ(氷木)、の言葉のニュアンスを感じ取ると、天から降りて来た神様が、その地(ち)に引き(ひき)つけられる、というニュアンスを感じる。

尖った形状の先端に雷が落ちやすいように、古代の人々は千木を建てることで、そこに神様を呼び込もうとしたのかもしれない。

もちろん「千木高知りて」との言葉があるように、神様の御威徳が立派であることを知らしめるものでもある、とも思うが。

Posted on 2017/11/08 Wed. 11:36 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

08

まわりうた 

みのつまり おみのとかみつ
  まありけり あまつみかとの みおりまつのみ

(身の詰まり 臣の咎満つ 間ありけり 天つ帝の 御降り待つのみ)

解説

臣(おみ)は「主君に仕える人。臣下。しん。」、咎は「人からとがめられるような行為。あやまち。」「罰されるべきおこない。つみ。」「非難されるような点。欠点。きず。」、天つは「天の。天にある。天上界に所属する。」、御(み)は「主として和語の名詞に付いて、それが神仏・天皇・貴人など、尊敬すべき人に属するものであることを示し、尊敬の意を添える。」の意味です。

雑感

人々の生活も詰まって来て、不正をしないと生存できないような雰囲気に世の中がなって来ている。こうなれば、もはや天帝の降臨を待つのみだ。

日月神示参照。

『今の臣民見て褒める様な事は皆奥知れてゐるぞ。之が善である、まことの遣り方ぞと思ってゐる事九分九厘迄は皆悪のやり方ぞ。今の世のやり方、見れば判るであらうが、上の番頭殿 悪い政治すると思ってやってゐるのではないぞ。番頭殿を悪く申すでないぞ。よい政治しようと思ってやってゐるのぞ。よいと思ふ事に精出してゐるのざが、善だと思ふ事が善でなく、皆悪ざから、神の道が判らんから、身魂曇りてゐるから、臣民困る様な政治になるのぞ。まつりごとせなならんぞ。わからん事も神の申す通りすれば自分ではわからんこともよくなって行くのざぞ。悪と思ってゐることに善が沢山あるのざぞ。人裁くのは神裁くことざぞ。怖いから改心する様な事では、戦がどうなるかと申す様な事ではまことの民ではないぞ。世が愈々のとことんとなったから、今に大神様迄 悪く申すもの出て来るぞ。産土様(うぶすなさま)何んぞあるものかと、悪神ばかりぞと申す者 沢山出てくるぞ。此の世始まってない時ざから我身我家が可愛い様では神の御用つとまらんぞ。神の御用すれば、道に従へば、我身我家は心配なくなると云ふ道理判らんか。何もかも結構な事に楽にしてやるのざから、心配せずに判らん事も素直に云ふ事聞いて呉れよ。子に嘘吐く親はないのざぞ。神界の事知らん臣民は色々と申して理屈の悪魔に囚はれて申すが、今度の愈々の仕組は臣民の知りた事ではないぞ。神界の神々様にも判らん仕組ざから、兎や角申さずと、神の神示腹に入れて身魂磨いて素直に聞いて呉れよ。それが第一等ざぞ。此の神示は世に出てゐる人では解けん。苦労に苦労したおちぶれた人で、苦労に負けぬ人で気狂いと云はれ、阿呆と謂はれても、神の道 素直に聞く臣民でないと解けんぞ。解いてよく噛み砕いて世に出てゐる人に知らしてやりて下されよ。苦労喜ぶ心より楽喜ぶ心高いぞ。』(日月の巻 第三十六帖)

『学の鼻高さん何も出来んことになるぞ、今に世界から正真(しょうまつ)が段々判り来て、あわてても間に合はんことになるぞ、今の内に神示よく肚に入れておけよ、この道には色々と神の試(ためし)あるから漫心するとすぐひっくり返るぞ、考へでは判らん、素直結構ぞ。日本には五穀、野菜、海、川、いくらも弥栄の食物あるぞ、人民の食物 間違へるでないぞ、食い過ぎるから足らんことになるのざぞ、いくら大切な、因縁の臣民でも仕組の邪魔になると取り替へるぞ、慢心取違ひ致すなよ、代へ身魂いくらでもあるぞ。学問の世はすみたぞ、学者は閉口するぞ、商売の世も済みたから商売人も閉口するぞ、力仕事は出来んし、共喰するより他に道ないと申す人民許りになるぞ、今迄とはさっぱり物事変るから今迄のやり方 考え方 変へて呉れよ、神示通りに行へば其の日その時から嬉し嬉しざぞ、此処は落した上にも落しておくから、世の中の偉い人には中々見当とれんから、身魂の因縁ある人には成程なあと直ぐ心で判るのぢゃぞ、九の花咲けば皆よくなるのぞ、九の花中々ぞ。』(空の巻 第十二帖)

『この神示は心通りにうつるのざぞ、思ひ違ふといくら神示読んでも違ふことになるぞ、心違ふと今度はどんなに偉い神でも人でも気の毒出来るぞ、この方クヤム事嫌いぞ。次の世となれば、これ迄の様に無理に働かなくても楽に暮せる嬉し嬉しの世となるのざが、臣民 今は人の手に握ってゐるものでもタタキ落して取る様になりてゐるのざから神も往生ざぞ、神は臣民楽にしてやりたいのに楽になれて、自分でした様に思ふて神をなきものにしたから今度の難儀となって来たのざぞ、其処にまだ気付かんか、キが元ざと申してあろがな、早う気付かんと間に合はんぞ。この神は従ふ者にはおだやかざが、さからふ者には鬼となるのざぞ。』(キの巻 第五帖)

下記記事参照。

「山彼方 海の地の岸 霞止み 清しき後の 神歌流れむ」
http://uresitanosi123.blog.fc2.com/blog-entry-1220.html

Posted on 2017/11/06 Mon. 12:33 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

06

まわりうた 

しきのかの ひかれはあかき
  きせかいか せききかあはれ かひのかのきし

(色の香の 光れば明き 器世界が 夕暉があはれ 佳美の彼の岸)

解説

香(か)は「におい。かおり。」、明し(あかし)は「明るい。」「まじりけがない。心が清い。」、器世界(きせかい)は「三種世界の一。生命のあるものが生きる場となる山河・大地など。器世間。器界。」、夕暉(せっき/せきき)は「夕日の光。夕陽。いりひ。」、あはれは「‘をかし’とともに、平安時代における文学の基本的な美的理念。深いしみじみとした感動・情趣をいう。のち、しだいに日本文学の美の根幹として発展し、調和美・優雅美・静寂美・悲哀美などのさまざまな内容を持つようになった。」、佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、彼の岸は(かのきし)は「迷いを脱し,生死を超越した理想の境地。悟りの境地。涅槃(ねはん)。」の意味です。

余談

この歌は、「魔法少女まどか☆マギカ MUSIC COLLECTION」にある「prelude to Act 1」~「prelude to Act 2」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

「器世界」という言葉は中々おもしろいと思う。

器として目の前の世界を認識すると、この世界は私達の霊(心)を入れる器ということになる。或いは、因果が入っている器とも見なせる。

器は空(うつ)の輪(わ)で空輪(うつわ)だろうか。輪廻とかいう言葉があるが、人がいくら善悪と言えども、その実態は空(うつ)の輪で、空っぽなのかもしれない。

しかし同時にこれは全(うつ)の和(わ)、全和(うつわ)でもあるのかもしれない。

夕陽に限らず、何かを見てハッとさせられるような感慨深さを感じる時こそ、私たちはこの輪廻から脱して、全和(うつわ)としての世界を垣間見ているのかもしれない。

輪廻を脱するということは、生死を超えるということだが、何かに魅せられている時、確かにそこに生だの死だのの感覚はない。歌の中の表現では「あはれ」がこれに当たるように思う。

ただただ、その美しさの中に自我が埋没していくだけだ。とすれば、これこそが彼岸とも言えるのかもしれない。空(うつ)の我(わ)となり、同時に全(うつ)の我(わ)となる。

そして、この瞬間こそが、いわゆる光明(こうみょう)と呼ばれるものなのかもしれない。

昔、一瞬。ほんの一瞬だが、窓の外を見ていたらふと、見る世界が感覚的に変わったことがあった。

とにかく世界が壮大で美しかった。そして「あっ、これは何だろう?」と理解しようとした瞬間、元の世界に戻ってきてしまった。一瞬何かが開いて、そして、それが終わらぬうちにまた何かが閉じてしまった。

その感覚を言語化すると、この世界の空っぽの存在性は奇跡そのものであり、その奇跡を保ったまま、二度と戻らない世界が目の前で一瞬一瞬の中で繰り広げられていくという、二重の意味での奇跡が繰り広げられている、というものだ。

おそらくこの時、私は何かの弾みで、空っぽな存在性、空っぽな器に一瞬のうちでもトリップしてしまい、この世界と同化してしまったのだと思う。一瞬ではあったが、あれは自分にとってまさに一期一会と呼べるにふさわしい体験であった。

Posted on 2017/11/05 Sun. 15:36 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

05

まわりうた 

なかきよの ところいくつき
  かありけり あかきつくいろ ことのよきかな

(永き代の 処行く尽き 香有りけり 赤黄付く色 古都の良きかな)

解説

処(ところ)は「ある地点。また、そのあたり。」、尽き(つき)は「尽きること。終わり。」、香(か)は「におい。かおり。」、古都は「昔のみやこ。また、昔から続いている、長い歴史のあるみやこ。」の意味です。

余談

この歌は新日本風土記のテーマ曲「あはがり」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。「あはがり」は奄美の島言葉で「全てが明るい」という意味だそうです。

雑感

昨日、京都に行って紅葉が綺麗だったので、その感慨深さを歌にしてみました。

歌にある「香(か)」は、何か特定の香りという意味よりも、これは「匂い」のニュアンスに近い感じがする。匂いには、香るという意味だけでなく、美しい色つや、輝くような美しさ、という意味がある。

また、歌の中の言葉だけでは秋や紅葉のイメージがつきにくいかもしれないが、個人的には「付く色」に着目したい。なぜなら「色付く」という言葉には「紅葉する。」という意味もあるからだ。

なので、葉が散っていく様相を連想させる「尽き」と共に見れば、「赤黄付く色」は(それぞれの葉に)赤や黄の色が付いている、と容易に連想できるのではないだろうか。

それを踏まえた上で「永き代の 処行く尽き」を解釈すれば、これから散っていく紅葉が、やがて土に還っていく様相を示している、と見ることができる。

まあ、なんというか、紅葉はもちろん綺麗なのだけれど、その美しさは必ず散っていくという宿命の下にあるものであると考えると、何となく感慨深いものを感じる。

自分は人間なので毎年紅葉を楽しんでいるが、木からしてみれば、毎年毎年同じ葉に色が付いているわけではない。おそらくこの感慨深さは、年を重ねるごとに、さらに身に沁みて来るのだろう、と想像してしまう。

