04 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 06

花鳥風月

気ままに回文歌、いろは歌を書いています。

まわりうた 

しらなみの くりかへしきて
  くかねふね かくてきしへか りくのみならし

(白波の 繰り返し来て 黄金舟 斯くて岸辺が 陸のみならし)

解説

黄金(くがね)は「こがね。」、斯くて(かくて)は「前に述べた事柄を受けて、あとの事柄が起こり、あるいは、あとの事柄に移っていくことを表す。こうして。このようにして。かくして。」、ならしは「…であるよ。…だなあ。」の意味です。

余談

この歌は、攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX O.S.T.+(プラス)の中にある「Some Other Time」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

歌のイメージとしては、白波が繰り返し黄金の舟を押し流すことで、半ば自動的に岸辺に着き、目の前には見たことも無い新しい大陸が広がっている、というもの。

おそらく陸は離苦(りく)の言葉とかかっていて、一種心の流れを表したものとも解釈できる。白波は知らぬ波、知らない流れの意味で、自我では見ることのできない流れのことか。まあつまりは自我では見ることのできない法(ダルマ)のことかと思われる。よく見れば法は「サンズイ+去」なので、ニュアンスとしてはあながち間違っていないようにも思う。

ダルマについては下記記事参照。

『何がダルマで、何がダルマでないか』(sathya sai organization japanより)
http://www.sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_19621005.html

黄金舟の黄金は九が音(くがね)で九つの音を意味し、これは九識、または九星図(魔方陣)と解釈できる。また舟は普根(ふね)で普く根本を表し、おそらく自分または現存の宇宙を指しているものと思われる。岸辺は帰し方(きしべ)で、その自我が知らない流れの先に着く方向、先を表す。どこに着くのかというと、先ほどの九が音(くがね)でも判るように、9の次の10に着く、十(神)の大陸に着くという意味かと思う。

そしてこれは神を100%帰依する心を持った、という意味でもあるのだろう。さらに9は一桁、10は二桁なので、この行き着く大陸は、今までの宇宙の枠組みの根本が変わっている場所と見ることが出来る。そしてこの10は、二桁の宇宙の世界の始まりの場所でもある、ということ。つまり一桁の宇宙、今までの宇宙から見れば10は「1」と「0」としてしか認識できず、0は見えないので、「10」は「1」に見えて、まるで9から1に戻るように、今までの宇宙を1からやり直すように感じるということでもあるように思う。

Posted on 2017/05/24 Wed. 13:41 [edit]

category: まわりうた

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24

まわりうた 

なかきよの ひとりよかよみ
  うちのまの ちうみよかより とひのよきかな

(長き夜の 一人余暇余味 内の間の 宙見よか寄り 肚皮の良きかな)

解説

余暇は「仕事の合間のひま。仕事から解放されて自由に使える時間。ひま。」、余味(よみ)は「あとに残っている味わい。あとあじ。」、宙は「大空。天。また、地面から離れた所。空中。空間。」、か寄る(かよる)は「《‘か’は接頭語》寄り添う。一説に、ゆらゆら動く。」、肚皮は「心の中。腹の中。」の意味です。

余談

この歌は「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX O.S.T」の中にある「Fish - Silent Cruise」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

歌の内容は要するに、一人静かに心を鎮めれば、そこに神様が寄り添ってきて平安が広がりますよ、ということかな。

Posted on 2017/05/23 Tue. 21:04 [edit]

category: まわりうた

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23

まわりうた 

なかきよの いあてしんかと
  しひのをの ひしとかんして あいのよきかな

(永き代の 射当て真我と 至美の小野 犇と感じて 愛の良きかな)

解説

小野(おの)は「野。野原。」、至美は「たいへん美しいこと。すばらしいこと。また、そのさま。」、犇と(ひしと)は「離れないように、すきまなく密着しているさま。しっかりと。」「すべてにわたるさま。完全に。」「勢いよく打つさま。びしっと。」の意味です。

余談

この歌はアニメ「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」のOPテーマ「inner universe」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

湧いて来たイメージをそのまま書くと、この「至美の小野」に居る感覚は、とんでもなく心地よい。これは自分が美しい野原に居るからではない。むしろ自分は、この野原に溶けて一部になっているためである。だから自分は居るけれども、同時にそこには居らず、野原の一部として野原を見ている。

風がキラキラと煌めいていて、陽射しは適度に心地よく、草の匂いが鼻の奥から頭の奥へと響き渡り絶えない。その香りはまるで心地よい讃美歌のようである。

肌に触れるキラめく風は、まるで百年の友と出会ったかのように親しく感じられ、向こうのほうにどっしりと構えた大きな山は、まるで先人たちが積み上げてきた徳の集大成のようだ。

近くにいる兎などの小動物が動くたび、何かキラキラとしたものが舞っていて、それらが草の匂いと交じり、また私の鼻の奥を通っていく。その香りを嗅ぐと、なぜか兎の記憶が私の脳内に映し出され、気が付けば私はその兎となって、過去の体験を一緒に追体験している。

こんな感じで自分が居るような居ないような感じで、よくわからないけれども、ただそれら体験だけは鮮明に映し出される。

たとえるならば、オレンジジュースを飲むにはコップなどの器が必要だが、その器が無いまま飲んでいる感じである。オレンジジュースを飲みたいと思った瞬間、口の中でオレンジ100%の果汁が湧いて出て来て、そのまま飲んでいる感じである。

そしてこの味がとにかくおいしい。何というか、言葉に出来ないほの甘さで、その果汁一滴一滴の中に無数の時の育みと恵みすら感じてしまう。どうも、そのオレンジが成るまでの過程というか、育ってきた環境というか、日とか水とか土とか風とかの恵みを感じてしまうほどに、うっとりしてしまう。

うっとりしすぎてもう、これを飲んでいるの自分が自分なのか、飲まれているオレンジジュースが自分なのか判らないぐらいになっている、といった感じです。

Posted on 2017/05/23 Tue. 20:23 [edit]

category: まわりうた

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23

まわりうた 

なかきよの かむくらしとく
  ふしのみの しふくとしらく むかのよきかな

(永き代の 神座至徳 不二のみの 至福と至楽 無価の良きかな)

解説

不二(ふじ)は「二つとないこと。無二。ふに。」「二つに見えるが、実際は一つであること。ふに。」、無価(むか)は「値をはかることができないほど貴重なこと。むげ。」「代価を必要としないこと。ただであること。」の意味です。

雑感

この歌は、来たるべき「与える政治」「日の光の政治」によって、代価を必要としない何もかも無料の社会制度が出来上がる様子を詠ったものです。

下記参照。

「山彼方 海の地の岸 霞止み 清しき後の 神歌流れむ」
http://uresitanosi123.blog.fc2.com/blog-entry-1220.html

「真祈る場 言霊が治す 元の気の 点す地がまた 常春の今」
http://uresitanosi123.blog.fc2.com/blog-entry-267.html

意訳

永遠なる神の御座は最上の徳を備えている。それは日の光に代表されるように、皆の為に何もかも与えるのみ、奉仕するのみの御座だからである。

神の子、神の宮たる人も、この御座におさまり、自分の出来る範囲で何もかも奉仕するようになれば、唯一無二の至福と至楽を体験できる。このような精神に基づいて創造される奉仕のみの世界、何もかもが無料の世界、与えることに何の対価を求めない世界は、お金があった世界では到底考えれなかったほどの貴重な世界で、誠に良いなぁ。

日月神示参照。

『もの与へること中々ぢゃ、心してよきに与へねばならんぞ。与へることは頂くことと知らしてあろうが、与へさせて頂く感謝の心がなくてはならん、強く押すと強く、弱く押すと弱くハネ返ってくるぞ。自分のものと言ふもの何一つもないぞ、この事判れば新しき一つの道がわかるぞ。』(五葉の巻 第五帖)

Posted on 2017/05/23 Tue. 17:37 [edit]

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23

まわりうた 

しかときさ きよきかみのま
  たみのまの みたまのみかき よきさきとかし

(確と帰座 清き神の間 民の間の 身魂の磨き 良き幸と賀詞)

解説

確と(しかと)は「はっきりしているさま。確かであるさま。」「物事を完全に行うさま。しっかりと。かたく。」、帰座(きざ)は「もとの座に帰ること。特に、神などがもとの御座所に帰り鎮座すること。」、幸(さき)は「さいわい。幸福。さち。」、賀詞(がし)は「祝意を表す言葉。祝詞(しゅくし)。賀辞。」の意味です。

余談

この歌は、WAVEのアルバム「Citra re:verse -其歌は真言顕す欠片と為りて-」の中にある「天照大御神-AMATERAS SYSTEM-」~「月読命-TSUKUYOMI SYSTEM-」~「須佐能乎命-SUSANOWO SYSTEM-」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

テロ等準備罪法案(いわゆる「共謀罪」法案)が衆院委で可決されたが、この法案は戦前の治安維持法とよく似ているという指摘がある。

ただ治安維持法は個人の思想信条まで踏み込んだのに対し、今回の法案は組織的犯罪行為そのものが対象なので、運用には問題ないという見方もある。

治安維持法の経緯を見てみると、この法律は大正14年に出来たが、昭和16年には、七つあった条文が六十五条にまで拡大して、大幅に改正されている。

今回の法案で、組織的犯罪が正しく取り締まれるようになるのは喜ばしいことであるが、今後日本の国が傾いて、いよいよ倒れるとなった時、この法案が大幅に拡大解釈、または改正がなされ、本来の主旨とは異なった主旨となる恐れがあることは心の片隅に置いていても良いかもしれない。

というのも戦前、昭和10年に大本(教)がこの治安維持法を適応されて、徹底的に破壊されているので、この型が現代に転写する可能性も否定できないからだ。

加えて日月神示にも、これを指したと思われる部分がある。

『人民もの言へんことになると申してありたこと近うなったぞ、手も足も出んこと近づいたぞ、神が致すのでない、人民自身で致すこと判りてくるぞ。人民の学や智では何とも判断出来んことになるぞ。右往左往しても、世界中かけ廻っても何もならんぞ、判らんでも判りた顔せねばならん時が来たぞ、ウソの上ぬり御苦労ぞ、人民がいよいよお手上げと言うことに、世界が行き詰りて神のハタラキが現れるのであるぞ、日本人びっくりぢゃ、日本人はいくらでも生み出されるが日本の国は出来まいがな、身体中、黄金(こがね)に光ってゐるのが国常立大神の、ある活動の時の御姿ぞ、白金(しろがね)は豊雲野大神であるぞ、今の科学では判らん。一万年や三万年の人間の地上的学では判らんこと、国常立大神のこの世の肉体の影が日本列島であるぞ、判らんことがいよいよ判らんことになったであろうが、元の元の元の神の申すことよく聞きわけなされよ、神の学でなければ今度の岩戸はひらけんぞ。』(星座の巻 第四帖)

『エドの仕組すみたらオワリの仕組にかからすぞ。その前に仕組む所あるなれど、今では成就せんから、その時は言葉で知らすぞ。宝持ちくさりにして呉れるなよ、猫に小判になりて呉れるなよ。天地一度に変ると申してあること近づいたぞ、世は持ちきりにはさせんぞよ、息吹(いぶ)き払ひて議論(ろん)なくするぞ、ことなくするぞ、物言はれん時来るぞ、臣民見当とれんことと申してあらうが、上の人つらくなるぞ、頑張りて呉れよ。』(地つ巻 第三十三帖)

『神の国のカミの役員に判りかけたらバタバタに埒(らち)つくなれど、学や智恵が邪魔してなかなかに判らんから、くどう申しているのざぞ。臣民物言はなくなるぞ、この世の終り近づいた時ぞ。石物言ふ時ぞ。神の目には外国もやまともないのざぞ。みなが神の国ぞ。七王(ななおう)も八王(やおう)も作らせんぞ、一つの王で治めさすぞ。てん詞様が世界みそなはすのざぞ。世界中の罪負ひておはします素盞雄の大神様に気附かんか、盲つんばばかりと申してもあまりでないか。』(地つ巻 第十五帖)

『お宮も壊されるぞ。臣民も無くなるぞ。上の人臭い飯食ふ時来るぞ。味方同士が殺し合ふ時、一度はあるのざぞ。大き声で物言へん時来ると申してあろがな。之からがいよいよざから、その覚悟してゐて下されよ。一二三が正念揚ぞ。臣民の思ふてゐる様な事でないぞ。この神示よく腹に入れておけと申すのぞ。ちりちりばらばらになるのざぞ。一人々々で何でも出来る様にしておけよ。』(日月の巻 第二十二帖)

『火と水と申してあろがな。火つづくぞ。雨つづくぞ。火の災(わざわい)あるぞ。水の災あるぞ。火のおかげあるぞ、水の災 気つけよ。火と水 入り乱れての災あるぞ、近ふなりたぞ。火と水の御恵みあるぞ。一度は神の事も大き声して云へん事あるぞ、それでも心配するでないぞ。富士晴れるぞ。家族幾人居ても金いらぬであろが。主人(あるぢ)どっしりと座りておれば治まっておろが。神国の型 残してあるのざぞ。国治めるに政治はいらぬぞ、経済いらぬぞ。神おろがめよ、神祭れよ、てんし様おろがめよ。何もかも皆神に捧げよ、神からいただけよ。神国治まるぞ。戦もおさまるぞ。今の臣民 口先ばかりでまこと申してゐるが、口ばかりでは、なほ悪いぞ。言やめて仕へまつれ。でんぐり返るぞ。』(水の巻 第十三帖)

『人民もの言わなくなると申してあろうが、ものが今迄のようにものを言わなくなり、マコトの世となるぞ、天人の言葉はマコトであるから、只一言で万語を伝へ得るぞ。言葉の生命(いのち)は愛であり、真であるから、真愛から発しない言葉はマコトの言葉でないぞ。子音と母音と組み組みて父音の気を入れて始めて言葉となるのぢゃ、今の人民のは言葉でないぞ、日本の古(光)語がマコトの言葉ぞ、言霊ぞ、数霊と倶に弥栄ゆく仕組。』(星座の巻 第十九帖)

大きい声で物が言えなくなる時が来るとはいえ、それもまた大きく見れば神の働きということだろう。改心すれば型は小さくなる、とも書かれてある。

『ツギ、アメノトコタチノミコト、ツギ、クニノトコタチノミコト、ツギ、トヨクモヌノミコトトナリナリテ、アレイデタマイ、ミコトスミキリタマヒキ。 辛酉(かのととり)の日と年はこわい日で、よき日と申してあろがな。九月八日は結構な日ざが、こわい日ざと申して知らしてありた事少しは判りたか。何事も神示通りになりて、せんぐりに出て来るぞ。遅し早しはあるのざぞ。この度は幕の一ぞ。日本の臣民これで戦済む様に申してゐるが、戦はこれからぞ。九、十月八日、十八日は幾らでもあるのざぞ。三月三日、五月五日はよき日ぞ。恐ろしい日ざぞ。今は型であるぞ。改心すれは型小(ち)さくて済むなれど、掃除大きくなるぞ。猫に気付けよ、犬来るぞ。臣民の掃除遅れると段々大きくなるのざぞ。神が表に出ておん働きなされてゐること今度はよく判りたであろがな。◎と神との戦でもあると申してあろがな。戦のまねであるぞ。神がいよいよとなりて、びっくり箱開いたら、臣民ポカンぞ。手も足も動かすこと出来んぞ。たとへではないのざぞ。くどう気付けておくぞ。これからがいよいよの戦となるのざぞ、鉄砲の戦ばかりでないぞ。その日その日の戦烈しくなるぞ、褌締めて呉れよ。』(日月の巻 第十帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)