そして赤黄(あかき)は、何となく「明き(あかき)」に通じるようにも思う。

明は「日+月」だ。これを長く積み重ねられた日数と月数、長い年月と見れば、何となく清々したものを感じる。一言でいうと「明らめ」(諦め)だろう。

これから散って(死んで)行くということが、心身の衰えを通して感じていく中、それはそれとして受け入れ、今の一瞬一瞬の中に入っていく時、諦めが明らめに変わるように思う。

秋の語源は、(果実や稲が)飽きる(=満ち足りるの意味)から来ているそうだが、この季節は何もかも諦める(明らめる)意味での秋でもある、と感じてみても中々おもしろいように思う。

そんな心境の中で紅葉を見ることができるならば、これは一つの大きな贅沢であると思う。

子供の頃は、紅葉なんか見て何がおもしろいのか、さっぱりわからなかったが、大人になってみると、その楽しみ方というのも、おぼろげながらわかってくる。

何か現代では「いつまでも若々しく」とか言って、年を取ることが絶対悪のような視点で語られていることも多いように思うが、年月を経なければ絶対にわからない感じ方があるならば、年を取っていくことも、そう悪いことではないように思うのだ。

もちろん日常生活の面で見れば、いろいろと大変だろうけれども。

Posted on 2017/11/05 Sun. 07:15 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

05

まわりうた 

なかれくも ついしつのりて
  たひのひの ひたてりのつし いつもくれかな

(流れ雲 追思募りて 荼毘の火の 直照りの辻 何時も暮れかな)

解説

追思(ついし)は「過ぎ去ったことをあとから思うこと。追想。追憶。」、募るは「次第に勢いが激しくなる。いっそうひどくなる。」、荼毘(だび)は「火葬のこと。」、直照り(ひたてり)は「一面に照り輝くこと。」、辻は「二つの道路が十字形に交差している所。また,四方からの道が集まりゆききする人が出会い別れる交通の要所。辻堂・辻社(つじやしろ)が置かれ道祖神がまつられることが多い。十字路。四つ辻。」、何時も(いつも)は「行動や状態がどのような時でも変わらないさま。常に。どんな時でも。」、暮れは「太陽が沈むころ。夕暮れ。また、日の暮れること。」の意味です。

余談

この歌は、「電脳コイル サントラ音楽集 Disc 2」の中にある「木洩れ日」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

イメージとしては、夕暮時の火葬の様子を描いたものだが、どちらかというと死に対する絶対的な嘆きの心情を表しているようにも思う。

思うに「流れ雲」は火葬の火の煙でもあり、「暮れ」は赤く輝いている空であることから、火葬の火そのものでもある、という解釈をしても良いかもしれない。

そして最後は、何時も途方に暮れる、というニュアンスで「何時も暮れかな」と締めくくられているようにも思う。

Posted on 2017/11/04 Sat. 21:34 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

04

まわりうた 

なかきよと かみめしすすの
  まいのりの いまのすすしめ みかとよきかな

(永き代と 神召し鈴の 真祈りの 今の清しめ 帝良きかな)

解説

召すは「お招きになってある役職につかせる。また、任ずる。」「‘飲む’‘食べる’意の尊敬語。」「‘する’‘なす’意の尊敬語。」、清しむ(すずしむ)は「心をしずめ慰める。また特に、祭事を行って神を慰める。」、帝は「天子・天皇の尊称。また、その位。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「ウシワカ登場」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

「神に召された」なんて表現があるが、なんで食べる・飲むの意味である「召す」なのか、昔は疑問に思っていたが、日月神示のこの部分を見て納得した覚えがある。

『草木は身を動物虫けらに捧げるのが嬉しいのであるぞ。種は残して育ててやらねばならんのざぞ、草木の身が動物虫けらの御身(みみ)となるのざぞ、出世するのざから嬉しいのざぞ、草木から動物虫けら生れると申してあろがな、人の身(み)神に捧げるのざぞ、神の御身(みみ)となること嬉しいであろがな、惟神のミミとはその事ぞ、神示よく読めば判るのざぞ、此の道は先に行く程 広く豊かに光り輝き嬉し嬉しの誠の惟神の道で御座るぞ、神示よく読めよ、何んな事でも人に教へてやれる様に知らしてあるのざぞ、いろはに戻すぞ、一二三(ひふみ)に返すぞ、一二三(ひふみ)が元ぞ、天からミロク様みづの御守護遊ばすなり、日の大神様は火の御守護なさるなり、此の事 魂までよくしみておらぬと御恩判らんのざぞ。悪も善に立ち返りて御用するのざぞ。善も悪もないのざぞと申してあろがな、◎の国真中に神国になると申してあろがな、日本も外国も神の目からは無いのざと申してあろうが、神の国あるのみざぞ、判りたか。改心すればヽ(たま)の入れかへ致して其の場からよき方に廻してやるぞ、何事も我がしてゐるなら自由になるのであるぞ。我の自由にならんのはさせられてゐるからざぞ、此の位の事判らんで神の臣民と申されんぞ、国々所々に宮柱太敷キ立てよ、たかしれよ。此の先は神示に出した事もちいんと、我の考へでは何事も一切成就せんのざぞ、まだ我出して居る臣民ばかりであるぞ。従ふ所には従はなならんぞ、従へばその日から楽になって来るのざぞ、高い所から水流れる様にと申して知らしてあろがな。』(雨の巻 第三帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)

Posted on 2017/11/03 Fri. 06:06 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

03

まわりうた 

はかなみの いれはきゆるみ
  とけてはて けとみるゆきは れいのみなかは

(儚みの 入れば消ゆる身 溶けて果て 気と見る行き場 零の真中は)

解説

儚みは「マ行五段活用の動詞‘儚む’の連用形である‘儚み’、あるいは連用形が名詞化したもの。」、入る(いる)は「人や物がある場所・範囲・状態などに移る。はいる。」、気(け)は「何かが存在する気配。何かが現れる兆候。」「ある本体から発散されて、その本体の存在を感じさせるもの。気体状のものや、熱気・光・においなどをいう。」「どことなく感じられる趣。雰囲気。風情。」、行き場は「行くべき所。いきば。」、真中(みなか)は「真ん中。」の意味です。

余談

この歌は、「NEON GENESIS EVANGELION [DECADE] Soundtrack」の中にある「魂のルフラン(10TH ANNIVERSARY VERSION)」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

強いて言うならば「儚みの 入れば消ゆる身」は(森羅万象へと)「溶けて果て」というニュアンスで解釈したい。

「儚みの 入れば消ゆる身」というのは、儚みの中に入れば、自分の意識から身体が消えている、ということ。

たとえば、散ってゆく紅葉を見て、あぁ儚いなぁ、と思っているその瞬間は、自分の身体のことなど、これっぽっちも意識の中に入っていない。

そうして自分は、目の前の対象と同化している。同化しているからこそ、そこから何かを感じ取れるのだ。

そしてその同化した果てで、目に見える対象からかもしだされる、目に見えない何かを見ているのだ。

紅葉の色味とか形とか、そうした目に見えるものを認識しつつも、一方で散ってゆくその瞬間に、あっ(葉っぱが落ちた)と思い、あぁ(葉っぱが流れるように落ちていくなぁ)、と儚さを感じながら、その気配、雰囲気、風情を感じ取っている。

それを歌では気(け)と表現しているわけである。

そもそも目の前の物を見る時、肉体としての自分が見ているのではなく、物としての自分が見ているからこそ、その対象と同化できるのだ。

人は物ではないと思うかもしれないが、人は動物の一種ではないか。動物はまさしく「動く物」である。

だから、物(もの)と者(もの)は同じ言葉の響きとなっているのだ。

肉体的に見ると、自分の肉体と紅葉はどうやっても同化できないが、者(物)としての自分であれば、目の前の紅葉と容易に同化できる。

だから人は他の人と共感できたり、花鳥風月を見て感動できるのだ。

このように者(物)として自分を再認識する様を、歌では「零の真中」と表現している。

物としての自分というと、何だかロボットのように生きるように思う人もあるかもしれないが、ある意味そうではあるが、そうではない。

ロボットというのは通常、誰かが何らかの意図をもって作るものだが、ここで言っているのは、他の人が介在したロボット人間になるのではなく、自分の中から出て来る気配のままに動くということだ。といっても、何か得体の知れない物の怪や霊的存在に憑りつかれて動く、ということでもない。

それは、肉体としての自分から出発するのではなく、どこか分からないが、内の中から出て来る気配を自分の出発点として認識するということだ。

これを宗教的に見て、仏性とか神性とか言えばわかりやすいのだろうが、厳密にいうとそれでもない。

なぜなら「仏性」とすると仏の世界が出て来て「零の真中」ではなくなるし、「神性」とすると神の世界が出て来て、これまた「零の真中」からは外れてしまうからだ。

気配はただ気配であり、それは表現し得ぬものであり、それは見えざる物であり、その気配の出所は、どう逆立ちしても感知し得ないものだ。

だからもう、ただの者(物)となり切って自分自身を感じ、或いは目の前の対象と同じ土俵に立ってそれと同化し、溶け合って、味わい尽くすしかない。

ちなみに今回「解けて」ではなく「溶けて」にしたのは、「解けて」だと、何か回答が見つかったかのような、何か絡まった糸が綺麗さっぱりと解けたような、そのようなニュアンスになってしまうと感じたからである。

むしろ森羅万象と溶けて、混ぜ混ぜになっていくような感覚だったので「溶けて」とした。

大ざっぱに見れば、「身」(固体)が「溶けて」(液体)、「気」(気体)となり、「零の真中」にたどり着く、という流れも見て取れる。

そうして「零の真中」に至ることによって、初めて森羅万象と出会うことが出来るように思うのだ。

Posted on 2017/10/31 Tue. 03:41 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

31

まわりうた 

なかくゆれ かなたみなもに
  きおくとく おきにもなみた なかれゆくかな

(長く揺れ 彼方水面に 記憶解く 沖にも涙 流れ行くかな)

解説

水面(みなも)は「水面(すいめん)。みのも。」の意味です。

余談

この歌は、「NEON GENESIS EVANGELION [DECADE] Soundtrack」の中にある「心よ原始に戻れ」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2017/10/30 Mon. 00:21 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

30

まわりうた 

はかなさの めいるむねてり
  あをきつき をありてねむる いめのさなかは

(儚さの 滅入る胸照り 蒼き月 緒有りて眠る 夢の最中は)

解説

滅入るは「元気がなくなり、暗い気持ちになる。」「深く入り込む。めり込む。」、緒(お)は「長く続くもの。」「魂をつなぐもの。いのち。玉の緒。」、夢(いめ)は「ゆめ。」の意味です。

余談

この歌はエヴァのアルバムDECADEの中にある「Fly Me To The Moon」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

「滅入る」という言葉は中々おもしろいと思う。

ネガティブな印象を持つが、滅(めつ)に入るとは中々潔いではないか。

話は飛ぶが、生きることは本当にうっとおしいことばかりだと思う。辛い事があるなしに関わらず。

それはもう、生きることそれ自体が、煩わしいことこの上ない。

考えるにそれは、死への恐怖であろう。生きるとは、死の恐怖から逃れることと同義ではないかと思うぐらいである。

生活が心配だとか、将来が不安だとか、そういう悩みは全て、死への恐怖だと思う。意識するしないに関わらず、そういうものが四六時中、まとわりついている。

人間関係の悩みだって、それらコミュニティや組織に帰順しなければ、或いはそれらの枠組みを保たなければ、そこから自分が外れて、野垂れ死にするかもしれないと思うからだろう。

しかし、もしかしたら、それは逆なのかもしれない。

我々は死ぬどころか、まだ生まれてすらいないのかもしれない。

シルバーコードとかいう言葉があって、これは肉体と魂をつなぐ線だとも言われている。まるでへその緒のようではないか。

肉体的には我々は今ここで生きている、ということになっているが、霊体からすれば、全く逆の見方が出来る。

我々の魂は肉体という子宮に守られ、へその緒であるシルバーコードから栄養(=現世での様々な体験)を受け取り、そしてその中で成長するのだ。

こう考えると、肉体的な死は、霊的にみれば誕生である。

日月神示参照。

『生前の世界に、霊人が生活している。山があり、川があり、住宅、衣類、食物がある。しかし、それは最初からのものではない。それらの元をなすヽが歓喜していた、そのヽが生後、地上世界にうつされて、地上的約束の下に生長し、秩序されたがため、その結果が、死後の世界につづき、死後の世界の様相はヽの原理によって、生前世界に移行して、生前的に進展し、弥栄し、そのヽを幾度となく繰り返すうちに、漸次、内的ヽに向って弥栄する面と、外的、地上的に進むヽと、その交叉融和することによって更に生み出され弥栄するヽと、その各々が各々の立場に於て、すすみ、呼吸し、脈うち、生命していると同時に、全体的にも生命し、歓喜し、弥栄している。而して、その現われとしては、和せば和するほど相離れ、遠ざかりつつ生長する。また、生命の大歓喜として湧き出ている。故に、地獄にあらざる地獄的霊界、天国にあらざる天国的霊界は、霊人により生み、霊人により育てられると同時に、人々により生み、人々により育てられ、歓喜されるのである。かく弥栄進展するが故に、人類も霊人類も、各々その最後の審判的段階に入る迄は、真の三千世界の実相を十分に知り得ない。故に、新天新地の来る迄、真の天国を体得し得ない。新天新地の新しき世界に生れ出づる自己を知り得ない。この新天新地は幾度となく繰り返されているのであるが、何れもヽの形に於けるが如く同一形式のものではあるが、同一のものではない。より小なるものより、より大なるものが生れ、より大なるものより、より小なるものが生れ、より新しきものより、より古きものが生れ、より古きものより、より新しきものが生れ、弥栄し、一つの太陽が二つとなり、三つとなり、更には一つとなることを理解しない。月より地球が生れ、地球より太陽が生れると云うことを理解するに苦しむものであるが、最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。これは外部的なる智によらず、内奥の神智にめざめることによってのみ知り得る。新天新地新人はかくして、生れ、呼吸し、弥栄える。しかし、新人と生れ、新天新地に住むとも、その以前の自分の総ては失わない。只その位置を転換されるのみである。地上人が死後、物質的に濃厚なる部分をぬぎすてるが、その根本的なものは何一つとして失わず生活するのである。その状態よりも尚一層、そのままであって何等の変化もないと思える程である。蛆(ウジ)が蝶になる如く弥栄えるものであって、それは大いなる喜びである。何故ならば、大歓喜なる大神の中に於て、大神のその質と性とをうけつぎ呼吸しているからである。総てのものは歓喜に向かい、歓喜によって行為する。歓喜がその目的であるが故に、歓喜以外の何ものも意識し得ない。故に、歓喜よりはなれたる信仰はなく、真理はなく、生命はない。生前の霊人が地上人として生れてくるのも死ではなく、地上人が霊界に入るのもまた死ではなく、弥栄なる誕生であることを知らねばならぬ。歓喜は行為となる。行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではない。只考えたり意志するのみでは萌え出でない。生命しない。只意志するだけで行為しないことは、まことに意志することではない。霊界に於ては意志することは直ちに行為となるのである。地上人にありては物質によりて物質の中に、その意志を行為することによって始めて歓喜となり、形体を為し弥栄えるのである。生前の霊界は、愛の歓喜、真の歓喜、善の歓喜、美の歓喜の四段階と、その中間の三段階を加えて七つの段階に先ず区別され、その段階に於て、その度の厚薄によりて幾区画にも区分され、霊人の各々は、自らの歓喜にふさわしい所に集まり、自ら一つの社会を形成する。自分のふさわしくない環境に住むことは許されない。否、苦しくて住み得ないのである。若しその苦に耐え得んとすれば、その環境は、その霊人の感覚の外に遠く去ってしまう。例えば、愛の歓喜に住む霊人は、その愛の内容如何によって同一方向の幾百人か幾千、幾万人かの集団の中に住み、同一愛を生み出す歓喜を中心とする社会を形成する。故に、生前の世界では、自分の周囲、自分の感覚し得るものの悉くが最もよく自分に似ており、自分と調和する。山も川も家も田畑も、そこに住む霊人たちも、動物も植物も鉱物も、総て自分自身と同一線上にあり、同一の呼吸、同一の脈拍の中にあり、それらの総てが、大きな自分自身と映像する場合が多い。自分は他であり、他は自分と感覚する。故に、その性質は生後にも続き、地上人もその周囲を自分化しようとする意志をもっているのである。しかし、地上世界は、物質的約束によって、想念のままには動かない。死後の世界もまた生前と同様であるが、一度 物質世界を通過したものと、しないものとの相違が生じてくるのである。だが、何れにしても物質世界との密接なる呼吸のつながりを断ちきることは出来ない。物質は物質的には永遠性をもたず、霊は永遠性をもつが、霊的角度から見れば永遠性はもたない。しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、永遠から永遠に弥栄してゆくものである。而して、永遠性をもつ事物は、地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内蔵している。無は有を無化せんとし、有は無を有化せんとし、その融合の上に生命が歓喜するのである。無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければならない。』(地震の巻 第八帖)

しかしこの「蒼き月」とはなんであろうか。

「あお」は、「ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか」のブログ主さんも言っていた通り、「ああ!」とか「おお!」とか、思わず漏れてしまう感動を表しているように思う。

エヴァでからめて言うならば、使徒の血(というか遺伝子的なパターンだった気もする)は青であり、血は常に赤である人からすれば、通常ではあり得ない、常識では考えられない、という意味もあろうかと思う。

海外では‘once in a blue moon’という言い回しがあるらしく、(大気中の塵の影響で)青く光る月はごくまれにしか見られないことから、「めったに~ない」という意味で使われているのだとか。

歌の全体的なニュアンスとしては、生きていることは儚く、滅入ることばかりだが、しかしその中にあってもごくまれに、魂が昇天してしまうのではないか、と思うほどに心が躍動し、感動の中にすっぽりと入ってしまう瞬間がある。それは、この魂がまだ誕生してもいない、夢の世界に居る最中でもあるからなんだなぁ、といった感じです。

Posted on 2017/10/29 Sun. 22:33 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

29

まわりうた 

きつるきし ますみのみのも
  たたよふよ たたものみのみ すましきるつき

(来つる岸 真澄の水面 漂ふ夜 ただ物見のみ 清まし切る月)

解説

真澄(ますみ)は「よく澄んでいること。澄み切っていること。」、水面(みのも)は「水の表面。すいめん。みなも。」、物見は「物事を見ること。見物すること。」、清ます(すます)は「清らかにする。澄ます。」、切るは「〔動詞の連用形に付いて〕…し終える。完全に…する。」の意味です。

余談

この歌は、「NEON GENESIS EVANGELION [DECADE] Soundtrack」の中にある「天国の記憶」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

懐かしくなって、何気なく曲を聴いていたら、結局その世界観に引かれてしまって、出て来た歌です。

何話か忘れたが、確か物語中、レイが水面で仰向けに浮かんでいるシーンがあったと思うが、あのイメージに近い。

本題に移ろう。

「岸」は帰し、起死に通じる。また生と死の境界線、というニュアンスを感じる。

「真澄」は座す見(ますみ)で、見ている自分の意識そのものを表しているのだろう。ゆえに、「水面」は見の面(みのも)、或いは見の最(みのも)になる。

つまり、何かを見ている、その自分そのものを感じるということ。空っぽになるということ。

たとえば、何かをじっと見る。そのままずっと見て、その状態が最高潮に達した時、見ている対象から、見ることそのものへと意識が映っていく、という、まさにその状態を指している。

「漂ふ夜」は、その「見ること」そのものの中を漂っている状態であろう。夜は闇を連想し、見えない部分を表している。

つまり、じっと見ていると、見えない部分が意識されてくるということだ。

うまく説明できないが、噛み砕いて言うならば、こういうことだ。

自分の眼前には、PCやテレビやその他諸々が「見える」わけだが、なぜかその見ている自分の心はどこにあるかわからない、どこを探しても見えない。見ることができない。しかし、自分に心があることはなぜか判る。

……というのが我々が普段感じている通常の状態だと思うが、この「見ること」の中を漂うことで、それが逆転するのだ。

それを指しているのが「ただ物見のみ」の部分だ。

「もののあはれ」とかいう言葉があるが、この「もの」とは何であろうか。言葉の響きをそのまま感じ取れば、面(も)がのっと出て来る様と感じる。

「のっと」というのは「ぬっと」の意味。物陰から人がヌっと出て来る、というあの「ぬ」のこと。

つまり、「物見」とは、面がの(ぬ)っと出て来る、というその感覚。それを見ている、ということだ。

そもそもこの「面」(も)は、おもてとか、表面とかいう意味だが、まさに、目に見えるこの世界に、表面に、のっと出て来たそれを見ている、というニュアンスなのだ。

だから、この世界全てが、既に見知った世界ではなく、今まで自分が全く知らなかった世界が、目の前で繰り広げられているような、そんな視点から世界を見ている、ということ。

噛み砕いて言うと、たとえば、代わり映えしない自分の部屋が、まるで見知らぬ人の部屋に見えるということ。何もない所から、いきなり自分の部屋が出て来て、そしてそれを初めて見てしまった、というような、そういう驚きを持って、自分の部屋を見渡してしまう、ということ。

そうして、自分の住む世界が、今まで見知った色あせた世界ではなく、どうやっても言葉で説明できない、不思議でへんてこりんな世界に一変する。

一期一会がどういうものかということが、身体の奥、いや、そんなもんじゃない。魂の奥の奥の奥の深くまで沁み込んでしまって、天地がひっくり返るほどの衝撃を受けるのだ。

それは生の世界から森羅万象を見ているのではなく、何もない死の世界、無の世界から森羅万象を見ているからなのである。

試しに、今ある自分は1年後の世界から、3年後の世界から、5年後の世界から、10年後の世界からやって来たのだと想像してみれば、その感覚の幾分かを味わえるのではないかと思う。

そのイメージが出来たら今度は、自分は100年後、500年後、1000年後の世界からやって来た自分だと想像してみよう。そうすればきっと、何もかもが新鮮で、それでいて何もかも懐かしく感じられるはずだ。

え? もうその頃には、とっくに死んでいて、自分がどうなっているかわからないって?