『日の大神様は日の御働き、月の大神様は月の御働き、日の大神様も世の末となって来て御神力うすくなりなされてゐるのざぞ、日の大神様も二つ、三つ、自分一人の力では何事もこれからは成就せんぞ、心得なされよ、神示で知らしただけで得心して改心出来れば大難は小難となるのぢゃ、やらねばならん、戦は碁、将棋、位の戦ですむのぢゃ、人民の心次第、行ひ次第で空まで変ると申してあろがな、この道理よく心得なさりて、神の申すこと判らいでも、無理と思ふ事も貫きて下されよ、これがマコトぢゃ。』(青葉の巻 第十六帖)

『富士は晴れたり日本晴れ。◎の巻 書き知らすぞ。此の世に自分の物と云ふ物は何一つないのであるぞ。早う自分からお返しした者から楽になるのざぞ。今度の大洗濯は三つの大洗濯が一度になって居るのざから、見当取れんのざぞ。神の国の洗濯と外国の洗濯と世界ひっくるめた洗濯と一度になってゐるのざから、そのつもりで少しでも神の御用務めて呉れよ。此れからがいよいよの正念場と申してあろがな。今はまだまだ一の幕で、せんぐり出て来るのざぞ。我(が)出したら判らなくなるぞ、てんし様おがめよ、てんし様まつりて呉れよ、臣民 無理と思ふ事も無理でない事 沢山にあるのざぞ、神はいよいよの仕組にかかったと申してあろがな。毀(こわ)すのでないぞ、練り直すのざぞ。世界を摺鉢(すりばち)に入れて捏(こ)ね廻し、練り直すのざぞ。日本の中に騒動起るぞ。神の臣民 気つけて呉れよ。日本も神と獣に分れているのざから、いやでも応でも騒動となるのざぞ。小さくしたいなれど。』(日月の巻 第一帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)

『一日一日(ひとひひとひ)みことの世となるぞ。神の事いふよりみことないぞ。物云ふなよ。みこと云ふのぞ。みこと神ざぞ。道ぞ。アぞ。世変るのぞ。何もはげしく引上げぞ。戦も引上げぞ。役に不足申すでないぞ。光食へよ。息ざぞ。素盞鳴尊(スサナルノミコト)まつり呉れよ。急ぐぞ。うなばらとはこのくにぞ。』(日月の巻 第二十九帖)

やはり、何もかも神様、てんし様に捧げる日の光のやり方を始めるしか、もはや道は無いように思う。

下記参照。

「山彼方 海の地の岸 霞止み 清しき後の 神歌流れむ」
http://uresitanosi123.blog.fc2.com/blog-entry-1220.html

「真祈る場 言霊が治す 元の気の 点す地がまた 常春の今」
http://uresitanosi123.blog.fc2.com/blog-entry-267.html

何もかも無料になれば、もはや犯罪をする意味が無くなるので、テロを起こす必要も無くなるし、大規模な犯罪組織も生まれない。また、テロの予兆を事前に察知するために、そこら中に防犯カメラを置いたり、法律でがんじがらめにする必要も無くなる。

犯罪を取り締まる側も犯す側も、これ以上無駄なイタチごっこをする必要がそもそも無くなり、皆等しく衣食住が保障された上で、嬉し楽しの毎日を送ることができる。

この視点に立てば、犯罪を犯す時間も、またそれを取り締まる労力も、そのどちらも馬鹿馬鹿しくなる。何て無駄なことにエネルギーを浪費していたのだろう、とありありと判る。それどころか、誰一人落とすことなく幸せにできる。果ては動植物、虫まで幸せにできる。

なのでこの社会制度を、まずは日本の国を足場として、いち早く構築することこそが目下の急務である。

そしてこの実現こそが、人の本性が獣ではなく、神であることの何よりの証明となり、またこの三千世界の本当の姿(素型)を拝めるに至る、素盞鳴大神様がどういう神様であるのかを知ることができる、唯一の道であるのだ。

こうして、人類含めた全ての存在が幸せになれる社会システムの完成でもって、この世界を守護する素盞鳴大神様の罪が、実は冤罪(えんざい)であったことに初めて気付くことができるわけである。

晴れてこの道を歩むときには、あらゆる悪がもはや用済みとなり、善一筋の世が来る。といってもこれは、善が悪を懲罰して消えていくわけではない。犯罪を起こす者が居なければ必然的に警察がいらないように、この地上に永遠の平和があれば軍隊がいらないように、悪は自然と消えていくのだ。

だからこの善一筋というのは、悪に対しての善の意味に留まらず、是(ぜ)をゴクンと呑み込む、という意味のゼ・ンでもあるわけだ。つまり、全てを是として呑み込める至福の状態でもあると解釈できる。

是は「旦+止」であるが、「日+正」にも見える。思いつくままに書くと、これは旦(=夜明け)の止め(とどめ)、また日(=ひ=霊)が正しい、の意味に受け取れる。

旦は「日(太陽)+一(地平線)」なので、これは天と地をおさめる二神、即ち天照大御神様と素盞鳴大神様の同時顕現になる止め(とどめ)であり、また過去・現在・未来全ての一日一日が正しい、つまりどの時間軸で見ても全て正しい、という意味になる。もちろんどの時間軸で見ても正しい状態であれば、どの空間軸で見ても正しいとなる。

アニメ「おもひでぽろぽろ」のワンシーンではないが、夜明け方、自分の作業なり何なりを止めて、昇る太陽に向かってしばし拝むように、この世界の全ての何もかも、またどの人もALL OKとなる、という状況を表しているように思う。

Posted on 2017/05/22 Mon. 15:17 [edit]

category: まわりうた

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22

まわりうた 

なかれくる やみのしつけさ
  いつくしく ついさけつしの みやるくれかな

(流れ来る 闇の静けさ 美しく つい裂け辻の 見遣る暮れかな)

解説

美し(いつくし)は「美しい。きれい。」、ついは「動詞の連用形に付いて、その動詞の表す動作・作用を強める意を表す。」、辻(つじ)は「二つの道路が十字形に交差している所。また,四方からの道が集まりゆききする人が出会い別れる交通の要所。辻堂・辻社(つじやしろ)が置かれ道祖神がまつられることが多い。十字路。四つ辻。」、見遣るは「遠くを眺める。見渡す。」「視線をその方に向ける。」、暮れは「日が沈みかけてあたりが暗くなる頃。夕方。夕べ。」の意味です。

余談

この歌は、電脳コイル・サントラ音楽集の中にある「静かな夜1」~「静かな夜2」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

「つい裂け」は突い裂けで、突いて裂けるということ。胸が張り裂けるなどという表現があるが、その感覚で、胸の中から裂けるような感動が出て来るということ。ちょうど・(点)なるつぼみが花開いて、そこに立体的な幾何学模様というか、そのような独自の空間が出来上がる様相と似ている。

それはあたかも、空間上の一点から空間自体を切り裂き、花の形を通じて立体的な空間を作りだすという様と似ており、一種のビッグバンなのだ。

さらに深い所から見るならば、そもそもそれは、種という0次元(点)から根という1次元(線)を産み出し、さらにその根から葉という2次元(平面)へと成長させ、その葉が成ることで3次元(立体)の世界で、見事な花を咲かせるということでもある。

花は「草冠+化」であって、草という一見何の変哲もないもの、取るに足らないものが化けるのだ。そのように上の歌では、日常における何ら変哲の無い風景が化けて、とんでもなく美しく見える、という心模様を詠っているのだ。ゆえに花は端(はな)であって、心の端っこにあるもの、普段は認識していない部分から、その世界観が裂けて見えて来るということなのだ。

だから「流れ来る 闇の静けさ 美しく」とは、夕暮時の向こう側から流れて来る夜の闇の静けさでもあるが、同時に自分の認識し得ない先にある心の闇の部分から流れて来るその静けさが美しい、とも言っているわけである。

だから「つい裂け辻」なのだ。こうして自分の心境と目の前の光景とがぴったりと合わさったところで、さっと何かの感情、言葉に言えない感慨深さが裂けるわけである。だから辻、即ち十字路になっており、自分の心境と目の前の光景が合わさった真ん中で、異界との境界線で、遠く夕方を見ているわけである。

Posted on 2017/05/21 Sun. 18:04 [edit]

category: まわりうた

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21

まわりうた 

むからひう ちうのうかいへ
  うさりけり さうへいかうの うちうひらかむ

(無から非有 宙の有界へ 失さりけり 左右並行の 宇宙開かむ)

解説

非有(ひう)は「この世の事物は煩悩の生み出したもので、実体ではないということ。」、宙は「大空。天。また、地面から離れた所。空中。空間。」、有界(うかい)は「輪廻転生する苦のある世界。三界(さんがい)。」、失さる(うさる)は「なくなる。消えうせる。」、左右(さう)は「左と右。さゆう。」「かたわら。そば。また、そば近くに仕える人。 」の意味です。

余談

この歌は、ゲームluv waveの中にある「stream memory」(ブート画面でのBGM)を聴きながら、それをモチーフに描いた歌です。

雑感

解釈が中々難しいが試みる。

「無から非有 宙の有界へ 失さりけり」は、無から産まれた私達は、非有の世界、または宙の有界へ消えていく、ということを言っているように思う。

この部分については、日月神示の下記箇所が参考になるのではないかと思う。

『信仰の始めは感情に支配されがちぢゃ。理智を強く働かせねばならんぞ。人間は絶えずけがれてくる。けがれは清めることによって、あらたまる。厄祓ひせよ。福祓ひせよ。想念は永遠にはたらくから、悪想念は早く清算しなければならんぞ。中の霊は天国へ行っても、外の霊はこの世に残るぞ。残ることあるぞ。残ってこの世の事物にうつって同じこと、所業をくりかへすことあるぞ。早く洗濯せよと申してあろうがな。梅の実から梅が生へるのぢゃ。その梅に実出来て又梅が生へるのぢゃ。人間も生れかわっても死にかわっても、中々に悪いくせは直らんもんぢゃぞ。それを少しづつ直してかからねばならん。努力次第で漸次直るのぢゃぞ。宗教は霊、芸術は体ぞ。』(春の巻 第三十二帖)

ちょっと判りにくいかと思うので、別の個所も参考にしたい。

『そなた達は父と母と二人から生れ出たのか。さうではあるまいがな。三人から生れ出てゐること判るであらうがな。どの世界にも人が住んでゐるのであるぞ。◎の中に◎があり、その中に又◎があり、限りないのざと知らせてあらうが。そなた達の中に又人がゐて限りないのぢゃ。このほう人民の中にゐると知らしてあらうがな。そなた達も八人、十人の人によって生きてゐるのぞ。又十二人でもあるぞ。守護神と申すのは心のそなた達のことであるが、段々変るのであるぞ。自分と自分と和合せよと申すのは、八人十人のそなた達が和合することぞ。それを改心と申すのざぞ。和合した姿を善と申すのぢゃ。今迄の宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して、肉体をおろそかにしてゐたが、それが間違ひであること合点か。一切がよいのぢゃと云ふこと合点か。地獄ないこと合点か。悪抱き参らせよと申してあること、これで合点か。合点ぢゃナア。各々の世界の人がその世界の神であるぞ。この世ではそなた達が神であるぞ。あの世では、そなた達の心を肉体としての人がゐるのであるぞ。それがカミと申してゐるものぞ。あの世の人をこの世から見ると神であるが、その上から見ると人であるぞ。あの世の上の世では神の心を肉体として神がゐますのであって限りないのであるぞ。裏から申せば、神様の神様は人間様ぢゃ。心の守護神は肉体ぢゃと申してあらうがな。肉体が心を守ってゐるのであるが、ぢゃと申して肉体が主人顔してはならんぞ。何処迄も下に従ふのぢゃ。順乱すと悪となるぞ。生れ赤児ふみこえ、生れ赤児になって聞いて下されよ。そなた達の本尊は八枚十枚の衣着ているのぢゃ。死と云ふことは、その衣、上からぬぐことぢゃ。ぬぐと中から出て来て又八枚十枚の衣つけるやうになってゐるのぢゃ。判るやうに申してゐるのぢゃぞ。取違ひせんやうにせよ。天から気が地に降って、ものが生命し、その地の生命の気が又天に反影するのであるが、まだまだ地には凸凹あるから、気が天にかへらずに横にそれることあるぞ。その横の気の世界を幽界と申すのぢゃ。幽界は地で曲げられた気のつくり出したところぢゃ。地獄でないぞ。』(白銀の巻 第一帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)

要するに、人の心は時と場所によってコロコロ変わって、全部自分だと錯覚しているのだが、実はそれぞれの心に対応する霊が入れ代わり立ち代わり出入りしている、ということかと思う。

たとえば、怒る時には怒る霊がかかっていて、笑う時には笑う霊がかかっているということ。しかし、それぞれ過去からの経験や理解によって傾向というものがあって、真に心正しき人が、いきなり理由もなく殺人事件を起こすわけではない。

また重度のギャンブル依存症の人が、何も無く明日からいきなりギャンブルをやめる、ということにもならない。それは、それ相応の辛抱や、やめたいという意志を貫いた末で、初めてやめる、ということに繋がる。

このように、自分の中に複数の自分が居るといえども、それぞれに幅があって、それら複数の自分を和合していくことが改心だ、と神示は言っているように思う。

だから、心正しき人でも、嫌なことがあって、心の中で「ちくしょう! あいつおれにいじわるしやがって! いつか仕返ししてやる!」と罵倒するかもしれないし、ギャンブル依存症の人でも、大勝して大金が手に入った日に、たまたま懐かしい友達にあって、普段は絶対にしないのに、酒の一杯もおごってやるかもしれない。

程度の差はあるものの、このように神的な自分や獣的な自分が同居しているわけだが、それは今の世界から見れば自分という一人の人間の中に同時に内包されているわけであるが、おそらく並行宇宙全体から見れば、それらは分離して存在しているわけである。

たとえば、自分の気分の良い時に、心から人を褒めたくなって誰かを褒めたとする。一方、気分が悪い時に、そのうっぷんを晴らすために誰かを罵倒したとする。

その褒めた自分、罵倒した自分というのは、どっちも自分なのだが、並行宇宙では、時間と空間の制限を受けないがゆえに、そのどちらの自分も同時に存在していて、今現在の自分の立ち位置を決める、潜在的な因子になっているわけである。

ちなみに、もしその人が今後罵倒したくないと思えば、思うだけではだめで、罵倒した相手が感じた屈辱感を解消するような善行を、その相手にする、或いはその相手と縁が切れて出来ないならば、別の誰かにする、という行為でもって解消できるわけである。

おそらく数々の宗教が「善行を為せ」と口をそろえて言うのは、これがあるがためと思われる。

話を戻すと、この歌では、並行宇宙が完全に開かれた時、今までの褒めた自分、罵倒した自分、○○の自分、という無数の自分が、非有の状態、宙の有界へ消えていく、ということを詠っているわけである。

非有の状態というのは、褒めた自分も罵倒した自分も、もう存在しなくなって、単なる実体としての存在に戻る、ということである。それは言い換えれば、善なる自分も悪なる自分もなくなって、自分が有るとも無いとも言えない存在になる、ということである。

それはつまり、自分すらも超えた実体のみになるということだ。これまでの褒める、罵倒する、というのは、複数ある自分の中の、いずれかの階層から出て来たものだと思っていたのが、そうではなかったことを知るということ。

このようにして実体のみが現れるということ。この「実体」は、言い換えればアートマン(真我)のことに他ならない。

一方「宙の有界」は、褒めた自分、罵倒した自分、この「自分」というものが、今までの三界の中に消えていくように無くなる、ということを示している。

三界、つまり三千世界(=自分のすぐ左右にある無数の並行宇宙)が一度に開かれるというのは、これまでの三千世界が一斉に消えてなくなる、というか、初めから無かったことになる、というか、今までの三千世界は何も無い無(む)の世界に存在していたことを知る、ということである。