それでも想像してみよう。

そのまま、わからないまま想像してみると、不思議な感じがするはずである。この自分はもはや誰かわからず、目の前の世界だっていつの時代かもわからない。

まさにその感覚が、先ほど言った何もない死の世界、無の世界から森羅万象を見ている、ということである。

そうして最後は「清まし切る月」となる。月は昔から、しばしば心にたとえられているが、まさにその状態になるということ。

奇しくも「清」は「サンズイ+青」である。青く透き通った水に照らし出された月のように、この心は不思議さに満ちてしまうが、同時にこの心の存在性だけは、やたらはっきりと感じられる。

自分が何者かわからない。目の前の森羅万象も、一体これが何なのかもわからない。けれども、自分の心の存在性だけは、やたら透き通った感じを受けるのだ。

そうして自分が何者かわからないまま、自分を自分と感じる。

移ろいゆく世界を何一つ説明できないまま、見たままの世界を見たままに感じる。

それを感じると、歌にある「ただ物見のみ」と「清まし切る月」のニュアンスが、より深く感じられるはずだ。

それを感じると、自分、森羅万象、それらが全て見えなくなって、理解できなくなって、逆に今まで見えなかった心がくっきりと見えるように、理解できるようになっているのが判るはずだ。

いや、もうここまで来ると、心というよりかは、魂といっても良いのかもしれない。

Posted on 2017/10/29 Sun. 20:45 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

29

まわりうた 

なかきよの みかけとなみと
  ゆつりけり つゆとみなとけ かみのよきかな

(永き代の 御影と波と 移りけり 露と皆溶け 神の良きかな)

解説

影(かげ)は「(日・月・灯火などの)光。」「(人や物の)姿・形。」「(心に思い浮かべる)顔・姿。面影。」、移る(ゆつる)は「時間が経過する。うつる。」、露は「はかなく消えやすいもののたとえ。」の意味です。

余談

この歌は、下記動画の曲を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

『Abida Parveen & Rahat Fateh Ali Khan, Chaap Tilak, Coke Studio Season 7, Episode 6』(you tubeより)
https://youtu.be/7SDrjwtfKMk

雑感

下記記事参照。

『実在するものって何?』(「サイババが帰って来るよ」さん)
http://blog.goo.ne.jp/saiponics/d/20171026

Posted on 2017/10/28 Sat. 22:08 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

28

まわりうた 

なかきよの ほしかけたかく
  みうちちち うみくかたけか しほのよきかな

(長き夜の 星影高く 身内千々 海陸だけが 思慕の良きかな)

解説

星影(ほしかげ)は「星の光。ほしひかり。」、身内(みうち)は「からだの内部。また、からだじゅう。」、千々(ちぢ)は「数の多い・こと(さま)。たくさん。」「変化に富んでいるさま。さまざま。」、陸(くが)は「りく。陸地。おか。くにが。くぬが。」の意味です。

余談

この歌は、下記動画の曲を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

『Abida Parveen & Rahat Fateh Ali Khan, Chaap Tilak, Coke Studio Season 7, Episode 6』(you tubeより)
https://youtu.be/7SDrjwtfKMk

Posted on 2017/10/28 Sat. 21:49 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

28

まわりうた 

らかたのさ くみはかるなか
  とまりけり まとかなるかは みくさのたから

(良型の座 酌み量る中 留まりけり 円かなる我は 三種の宝)

解説

酌み量る(くみはかる)は「相手の心の中を推し量る。斟酌(しんしゃく)する。」、円か(まどか)は「まるくて欠けたところのないさま。」「穏やかなさま。円満なさま。欠けたところのないさま。」、三種(みくさ)は「三つの種類。」の意味です。

余談

この歌は、下記動画の曲を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

『Abida Parveen & Rahat Fateh Ali Khan, Chaap Tilak, Coke Studio Season 7, Episode 6』(you tubeより)
https://youtu.be/7SDrjwtfKMk

雑感

万葉仮名では「ら」には「良」の漢字が当てられているので、歌の中の「ら」も、この字を当てました。

下記記事参照。

『三種の神器とは!?、どの御神霊も三種の神器を持たれているが???』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)
http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=259

Posted on 2017/10/25 Wed. 11:42 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

25

まわりうた 

なかみかく ろみれははしら
  かいしんし いからしははれ みろくかみかな

(中身欠く 漏見れば柱 改心し 五十嵐は晴れ 弥勒神かな)

解説

漏(ろ)は「流れて漏れ出てくるけがれ。煩悩(ぼんのう)のこと。」、柱は「物事全体の中心となるもの。」、改心は「今までのことを反省し、心を改め正すこと。」の意味です。

余談

この歌は、下記動画の曲を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

『Abida Parveen & Rahat Fateh Ali Khan, Chaap Tilak, Coke Studio Season 7, Episode 6』(you tubeより)
https://youtu.be/7SDrjwtfKMk

雑感

五十嵐は日本人における姓のひとつだが、その語源はアイヌ語の「物見台地」「吹き荒れる荒地」「見晴らしのきくところ」など諸説あるそうな。或いは、五十(いそ=磯)の嵐が訛って「いがらし」となったという説もある。

また、神様や高貴な人を数える時には一柱、二柱と「柱」を用いるが、歌ではそういうニュアンスが込められており、自分の中心部分の意識を柱に見立てている。

何気日月神示の下記部分を思い出す。

『百は九十九によって用(ハタラ)き、五十は四十九によって、二十は十九によって用(ハタラ)くのであるぞ、この場合、百も五十も二十も、天であり、始めであるぞ、用(ハタラ)きは地の現れ方であるぞ、フトマニとは二十の珠であり、十九は常立であるぞ、根本の宮は二十年毎に新しく致さねばならん、十九年過ぎて二十年目であるぞ。地上的考へ方で二十年を一まわりと考へてゐるが、十九年で一廻りするのであるぞ、いろは(母)の姿見よ。』(碧玉の巻 第十九帖)

『沖つ藻葉辺津藻葉ぞ。 母しらす御国の五のハタラキは何れも十のつばさを持ってゐるぞ、足は十本であるぞ、更に五十のつばさとなりなる仕組、五十の足がイツラぞ、イツラではうごきとれん。四十九として働いてくれよ、真中の一はうごいてはならん。真中うごくでないぞと申してあろうがな、時過ぎてタネまく人民多いのう、人民と申すものは天狗ざから、自分はよいのだが、世の中悪いのざと申してゐるなれど、世の中と申すものは大神のハタラキの現れであるから、【大神の中でのうごきであるから】、世の中が悪いと思ふのは、大神が悪いと思ふことになるのぢゃぞ、其処に底知れぬ程の魔の仕組があるぞ、気つけおくぞ。』(扶桑の巻 第十一帖)

火水伝文参照。

「 今今の世申すは、『蛇の火』が心の宮を奪う事に必死になりて居りて、悪の教えを良き事の様に、どうあってもだまし通すお積もりで、魔釣りの道具を総て使うて、金漬け物漬け色漬けの欲漬けに致して、汝等の身欲を精一杯煽るだけ煽りて来るから、陽気な心の持ち様でありたなら危ういぞ。『蛇』は『蛇』じゃ。『蛇』と成して型示しあるは、どこまで行きても『蛇』であるは解かりて居ろうに《我欲》のご都合で真釣りの基を崩すから、遂には仇成すものまで信じる様に成りてしもうのじゃ。魔釣りばかり上手に成りてしもうてどうするお積もりじゃ。
 真釣りた火のご霊統と、真釣りて無い火のご霊統を取り違え居りては、大失態をやらかすぞ。真釣りた火のご霊統申すは、竜体にて現れなさる生き通しの元つ大神様のご霊統にござる。真釣りて無い火のご霊統申すは、蛇の体にて現れなさる知恵の神のご霊統でござるよ。竜と蛇とをハキリ、タテワケ成さらいで居りてはマコトは見えんぞ。汝等の申す邪竜いうは、蛇の化かした姿にてあるから、何時までも化かされて居るのでないぞ。竜は天降りてハラに【マコト】を開く成り。草薙の剣と申すなり。蛇は底より上り来たりてアタマに『分かつ知の目』を開く成り。魔眼と申すなり。こ度は竜と蛇との戦ぞ。ハラとアタマの戦いでござるよ。
 人民様には未だマコトが解からんから、せっせと蛇の道を開く努力を成されて居るが、どんな事に成りても神はもう知らんぞ。汝の底に封印せしものを、自ら解き放つのであるから、この方は知らんと申して居るのぞ。どんな辛い行にも堪えスミキリたマコトの者が成さるのであれば、この方が特と見届けて、ご霊統のご竜神にお出まし願いて、汝のハラに天降り行き、汝のマコトを開き行きて、万古末代守護なさる、草薙の剣を渡すなり。こは真釣る至誠の神宝にござるのぞ。
 神宝を持ちて蛇の封印を解き真釣るが、こ度の事に関わりて大事な事でありたなれど、取れる人民様居ない程に、蛇の道ばかりどんどん開いてしもうて、一挙に事を成さねば鳴らぬ時節に至りて、一挙に汝等皆々に、草薙の剣をお渡し致さねば鳴らぬ様に成りてしもうたが、世界は蛇の道が九分九厘開かれありてしもうて、日本の中にもどぷり蛇の力に魅入られ居る人民様数多居るから、授かる草薙の剣で、苦しさの余り自ら払う酷き有り様が見えるによりて、気の毒で、この方は見るのがいやであるぞ。今今に獣から人に早う戻りて下されよ。時は無いのぞ。
 草薙の剣いうは火土水(ヒトミ)の事であるぞ。一二三(ヒフミ)の火土水(ヒトミ)の事であるぞ。真言の事であるぞ。息吹合うた言魂の事であるぞ。生く言魂の事にござる。マコトを申すのでござるよ。余りにケガレた身魂のままである者に取りては、一挙に一回でマコトをハラに据えられては、生くるも成らず、死ぬも成らず、苦しみの余り改心致すも底の見えてる改心由、それも成らず。悶え暴れ狂いて、しまいには自らの頭を、自らが潰す末路と成り果てしもうのぞ。
 蛇はアタマを潰さねば死なぬと同じ道理でござるよ。神、頼むぞ。汝はこう成りては下さるなよ。末代地獄で暮らす事に成りてしもうぞ。二度とヒノモトのお土踏めん様な恥ずかしきザマと成りてしもうから、よくよくに注意して置くぞ。」

Posted on 2017/10/23 Mon. 17:56 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

23

まわりうた 

なかきよの ときのまつかる
  くとめさめ とくるかつまの きとのよきかな

(永き世の 時の間浸かる くと目覚め 解くる羯磨の 帰途の良きかな)

解説

時の間は「少しの間。きわめて短い時間。つかのま。」、くとは「すばやく。すぐに。さっと。」、羯磨(かつま)は「《(梵)karmaの音写。》行為。業(ごう)。所作。カルマ。」、帰途は「帰りみち。帰路。」の意味です。

余談

この歌は、下記動画の曲を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

『Abida Parveen & Rahat Fateh Ali Khan, Chaap Tilak, Coke Studio Season 7, Episode 6』(you tubeより)
https://youtu.be/7SDrjwtfKMk

雑感

下記ブログでこの曲が紹介されていて、聴いてみたらとてもよかったので、それをモチーフに歌を書いてみました。

下記参照。

『お知らせです』(「サイババが帰って来るよ」さん)
http://blog.goo.ne.jp/saiponics/d/20171022

Posted on 2017/10/22 Sun. 17:58 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

22

まわりうた 

なかるるか かみもまたもみ
  まなひあひ なまみもたまも みかかるるかな

(流るる我 神もまた揉み 学び合ひ 生身も魂も 磨かるるかな)

解説

揉む(もむ)は「大勢の人が入り乱れて押し合う。」「きたえる。苦労をなめさせる。特に、スポーツ・勝負事などでいう。」「意見を出しあって十分に議論する。」、生身(なまみ)は「現に生きているからだ。血も通い感情もはたらいている身。いきみ。」、魂(たま)は「たましい。」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2017/10/21 Sat. 08:02 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

21

まわりうた 

なかきよに もとつみかたか
  たふくしく ふたかたかみつ ともによきかな

(長き世に 元つ神型が 多福敷く 二方が満つ 共に良きかな)

解説

元つの‘つ’は「体言または体言に準ずるものに付いて、連体修飾語をつくる。の。」、神(み)は「霊的な力をもつものの意。‘山祇(やまつみ)’‘海神(わたつみ)’など他の語と複合して用いられる。」、多福(たふく)は「多くの幸福。幸福が多いこと。多幸。」、二方(ふたかた)は「二つの方面。両方。」の意味です。

余談

この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「鳥は鳴き、僕は歌う」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

「満つ」は三つ(みつ)の言葉がかけられているような感じがする。

二つの方面が三つになって、それぞれが満たされ、共に良いなぁ、というようなニュアンス。

「元つ神型」はよくわからないが、これまで長い間続いて来た世の中に、いきなり世界全体を巻き込むような何か象徴的な大きな出来事がバーンと出て来て、それによって+と-、上と下、左と右、個と全、といった、相反する二つの方面のその両方が最後は大団円を迎えるという、そのような三(道)がくっきりと見えて来る、というイメージです。

Posted on 2017/10/19 Thu. 20:12 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

19

まわりうた 

しらなみの ほときゆるふね
  かたのせの たかねふるゆき とほのみならし

(白波の 穂と消ゆる船 潟の背の 高嶺降る雪 遠野見慣らし)

解説

白波(しらなみ)は「波頭がくだけて白く見える波。」、潟(かた)は「浦。入り江。湾。」、高嶺(たかね)は「高い峰。高い山のいただき。」、遠野(とおの)は「岩手県中東部にある市。遠野盆地の中心地。近世、城下町・宿場町として発展。古来、馬の産地。伝説と民話で知られる。酪農・製材業が発達。」、見慣らす(みならす)は「常に見させて目になれさせる。見なれるようにする。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「ウシワカ登場」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

何となく物悲しい気持ちになったので、そのままの気分に任せて書いてみました。

Posted on 2017/10/17 Tue. 18:27 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

17

まわりうた 

かみのりの いまのみこなた
  なかよきよ かなたなこみの まいのりのみか

(神の理の 今のみ此方 仲良き世 彼方和みの 真祈りのみが)

解説

此方(こなた)は「こちら。ここ。▽話し手に近い方角・場所をさす近称の指示代名詞。」「あなた。▽対称の人称代名詞。話し相手を敬って言う。」「わたし。われ。▽自称の人称代名詞。」、彼方(かなた)は「あちら。▽遠称の指示代名詞。」、和み(なごみ)は「気持ちが穏やかになること。くつろいだ気分になること。」の意味です。

雑感

「世界人類が平和でありますように」を提唱した五井先生の講話が動画にあったので、久しぶりに聞いて懐かしんでいたら、出て来た歌です。

やたら聞き心地が良いなぁ、と思っていたら、口調が落語みたいだからだな、きっと。(笑)

Posted on 2017/10/13 Fri. 15:25 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

13

まわりうた 

なかきよの ねよりかひのた
  うすのまの すうたのひかり よねのよきかな

(長き世の 根より佳美の田 臼の間の 数多の光 米の良きかな)

解説

佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、臼は「穀物を精白したり、粉にしたり、餅 (もち) をついたりする道具。つき臼とひき臼とがある。」、数多(すうた)は「数の多いこと。たくさん。あまた。多数。」、米(よね)は「こめ。」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

昔は、臼で「もみ殻」と「玄米」を分けていたのだとか。

もしかしたら、精白している人からすれば、臼の間から出て来る米一粒一粒が、光の粒のように見えていたのかもしれないですね。

Posted on 2017/10/12 Thu. 15:55 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

12

まわりうた 

きとのそく なかれはあきの
  きはいない はきのきあはれ かなくそのとき

(きと覗く 流れは秋の 気配内 萩の木あはれ 鹿鳴くその時)

解説

きとは「特に意図せずにある動作をするさま。思わず。ふと。」、気配(きはい)は「ありさま。様子。けはい。」、あはれは「‘をかし’とともに、平安時代における文学の基本的な美的理念。深いしみじみとした感動・情趣をいう。のち、しだいに日本文学の美の根幹として発展し、調和美・優雅美・静寂美・悲哀美などのさまざまな内容を持つようになった。」、鹿(か)は「シカの古名。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「ウシワカ登場」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

おく山に 紅葉ふみわけ なく鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき

上記の歌は、百人一首にも載っている有名な歌だが、一説ではこの紅葉(もみじ)は黄葉(もみじ)であり、楓ではなく萩を指しているそうな。

Posted on 2017/10/12 Thu. 10:48 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

12

まわりうた 

なかききろ ことむけやはし
  まいのちの いましはやけむ ところききかな

(永き岐路 言向け和し 真命の 今し速けむ 所義気かな)

解説

岐路は「道が分かれる所。分かれ道。」「将来が決まるような重大な場面。」「本筋ではなく、わきにそれた道。」、今しは「たった今。今という今。」、義気(ぎき)は「正しいことを守り行おうとする意気。義侠心(ぎきょうしん)。」の意味です。

雑感

「永き岐路」は、永遠の分かれ道という意味にとれるが、今ここしかないという一期一会のようなニュアンス。

「言向け和す」は、相手を説き伏せて納得させるというような意味だが、漢字をそのまま見ると、言葉を向けて、相手を和ませる、というようなニュアンスを感じる。

「真命の 今し速けむ 所義気かな」は、自分の命が、今の今、速くなるだろう所、という意味で、いわば、無意識から出て来る言動というような意味と解釈したい。そしてそれが義気である、と。

つまりは、たとえば、困っている人がを見かけて、大丈夫ですか、と声をかける、など、そういう言動が義気だなぁ、と詠っているということ。

それは、その人が大丈夫だろうかと思う前に、自分の中の命がもう動いてしまっている、そういう働きのことを指している。

逆から言えば、その一瞬を逃せば、いや私がしゃしゃりでても一緒だし、とか、声をかけたら逆に迷惑かもしれない、とか、そういう思考が出て来て、一期一会の所を逃してしまう、ということでもある。だから「永き岐路」なのだ。

Posted on 2017/10/11 Wed. 08:42 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

11

まわりうた 

まいのちの ゆつりてきつく
  ほとりあり とほくつきてり つゆのちのいま

(真命の 移りて気付く 熱りあり 遠く月照り 露の地の今)

解説

移る(ゆつる)は「時間が経過する。うつる。」、熱り(ほとり)は「熱くなること。熱気をおびること。熱さ。」、露は「空気中の水蒸気が地面近くの冷たい物体の表面に凝結して水滴となったもの。温度が露点以下になるとできる。」「はかないこと、消えやすいことのたとえ。」「涙のたとえ。」の意味です。

余談

この歌は、ジブリの「かぐや姫の物語」を見て、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

以下、「かぐや姫の物語」のネタバレあり。

かぐや姫が、極楽浄土にたとえられる月から、どうして穢れたこの地にやってきたのかは、それとなく劇中で語られているが、今回の歌はとりわけ、その点についてスポットを当てて書いたものになります。

「熱り」は煩悩の火でもあるが、同時に体温、即ち生命の火でもある。

「露」は、ここでは儚い命や、涙にくれるかぐや姫の象徴でもあると解釈したい。或いは露は丸い水滴でもあるので、丸い水の惑星、地球も連想させられる。

「遠く月照り」もまたおもしろい。

地上から見ている限りの月は美しいが、かぐや姫の視点からみると、そうでもない、ということがあげられる。これは穢土から見た極楽浄土は美しく感じられるが、そうではない可能性がある、という示唆でもあるように思う。

だから「遠く月照り 露の地の今」は、不幸ではないけれども、無機質な、無感情な月の世界から遠く離れて、たとえ煩悩に塗れていたとしても、喜怒哀楽を目一杯表現できるこの地上に今自分がいるということは、ある意味幸せだ、というニュアンスが込められているように思う。