だから、その無(=これまでの三千世界)から非有(=有るとも無いとも言えない世界、実体の世界)に生まれるということ。そしてこれは有るんだ、いやこれは無いんだ、という世界は、もともと存在しなかった「宙の有界」へ消えていく、ということ。

簡単にいうと、夢から覚めて、夢の中で見ていた風景、全ての存在、その夢の中に居たはずの自分でさえ消えてなくなったことを、目覚めたがゆえに知った、ということです。

そうして夢の中の自分が消えた代わりに、現実に目覚めた自分を知ったということ。だから夢の世界と現実の世界の自分は本質的には同じなのだけれども、起きて見れば周りの世界が、三千世界がガラっと違っているのである。そして夢の世界を正しく夢の世界だったと知るということである。そしてその現実世界は、梵我一如の世界に他ならない。

Posted on 2017/05/20 Sat. 14:56 [edit]

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20

まわりうた 

けんとうた かみのひかりの
  せかいあい かせのりかひの みかたうとんけ

(絃と歌 神の光の 世界愛 風乗り佳美の 御象優曇華)

解説

絃(げん)は「楽器に張り、はじいたりこすったりして音を出す糸。また、それを張った楽器。琴・三味線・バイオリンなどの弦楽器。」、佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、御象(みかた)は「神体。また、仏像。お姿。」、優曇華(うどんげ)は「インドの想像上の植物。三千年に一度その花の咲くときは転輪聖王が出現するという。」の意味です。

余談

この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk1にある「melfes~輝ける青」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

まあ、何というか、歌のイメージとしては、ある日突然、世界中の人々の心の中に、尽きることのない愛なる想いが溢れんばかりに満ちて来て、皆の心に永遠に平安をもたらし、それら流れはまるで風に乗るかのように世界中を駆け巡り、あっという間にこの地上世界が、大いなる愛の渦の中に引き込まれるというものです。

それは霊的に見ると、大元の神様が何とも言えない心地よい琴というか竪琴というか、或いはバイオリンのような三味線のような、如何様にでも聞こえてしまう弦楽器を弾きつつ、これまた聴くだけで心が自然と洗われて、知らず知らずのうちにうっとりするような歌と共に現れる、というもの。

こうして、耳には聞こえないけれども、人々はそこに神の姿を観(かん)じて、心の中から何となく平安の気持ちが湧いてきてうっとりし、その歌声に呼応するかのように優曇華の花も咲く、ということです。

優曇華の花が咲くというのはどういうことかというと、優曇華は「人+憂」+「曇」+「華」なので、一見理想的に見えるこの世界、表から見れば華やかな世界の内にある、人々の憂いや心の曇り様を端(はな)から裂く(さく)と解釈できるかと思います。

さらに深読みすれば、絃は「糸+玄」で、糸は意図、玄は天、始まり、の意味があり、また源に通じるので、これをもって天界の始まりとなす、という天帝の意図を感じられる。

歌はウタで宇宙(‘う’ちゅう)の多様性(‘た’ようせい)の「う」「た」、かと思われる。まあ要するに、そういう愛の気持ちが溢れて来るのは皆一緒だけれども、歌はその人の心の現れでもあるので、皆好き好きに違った歌を口ずさむように、その喜びを表現するということかと思います。

また歌は「可」(口と喉の奥を表す象形)と「欠」(人が口を開けている象形)で成り立っているのだそうだ。

或いは、この「可」の口の部分は祝詞をおさめる口(サイ)、丁(可の口以外の部分)は木の枝を表すので、「可」は祝詞の入ったサイに対して、木の枝を振りかざして打ち、神に願いがかなうように、実現すべしと迫ることを表すものとし、これに欠(人が口を開いて叫んでいる姿)を加えて「歌」とする解釈もあるのだとか。

なので「絃と歌」は、ちょうど神と人の関係を表しているとも解釈できる。もともとある、世の中を歓喜弥栄の渦に巻き込みたい絃(天の意図、神の意図)と、世の中がどうにもならないほどに悪くなってきて、この状況をどうにか良くしたい、もはやここまで来れば神様に頼むしかない、と思う人々の歌(心の叫び)がピタリと一致して、そのような様相が生まれて来るということでもあるかと思います。

Posted on 2017/05/20 Sat. 11:15 [edit]

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20

まわりうた 

しらなみの たかくふしはれ
  ほのしろし のほれはしふく かたのみならし

(白波の 高く富士晴れ 仄白し 昇れば至福 潟のみならし)

解説

仄白しは「ほのかに白い。うす明るい。」、潟は「浦。入り江。湾。」、ならしは「…であるよ。…だなあ。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

意訳

白波の高くうねる様(さま)に、富士晴れのあの姿。仄白い空に(太陽が)昇れば、この上ない幸福感が満ち溢れて来る。(あぁ、このような絶景が見られるのは)この入り江のみだなぁ。

雑感

見ている光景のイメージとしては、葛飾北斎の「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の感じです。

Posted on 2017/05/20 Sat. 01:46 [edit]

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20

まわりうた 

なかきよの ひかりますかた
  かみのみの みかたかすまり かひのよきかな

(永き代の 光真姿 神のみの 見方が統まり 佳美の良きかな)

解説

統まる(すまる)は「集まって一つになる。すばる。」、佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」の意味です。

余談

この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk1にある「melfes~輝ける青」を聴きながら、下記記事を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『そして私は神になる』(サイババが帰ってくるよさん)
http://blog.goo.ne.jp/saiponics/e/8dd5b631ba460fc814d7396b284e054a

雑感

まあ要するに、何でも神様の現れという見方をすれば、goodということかしらね。

Posted on 2017/05/19 Fri. 15:29 [edit]

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19

まわりうた 

ひのてきし さやかなまかみ
  くたりけり たくみかまなか やさしきてのひ

(日の出帰し 清かな真神 降りけり 抱く身が真中 優しき手伸び)

解説

帰すは「最後にはそうなる。結果としてそうなる。」、清か(さやか)は「さえて明るいさま。」「さわやかなさま。爽快なさま。」「はっきりしているさま。」の意味です。

余談

この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk1にある「melfes~輝ける青」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2017/05/19 Fri. 13:55 [edit]

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19

まわりうた 

しきなみの みかととめよき
  をはりなり はをきよめとと かみのみなきし

(頻並みの 三日止め良き 終はりなり 場を清めとど 神の御名帰し) 

解説

頻並みは「絶え間なく続くこと。また、そのさま。たてつづけ。」、三日は「三つの日数。みっか。」、とどは「とどろく音を表す語。」「戸をたたく音や馬の駆ける足音など、響き渡る音を表す語。」「《‘とどのつまり’の略》結局。しまいに。」の意味です。

雑感

中々解釈が難しいが、試みる。

意訳

三日間に渡るたてつづけの大きな変化でもって、良い終わりとなった。というのも、その大きな変化は世界を清め、最後は皆が神の御名の元に帰依する結果となったからである。

Posted on 2017/05/19 Fri. 12:19 [edit]

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まわりうた 

なかきよの せかいあのみか
  ひかりけり かひかみのあい かせのよきかな

(永き代の 世界阿のみが 光りけり 佳美神の愛 風の良きかな)

解説

阿は「梵語字母の第一字、およびそれによって表される音。密教では、阿字はすべての梵字に含まれており、すべての宇宙の事象にも阿字が不生不滅の根源として含まれていると考える。」、佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」の意味です。

余談

この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「鳥は鳴き、僕は歌う」を聴きながら、下記記事を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2017/05/19 Fri. 11:51 [edit]

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19

まわりうた 

ひころより かひのみかてり
  あいのみの いありてかみの ひかりよろこひ

(日頃より 佳美のみが照り 愛のみの 意在りて神の 光喜び)

解説

佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、意(い)は「心に思うこと。気持ち。考え。意見。」の意味です。

余談

この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「鳥は鳴き、僕は歌う」を聴きながら、下記記事を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『神さんは泥棒ですか?』(サイババが帰って来るよさん)
http://blog.goo.ne.jp/saiponics

雑感

偶然に見つけたブログなんだが、中々おもしろい。サイババって、うさん臭い人かと思っていたけど、こういう人だったんだな。完全なる覚者やないか。(汗)

Posted on 2017/05/18 Thu. 08:00 [edit]

category: まわりうた

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18

まわりうた 

かみのたま たふときしとく
  をはりなり はをくとしきと ふたまたのみか

(神の玉 尊き至徳 終はりなり 破屋と磯城と 二叉のみが)

解説

破屋(はおく)は「こわれ破れた家。あばらや。」、至徳は「最上の徳。また、それを備えた人。」、磯城(しき)は「城。とりで。」「周囲に岩石をめぐらした祭場。」、二叉は「もとが一つで先が二つに分かれていること。また、そのもの。」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk3の中にある「両島原 其の一~両島原 其の二」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

歌の内容をそのまま読めば、神の玉、尊い至徳が表れて、終わりが来た、となる。

神の玉が何を意味するかはわからないが、玉は「王+ヽ」なので、神のヽ(中心)なる王、ヽ王(てんおう)、天王、即ち天帝と解釈できる。

また、神はもともと「示+申」とも書く。この「申」は稲妻の象形なので、天帝が現れる、示される時は、稲妻のように現れるのではないかと推察される。

ネットで身代金要求型の大規模なサイバー攻撃が起きたり、トランプ大統領の支持率が40%割れを起こしてきて、北朝鮮への攻撃でもってその支持率回復を狙うのではないかとの噂もある中、どういう形になるかは判らないが、天帝が電撃的に表れて、これまでの和光同塵の世を終わりにする、というのは大変に有り難い。

しかし、問題なのは歌の後半だ。

「破屋と磯城と 二叉のみが」とは、まあつまり、天帝が表に現れるとどうなるかというと、今までは弱肉強食の世の中で、力と我(が)の強さで勝ち負けが決まったのが、今度は天帝が示される基準で勝ち負けが決まってしまう、ということである。

天帝の出現の予告は、聖書の最後の審判や、仏教の弥勒菩薩降臨などでも示されているが、天理教の「おふでさき」、大本教の「霊界物語」、また日月神示でも、善と悪とをくっきり分ける、という旨のことが書かれてある。

おふでさき参照。

「これをみて いかなものでも とくしんせ 善とあくとを わけてみせるで」(おふでさき第五号 006)

霊界物語参照。

『霊界物語 第1巻 (前付) 基本宣伝歌』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館」さん)
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm010002

日月神示参照。

『神界は七つに分かれてゐるぞ、天つ国三つ、地(つち)の国三つ、その間に一つ、天国が上中下の三段、地国も上中下の三段、中界(ちうかい)の七つぞ、その一つ一つがまた七つに分かれてゐるのぞ、その一つがまた七つずつに分れてゐるぞ。今の世は地獄の二段目ぞ、まだ一段下あるぞ、一度はそこまで下がるのぞ、今一苦労あると、くどう申してあることは、そこまで落ちることぞ、地獄の三段目まで落ちたら、もう人の住めん所ざから、悪魔と神ばかりの世にばかりなるのぞ。この世は人間にまかしてゐるのざから、人間の心次第ぞ、しかし今の臣民のやうな腐った臣民ではないぞ、いつも神かかりてゐる臣民ぞ、神かかりと直ぐ分かる神かかりではなく、腹の底にシックリと神鎮まってゐる臣民ぞ、それが人間の誠の姿ぞ。いよいよ地獄の三段目に入るから、その覚悟でゐて呉れよ、地獄の三段目に入ることの表(おもて)は一番の天国に通ずることぞ、神のまことの姿と悪の見られんさまと、ハッキリ出て来るのぞ、神と獣と分けると申してあるのはこのことぞ。何事も洗濯第一。』(富士の巻 第九帖)

『いよいよ戦烈しくなりて喰ふものもなく何もなくなり、住むとこもなくなりたら行く所なくなるぞ。神の国から除かれた臣民と神の臣民と何ちらがえらいか、その時になりたらハッキリするぞ、その時になりて何うしたらよいかと申すことは神の臣民なら誰でも神が教えて手引張ってやるから、今から心配せずに神の御用なされよ、神の御用と申して自分の仕事をなまけてはならんぞ。何んな所にゐても、神がスッカリと助けてやるから、神の申すやうにして、今は戦して居りて呉れよ。てんし様 御心配なさらぬ様にするのが臣民のつとめぞ。神の臣民 言(こと)に気をつけよ、江戸に攻め来たぞ。』(富士の巻 第十帖)

さらに踏み込んで見てみると、磯城(しき)には「城。とりで。」の他、「周囲に岩石をめぐらした祭場。」の意味もある。ちなみに百磯城(ももしき)は「宮中。内裏。皇居。」の意味だが、各人においても、おそらくこれからは神を祭るということが大事になって来るのではないかと思われる。

下記ブログによれば、天帝の基準は「良心」とある。なので、神を祭るというのは即ち、良心に従って日々を過ごしていく、ということに他ならない。いくら大層な神棚で神を祭っても、その人に良心がなければ、天帝はそれを受け取ることはない、ということかと思う。

『神の教えは十年一日が如く説く。イエスは悔い改めよ、修験は懺悔、懺悔』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)
http://kamikotokai-b.jugem.jp/?day=20150627

また善悪についても書かれている。

『左翼に展開する唯物論(悪)と右翼に展開する唯心論(善)』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)
http://kamikotokai-b.jugem.jp/?day=20130711

『悪の「亞」に秘められた意味、主の墓を暴く』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)
http://kamikotokai-b.jugem.jp/?day=20120121

善と悪が永遠に別れ別れになる時、どちらにせよ各々が行きたい世界に行くので、どちらの世界が善い悪いは、もはや言えないとは思うが、やはり悪の世界はちょっと、いや、かなり住みにくいように思う。

人は自由が与えられているので、神への信仰をするしないは各人に任されているが、しかし神への信仰があれば、いざという時「鬼の目にも涙」で、神様から助け舟が出せる。もしもの時、その助け舟に乗れるように、普段から自分の心の中心に良心を据えて信仰していくことは、信仰前の自分と比べても、何ら損することではないようには思う。

記事参照。

『みろく神の「芋」の教え。最後の審判【火の雨】が降り注ぐ時、どこに逃げるか?。』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)
http://kamikotokai-b.jugem.jp/?day=20150419

『宗教論』(出口王仁三郎ミュージアム 王仁魂復活プロジェクトさん)
http://www.onitama.net/modules/ot/index.php?content_id=13

Posted on 2017/05/17 Wed. 17:30 [edit]

category: まわりうた

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17

まわりうた 

もともとす いはとひらきし
  たたのよの たたしきらひと はいすともとも

(元戻す 岩戸開きし 只の世の 正しきラビと 拝す共々)

解説

只(ただ)は「代金が不要なこと。無料。無償。ロハ。」、ラビは「〔元来ヘブライ語で‘我が主・先生’の意〕 ユダヤ教の聖職者。律法に精通した霊的指導者の称。歴史的に、すぐれた学者も多い。」、拝すは「頭を深くたれて敬礼する。おがむ。」、共々は「一緒に同じ行為をするさま。どちらも同じ状態であるさま。そろって。ともに。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「ウシワカ登場」を聴きながら、下記記事を読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『現在の日本について 同じこと二度ある仕組み』(日之本研究ホームページさん)
http://spiralhinomoto.web.fc2.com/hinagata/genzai.html

雑感

歌の内容は、岩戸を開いた後の全てが無料の世で、正しき信仰を持ったラビと共に、神様を拝む、というもの。

下記参照。

「山彼方 海の地の岸 霞止み 清しき後の 神歌流れむ」
http://uresitanosi123.blog.fc2.com/blog-entry-1220.html

「真祈る場 言霊が治す 元の気の 点す地がまた 常春の今」
http://uresitanosi123.blog.fc2.com/blog-entry-267.html

あまりユダヤ教のこと、特にラビと呼ばれる人々がどういう人達なのか、よく知らないのだが、昔、下記ラビの人が書いた本をちらっと読んだ時に、この世界観はとても神道的であり、まるで神道というものを裏から捉えているに過ぎないのではないか、と思ったことがある。