つまり物理的な距離だけでなく、かぐや姫にとっての月の世界は、あまり魅力的に映らない遠い世界でもある、というニュアンスがあるように思う。

物語中に「生きている手応え」云々のセリフがあったが、歌ではその部分を「熱り」と表現している。物語では、恋愛もまた大きな一つのテーマになっているので、この部分を初恋の気持ちなどと解釈しても、またおもしろいかもしれない。

蛇足だが、物語中に出て来た天人達のふるまいが、アメリカドラマの「スーパーナチュラル」に出て来た天使達と似通っていたのは、中々面白かった。おそらく、彼らが感情というものがほとんど無い形で描かれているからだろう。

Posted on 2017/10/09 Mon. 15:12 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

09

いろはうた 

しんめまみえぬ くにのよを
さかひあろゆゑ おほきむね
すへてわらはせ りつゐやも
いちうなるこそ たふとけれ

神馬見えぬ  国の世を
界ひ鴉鷺故  大き旨
統べて笑はせ 立位八方
一宇成るこそ 尊とけれ

解説

神馬(しんめ)は「神霊の乗り物として神聖視されている馬。白馬を特に重んじる。」、見える(まみえる)は「‘会う’の意の謙譲語。お目にかかる。」「顔を合わせる。対面する。」、界ふ(さかふ)は「境を決める。限る。区切る。」、鴉鷺(あろ)は「黒白。」、大し(おほし)は「大きい。広い。」「偉大だ。」、統べるは「 ひとつにまとめて支配する。統率する。」「一つにまとめる。たばねる。」、立位(りつゐ)は「立った姿。立った状態。」、八方(やも)は「八つの方面。あらゆる方面。四方八方。」、一宇(いちう)は「屋根を同じくすること。一つ屋根の下に暮らすこと。」、尊し(たふとし)は「きわめて価値が高い。非常に貴重である。たっとい。」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

霊界物語に国大立尊(くにひろたちのみこと)という神様が出て来るが、今回の歌はそのご神名にあやかって作った歌です。

ちなみに日月神示にも、このご神名が出て来る。

日月神示参照。

『何も彼も前つ前つに知らしてあるのに、人民は先が見えんから、言葉の【ふくみ】がわからんから取違ひばかり、国土(九二つち)の上は国土の神が治(し)らすのぢゃ、世界の山も川も海も草木も動物虫けらも皆この方が道具に、数でつくったのぢゃ。愈々が来たぞ、いよいよとは一四一四ぞ、五と五ぞ。十であるぞ、十一であるぞ、クニトコタチがクニヒロタチとなるぞ、クニは黄であるぞ、真中であるぞ、天は青であるぞ、黄と青と和合してみどり、赤と和して橙(だいだい)となり、青と赤と和して紫となる、天上天下地下となり六色となり六変となり六合(クニ)となるのぢゃ、更に七となり八となり白黒を加へて十となる仕組、色霊(イロタマ)結構致しくれよ。』(紫金の巻 第十一帖)

それでは歌の解釈に移りたいと思う。

「神馬見えぬ」は、神馬(に乗った神霊)にお目にかかった、という意味であろう。

「国の世を 界ひ鴉鷺故」は、国と国とがわけ隔てられた世の中の、さらにまたその中で、それぞれ境界を作り、互いに争うことで、勝てば官軍、負ければ賊軍の、白黒はっきり分かれてしまう様が、このままでは過去にも増して激しくなるゆえに、という意味であろう。

「大き旨 統べて笑はせ 立位八方 一宇成るこそ 尊とけれ」は、偉大な御旨を持った(前述の神馬に乗った)神霊が全てを一つにまとめて、皆をどっと笑わせ、そうして自分を含めた周り全て、世界全てが、一つの屋根の下で過ごしているかのように仲良くなる、その様が尊いなぁ、という感じの意味かと思う。

Posted on 2017/10/08 Sun. 18:22 [edit]

category: いろはうた

TB: --    CM: --

08

まわりうた 

きよきあめ たかそらすまる
  このときと のこるますらそ かためあきよき

(清き天 高空統まる この時と 残る益荒ぞ 堅め秋良き)

解説

天(あめ)は「空。天。あま。」「天上界。」、高空は「澄みきって高く見える空。」、統まる(すまる)は「集まって一つになる。すばる。」、益荒(ますら)は「神や男の勇ましく力強いさまをいう語。また、雄々しい神や男。」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

秋は明きと掛かっているように思う。

「清き天 高空統まる この時」は、そのまま解釈すれば神界(天上界)の統一を指すので、そのことが明らかになる、という意味であろう。

その時節に従い、ついにこの時が来た、とそれぞれ縁ある身魂は、知らず知らずのうちに御用に使われ、全てが明きとなる良き秋(とき)が来た、ということかと思う。

このようにして天の岩戸も地の岩戸も、同時進行で開かれてゆく、ということかと思う。

日月神示参照。

『いよいよとなれば、外国強いと見れば、外国へつく臣民 沢山できるぞ。そんな臣民一人もいらぬ、早うまことの者ばかりで神の国を堅めて呉れよ。』(上つ巻 第二十二帖)

『神の臣民に楽な事になるぞ。理屈無い世にするぞ。理屈は悪と申してあろが、理屈ない世に致すぞ。理屈くらべのきほひ無くして仕舞ふぞ。人に知れん様によいことつとめと申してあろが。人に知れん様にする好い事 神こころぞ。神のした事になるのざぞ。行けども行けども白骨と申したが、白骨さへなくなる所あるぞ。早よ誠の臣民ばかりで固めて呉れよ。神世の型 出して呉れよ。時、取違へん様に、時、来たぞ。』(夜明けの巻 第七帖)

『マコトの者は千人に一人ざぞ、向ふの国にはまだまだドエライ仕組してゐるから今の内に神の申すこと聞いて、神国は神国のやりかたにして呉れよ。人の殺し合ひ許りではケリつかんのざぞ、今度のまけかちはそんなチョロコイことではないのざぞ、トコトンの処まで行くのざから神も総活動ざぞ、臣民 石にかじりついてもやらねばならんぞ、そのかわり今後は万劫末代のことざから何時迄もかわらんマコトの神徳あたへるぞ。云はれぬこと、神示に出せぬことも知らすことあるぞ。』(磐戸の巻 第十二帖)

『天(あま)さかり地(くに)さかります御代となるぞ、臣民の心の中にいけおいた花火 愈々ひらくとききたぞ、赤い花火もあるぞ、青いのもあるぞ、黄なのもあるぞ、それぞれのミタマによりて、その色ちがふのざぞ、ミタマ通りの色出るのざぞ。金は金ぞ、鉄は鉄ぞ、鉛は鉛として磨いてくれよ、金のまねするでないぞ。地つちの軸 動くぞ、フニャフニャ腰がコンニャク腰になりて どうにもこうにもならんことになるぞ、其の時この神示、心棒に入れてくれよ、百人に一人位は何とか役に立つぞ、あとはコンニャクのお化けざぞ。』(磐戸の巻 第五帖)

『イワトの巻かき知らすぞよ、イワトひらくには神人共にゑらぎにぎはふのざぞ、カミカカリして唱ひ舞ふのざぞ、ウズメノミコトいるのざぞ。ウズメとは女(おみな)のみでないぞ、男(おのこ)もウズメざぞ、女のタマは男、男のタマは女と申してあろがな。ヤミの中で踊るのざぞ、唄ふのざぞ、皆のものウズメとなりて下されよ、暁(あけ)つげる十理(とり)となりて下されよ、カミカカリて舞ひ唄ひ下されよ、カミカカリでないと、これからは何も出来ぬと申してあろがな。』(磐戸の巻 第一帖)

『八のつく日に気つけと申してあろう。八とはひらくことぞ。ものごとはひらく時が大切ぢゃ。第一歩の前に○歩があるぞ。○歩が大切ぞ。心せよ。そなたは行き詰って苦しんで御座るなれど、それは間違った道を歩んで来たからぞ。行き詰りは有りがたいぞ。省みる時を与えられたのぢゃ。ミタマ磨きさえすれば何ごともハッキリとうつりて、楽に行ける道がちゃんとつくってあるのぢゃ。その人その人に応じて如何ようにでも展け行くぞ。犬猫でさえ楽々と栄えてゐるでないか。洗濯次第でどんな神徳でも与えるぞ。』(月光の巻 第四十七帖)

『八のつく日に気つけてあろうが、八とはひらくことぞ。今が八から九に入る時ぞ、天も地も大岩戸ひらき、人民の岩戸ひらきに最も都合のよい時ぞ、天地の波にのればよいのぢゃ、楽し楽しで大峠越せるぞ、神は無理申さん、やればやれる時ぞ、ヘタをすると世界は泥の海、神々様も人民様も心の目ひらいて下されよ、新しき太陽は昇ってゐるでないか。』(五葉の巻 第十二帖)

『ツギ、アメノトコタチノミコト、ツギ、クニノトコタチノミコト、ツギ、トヨクモヌノミコトトナリナリテ、アレイデタマイ、ミコトスミキリタマヒキ。 辛酉(かのととり)の日と年はこわい日で、よき日と申してあろがな。九月八日は結構な日ざが、こわい日ざと申して知らしてありた事少しは判りたか。何事も神示通りになりて、せんぐりに出て来るぞ。遅し早しはあるのざぞ。この度は幕の一ぞ。日本の臣民これで戦済む様に申してゐるが、戦はこれからぞ。九、十月八日、十八日は幾らでもあるのざぞ。三月三日、五月五日はよき日ぞ。恐ろしい日ざぞ。今は型であるぞ。改心すれは型小(ち)さくて済むなれど、掃除大きくなるぞ。猫に気付けよ、犬来るぞ。臣民の掃除遅れると段々大きくなるのざぞ。神が表に出ておん働きなされてゐること今度はよく判りたであろがな。◎と神との戦でもあると申してあろがな。戦のまねであるぞ。神がいよいよとなりて、びっくり箱開いたら、臣民ポカンぞ。手も足も動かすこと出来んぞ。たとへではないのざぞ。くどう気付けておくぞ。これからがいよいよの戦となるのざぞ、鉄砲の戦ばかりでないぞ。その日その日の戦烈しくなるぞ、褌締めて呉れよ。』(日月の巻 第十帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)

『旧十月八日、十八日、五月五日、三月三日は幾らでもあるぞと申してあろが、此の日は臣民には恐い日であれど神には結構な日ざぞと申してあろが、神心になれば神とまつはれば神とあななへば臣民にも結構な日となるのぞ。其の時は五六七(みろく)の世となるのざぞ。桜花(さくらばな)一度にどっと開く世となるのざぞ、神激しく臣民静かな御代となるのざぞ、日日(ひにち)毎日富士晴れるのざぞ、臣民の心の富士も晴れ晴れと、富士は晴れたり日本晴れ、心晴れたり日本晴れぞ。』(日の出の巻 第四帖)

『今の臣民見て褒める様な事は皆奥知れてゐるぞ。之が善である、まことの遣り方ぞと思ってゐる事九分九厘迄は皆悪のやり方ぞ。今の世のやり方、見れば判るであらうが、上の番頭殿 悪い政治すると思ってやってゐるのではないぞ。番頭殿を悪く申すでないぞ。よい政治しようと思ってやってゐるのぞ。よいと思ふ事に精出してゐるのざが、善だと思ふ事が善でなく、皆悪ざから、神の道が判らんから、身魂曇りてゐるから、臣民困る様な政治になるのぞ。まつりごとせなならんぞ。わからん事も神の申す通りすれば自分ではわからんこともよくなって行くのざぞ。悪と思ってゐることに善が沢山あるのざぞ。人裁くのは神裁くことざぞ。怖いから改心する様な事では、戦がどうなるかと申す様な事ではまことの民ではないぞ。世が愈々のとことんとなったから、今に大神様迄 悪く申すもの出て来るぞ。産土様(うぶすなさま)何んぞあるものかと、悪神ばかりぞと申す者 沢山出てくるぞ。此の世始まってない時ざから我身我家が可愛い様では神の御用つとまらんぞ。神の御用すれば、道に従へば、我身我家は心配なくなると云ふ道理判らんか。何もかも結構な事に楽にしてやるのざから、心配せずに判らん事も素直に云ふ事聞いて呉れよ。子に嘘吐く親はないのざぞ。神界の事知らん臣民は色々と申して理屈の悪魔に囚はれて申すが、今度の愈々の仕組は臣民の知りた事ではないぞ。神界の神々様にも判らん仕組ざから、兎や角申さずと、神の神示腹に入れて身魂磨いて素直に聞いて呉れよ。それが第一等ざぞ。此の神示は世に出てゐる人では解けん。苦労に苦労したおちぶれた人で、苦労に負けぬ人で気狂いと云はれ、阿呆と謂はれても、神の道 素直に聞く臣民でないと解けんぞ。解いてよく噛み砕いて世に出てゐる人に知らしてやりて下されよ。苦労喜ぶ心より楽喜ぶ心高いぞ。』(日月の巻 第三十六帖)

『何事も天地に二度とないことで、やり損ひしてならん多陀用幣流天地(たたよへるくに)の修理固成(かため)の終りの四あけであるから、これが一番大切の役であるから、しくじられんから、神がくどう申してゐるのざ、神々さま、臣民みなきいて呉れよ。一二三(ひふみ)の御用出来たら三四五(みよいつ)の御用にかからなならんから、早う一二三の御用して呉れよ。何も心配ないから神の仕事をして呉れよ、神の仕事して居れば、どこにゐても、いざといふ時には、神がつまみ上げて助けてやるから、御用第一ぞ。一日(ひとひ)に十万の人死ぬ時来たぞ、世界中のことざから、気を大きく持ちてゐて呉れよ。』(上つ巻 第三十四帖)

Posted on 2017/10/08 Sun. 11:36 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

08

まわりうた 

きしなかめ ほとりあまたの
  ちこくいく こちのたまあり とほめかなしき

(岸眺め 辺数多の 地獄行く 固持の魂あり 遠目悲しき)

解説

辺(ほとり)は「川や池などの水際。きわ。ふち。」、数多(あまた)は「数が多いさま。たくさん。多数。」、固持(こじ/こぢ)は「」「意見や信念などをかたく守って変えないこと。固執。」、魂(たま)は「たましい。」、遠目は「遠くから見た感じ。遠くから見えるぐあい。遠見。」の意味です。

余談

この歌は、地獄少女二籠オリジナルサウンドトラックの中にある「あいぞめ」を聴きながら書いた歌です。

雑感

数日前、地獄少女宵伽(よいのとぎ)を見たのだが、中々おもしろかった。後半の回顧録は、実質過去の再放送で残念だったが……。

ちなみに地獄少女がどういうアニメかを簡単に言うと、下記のような流れになる。

(以下重要なネタバレあり)

1. いじめられる、誰かに無実の罪を着せられる、等々、誰かに理不尽な仕打ちを受ける
2. 被害者が加害者を恨む
3. 地獄少女に頼んで加害者を地獄に流してもらう。(いわゆる地獄流し)
5. 「人を呪わば穴二つ」で、その依頼者(被害者)もまた死後地獄に行く

全ての話がこの構図になっているわけではないが、オーソドックスなパターンはだいたい上記の通り。

ということで、歌の内容としては、この地獄流しをイメージしたものです。

今回の放送は第4期になるが、確か第1期では、地獄少女になった由来なんかも明かされていたように思う。

もう見たのが十年以上前なので、あまりよく覚えていないが、こんな話だったと記憶している。

地獄少女の前身である少女もまた、何の落ち度もないのに、否応なしに人身御供にされ、生き埋めになるという理不尽な殺され方をされていた。

しかし、そのひどい仕打ちを受けたことによる凄まじい怨念によって、最後は村中に火を放ち、その復讐を遂げるのだが、それが罪となってしまった。

そしてその贖罪のため、地獄少女の仕事を与えられた、という話だったと思う。

なぜこの仕事をすることが贖罪になるのか、と考えてみると、おそらく復讐を遂げても、その恨みの連鎖が広がっていくだけで、根本的な解決にならない、ということを知りなさい、ということなのだと思う。

今回の地獄少女宵伽では、ミチルという少女が出て来て、似たような話が展開されている。

舞台は大正か昭和初期。ミチルの家は比較的裕福で、両親は常に人の為、村の為を思って行動していたので、村人からの人望も厚かった。

だが、それをよく思わない人々がいて、娘が拉致監禁されてしまう。それに気づいた両親は助け出そうとするが、両親共々、殺されてしまう。

ミチルは殺されるまさにその時、凄まじい怨念を発し、村中に火を放つ。そしてミチルは彷徨う魂となってしまった。

両親については、その後のことが描かれていないことから、成仏したものと思われる。おそらく両親は、そのような仕打ちを受けても相手を恨まず、それを受け入れたのだろう。

出来れば怨恨は地獄に流さずに、水に流したいものである。とはいえ、それは中々難しい。

かつて、この世を治めていた国常立大神様は、上と似たような構図で、八百万の神々から、冤罪により艮に押し込められたのだとか。しかしその時、仕返しをする力が十分にあるにも関わらず、じっと耐えていたという。驚くことに、その年数は三千年。

水に流すことは中々難しいので、怨恨に蝕まれた魂は、その魂自体を流せば良いのかもしれん。どこに流すのかというと、神の方向へと流すのだ。これも一種の惟神(かんながら)に通じるものがあるように思う。

そういえば昔、五井昌久という宗教家の本を読んだ時、神様、神様、と思っていたら、神様の中に入っちゃった、みたいなことが書かれていたが、あの感じにニュアンスとしては似ているかもしれない。

日月神示参照。

『そなたはつまらんことにいつも心を残すから つまらんことが出てくるのであるぞ。心を残すと云うことは、霊界とのつながりがあることぞ。つまらん霊界にいつ迄くっついてゐるのぢゃ。何ごとも清めて下されよ。清めるとは和すことであるぞ。同じもの同士では和ではない。違ったものが和すことによって新しきものを生むのであるぞ。奇数と偶数を合せて、新しき奇数を生み出すのであるぞ。それがまことの和であり清めであるぞ。善は悪と、陰は陽と和すことぢゃ。和すには同じあり方で、例へば五と五との立場で和すのであるが、位に於ては陽が中心であり、陰が外でなければならん。天が主であり地が従でなければならん。男が上で女が下ぢゃ、これが和の正しきあり方ぞ。さかさまならんぞ。これを公平と申すぞ。口先ばかりでよいことを申すと悪くなるのぢゃ。心と行が伴はねばならん。判りきったこの道理が行はれないのは、そなたをとり巻く霊の世界に幽界の力が強いからぢゃ。そなたの心の大半を幽界的なもので占めてゐるからぞ。己自身のいくさ まだまだと申してあろうがな。このいくさ中々ぢゃが、正しく和して早う弥栄結構ぞ。そなたのもつ悪いくせを治して下されよ。そのくせ治すことが御神業ぞ。自分で世界を建直すような大きこと申して御座るが、そなたのくせを治すことが最も大切な御用でないか。これに気がつかねば落第ぞ。おそれてはならん。おそれ生むからぞ。喜べ、喜べ、喜べばよろこび生むぞ。喜びは神ぢゃ。神様御自身も刻々弥栄して御座るぞ。故にこそ生長なされるのぢゃ。人間も同様でなくてはならん。昨日の自分であってはならん。今の自分ぞ。中今のわれに生きねばならん。われにどんな力があったとて、我を出してはならんぞ。我を出すと力なくなるぞ。我を、大き我に昇華させよ。大我にとけ入らねばならん。大我にとけ入ったとて、小我がなくなるのではないぞ。人おろがめよ。物おろがめよ。おろがむと自分の喜びとなり、拝まれたものも喜びとなるぞ。うれしうれしとはそのことぞ。』(月光の巻 第五十二帖)

Posted on 2017/10/07 Sat. 09:16 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

07

まわりうた 

きしみさけ とほそらのしき
  にしのへの しにきしのらそ ほとけさみしき

(岸見放け 遠空の色 西の方の 死に帰し野良ぞ 仏寂しき)

解説

見放く(みさく)は「遠くを見る。はるかに眺める。」、遠(とお)は「‘とおつ’‘とおの’の形で、または直接に名詞の上に付き、遠いことの意を表す。」、色(しき)は「目で見ることのできるもの、すなわち色(いろ)と形。」、方(へ)は「そのものにごく近い場所、また、それへの方向を示す。近く。ほとり。あたり。」、帰すは「最後に一つのところに落ち着く。帰着する。」、野良(のら)は「野。野原。」「田や畑。」の意味です。

余談

この歌は、地獄少女オリジナルサウンドトラックの中にある「かりぬい」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

イメージとしては、三途の川を渡って、西方の寂静(じゃくじょう)の世界に行き着いた時の心境を詠っている。

なので「岸見放け」は、岸を遠くはるかに眺めて、という意味になるので、この岸は彼岸(=あの世)から見た此岸(=この世)のことと解釈したい。

「遠空の色」は、向こう側の岸(此岸)の方の、遠くに見える空色(が美しいなぁ)というニュアンスなのだが、これは色(しき)でもあるので、要するに、死後、生前の世界を改めて見て、生の世界特有の色(しき)の世界、形ある世界のその美しさというか、懐かしさというか、そういう感慨深さが魂に沁みて来るニュアンスが含まれているように思う。