『なぜ私達ユダヤ人は優秀なのか』

題名こそ挑発的だが、書かれている内容は非常に柔軟的であり、また、その文体からはもの凄いまでの謙虚さと聡明さを感じた。仏教の輪廻転生についてや、キリスト教とユダヤ教の立ち位置の違いなど、他の宗教との違いなども明らかにしつつ、ユダヤ教はこういう宗教です、ということが、とてもわかりやすく書かれてあった。

もちろん、ここでいう謙虚さというのは、神様の信仰への謙虚さであり、その謙虚さから「隣人愛」へと発展しているように見受けられる。文中で、キリスト教は愛の宗教で、ユダヤ教は律法の宗教だと思われるかもしれないが、そうではないと書かれてある。

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 ところで、皆さんはキリスト教は愛を説きユダヤ教は律法を説く宗教であると思われているかも知れませんが、それは正しい理解ではありません。
 ユダヤ教は、まず第一に神の愛を説き、そして、憐れみを説いています。ユダヤ教がこれらのことを説いたのは、キリスト教がそれを説いたずっと以前のことです。

---------------------------------

ユダヤ教には「選民思想」というものがあって、日本では差別的な意味で取られていることが多いと思うが、どうやらそこの部分も誤解があるようだ。

本の中でも、ユダヤ教が他の宗教より優れているわけではない、と書かれてある。ユダヤ教はユダヤ人にとってもっとも優れている宗教ではあるが、それはキリスト教徒にとってキリスト教が一番優れているのと同じであり、イスラム教徒にとってイスラム教が一番優れているのと同じだ、という旨のことが書かれてある。

だいたい耳にするユダヤ教の「選民思想」のイメージは、自分たちは神様から選ばれたので、他の人は人間扱いしなくていい、奴隷にしていい、というものだが、書かれている内容からのイメージでは、ちょうど、留守にしている両親の言いつけを守って、精一杯幼い弟や妹のめんどうを見ようとする長男長女という感じを受ける。

文中でも、‘平等’について書かれた後に、こう書かれている。

---------------------------------

 さて、この全ての人は平等であるという考えと同時に、ユダヤ人には、自分達が神から特別に配慮して頂いている、特別に愛されている民族であるという考え方があります。
 しかし、だからといって他の民族が神に配慮されていないとか、ユダヤ人は特別で、他の民族はそれよりも低い地位にあるということではありません。
 またこれは、かつてのドイツのナチスが抱いたような思想ではないので、ユダヤの民族が、他の民族よりも優秀であるので、彼らを奴隷にしたり、殺したりしても構わないというような考えに到ることはありません。
 この考えが意味するところは、神はただ御一人であり、全宇宙の支配者であるということにユダヤ人が最初に気づいたということです。

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「選ばれた民族」という自負は確かにあるだろうが、その思想や行いが、世界万国にとって受け入れがたい偏狭的、盲目的、かつ一方的なもの、ということはもちろんなく、むしろ一家(世界)に対して大変な責任を持っているように感じる。

そしてここが肝心な所だが、家の留守を任されている長男長女が、幼い弟や妹を人間扱いせずに、奴隷のように扱っていたら、いざ両親(神様)が帰って来たとき、どう申し開きをするだろうか? ましてや両親(神様)を慕う良き長男長女であれば、そんなことをするはずがない。

日本の神道も、大日本帝国が推し進めた「国家神道」から、大本教・黒住教・金光教などの「教派神道」まで幅広い。おそらく外国人から見れば、これらは同じ「SHINTO」に映って、その違いが中々分かりにくいように、ユダヤ教もいろいろな考え方があるということは念頭に置かなければならないように思う。

そしておそらく、ユダヤ教などろくに知らない私でも、うなずける上記の主張こそが、比較的オーソドックスで、かつ正統的なユダヤ教の考え方ではないかと思われるのである。つまり、国や民族の枠を超えて、お互いに肯定できる内容というのは、誰にでも受け入れられる内容というのは、より普遍的な内容である可能性が高い、ということである。

その上で思うのが、とても神道に似ているのである。

たとえば、神道は八百万の神様で多神教、一方ユダヤ教は一神教なわけだが、一神教なので、生活のあらゆる場面が神様の現れ、という見方をするそうだ。つまり何でもかんでも神様の現れと見ると。これは、何でもかんでも神様と捉える多神教的な考え方と、本質的には同じではないだろうか。

またこんなことも書かれている。毎日の祈りに「発せられた言葉に祝福があり、世界が現れた」というものがあるそうだ。これは、神様は言葉で世界を創造された、という意味の聖書の記述からだろうが、これに倣って、人も言葉で愛を創造出来ます、人の気持ちを変えることが出来るのです、と書かれてある。

たとえば、朝「おはようございます」と、一言声をかけるだけで、気持ち良い朝が迎えられるかもしれない、というような旨のことが書かれている。

もしかしたらその人は、友達がいない人なのかもしれない、昨夜は楽しいことがなかったのかもしれない、奥さんと喧嘩したかもしれない、でもその一言で、その人の朝を気持ちのよいものに変えられるかもしれません、というようなことが書かれてある。

これは神道でいうところの、言霊の思想に通じるものを感じる。

その他には「人は神の分霊(わけみたま)」という神道の考え方と、非常に似たような考え方が書かれている部分もあった。要するに、この天地に神以外のものはなく、それ故に、私たちの存在の根源にも神様が居るのだから、その神様の御意志を汲み取って、これを実現していかなければならない、ということかと思う。

これは奇しくも、大本(教)の「神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の主体なり」に通ずるものがある。また「全ての偉大な宗教の根本の教えは同じである」とも書かれており、これも出口王仁三郎聖師が言っていた万教同根の主張とかぶる。

神道に限らず、普通に受け入れられる話も多い。たとえば幸福観については、このようなことが書かれてある。

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 今日のような世の中では、私達はいつも他人と比べて自分が幸せでないと感じてしまいます。自分が今持っているもので満足することなく、たとえば、隣の人が自分よりいい車を持っていればうらやましがり、テレビを四台も持っていると聞けば自分もそうしたいと思い、いつも何かを欲して、いつも満ち足りていないように思ってしまいます。
 本当に幸せで富める者というのは、お金を沢山持っている者ではなく、自分が今持っているものに満足し、自らの手を労して生計を立てている者であり、その人の幸せはこの世から、さらに来るべき世界にも及ぶものである、とベンゾーマは説いているのです。

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これなどはまさしく、老子の「足るを知る者は富む」の言葉そのものではないだろうか。

さらに、ユダヤ教を知る上で重要なファクターである‘メシア’についても、このように書かれてある。

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 私達はずっとメシアという人物が現れるのを待っていました。しかし、待っているのは人物ではなくて、理想的な時代なのだと考える人達が出て来ました。私達は神がどんな世界をお望みかということを『トーラー』から学ぶことが出来ます。メシアが現れて、その人を私達がそうだ認めるのではなくて、いつの日か争いがなくなり、全ての民族が平和に共存し、互いを気遣い、物を分け合うというような、神の御意思が実現した世界が現れた時、また、ユダヤ人が故国を再建して二度と世界中に離散しなくなった時、その時に私達はメシアの時代が到来したと知るのです。
 今日では、多くのユダヤ人はメシアが一人の人間だと必ずしも信じてはいません。また一方で、全てのユダヤ人がメシアという考えを受け入れているわけではありません。しかし、私達は、その時が来ればメシアの時代が到来したと分かるでしょう。そして、その時が現れているのを待っているのです。

---------------------------------

このメシア観は非常に素朴で、ユダヤ教という枠組み以前に、大いに頷けるのではないだろうか。

前置きが長くなってしまったが、モチーフにした記事の補足を書いてみたいと思う。

簡潔に説明すると、戦前、大本という宗教が興(おこ)ったが、この宗教は一つの大きな型を残したと言われている。

下記参照。

『雛型経綸とは タテ三段、ヨコ三段の転写』(日之本研究ホームページさん)
http://spiralhinomoto.web.fc2.com/hinagata/hinagata.html

『大本と日本の対比 大本=世界の雛形!?』(日之本研究ホームページさん)
http://spiralhinomoto.web.fc2.com/hinagata/taihi.html

詳しくは上記の通りだが、大本に起こったことが、時間を置いて日本にも起こり、そしてそれは世界にも波及していくという考え方のことである。そして、この流れは現代の日本にも続いていると見てよい。

現代の日本については、下記参照。

『現在の日本について 同じこと二度ある仕組み』(日之本研究ホームページさん)
http://spiralhinomoto.web.fc2.com/hinagata/genzai.html

こちらの記事で強調されているのが、リンク「その1」「その2」でも詳しく紹介されているように、金本位制への復帰による日本の破滅である。

下記参照。

『デフレで滅んだ戦前の日本(前編)』(とある歴史好きオヤジの戯言さん)
http://blog.livedoor.jp/archon_x/archives/2466947.html

『デフレで滅んだ戦前の日本(後編)』(とある歴史好きオヤジの戯言さん)
http://blog.livedoor.jp/archon_x/archives/2488245.html

翻って現在、日銀の「異次元の金融緩和」による国債の大量買い上げが行われている。

結論から言うと、どこかの時点で、現在使われている金融制度が世界的な破たんの兆しを見せて、その制度の受け皿として、世界中で金本位制の復活の声があがってくるのではないか、ということだ。

その時はもちろん日本も他人事ではなく、むしろ世界の金融システムの破たんの最先端を行っているのが日本だ、という状況もあり得ないとは言えない。

たとえば、どこかの時点でアメリカの株価が大暴落して、それに伴い日本の株価も暴落する。当然、日銀が大量に保持しているETFも暴落し、結果、日本国債の最大の買い手である日銀が破たんするのではないかとの憶測から、日本国債も暴落する。

もちろん政府としては、日銀に資本注入を行って安定化を図ろうとするだろうが、しかしそれとて、さらなる国債の発行か増税で賄うしかない。増税しようとすれば国民が反発するし、その状況下の元、さらなる国債の発行をすれば、金利上昇をさらに押し上げる要因になってしまう。かといって、その国債を直接日銀に引き受けてもらうとなれば、今度は円の信用が揺らいで、急激な円安になってしまう恐れが出て来る。

このように、日本と似たようなことが各国の中央銀行で起こり、世界同時の通貨危機となれば、世界中の資金がどこに向かうかと言えば、やはりゴールドではないだろうか。こうしてゴールドの急激な価格上昇と共に、金本位制復活の声が上がってくるように思う。

しかし日月神示では、悪神は金(きん)で世の中を潰す、と書かれてある。

『金(きん)では治まらん、悪神の悪では治まらん、ここまで申してもまだ判らんか、金では治まらん、悪の総大将も其の事知って居て、金で、きんで世をつぶす計画ざぞ、判ってゐる守護神殿 早う改心結構ぞ、元の大神様に御無礼してゐるから病神に魅入られてゐるのぢゃぞ、洗濯すれば治るぞ、病神は恐くて這入って来られんのぢゃぞ、家も国も同様ざぞ。神示幾らでも説けるなれど誠一つで説いて行(おこな)って下されよ、口で説くばかりではどうにもならん、魂なくなってはならん。』(梅の巻 第二十六帖)

一方、このような記述もある。

『【ヽ(テン)忘れるなよ】。世を捨て、肉をはなれて天国近しとするは邪教であるぞ。合せ鏡であるから片輪となっては天国へ行かれん道理ぢゃ。迷信であるぞ。金で世を治めて、金で潰して、地固めして みろくの世と致すのぢゃ。三千世界のことであるから、ちと早し遅しはあるぞ。少し遅れると人民は、神示は嘘ぢゃと申すが、百年もつづけて嘘は云へんぞ。申さんぞ。』(黄金の巻 第五十九帖)

『神の世と申すのは、今の臣民の思ふてゐるやうな世ではないぞ、金(きん)は要らぬのざぞ、お土からあがりたものが光りて来るのざぞ、衣類たべ物、家倉まで変るのざぞ。草木も喜ぶ政治と申してあらうがな、誰でもそれぞれに先の分る様になるのぞ。お日様もお月様も海も山も野も光り輝いて水晶の様になるのぞ。悪はどこにもかくれること出来ん様になるのぞ、ばくち、しょうぎは無く致すぞ。雨も要るだけ降らしてやるぞ、風もよきやうに吹かしてやるぞ、神をたたえる声が天地にみちみちて うれしうれしの世となるのざぞ。』(天つ巻 第二十帖)

今の貨幣制度が潰れるとなった時、悪神が用意した金本位制に乗っかって、さらなる破滅へと向かう道のりを確定させるのではなく、ここで打ち止めにして、何もかも与えっぱなしの無料の世、只の世の型を何としてでも出して、晴れてミロクの世に移行させたい所である。

若干古いが、下記記事によると、2018年には国債発行残高のうち日銀が保有する割合は50%を超える、とある。御承知の通り、現在既にその保有率は40%を超えているので、50%を超えるのは、もはや時間の問題と思われる。

記事参照。

『ジョジョの奇妙な黒田バズーカ~イカサマは2018年にバレるんだぜ…=東条雅彦』(MONEY VOICEより)
http://www.mag2.com/p/money/13914/amp

ちなみに記事の中で「17~18年には流動性低下の弊害が出てくる」とあるが、実際に今月初めにも、およそ1日半に渡って新発10年国債国債取引が成立しなかったとのニュースが出てきている。

『新発10年国債、売買成立せず』(朝日新聞デジタル)
http://www.asahi.com/articles/DA3S12919430.html

これまで日銀は国債を高値で買い取りしてきたので各金融機関も売って来たが、もう売りつくしてしまって、実質売る国債がほとんどなくなって来ている。にも関わらず、日銀は「2%のインフレ目標」のために、今後も国債を買い続けていく予定となっている。

結局、国債を買うのをやめた途端、金利が上がる可能性が出て来るので、買うのをやめられない。むしろ、これまで買い取った国債をどこかで売らなければならないわけだが、売ると、それもまた金利が急激に上がる恐れがあるので、売るに売れない。

金利が1%上がるだけで、日銀の保有する国債の評価額が20数兆円の含み損を抱えてしまうので、ここまで来たら、もうどんどん保有比率を上げるしかない。

記事参照。

『黒田日銀の「永久緩和」が引き起こす日本財政破綻、衝撃のデータ=東条雅彦』(MONEY VOICEより)
http://www.mag2.com/p/money/161465

まるで薬の大量投与のように、最初は痛みを和らげるために使っていた薬も、もはや使いすぎて、その薬を常時、しかも大量に打たなければ、痛みに耐えられないという状況になりつつある。そして当初に比べて、その薬の量を増やしても、さほど効果が得られなくなっている。

日本経済の破たんも恐ろしいが、その後に来る金本位制はもっと恐ろしいものになるはずだ。おそらく、あの日本はもう二度と立ち上がれない、と誰もが思うほどに潰れる結果となるに違いない。

くどいようだが、目先にありありと破滅が見えて来た今、日本はここで気持ちも頭もサッと切り替えて、税金を全く取らない上で、何もかも無料で与えっぱなしのやり方にいち早く移行させるべきだ。

なぜなら、それが日本の国を立て直す道になるのみならず、世界を救う一つの大きな型となるからだ。

そしてそれは同時に、ユダヤのラビが望む「いつの日か争いがなくなり、全ての民族が平和に共存し、互いを気遣い、物を分け合うというような、神の御意思が実現した世界」を顕現させるに至る道でもあるからである。

再び下記参照。

「山彼方 海の地の岸 霞止み 清しき後の 神歌流れむ」
http://uresitanosi123.blog.fc2.com/blog-entry-1220.html

「真祈る場 言霊が治す 元の気の 点す地がまた 常春の今」
http://uresitanosi123.blog.fc2.com/blog-entry-267.html

ぶっちゃけ日ユ同祖論については、私はどうでもいい話だと思っている。日本とユダヤの祖先が同じだとして、それが一体何だというのだ。大事なのは、日本にせよユダヤにせよ、どのような善い活動ができるかだと思う。

ただ、日本が晴れて、税金を取らない何もかも無料の社会制度をつくり上げ、国民の誰もが何もかもてんし様に捧げるようになったときには、世界中の敬虔なユダヤの人々は、このやり方をメシアの時代を迎えるにあたって理想的な社会制度だと注目し、同じやり方を世界中で進めていくようには思う。

結果的に、日本で行われる「日の光の政治」の型は、世界中に散らばるユダヤ人達によって宣伝され、広められることにより世界に転写し、最後はこれらユダヤ人たちの手によって、見事この世に地上天国が出来上がるのではないか、との思いは、やはり頭の片隅に残しておきたい。

Posted on 2017/05/16 Tue. 07:41 [edit]

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16

まわりうた 

きしといそ やみのみいきと
  ふたかみか たふときいみの みやそいとしき

(岸と磯 止みの御息と 二神が 尊き斎の 宮ぞ愛しき)

解説

斎は「心身を清浄に保ち、けがれを避けて慎むこと。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「ウシワカ登場」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

岸は喜詞(きし)? 磯は五十(いそ)? 止みは八と三で八三(やみ)? うーん、自分で書いておきながら何ですが、歌の意味がよくわからんです。

Posted on 2017/05/14 Sun. 21:42 [edit]

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14

まわりうた 

もときよき かみのみいつと
  ひみついつ みひとついみの みかきよきとも

(元清き 神の御稜威と 秘密出づ 身一つ斎みの 御垣良き友)

解説

御稜威(みいつ)は「‘稜威(いつ)’を敬っていう語。天皇や神などの威光。」、身一つは「体一つ。自分一人。」、斎みは「心身を清浄に保ち、けがれを避けて慎むこと。」、御垣は「宮中・神社などの神聖な地域のまわりにある垣。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「ウシワカ登場」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2017/05/14 Sun. 19:17 [edit]

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14

まわりうた 

かみのくら ひまからひとつ
  みひかりか ひみつとひらか まひらくのみか

(神の座 隙から一つ 御光が 秘密扉が 真開くのみが)

解説

隙(ひま)は「すきま。物と物との間。」、真(ま)は「うそいつわりのない、真実の、本当の、などの意を表す。」の意味です。

余談

この歌は、WAVEのアルバム「Citra re:verse -其歌は真言顕す欠片と為りて-」の中にある「天照大御神-AMATERAS SYSTEM-」~「月読命-TSUKUYOMI SYSTEM-」~「須佐能乎命-SUSANOWO SYSTEM-」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

秘密(ひみつ)は火水(ひみづ)、日光(ひみつ)につながり、岩戸開きに通じる。

今朝、北朝鮮がミサイルを打ったが、下手すると日本本土に着弾して一気に戦争へと突入するシナリオもあったのではないか。神示では、全ては神芝居であると言われているものの、本当に綱渡りである。

まだ大難が出て来ていない内に、いち早く岩戸(言答)開きと相成って、安心したいものである。ここまで来たら、もはや神に祈るばかりだ。

Posted on 2017/05/14 Sun. 13:12 [edit]

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14

まわりうた 

いはやのと まやらひたまふ
  はいかいか いはふまたひら やまとのやはい

(岩屋の戸 魔遣らひ給ふ 排開が 祝ふ真平 大和の野梅)

解説

岩屋は「岩壁に自然にできた洞穴。また、岩に横穴を掘って住居としたもの。いわむろ。」、遣らう(やらう)は「追い払う。追い出す。」、給うは「(動詞・助動詞の連用形に付いて)その動作主を尊敬する意を表す。…てくださる。お…になる。お…なさる。」、排開(はいかい)は「おしひらくこと。」、真(ま)は「うそいつわりのない、真実の、本当の、などの意を表す。」、平は「平らな場所。平地。」、野梅(やばい)は「野に咲く梅。野生の梅。」の意味です。

余談

この歌は「イノセンス オリジナル・サウンドトラック」の中にある「傀儡謡_陽炎は黄泉に待たむと」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

三千世界一度に開く梅の花

ということで、ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。

平(たいら)の文字を分解すると上から「一と八と十」になって、一八十(いわと)に通じるので、真平は、真(まこと)の岩戸が開かれる、というニュアンスがあるように思う。また平らげるは「平定する」の意味があったりするので、岩戸が開かれてことごとくが平になって治まる、という意味になる。

平になるというのは、つまり神が上にいて、人は皆、高低なく、凸凹なく、一様に嬉し楽しになるという意味を孕んでいる。もちろん一人一人身魂の色は違ってくるので、誰一人として同じ人はいない。横の軸で見れば無限の変化と広がりを見せるが、縦の軸で見れば、永遠に変わらずに皆、揃って神から親しまれ、愛されるということである。

と、まあこういうと、人によっては宗教的に感じて、なんだかうさん臭さを感じるかもしれないが、もうそういう理屈を超えて、とにかく岩戸の中から開かれた光が、ものすごいと感じる。感無量とはまさにこのことだ。おそらく、その光は自動的に各人々に合わせた光となって、それぞれ感じられるに違いない。

ある人は春の陽射しのような温かさを感じたり、ある人は長らく忘れていた途方もない懐かしさを感じたり、或いは100倍の勇気をもらう感じがしたり、唯一無二の親友が語りかけてくるような親しみある感じがしたり、両親の愛のようなものをそこに感じたり、その光(ひかり=霊化理)は、人によって様々な感じがする。

人間心では今いちピンと来ないが、これは言葉では到底語り尽くせないほどの、大きな大きな大望だと感じる。

また、全ての上にまします神は、何というか救世主的な誰かとして現れるのではなく、時節的な流れとしてやって来るはずだ。やがては、その神様を世界中で祭るようになるだろうが、しかしその神様は永遠に渡って絶対に見えない。見えないけれども、その神様が居ることは誰にも判って、祭るようになるものと思われる。

それはたとえるならば、私達の「心」のようなものである。自分の心は見えないし、どこにあるのか判らないが、しかし自分の心が存在していることは全人類誰もが認めるところだろう。そういう類の、見えない、判らない神様を祭ることになる。

こうして、どこに居るかもわからない、どんな御利益をくれるのかもわからない、そういう神様を祭ることになるのだが、しかし、その神様の存在、または御利益、お蔭の片鱗は森羅万象の全てに浸透している。人々は、自分他人を含めたこの森羅万象を通じて、その神様を断片的に知ることが出来るようになっている。

そして驚くべきことに、その神様の断片的な部分をいくら見ても見ても、その嬉し楽しのお蔭、ご利益は無限に続いて終わりが見えない、というもの凄いことになっていて、今はピンと来ないが、後になればなるほど、その神様の偉大さというか絶大さというか、有り難さが判る仕組みになっているようだ。

はっきり言うと、このような未だかつてない大望が出て来たことを、私達はもっともっと喜ぶべきなのだ。たとえていうなら、10億円の宝くじが当たったのに、当の本人がそのくじを買ったことをすっかり忘れていて、まるで価値のない紙切れとしてタンスの奥にしまわれて、その存在すらも忘れ去られている状態、という感じに似ている。

そういう人に「あんた10億円当たってるよ!!」と教えると、当のその人はくじを買ったことすら忘れているので「お前さんは何を夢みたいなことをいってんだい!」と言われるだろうが、実際出て来たおりにはびっくりの嬉しさであろう。そして当初こそ怒っていたが、後になればなるほど、有り難いと感じるようになるはずだ。たとえが少々下世話だが、まあだいたいそういうことである。

というか、実際には10億円どころか、どんな高級な物でもどんな質の高いサービスでも一生享受できる、いわば「無限のお金」と同等の価値を持つパスポートをもらうようなものだが……。

下記参照。

「山彼方 海の地の岸 霞止み 清しき後の 神歌流れむ」
http://uresitanosi123.blog.fc2.com/blog-entry-1220.html

「真祈る場 言霊が治す 元の気の 点す地がまた 常春の今」
http://uresitanosi123.blog.fc2.com/blog-entry-267.html

ちなみに「魔遣らひ給ふ」は、魔と戦って追い払う、というよりも、岩戸が開かれて自然と退散するというニュアンスである。「光が存在する」ということは、逆から言えば「闇が存在しない」ということだ。今が「昼」であれば、必然的にそれは「夜ではない」と言ってることと同じだ、ということ。

全人類誰もが、その時に必要な物や状態が、いつ如何なる時にでも、その場その場で手に入るならば、そもそも将来の生活を心配したり、国同士やテロリストと戦争をする意味もなくなる。そうして個人的視点による貪欲・不寛容・怠惰・心配・不安・憎悪・ねたみ・嫉妬・怒り・偏見・執着心等から、全体的視点による戦争・暴力・支配・差別・貧困・飢餓等まで、あらゆる魔が一斉に、潮が引くようにして自然と消えていくのだ。

Posted on 2017/05/14 Sun. 11:59 [edit]

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14

まわりうた 

きしいそけ とほきひひさし
  すすのねの すすしさひひき ほとけそいしき

(岸急げ 遠き日陽射し 鈴の音の 涼しさ響き 仏ぞ美しき)

解説

仏は「温厚で慈悲心の深い人をたとえていう語。」、美し(いし)は「よい。すばらしい。見事である。」の意味です。

余談

この歌は、中孝介さんの「夏夕空 feat AUN J-クラシック・オーケストラ」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

個人的なイメージでは、まあ夏休みに田舎とかに帰省して、普段はあまり触れ合えない自然豊かな岸辺に遊びに行った、というような子供時代の記憶を懐かしんでいる、というもの。

たとえば、縁側でジュースとか飲んでて、親戚の子とか、その友達とかが、岸辺で遊んでるから今すぐこいよ、とか誰かが呼びにきて「岸急げ」となって、飲みかけのジュースもほったらかしにして、一目散に遊びにいく、というようなもの。そういう遠い日の一場面。暑い陽射しと、風鈴の涼しい響き、そして今は亡きじいちゃんばあちゃんとか両親とか、或いはその他大切な人が、一目散にかけていく子供の私を後ろから見送っている、というようなイメージです。

厳密にいうと、この「仏」は、昔のそういう一場面をひっくるめて、全て仏の世界として映っているというか、そういう風に捉えている、ということです。

また仏は解け(ほどけ)に通じて、そういう記憶が解けて、あぁ素晴らしいなぁ、と懐かしんでいる、というニュアンスも含んでいると捉えたいところです。

Posted on 2017/05/13 Sat. 23:16 [edit]

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13

まわりうた 

にくみのく ときつみのりは
  みひかりか ひみはりのみつ きとくのみくに

(悪み退く 時つ実りは 御光が 美味玻璃の水 奇特の神国)

解説

悪み(にくみ)は「憎むこと。憎しみ。憎悪。」、時つは「その時期にかなった、その時にふさわしい、などの意を表す。」、玻璃(はり)は「仏教で、七宝の一。水晶のこと。」、奇特(きとく)は「言行や心がけなどがすぐれていて、褒めるに値するさま。」「珍しいさま。不思議なさま。」の意味です。

余談

この歌は、オムニバスアルバム「still echo」の中にある「イン・パラディズム」(三大レクイエムの一つ フォーレのレクイエム 第7曲より)を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2017/05/13 Sat. 14:44 [edit]

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13

まわりうた 

なかきよの せいひのさあり
  とものわの もとりあさのひ いせのよきかな

(永き代の 清美の座あり 友の輪の 戻り朝の日 伊勢の良きかな)

解説

清美(せいび)は「清らかで美しいこと。また、そのさま。」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2017/05/12 Fri. 18:03 [edit]

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12

まわりうた 

なかきよの またきよすかの
  ほいめさめ いほのかすよき たまのよきかな

(永き代の 全き縁の 本意目覚め 五百の数良き 玉の良きかな)

解説

全し(またし)は「完全だ。欠けたところがない。」。縁(よすが)は「頼り。ゆかり。身や心を寄せる所。」「手がかり。手段。便宜。」、本意(ほい)は「ほんとうの考え。本来の目的。ほんい。」、五百(いお)は「五百。」「数の多いこと。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

日月神示によれば、五百は日本だとある。

『七は成り、八は開くと申してあろうが、八の隈(くま)からひらきかけるのであるぞ、ひらけると○と九と十との三が出てくる、これを宮と申すのぞ、宮とはマコトのことであるぞ、西と東に宮建てよと申すこと、これでよく判るであろうが、マコトの数を合せると五と五十であるぞ。中心に五があり、その周辺が五十となるのであるぞ。これが根本の型であり、型の歌であり、型の数であるぞ、摩邇(マニ)の宝珠(タマ)であるぞ、五十は伊勢であるぞ、五百は日本であるぞ、五千は世界であるぞ、このほう五千の山、五万の川、五億のクニであるぞと申してあろうがな。』(碧玉の巻 第五帖)

この「五百の数良き 玉」からは、五百津之美須麻流之珠(いほつのみすまるのたま)が連想される。良い玉、美しい玉、美玉(みたま)は身魂(みたま)に通じるということで、要するにこの歌は、日本の縁ある人々が数多く目覚めて、ミロク神政成就のための大活動を開始するという意味かと思われる。

その活動は個々で見てみるとバラバラだが、それらの美玉は首飾りのように、一つの神の糸(意図)で結ばれており、やがて一つのまとまった形として、一つの大きな型として出て来るはずだ。

ちょうど無数の小川の水が山を下るにつれて大きな流れとなり、末の大海でひとつになるように、気が付けば、もう誰にも止められない大きな流れが、表に現れて来るに違いない。

Posted on 2017/05/12 Fri. 10:53 [edit]

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12

まわりうた 

きんしのり つまひくゆみか
  めすめさめ すめかみゆくひ まつりのしんき

(金鵄乗り 爪引く弓が 見す目覚め 皇神行く日 祭りの神祇)

解説

金鵄(きんし)は「日本の建国説話に出てくる金色のトビ。神武天皇の東征に際して、長髄彦(ながすねひこ)征伐の際に弓の先に止まって天皇の軍を助けたという。」、見すは「お治めになる。ご統治なさる。▽「治む」の尊敬語。」、皇神(すめかみ)は「神を敬っていう語。すべかみ。」、神祇(じんぎ)は「天神と地祇(ちぎ)(=地神)。天と地の神々。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「ウシワカ登場」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

中々難しいが、解釈を試みる。

歌の内容は、金鵄が弓の先端に止まって、その弓を皇神が爪引くことで全てを丸く治める、という風に感じる。弓は武器であるので武力の象徴でもあるが、一方、神事などでも使われることから祭具としての性質も持つ。ちなみに、金鵄は日本の建国説話に出てくる金色のトビで、無血勝利の象徴とされる。

皇神のスメは、おそらくスメラのスメと思われる。◎(=○にヽ=ス)の命(メ)、或いはスメル(統める)神の意で、ここでは天帝と解釈したい。その後の祭りは、祭る、真弦(まつる)に通じる気がする。

つまり、天帝が弓を引いて鳴らすことで、弓の上下の両端の部分が釣り合っていることが、その弦から出る音によって確認される、と解釈できる。こうして真弦(=美しい弦)から音が鳴ることで、天と地の神々が真釣り(まつり)合って、和合したことが確認された、ということではないかと思う。音は○(オ)、十(ト)で、○(本)と十(末)を表しているようにも感じる。

おそらく「爪引く弓」の意味は、一度弓から離れた矢はもう元に戻らないように、ここ三千年余りで天帝が仕組んだ末代に一度の経綸が、いよいよ出て来るということではないだろうか。