だから最後が「寂しき」となっているのだろうと思う。

あんなに嫌だと思っていた生前の世界が、思い出す一瞬一瞬の全てが狂おしいほど懐かしく、また美しく輝いている様を見て、とてもとても寂しくなってしまうのである。

もっと自分は良い対応ができなかったのか、と思ってしまうのである。

それは、あたかも、身近な人が死んだ時のような寂しさでもある。だが、死後、西方の寂静の世界に行き着いた自分は、すでに生前に持っていた色(しき)から離れているがゆえに、空(くう)であるがゆえに、その寂しささえも、愛おしく感じられるのである。

そしてその心境こそが仏の心境でもある、ということ。

歌の最後にある「仏」は、仏に成った(=死んだ)自分という意味でもあるが、西方世界にいらっしゃる仏様という意味でもある。西方の仏様は阿弥陀如来なので、まあこの仏様という意味でもある、ということでもある。

というよりも、自分と阿弥陀如来とが一つになって、何とも言えない感慨深さの中に身を置くことになるのである。

嫌な記憶、辛い記憶だと思っていたその記憶全てが、まるで夕日の光に照らされて流されて行くように抜け落ちて行くというか、その辛さをひっくるめて美しく感じるというか、まあ、うまく言えないが、そのような感情に変わり、後には楽しかった思い出、嬉しかった思い出、感動した思い出、そのような思い出だけが残り、生前にあった全ての全てが自分の中で消化(昇華)され、肯定されて行くのである。

そうして、自分の中で生前の人生全てが納得できた時、生前あった私というものは消え、仏になるのである。仏は火(ほ)の解け(とけ)であり、煩悩の火が一切合財解けて消え去った状態のことをいう。

そうして今度は、自分の中に残った楽しかった思い出、嬉しかった思い出等の、その思念が土台となって、それにふさわしい世界へと旅立つのである。

Posted on 2017/10/06 Fri. 18:55 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

06

まわりうた 

きしなかめ ゆふそらこせは
  をちのひの ちをはせこらそ ふゆめかなしき

(岸眺め 夕空越せば 彼方の日の 地を馳せ子等ぞ 冬芽愛しき)

解説

彼方(おち)は「遠い所。遠方。」「以前。昔。」、馳せるは「速く走る。駆ける。また、馬・車などを速く走らせる。」、冬芽(ふゆめ)は「晩夏から秋に形成され、休眠・越冬して、春に伸びて葉や花になる芽。寒さを防ぐため鱗片 (りんぺん) でおおわれている。とうが。」、愛し(かなし)は「心にしみるような趣だ。深い感興を感ずる。」の意味です。

Posted on 2017/10/04 Wed. 17:47 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

04

まわりうた 

なかきよの せいのはかそす
  もみちみち みもすそかはの いせのよきかな

(永き代の 聖の場が甦す 紅葉道 御裳濯川の 伊勢の良きかな)

解説

聖(せい)は「神聖でおかすことのできないこと。清らかで尊いこと。また、そのさま。」、甦す(そす)は「生きかえる。よみがえる。」、御裳濯川(みもすそがわ)は「五十鈴川の異名。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「ウシワカ登場」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

歌の内容としては、紅葉一杯の御裳濯川の辺を歩いていると、まるで永遠なる時間の中に存在している、犯すことのできない聖なる場所が、今ここに甦って来るようだ、というニュアンスを感じる。

何気なく「場」という言葉を使っているが、場はもともと「には(庭)」の転という。庭には神事・行事などの行われる場所という意味もあることから、「聖の場」は聖なる場所という意味のほか、代々そこで(犯すことのできないほどの重要な)神事が行われている場所、というニュアンスも含まれているように思う。

それはそうと、下記動画は中々美しいなぁ。

『【伊勢神宮】四季の営み ‐秋‐ ISE-JINGU』(you tubeより)
https://www.youtube.com/watch?v=mtlhermhgeg

Posted on 2017/10/04 Wed. 00:08 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

04

まわりうた 

またとこふ ことたまとけい
  うらみのみ らういけとまた とこふことたま

(また呪ふ 言霊と刑 恨みのみ 牢行けとまた 呪ふ言霊)

解説

呪ふ(とこふ)は「のろう。」、刑は「法律や規則によって科せられる罰。刑罰。」の意味です。

雑感

昔のいじめられていた記憶を思い出していたら、出て来た歌です。

Posted on 2017/10/03 Tue. 13:06 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

03

まわりうた 

かみのうま いたりかひみき
  たまのひの またきみひかり たいまうのみか

(神の馬 至り佳美見き 魂の火の 全き御光 大望のみが)

解説

佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、魂(たま)は「たましい。」、全し(またし)は「完全だ。欠けたところがない。」、大望(たいもう)は「大きな望み。遠大な志。たいぼう。」の意味です。

余談

この歌は「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX O.S.T」の中にある「Fish - Silent Cruise」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

神の馬?

意味がさっぱりわからないので、辞書を引くと神馬の文字があった。

神馬(しんめ)は「神霊の乗り物として神聖視されている馬。白馬を特に重んじる。」の意味だそうだ。

白馬と言えば、下記記事を思い出す。

『第××章 Xデー 最後の審判・世の大立替・天の岩戸開けは本当にあるのか?  その6』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)
http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=465

記事によれば、この白馬に乗った神霊はヨハネ黙示録に出て来る義の方でもあって、神界を統一できるだけの力を持った神霊なのだとか。

イメージとしては、そのお方が霊界において表に出て来ることによって、現界も劇的に変わる、というもの。

どう変わるかというと、人、動物、植物を始め、各魂が同時多発的に光を放ち始めて、そこら中が光り輝くというもの。

地球の魂も当然光り輝いていて、その色は緑色に透き通っている。

宇宙から見ると、まるで巨大な宝石のように大変美しく、それを見た者は、魂の芯からうっとりとして、一瞬にして虜になってしまうほどのようだ。

肉体的に見れば、この一連の流れの中で皆朽ち果ててしまうのだが、まるで脱皮するかのように、内側から光輝いた霊体が現れて、気が付けば皆、新しい地球で甦っている、というイメージが湧く。

そして、その光はそれぞれの個性によって色も光り方も違っている。しかし間違いないのは、それら無数の魂の光が新しく輝く地球に、より一層の彩りを与えている、という点だ。

何にせよ、人知を遥かに超えた、大きな大きな大望である。

Posted on 2017/09/24 Sun. 13:05 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

24

まわりうた 

みるさうに ますみのひかり
  まとのへの とまりかひのみ すまにうさるみ

(見る像に 真澄の光 窓の辺の 止まり佳美のみ 隅に失さる身)

解説

像は「神仏・人・鳥獣などの形をまねて描いたりつくったりしたもの。」、真澄(ますみ)は「よく澄んでいること。澄み切っていること。」、辺(へ)は「辺り。ほとり。そば。」、佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、隅(すま)は「‘すみ(隅)’に同じ。」、失さるは「なくなる。消えうせる。」の意味です。

余談

この歌は、-MYTH- The Xenogears Orchestral Albumの「悔恨と安らぎの檻にて- Orchestral Version -」 を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

イメージとしては、壇上のはるか上にちりばめられているステンドグラスから光が差し込んで、十字架にかけられた大きなキリスト像がそれに照らされ、美しく輝いているという、そういう教会に居合わせているというもの。

「隅に失さる身」は、隅に消えていく身体、というニュアンス。

単純に解釈すれば、その圧倒的な美しさに吸い込まれて、思わず自分を忘れて見入ってしまう、釘づけになってしまうという意味であるが、宗教的に考えれば、その美しさとは、イエスキリストの自己犠牲の美しさであり、隣人愛とも解釈できる。

その大いなる利他の行為の前に、自我の強いこのちっぽけな私がことごとく打ち砕かれていくという、ある意味、言葉にできない神秘体験を、この歌は表しているように思う。

隅に消えていくというとネガティブなニュアンスだが、隅(すみ)は澄み(すみ)に通じるものがある。隅(すま)と読めば、これは澄まされた間、主(す)の間のニュアンスに感じる。

自分が隅に消えていくことによって、逆に自分の中心が照らされる。主(しゅ)が居られる間が現れる。いわば、自らの内にある魂の座がはっきりと見えて来る、というニュアンスを感じるのである。

宗教的に言えば、この時まさに、主の神が内なる魂の座に降りて来て、魂の救済を行っているのだ。こうして自然と【悔い改め】というものが起きるのだ。

Posted on 2017/09/21 Thu. 20:29 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

21

まわりうた 

なかくとき しいれはまなか
  すかしよし かすかなまはれ いしきとくかな

(永く時 死入れば真中 清し良し 幽かな間晴れ 意識解くかな)

解説

清し(すがし)は「すがすがしい。さわやかで気持ちがよい。」、入る(いる)は「はいる。」の意味です。

余談

この歌は、ゲームluv waveの中にある「stream memory」(ブート画面でのBGM)を聴きながら、それをモチーフに描いた歌です。

雑感

唐突だが、「なが」(永・長)と「なか」(中)には、同じニュアンスを感じる。

長い長いトンネルを歩いていくことは、トンネルの中へ中へと向かっていくことと同じである、と。

だからこの「永く時」は、永遠の中に入っていく、というニュアンスであって、今を起点として、これまで永く続いてきた過去や、これから永く続いていく未来を思い浮かべて、そこに向かっていくのではない。

今この時の中へ中へと入っていくのだ。

そのことを歌では死と表現している。それは、我々が普段から過ごしている生の中に含有する、過去も未来もその一切を切り捨てるという事でもある。

その状態を真中と表現しており、それが清しい状態であり、良い状態であるなぁ、と言っているのだ。

「幽かな間」というのは、ゆらぎの間のことと解釈したい。我々が普段認識している目の前の空間は、おそらく一瞬過去の映像であるように思う。

我々は常に、今この瞬間を生きていると錯覚しているが、実際はそうではなく、一瞬遅れた残像の世界に生きているように思うのである。意識はいつも一歩前の過去に存在しており、ピタっと合った今を認識できていないはずなのだ。

そのわずかにズレた幽かな間が、要らぬ思考や自我、または死への恐怖を生み出しているように思うのである。それを全部とっぱらって、一瞬先の世界へとこの意識ごと飛び込んでいく。

それは従来の感覚からすれば、まるで目の前の崖に向かって飛び込んでいくような、死へとダイブしていくような感覚なのだが、しかしその一瞬先の世界こそが、本来存在している世界の姿であり、そこに到達し続けることによって、この意識は解き放たれるように思うのである。

Posted on 2017/09/20 Wed. 09:42 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

20