金鵄はよくわからないが、鳥は最後の出演者を意味する「取り」、或いは「肚裏」(=とり=心の中)に通じる。また鵄(とび)は飛びに通じて、一気に飛躍するニュアンスを感じる。

そして弓は斎身(ゆみ)、斎三(ゆみ)で、神聖なる天帝の身によって、三千世界が一度にことごとく清められるニュアンスを感じる。

Posted on 2017/05/11 Thu. 22:06 [edit]

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11

まわりうた 

みうるなか つしつましふの
  ひかてりて かひのふしまつ しつかなるうみ

(見得る中 辻褄慈父の 日が照りて 佳美の富士松 静かなる海)

解説

辻褄(つじつま)は「合うべきところがきちんと合う物事の道理。」、慈父は「思いやりのある、やさしい父親。子に対して深い愛情をそそぐ父。また、父を敬愛してもいう。」、佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、富士松は「カラマツの異名。」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2017/05/10 Wed. 18:32 [edit]

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10

まわりうた 

みかへすて みのりきみすて
  こころうろ ここてすみきり のみてすへかみ

(身替へ捨て 身の力み捨て 心空 此処で澄み切り 祈みて皇神)

解説

替える(かえる)は「今まで使っていたものを別のものにする。古くなったものを新しいものにする。」、力みは「りきむこと。また、りきんだ様子。」、空(うろ)は「内部が空になっているところ。うつろ。ほら。空洞。」、祈む(のむ)は「頭を下げて請い願う。頭をたれて神仏に祈る。」、皇神(すべかみ)は「神を敬っていう語。すめかみ。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

「身替へ捨て」は身体を替えて、今までのものを一切捨てるというニュアンスで、いわば脱皮のような感覚。

変な例になるが、明日急に自分がキリギリスになったら、もうキリギリスとして生きていくしかない。そこまで極端でなくても、明日急に自分が末期癌だと判ったら、今までの生活様式や自分の日頃の心も持ち様などを一新して、それを受け入れて生きていくしかない。

この部分は何が言いたいのかというと、おそらく、今日ある身体は、昨日までの身体とは違うものだと認識するということかと思う。自分の身体が常に新しく、目に見えない内側から生まれ出ていることを感覚する、ということ。また身は見(み)に通じる、身替えは見替えであり、見方を新しくする、ということでもあるように感じる。

「身の力み捨て」は文字通り、身体の力みを捨てて、ということ。力むとは自分で何とかしようとする意識から生まれるが、そうではなく、目に見えない内側から、全てを一新していく身体の作用に、自分の意識をそっくりそのまま乗っけるということである。だからその後「心空」となっている。

こうして、今までの身を替えて捨て、力みを捨てて、心を空っぽにしたこの場所、此処で澄み切りという現象が起こる。そしてこの澄み切りを経験することで、思わず神に「あぁ!!!」と祈ってしまう。

また、この祈む(のむ)は呑むに通じることから、この澄み切りの現象をごくんと呑む、肚(はら)に収めるというニュアンスを感じる。

そしてこの祈りは、具体的に何かを神に頼むという類のものではなく、内から出て来る感動的な感覚というか、もう祈らざるを得ない心境と、それに伴う肉体感覚というか、そういうニュアンスである。

つまり澄み切りの状態に意乗る(いのる)のだ。

心を澄み切りの状態にさせるのではなく、澄み切りという状態に心が乗るのである。だから、心を澄み切らせようとして澄み切るのではなく、まず内側から澄み切りの作用があって、意識はそこにただ乗っていくだけ、ということになる。

皇神は統(す)べて噛み合う、というニュアンスを感じる。だから澄み切りと感じるということだろう。

身体が怪我をしたり病気をすれば、その部分が気になるが、健康状態であれば、普段は特に自分の身体を意識することはないかと思う。たとえば、小指を怪我したら、何か手作業をする時には、特に気になって不便に感じるだろうが、怪我をしていないなら、それほど意識せずに手作業をしているだろうということ。

このように澄み切りとは、自分の身体が一つに統べられて、全てが噛み合っている状態であると言える。

ということでこの歌は、外からでは見えない澄み切りの作用に神を感じて、もう祈らざるを得ない、という感覚を詠っているように思う。

何気、西行が伊勢神宮を参拝した時に詠った下記歌を思い出す。

「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」

Posted on 2017/05/09 Tue. 15:11 [edit]

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09

まわりうた 

よるとをと きつきをあかり
  かひのその ひかりかあをき つきとをとるよ

(寄ると遠 気付き丘上がり 佳美の園 光が蒼き 月と踊る夜)

解説

遠(おと)は「遠く隔たった場所。遠方。かなた。おち。」、丘(お)は「おか。」、佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」の意味です。

余談

この歌は、オムニバスアルバム「still echo」にある「インディゴ・ワルツ」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2017/05/08 Mon. 17:26 [edit]

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08

まわりうた 

かみのへし ことたまのみの
  ももかみか もものみのまた とこしへのみか

(咬み述べし 言霊のみの 百神が 桃の実のまた 常しへのみが)

解説

咬む(かむ)は「二つの歯車の歯が合わさる。」、百(もも)は「百(ひゃく)。転じて、非常に数の多いことを表す。名詞の上に付けても用いられる。 」、常しえは「変わらずにいつまでも続く・こと(さま)。とこしなえ。えいきゅう。」の意味です。

余談

この歌は、「大神 オリジナル・サウンドトラック」にある「妖怪退治」~「双魔神 モシレチク コタネチク退治」~「妖魔王キュウビ退治」~「ヤマタノオロチ復活」~「ヤマタノオロチ退治 其の一」~「ヤマタノオロチ退治 其の二」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2017/05/07 Sun. 13:57 [edit]

category: まわりうた

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07

まわりうた 

ももとせの みつめあのひめ
  ととろくろ ととめひのあめ つみのせともも

(百年の 三つ目あの秘め 轟く漏 止め火の雨 罪乗せ友も)

解説

百年(ももとせ)は「ひゃくねん。ひゃくさい。転じて、多くの年。長い年月。」、とどろくは「大きな音が鳴りひびく。鳴動する。」、漏(ろ)は「仏語。流れて漏れ出てくるけがれ。煩悩(ぼんのう)のこと。」の意味です。

余談

この歌は、-MYTH- The Xenogears Orchestral Albumの「最先(いやさき)と最後(いやはて) -Orchestra Version-」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

どうもファチマの預言なるものがあるそうで、預言がなされた100年後にあたる5月13日に第三次世界大戦が起こるとか言われているようだ。

もしそうなると、戦争を通じて出て来る人類の膨大な煩悩というかカルマというか、そういうものに呼応して、おそらく本当に天から火の雨が降って来てジ・エンドとなるので、今となってはもう、そうならないように祈るしかない。

Posted on 2017/05/06 Sat. 23:59 [edit]

category: まわりうた

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06

まわりうた 

しききよき ひひくらすやて
  みひかりか ひみてやすらく ひひきよききし

(四季清き 日々暮らす屋で 御光が 陽見て安らぐ 響き良き雉)

解説

屋は「住むための建物。家屋。いえ。」、雉(きじ)は「キジ目キジ科の鳥。全長は、雄が尾が長いので80~100センチ、雌が50~60センチ。雄は暗緑色を主とする多彩な色で、目の周りに赤い肉垂れがある。雌は全体に褐色。北海道を除く日本各地の明るい林や草原にすみ、地上で餌をとる。雄はケンケーンと大きな声で鳴く。日本の国鳥。にほんきじ。きぎし。きぎす。」「キジ科の鳥のうち、シャコ・ウズラ類を除いたものの総称。日本・アジア・ヨーロッパに分布。ほとんどが雄は美しく、雌は地味。コウライキジ・オナガキジ・ヤマドリなど。」の意味です。

余談

この歌は、-MYTH- The Xenogears Orchestral Albumの「おらが村は世界一 -Orchestra Version-」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2017/05/06 Sat. 22:48 [edit]

category: まわりうた

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06

ともゑうた 

かみのさし たたりたひとり
  きみかよか みきみけはしめ よきまいかなみ

(神の座し ただ利他一人 君が代が 神酒神饌始め 良き幣が並み)
(真中今 清めし励み 君が代が 右と左 正しさのみが)

解説

座す(ざす)は「座(すわ)る。」、利他は「他人に利益となるように図ること。自分のことよりも他人の幸福を願うこと。」、一人は「ひとりでに。自然に。」、神酒(みき)は「お酒。特に、神に供える神聖な酒。」、神饌(みけ)は「神祇(じんぎ)に供える飲食物の総称。稲・米・酒・餅・魚・鳥・蔬菜(そさい)・果実・塩・水など。供物。しんせん。」、幣(まい)は「謝礼として贈る物。贈り物。また、神への供え物。」、並む(なむ)は「並ぶ。連なる。」、真中(みなか)は「真ん中。」、励みは「励むこと。精を出すこと。」「気力を奮い立たせるもの。精を出す支えとなるもの。はげまし。」、右(みぎり)は「みぎ。」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

日月神示によると、てんし様は神で、皆てんし様に捧げよ、と書かれてある。神示では、この神示は8通りの解釈が出来ると書かれているが、普通に解釈すると天子様と読み取れる。

歌では、その様子が詠われているものと思われる。

なお、解説でも触れているが「一人」は「ひとりでに。自然に。」という意味で使っている。

上の歌は、皆が神の座であるてんし様に何もかも捧げている様子が描かれている。神の座す場所に、ただ利他の精神でもって奉ることによって、自然とイザナギイザナミの両神が揃う岐美(きみ)の代があるということを詠っている。

下の歌は、それぞれの真ん中にあるもの、すなわち心を清めに清めた、その心こそが全てに通じる励みとなる、ということ。もちろん一人一人の心は違うわけだから、左に行く人、右に行く人、それぞれの方向性はあるが、しかし誰もが自分の真ん中にある心を、常に清めんとしていることから、そのどちらも正しいことになる、ということを示している。また左は火(霊)、右は水(身)に通じ、霊体どちらとも正しい、という意味も含まれていると受け取れる。

全てを神様、てんし様に捧げて、改めてそこから頂く日の光のやり方の顕現をいち早く望むのみである。

「山彼方 海の地の岸 霞止み 清しき後の 神歌流れむ」
http://uresitanosi123.blog.fc2.com/blog-entry-1220.html

「真祈る場 言霊が治す 元の気の 点す地がまた 常春の今」
http://uresitanosi123.blog.fc2.com/blog-entry-267.html

日月神示参照。

『この世はみな神のものざから臣民のものと云ふもの一つもないぞ、お土からとれた物、みな先づ神に供へよ、それを頂いて身魂を養ふ様になってゐるのに、神には献げずに、臣民ばかり喰べるから、いくら喰べても身魂ふとらぬのぞ、何でも神に供へてから喰べると身魂ふとるぞ。今の半分で足りるぞ、それが臣民の頂き方ぞ。』(上つ巻 第十七帖)

『コトちがふから、精神ちがふから、ちがふことになるのざぞ、コト正しくすれば、正しきこととなるのざぞ。日本の国は元の神の血筋のまじりけのないミタマで、末代 世治めるのざ。何事も末代のことであるから、末代動かん様に定めるのざから、大望であるぞ。上の臣民この儘で何とか彼んとかいける様に思ふてゐるが、其の心われよしざぞ。今度は手合して拝む許りでは駄目ざと申してあろが、今度は規則きまりたら、昔より六ヶ敷くなるのざぞ、まけられんことになるのざぞ、神魂(カミタマシ)の臣民でないと神の国には住めんことになるのざぞ。この世治めるのは地の先祖の生神の光出さねば、この世治まらんのざぞ、今度はトコトン掃除せねば、少しでもまぢり気(け)ありたら、先になりて また大きな間違ひとなるから、洗濯々々とくどう申してゐるのざ。神は一時は菩薩とも現はれてゐたのざが、もう菩薩では治まらんから、愈々生神の性来現はしてバタバタにらちつけるのざぞ、今の学ある者 大き取り違ひいたしてゐるぞ。大国常立尊大神と現はれて、一時は天もかまひ、地の世界は申すに及ばず、天へも昇り降りして、◎(モト)の◎(ニホン)の◎(カミ)の光りクッキリ現はさなならんと仰せあるぞ、早う洗濯せんと間に合はんぞ。この道の役員、吾は苦労して人助けるのざぞ、その心でないと我出して吾のこと思ふてゐるとグレンざぞ。仏もキリストも何も彼もスカリと救はねばならんのざ、殺して救ふのと、生かして御用に使ふのとあるぞ、今度はハッキリ区別するのざぞ、昔からの因縁ざぞ。この方のもとに参りて、昔からの因縁、この先のこと克く聞いて得心出来たら、肚の底から改心してマコトの御用結構につとめあげてくれよ。逃げ道つくってはならんぞ、二つ三つ道つくってはならんぞ。ますぐに神の道に進めよ。神の道は一筋ざと申してあろが。何なりとそれぞれの行せねばマコトのことは出来んのざぞ、世界の片八四浜辺からいよいよが始まると知らしてあること近うなりたぞ、くどい様なれどさっぱりと洗濯してくれよ、神の国は神のやり方でないと治まらんから今までの法度(はっと)からコトから、やりかたかえて、今迄はやりかた違ってゐたから、神のお道通りに致しますと心からお詫びせねば、する迄 苦しむのざぞ、この苦しみは筆にも口にもない様なことに、臣民の心次第でなるのざから、くどう申してゐるのざぞ、何も彼も神にささげよ、てんし様にささげよと申してあろがな、それが神国の民の心得ぞ、否(いや)でも応(おう)でもそうなって来るのざぞ。神国の政治経済は一つざと申してあろうがな、今の臣民に判る様に申すならば、臣民働いてとれたものは、何でも神様にささげるのざ、神の御社は幸でうづもれるのざぞ、御光輝くのざぞ、光のまちとなるのざぞ。神からわけて下さるのざぞ、其の人の働きによってそれぞれに恵みのしるし下さるのざぞ、それがお宝ぞ、お宝 徳相当に集まるのざぞ、キンはいらんと申してあろがな、元の世になる迄に、さうした事になって それからマコトの神の世になるのざ。神の世はマツリあるだけぞ、それ迄にお宝下さるのざぞ、お宝とは今のお札(さつ)の様なものざぞ。判る様に申すなら、神の御社と臣民のお役所と市場と合した様なものが、一時は出来るのざぞ、嬉し嬉しとなるのざぞ、マコトのマツリの一(ハジメ)ざぞ。このことよく肚に入れて一二三(ひふみ)として説いて、早う上の守護人殿にも、下の守護人殿にも知らして、安心して、勇んで暮す様にしてやりて下されよ。それも臣民の心次第、素直な人、早う嬉しくなりて、心勇むぞ、さびしくなりたら たづねて御座れと申してあろがな。』(磐戸の巻 第十三帖 ◎は原文では「○の中にヽ」の形)

『何もかもてんし様のものではないか、それなのにこれは自分の家ぞ、これは自分の土地ぞと申して自分勝手にしているのが神の気に入らんぞ、一度は天地に引き上げと知らしてありたこと忘れてはならんぞ、一本の草でも神のものぞ、野(ぬ)から生れたもの、山から取れたもの、海の幸もみな神に供へてから臣民いただけと申してあるわけも、それで分るであろうがな。この神示よく読みてさへ居れば病気もなくなるぞ、さう云へば今の臣民、そんな馬鹿あるかと申すが よく察して見よ、必ず病も直るぞ、それは病人の心が綺麗になるからぞ、洗濯せよ掃除せよと申せば、臣民 何も分らんから、あわててゐるが、この神示よむことが洗濯や掃除の初めで終りであるぞ、神は無理は言はんぞ、神の道は無理してないぞ、よくこの神示読んで呉れよ。よめばよむほど身魂みがかれるぞ、と申しても仕事をよそにしてはならんぞ。臣民と申すものは馬鹿正直ざから、神示よめと申せば、神示ばかり読んだならよい様に思うてゐるが、裏も表もあるのぞ。役員よく知らしてやれよ。』(富士の巻 第十三帖)

『人間心には我(が)があるぞ。神心には我がないぞ。我がなくてもならんぞ、我があってはならんぞ。我がなくてはならず、あってはならん道理分りたか。神にとけ入れよ。てんし様にとけ入れよ。我なくせ、我出せよ。建替と申すのは、神界、幽界、顕界にある今までの事をきれいに塵一つ残らぬ様に洗濯することざぞ。今度と云ふ今度は何処までもきれいさっぱりと建替するのざぞ。建直しと申すのは、世の元の大神様の御心のままにする事ぞ。御光の世にすることぞ。てんし様の御稜威(みいつ)輝く御代とする事ぞ。政治も経済も何もかもなくなるぞ。食べるものも一時は無くなって仕舞ふぞ。覚悟なされよ。正しくひらく道道鳴り出づ、はじめ苦し、展きゐて、月鳴る道は弥栄、地ひらき、世ひらき、世むすび、天地栄ゆ、はじめ和の道、世界の臣民、てん詞様おろがむ時来るのざぞ。邪魔せずに見物いたされよ、御用はせなならんぞ。この神示読めよ、声高く。この神示血とせよ、益人となるぞ。天地まぜこぜとなるぞ。』(水の巻 第十二帖)

『物、自分のものと思ふは天の賊ぞ、皆てんし様の物ざと、クドウ申してあるのにまだ判らんか。行(おこない)出来て口静かにして貰ふと、何事もスラリとゆくぞ、行(ぎょう)が出来ておらんと何かの事が遅れるのざぞ、遅れるだけ苦しむのざぞ。神の国の半分の所にはイヤな事あるぞ、洗濯出来た臣民に元の神がうつりて、サア今ぢゃと云ふとこになりたら、臣民の知らん働きさして悪では出来ん手柄さして、なした結構な事かとビックリ箱あくのざぞ。天と地との親の大神様のミコトでする事ぞ、いくら悪神じたばたしたとて手も出せんぞ、この世 三角にしようと四角にしようと元のこの方等の心のままぞ。後から来た守護神 先になるから、今の役員さうならん様に神示で知らしてあるのざから、よく裏の裏まで読んで肚に入れて、何一つ分らん事ない様にして呉れよ、今に恥づかしい事になるぞ。元の大和魂の誠の身魂揃ふたら、人は沢山なくても この仕組成就するのざと申してあろが、末代動かぬ世の元の礎きづくのざから、キマリつけるのざから、気つけおくぞ。キが元と申してあろがな、上は上の行、中は中、下は下の行ひ、作法あるのざぞ、マゼコゼにしてはならんぞ、この中からキチリキチリと礼儀正しくせよ。』(キの巻 第七帖)

『三ハシラ、五ハシラ、七ハシラ、コトアマツカミ、ツギ、ウヒジニ、ツギ、イモスヒジニ、ツギ、ツヌグヒ、ツギ、イモイクグヒ、ツギ、オホトノジ、ツギ、イモオホトノべ、ツギ、オモタル、ツギ、イモアヤカシコネ、ミコトト、アレナリ、イキイキテ、イキタマヒキ、ツギ、イザナギノカミ、イザナミノカミ、アレイデマシマシキ。 足許に気付けよ。悪は善の仮面かぶりて来るぞ。入れん所へ悪が化けて入って神の国をワヤにしてゐるのであるぞ、己の心も同様ぞ。百人千人万人の人が善いと申しても悪い事あるぞ。一人の人云っても神の心に添ふ事あるぞ。てんし様拝めよ。てんし様拝めば御光出るぞ、何もかもそこから生れるのざぞ。お土拝めよ。お土から何もかも生れるのぞ。人拝めよ、上に立つ人拝めよ、草木も神と申してあろがな。江戸に攻め寄せると申してあろがな。富士目指して攻め来ると知らしてあること近付いたぞ。今迄の事は皆型でありたぞ、江戸の仕組もお山も甲斐の仕組も皆型ぞ、鳴門とうづうみの仕組も型して呉れよ。尾張の仕組も型早よう出して呉れよ。型済んだらいよいよ末代続くまことの世直しの御用にかからすぞ。雨降るぞ。』(日月の巻 第十二帖)

『戦済みても後の紛糾なかなかに済まんぞ。人民いよいよ苦しくなるぞ。三四五(みよいづ)の仕組出来ないで、一二三(ひふみ)の御用はやめられんぞ。此の神示読んで三四五の世の仕組よく腹の中に入れておいて上(かみ)の人に知らしてやりて下されよ。三四五とはてんし様の稜威(みいづ)出づことぞ。』(日月の巻 第四帖)

『富士は晴れたり日本晴れ。◎の巻 書き知らすぞ。此の世に自分の物と云ふ物は何一つないのであるぞ。早う自分からお返しした者から楽になるのざぞ。今度の大洗濯は三つの大洗濯が一度になって居るのざから、見当取れんのざぞ。神の国の洗濯と外国の洗濯と世界ひっくるめた洗濯と一度になってゐるのざから、そのつもりで少しでも神の御用務めて呉れよ。此れからがいよいよの正念場と申してあろがな。今はまだまだ一の幕で、せんぐり出て来るのざぞ。我(が)出したら判らなくなるぞ、てんし様おがめよ、てんし様まつりて呉れよ、臣民 無理と思ふ事も無理でない事 沢山にあるのざぞ、神はいよいよの仕組にかかったと申してあろがな。毀(こわ)すのでないぞ、練り直すのざぞ。世界を摺鉢(すりばち)に入れて捏(こ)ね廻し、練り直すのざぞ。日本の中に騒動起るぞ。神の臣民 気つけて呉れよ。日本も神と獣に分れているのざから、いやでも応でも騒動となるのざぞ。小さくしたいなれど。』(日月の巻 第一帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)

『二二は晴れたり日本晴れ、てんし様が富士(二二)から世界中にみいづされる時近づいたぞ。富士は火の山、火の元の山で、汚してならん御山ざから臣民登れんやうになるぞ、神の臣民と獣と立て別けると申してあろうが、世の態(さま)見て早う改心して身魂洗濯致して神の御用つとめて呉れよ。大き声せんでも静かに一言いえば分る臣民、一いへば十知る臣民でないと、まことの御用はつとまらんぞ、今にだんだんにせまりて来ると、この方の神示(ふで)あてにならん だまされてゐたと申す人も出て来るぞ、よくこの神示読んで神の仕組、心に入れて、息吹として言葉として世界きよめて呉れよ。分らんと申すのは神示読んでゐないしるしぞ、身魂 芯(しん)から光り出したら人も神も同じことになるのぞ、それがまことの臣民と申してあらうがな、山から野(ぬ)から川から海から何が起っても神は知らんぞ、みな臣民の心からぞ、改心せよ、掃除せよ、洗濯せよ、雲霧はらひて呉れよ、み光出ぬ様にしてゐてそれでよいのか、気つかんと痛い目にあふのざぞ、誰れかれの別ないと申してあらうがな。いづれは天(アメ)の日つくの神様 御かかりになるぞ、おそし早しはあるぞ、この神様の御神示は烈しきぞ、早う身魂みがかねば御かかりおそいのざぞ、よくとことん掃除せねば御かかり六ヶしいぞ、役員も気つけて呉れよ、御役ご苦労ぞ、その代り御役すみたら二二晴れるぞ。』(地つ巻 第三十六帖)

『世界丸めて一つの国にするぞと申してあるが、国はそれぞれの色の違ふ臣民によりて一つ一つの国作らすぞ。その心々によりて、それぞれの教作らすのぞ。旧きものまかりて、また新しくなるのぞ、その心々(こころこころ)の国と申すは、心々の国であるぞ、一つの王で治めるのざぞ。天つ日嗣の実子様が世界中照らすのぞ。国のひつきの御役も大切の御役ぞ。道とは三つの道が一つになることぞ、みちみつことぞ、もとの昔に返すのざぞ、つくりかための終りの仕組ぞ、終は始ぞ、始は霊(ひ)ぞ、富士、都となるのざぞ、幽界(がいこく)行きは外国行きぞ。神の国光りて目あけて見れんことになるのざぞ、臣民の身体からも光が出るのざぞ、その光によりて その御役、位、分るのざから、みろくの世となりたら何もかもハッキリして うれしうれしの世となるのぞ、今の文明なくなるのでないぞ、たま入れていよいよ光りて来るのぞ、手握りて草木も四つあしもみな唄ふこととなるのぞ、み光にみな集まりて来るのざぞ、てんし様の御光は神の光であるのざぞ。』(地つ巻 第十一帖)

『この神示いくらでも出て来るのざぞ、今の事と先の事と、三千世界、何も彼も分るのざから、よく読みて腹に入れておいて呉れよ、この神示 盗まれぬ様になされよ、神示とりに来る人あるから気つけて置くぞ。この道は中行く道ぞ、左も右りも偏ってはならんぞ、いつも心にてんし様拝みておれば、何もかも楽にゆける様になりてゐるのざぞ、我れが我れがと思うてゐると、鼻ポキリと折れるぞ。』(地つ巻 第四帖)

『今度の戦済みたら てんし様が世界中知ろしめして、外国には王はなくなるのざぞ。一旦戦おさまりても、あとのゴタゴタなかなか静まらんぞ、神の臣民ふんどし締めて神の申すことよく腹に入れて置いて呉れよ、ゴタゴタ起りたとき、何うしたらよいかと云ふことも、この神示(ふで)よく読んで置けば分るやうにしてあるのざぞ。神は天からと宙からと地からと力(ちから)合はして、神の臣民に手柄立てさす様にしてあるのざが、今では手柄立てさす、神の御用に使ふ臣民一分(いちぶ)もないのざぞ。神の国が勝つばかりではないのざぞ、世界中の人も草も動物も助けてみな喜ぶやうにせなならんのざから、臣民では見当取れん永遠(とことは)につづく神世に致すのざから、素直に神の申すこときくが一等ざぞ。人間の知恵でやれるなら、やって見よれ、あちらへ外れ、こちらへ外れて、ぬらりくらりと鰻つかみぞ、思ふやうにはなるまいがな、神の国が本の国ざから、神の国からあらためるのざから、一番つらいことになるのざぞ、覚悟はよいか、腹さへ切れぬ様なフナフナ腰で大番頭とは何と云ふことぞ、てんし様は申すもかしこし、人民さま、犬猫にも済むまいぞ。人の力ばかりで戦してゐるのでないこと位 分って居らうがな、目に見せてあらうがな、これでも分らんか。』(天つ巻 第十六帖)

『世界中の臣民はみなこの方の臣民であるから、殊に可愛い子には旅させねばならぬから、どんなことあっても神の子ざから、神疑はぬ様になされよ、神疑ふと気の毒出来るぞ。いよいよとなりたら、どこの国の臣民といふことないぞ、大神様の掟通りにせねばならんから、可愛い子ぢゃとて容赦出来んから、気つけてゐるのざぞ、大難を小難にまつりかへたいと思へども、今のやり方は、まるで逆様ざから、何うにもならんから、いつ気の毒出来ても知らんぞよ。外国から早く分りて、外国にこの方祀ると申す臣民 沢山出来る様になりて来るぞ。それでは神の国の臣民 申し訳ないであろがな、山にも川にも海にもまつれと申してあるのは、神の国の山川ばかりではないぞ、この方 世界の神ぞと申してあろがな。裸になりた人から、その時から善の方にまわしてやると申してあるが、裸にならねば、なるやうにして見せるぞ、いよいよとなりたら苦しいから今の内ざと申してあるのぞ。凡てをてんし様に献げよと申すこと、日本の臣民ばかりでないぞ、世界中の臣民みな てんし様に捧げなならんのざぞ。』(富士の巻 第二十五帖)

『神の申すこと何でも素直にきくやうになれば、神は何でも知らしてやるのぞ。配給のことでも統制のことも、わけなく出来るのぞ、臣民みな喜ぶやうに出来るのぞ、何もかも神に供へてからと申してあろがな、山にも川にも野(ぬ)にも里にも家にも、それぞれに神祀れと申してあろがな、ここの道理よく分らんか。神は知らしてやりたいなれど、今では猫に小判ぞ、臣民 神にすがれば、神にまつはれば、その日からよくなると申してあろが、何も六ヶ敷いことでないぞ、神は無理言はんぞ、この神示読めば分る様にしてあるのざから役員早う知らして縁ある臣民から知らして呉れよ。印刷出来んと申せば何もしないで居るが、印刷せいでも知らすこと出来るぞ、よく考へて見よ、今の臣民、学に囚へられて居ると、まだまだ苦しい事出来るぞ、理屈ではますます分らんやうになるぞ、早う神まつれよ、上も下も、上下揃えてまつりて呉れよ、てんし様を拝めよ、てんし様にまつはれよ、その心が大和魂ぞ、益人のます心ぞ、ますとは弥栄のことぞ、神の御心ぞ、臣民の心も神の御心と同じことになって来るぞ、世界中一度に唸(うな)る時が近づいて来たぞよ。』(富士の巻 第二十一帖)

『何もかも持ちつ持たれつであるぞ、臣民喜べば神も喜ぶぞ、金(きん)では世は治まらんと申してあるのに まだ金追うてゐる見苦しい臣民ばかり、金は世をつぶす本ぞ、臣民、世界の草木まで喜ぶやり方は◎の光のやり方ぞ。臣民の生命も長うなるぞ、てんし様は生き通しになるぞ、御玉体(おからだ)のままに神界に入られ、またこの世に出られる様になるぞ、死のないてんし様になるのぞ、それには今のやうな臣民のやり方ではならんぞ、今のやり方ではてんし様に罪ばかりお着せしてゐるのざから、この位 不忠なことないぞ、それでもてんし様はおゆるしになり、位までつけて下さるのぞ、このことよく改心して、一時(ひととき)も早く忠義の臣民となりて呉れよ。』(下つ巻 第三十五帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)

『上(うえ)、中(なか)、下(しも)の三段に身魂をより分けてあるから、神の世となりたら何事もきちりきちりと面白い様に出来て行くぞ。神の世とは神の心のままの世ぞ、今でも臣民 神ごころになりたら、何でも思ふ通りになるぞ。臣民 近慾(ちかよく)なから、心曇りてゐるから分らんのぞ。今度の戦は神力と学力のとどめの戦ぞ。神力が九分九厘まで負けた様になったときに、まことの神力出して、ぐれんと引繰り返して、神の世にして、日本のてんし様が世界まるめてしろしめす世と致して、天地神々様にお目にかけるぞ。てんし様の光が世界の隅々まで行きわたる仕組が三四五(みよいづ)の仕組ぞ、岩戸開きぞ。いくら学力強いと申しても百日の雨降らすこと出来まいがな。百日雨降ると何んなことになるか、臣民には分るまい、百日と申しても、神から云へば瞬きの間ぞ。』(下つ巻 第二十帖)

『二二は晴れたり、日本晴れ。神の国のまことの神の力をあらはす代となれる、仏もキリストも何も彼もはっきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るから みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ、この世初まって二度とない苦労である。このむすびは神の力でないと何も出来ん、人間の算盤では弾けんことぞ、日本はお土があかる、外国はお土がさかる。都の大洗濯、鄙の大洗濯、人のお洗濯。今度は何うもこらへて呉れというところまで、後へひかぬから、その積りでかかって来い、神の国の神の力を、はっきりと見せてやる時が来た。嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来る◎は神の国、神の力でないと何んにも成就せん、人の力で何が出来たか、みな神がさしてゐるのざ、いつでも神かかれる様に、綺麗に洗濯して置いて呉れよ。戦は今年中と言っゐるが、そんなちょこい戦ではない、世界中の洗濯ざから、いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。臣民同士のいくさでない、カミと神、アカとあか、ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさぞ。己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ、早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一。さびしさは人のみかは、神は幾万倍ぞ、さびしさ越へて時を待つ。加実が世界の王になる、てんし様が神と分らん臣民ばかり、口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふぞ。神の臣民みな命(みこと)になる身魂、掃除身魂結構。』(上つ巻 第一帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)

『火と水と申してあろがな。火つづくぞ。雨つづくぞ。火の災(わざわい)あるぞ。水の災あるぞ。火のおかげあるぞ、水の災 気つけよ。火と水 入り乱れての災あるぞ、近ふなりたぞ。火と水の御恵みあるぞ。一度は神の事も大き声して云へん事あるぞ、それでも心配するでないぞ。富士晴れるぞ。家族幾人居ても金いらぬであろが。主人(あるぢ)どっしりと座りておれば治まっておろが。神国の型 残してあるのざぞ。国治めるに政治はいらぬぞ、経済いらぬぞ。神おろがめよ、神祭れよ、てんし様おろがめよ。何もかも皆神に捧げよ、神からいただけよ。神国治まるぞ。戦もおさまるぞ。今の臣民 口先ばかりでまこと申してゐるが、口ばかりでは、なほ悪いぞ。言やめて仕へまつれ。でんぐり返るぞ。』(水の巻 第十三帖)

『今の法律 此の方嫌ひぢゃ、嫌ひのもの無くするぞ。凝り固まると害(そこな)ふぞ。此の道 中行く道と申してあるが、あれなら日津久の民ぞと世間で云ふ様な行ひせねばならんぞ。神の国と申すものは光の世、よろこびの世であるぞ。虫けらまで、てんし様の御光に集まるよろこびの世であるぞ。見事 此の方についてご座れ。手引ぱって峠越さしてやるぞ。』(松の巻 第十一帖)

『あら楽し、すがすがし、世は朝晴れたり、昼晴れたり、夜も晴れたり。あらたのし、すがすがし、世は岩戸明けたり、待ちに待ちし岩戸開けたり、此の神示の臣民と云ふても、人間界ばかりでないぞ。神界幽界のことも言ふて知らしてあると、申してあろが。取違ひ慢心一等恐いと申してあろが。祭典(まつり)、国民服もんぺでもよいぞ。天明まつりの真似するでないぞ。役員まつりせい。何も云ふでないぞ。言ふてよい時は知らすぞよ、判りたか。仕へる者無き宮、産土様の横下にいくら祀ってもよいぞ。天明は祈れ。祈れ。天に祈れ、地に祈れ、引潮の時引けよ。満潮の時進めよ。大難小難にと役員も祈れよ。口先ばかりでなく、誠祈れよ。祈らなならんぞ。口先ばかりでは悪となるぞ。わかりたか。今度は借銭済(な)しになるまでやめんから、誰によらず借銭無くなるまで苦し行せなならんぞ、借銭なしでないと、お土の上には住めん事に今度はなるぞ。イシの人と、キの人と、ヒの人と、ミヅの人と、できるぞ。今にチリチリバラバラに一時はなるのであるから、その覚悟よいか。毎度知らしてあること忘れるなよ。神示 腹の腹底まで浸むまで読んで下されよ。神頼むぞ。悟った方 神示とけよ。といて聞かせよ。役員 皆とけよ。信ずる者皆人に知らしてやれよ。神示読んで嬉しかったら、知らしてやれと申してあらうが。天明は神示書かす役ぞ。アホになれと申してあろが、まだまだぞ、役員 気付けて呉れよ。神示の代りにミ身に知らすと申してある時来たぞ。愈々の時ぞ。神示で知らすことのはじめは済みたぞ。実身掃除せよ。ミ身に知らすぞ。実身に聞かすぞ、聞かな聞く様にして知らすぞ。つらいなれど、がまんせよ。ゆめゆめ利功出すでないぞ。判りたか、百姓にもなれ、大工にもなれ、絵描きにもなれ。何にでもなれる様にしてあるでないか。役員も同様ぞ。まどゐつくるでないぞ、金とるでないぞ。神に供へられたものはみな分けて、喜ばしてやれと申してあろが。此の方 喜ぶこと好きぞ、好きの事栄えるぞ。いや栄へるぞ。信者つくるでないぞ。道伝へなならんぞ。取違へせん様に慢心せん様に、生れ赤児の心で神示読めよ。神示いただけよ。日本の臣民 皆勇む様、祈りて呉れよ。世界の人民 皆よろこぶ世が来る様 祈りて呉れよ、てんし様まつれよ。みことに服(まつ)ろへよ。このこと出来れば他に何も判らんでも、峠越せるぞ。御民いのち捨てて生命に生きよ。「鳥鳴く声す 夢さませ、見よ あけ渡るひむかしを、空色晴れて沖つ辺に、千船行きかふ靄(もや)の裡(うち)。」「いろは、にほへとち、りぬるをわかよ、たれそ、つねならむ、うゐのおくやま、けふこ、えてあさき、ゆめみしゑひもせすん。」 「アオウエイ。カコクケキ。サソスセシ。タトツテチ。ナノヌネニ。ハホフヘヒ。マモムメミ。ヤヨユエイ。ラロルレリ。ワヲウヱヰ。」 アイウエオ。ヤイユエヨ。ワヰヱヲ。カキクケコ。サシスセソ。タチツテト。ナニヌネノ。ハヒフヘホ。マミムメモ。ヤイユエヨ。ラリルレロ。ワヰウヱヲ。五十九柱ぞ。此の巻 夜明けの巻とせよ。この十二の巻よく腹に入れておけば何でも判るぞ。無事に峠越せるぞ。判らん事は自分で伺へよ。それぞれにとれるぞ。天津日嗣皇尊(あまつひつぎすめらみこと)弥栄(やさか)いや栄(さか)。あら楽し、あら楽し、あなさやけ、あなさやけ、おけ。 一二三四五六七八九十百千卍(ひふみよいつむゆななやここのたりももちよろず)。』(夜明けの巻 第十三帖)

『何も六ヶ敷いこと申すのではない。自分の、内の自分を洗濯して明らかに磨けばよいのぢゃ。内にあるものを浄化すれば、外から近づくものがかわって来る道理。内の自分を洗濯せずにゐて、きたないものが近づくとか、世の中がくらいとか不平申して御座るなれど、そこにそなたの間違いがあるぞ。木でも草でも中から大きくなって行くのぢゃ。三千年に一度の時がめぐり来てゐるのであるぞ。為せば成る時が来てゐるのぢゃ。為さねば後悔ぞ。時すぎて種まいても、くたびれもうけ。そなたは世の中が悪いとか人がよくないとか申してゐるが、すべては大神の肚の中にゐて、一応 大神が許しなされて居ればこそ存在し、いのちしてゐるのであるぞ。悪くうつるのは心のかがみがくもってゐるからぞ。悪い世の中、悪い人と申すことは、神を悪く申し、神界が悪いのぢゃと申すのと同じであるぞ。新しき世界には新しき【てんし(天詞)てんか】をこしらえねばならん。このこと間違えるでないぞ。珍らしき御型(方)が出て来てびっくりぢゃ。びっくりしなければヒックリとはならんぞ。神は今迄 化けに化けていたが、もう化けては居られん。人民ももう化けては居られんぞ。九分九厘までは化けて、がまんしてゐたなれど、化けの世、方便の世、方便の教はすんだのぢゃ。教では世は正されん。教のつどいはつぶれて了うのぢゃ。無理してはならん。そなたの無理押しは よいことをわるく曲げるぞ。』(月光の巻 第五十帖)

『神が臣民の心の中に宝いけておいたのに、悪にまけて汚して仕まうて、それで不足申してゐることに気づかんか。一にも金、二にも金と申して、人が難儀しようがわれさへよけらよいと申してゐるでないか。それはまだよいのぞ、神の面(めん)かぶりて口先ばかりで神さま神さま てんしさま てんしさま と申したり、頭下げたりしてゐるが、こんな臣民一人もいらんぞ、いざと云ふときは尻に帆かけて逃げ出す者ばかりぞ、犬猫は正直でよいぞ、こんな臣民は今度は気の毒ながらお出直しぞ、神の申したこと一分一厘ちがはんのざぞ、その通りになるのざぞ。うへに唾(つば)きすればその顔に落ちるのざぞ、時節ほど結構なこわいものないぞ、時節来たぞ、あはてずに急いで下されよ。世界中うなるぞ。陸が海となるところあるぞ。今に病神(やまいがみ)の仕組にかかりてゐる臣民苦しむ時近づいたぞ、病はやるぞ、この病は見当とれん病ぞ、病になりてゐても、人も分らねばわれも分らん病ぞ、今に重くなりて来ると分りて来るが、その時では間に合はん、手おくれぞ。この方の神示(ふで)よく腹に入れて病追ひ出せよ、早うせねばフニャフニャ腰になりて四ツん這ひで這ひ廻らなならんことになると申してあらうがな、神の入れものわやにしてゐるぞ。』(地つ巻 第十六帖)

Posted on 2017/05/05 Fri. 07:34 [edit]

category: ともゑうた

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05

いろはうた 

うつしよぬけて みとりなす
のへをまゐれは もゆるせん
さやにおほわた こかねそら
あめくゑひきえ いちろふむ

現世抜けて 緑なす
野辺を参れば 燃ゆる線
清に大曲 黄金空
叫く酔ひ消え 一路踏む

解説

現世(うつしよ)は「この世。げんせ。」、緑なす(みどりなす)は「木や草の葉が茂った。」、野辺は「野のあたり。野原。」、清(さや)は「(多く‘に’を伴って用いられる)はっきりとしたさま。」、大曲(おほわだ)は「川や湖岸の大きく湾曲した入り江。」、叫く(あめく)は「大声を出す。さけぶ。わめく。」、酔ひ(ゑひ)は「酔うこと。よい。」、一路は「(副詞的に用いる)寄り道せずにまっすぐに。ひたすら。」、踏むは「踏み歩く。歩く。」の意味です。

余談

この歌は「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX O.S.T」の中にある「Fish - Silent Cruise」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

意訳

この世を抜けて、草木が生い茂った野原を進んで行けば、燃えるような地平線、はっきりと映る清々しい入り江、そして黄金色に輝く空が見える。

その目が覚めるような光景を前にしたら、死後直後にあった、喚き叫ぶほどの取り乱した気持ちも消えてしまった。今はただ、この目の前の道をひたすら歩いていくのみだ。

雑感

見ての通り、死んだ後に進む世界をイメージして作ったものです。

「燃ゆる線」は、朝日或いは夕日に照らされた地平線をイメージしていますが、この「線」は、この世とあの世の絶対的な境目、という意味も強く含まれているように思います。

強いて言うなら、この地平線は夜明けの朝っぽい感じですが、同時に夕焼けっぽい感じもします。朝でも夕でもない、現世の枠組みだけでは計れない場所、だけれども、どこかで見たような清々しい光景、そしてなぜかとても懐かしい光景、という場所を指しているものと思われます。

死後直後、なぜ喚き叫んでいるほど取り乱しているのかというとおそらく、死ぬということは人にとっては初めてのことで、初めてのことは誰でも怖いからだと思われます。

また、生きている時には死後のことは解らない。人によっては死後などなく、死んだら終わりだ、と思っていたのに、自分の意識が死後も続いているという厳然たる事実に、錯乱して取り乱してしまう、ということかと思います。

しかしいずれは、そのことを受け入れざるを得なくなる。その部分を表現しているのが「緑なす野辺を参れば」の所。

緑(みどり)は縁(えん)に通じ、野辺は野原の意味の他に、火葬場、埋葬地の意味もあります。平たく言うと、死んだ後、縁がある人たちが集まってくれる自分の葬式を眺めながら、人によってはいろいろと後悔したり、また感慨深い気持ちになったりして、気持ちの整理をつけていく。

じゃあ、誰も葬式してくれない人はどうなるの、とも思ってしまいますが、本質的には葬式云々ではなく、生前の自分の縁を見ていくということかと思います。たとえば、心に残っている過去の場面を客観的に眺めて反省したり納得したり、過去に縁があった人の現在の姿を見てみたり、など。

そうしてあらかた整理がついた後、さて、自分はこれからどうしようか、となる。おそらくこの時、自分の生前の因縁(言葉・思い・行動)から得た心境によって、それぞれの行くべき世界が創造され、その世界に向けて旅立つものと思われます。

歌で詠われている光景は、そのような旅立ちの一つを描いているのだと想像します。

Posted on 2017/05/04 Thu. 03:00 [edit]

category: いろはうた

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04

まわりうた 

ひしまたと まやまかたきし
  まうてきて うましきたかま やまとたましひ

(微志またと 真山片岸 詣で来て 美しき高天 大和魂)

解説

微志(びし)は「わずかの志。また、自分の志をへりくだっていう語。寸志。」、真(ま)は「(名詞・動詞・形容詞・形容動詞などに付いて)りっぱな、美しい、などの意を表す。」、片岸は「川などの一方の岸。」「片方が高く切り立ってがけになった所。」「傍らの場所。隣。 」、詣で来(もうでく)は「参上する。うかがう。やってまいる。▽‘来(く)’の謙譲語。」、美し(うまし)は「満ち足りていて美しい、すばらしいと賛美する気持ちを表す。よい。すばらしい。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「ウシワカ登場」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

意訳

(いろいろあっても)わずかばかりの志を持ってまた、どんな立派な山にでも、どんな切り立った崖にでも伺って、最後には誰もが素晴らしいと賛美する天の中心と、大和魂の顕現を実現させたいものだ。

雑感

日月神示の下記部分によれば、今のいう大和魂と本来の大和魂は違う所があるという。

『一二三四五六七八九十百千卍(ひとふたみよいつむななやここのたりもちよろず)。今度は千人万人力でないと手柄出来んと申してあろがな。世界中総掛かりで攻めて来るのざから、一度はあるにあられん事になるのぞ。大将ざからとて油断出来ん。富士の山動く迄にはどんな事も耐(こら)えねばならんぞ。上辛いぞ。どんなことあっても死に急ぐでないぞ。今の大和魂と神の魂と違ふ所あるのざぞ。その時その所によりて、どんなにも変化(へんげ)るのが神の魂ぞ。馬鹿正直ならんと申してあろ。今日(けう)あれし生命勇む時来たぞ。』(日月の巻 第三十一帖)

では、本来の大和魂とはどんなものかというと、下記部分が参考になりそうだ。読んでみると、どうも神と一つに溶け合った魂が大和魂で、しかもそれは日本人に限定されたものではないという。

『日月の民を練りに練り大和魂の種にするのであるぞ、日月の民とは日本人許りでないぞ、大和魂とは神の魂ぞ、大和の魂ぞ、まつりの魂ぞ、取違ひせん様に気付けおくぞ。』(雨の巻 第十帖)

『神の国には昔から神の民より住めんのであるぞ、幽界(がいこく)身魂は幽界(がいこく)行き。一寸の住むお土も神国にはないのざぞ。渡れん者が渡りて穢して仕舞ふてゐるぞ。日本の人民、大和魂 何処にあるのざ、大和魂とは神と人と解け合った姿ぞ。戦いよいよ烈しくなると、日本の兵隊さんも、これは叶はんと云ふ事になり、神は此の世にいまさんと云ふ事になって来るぞ。それでどうにもこうにもならん事になるから、早よう神にすがれと申してゐるのぞ。誠ですがれば、その日からよくなるぞ、神力現れるぞ。今度の建替は、此の世 初まってない事であるから、戦ばかりで建替出来んぞ。世界隅々まで掃除するのであるから、どの家もどの家も、身魂も身魂も隅々まで生き神が改めるのざから、辛い人民 沢山出来るぞ。ミタマの神がいくら我張っても、人民に移っても、今度は何も出来はせんぞ。世の元からの生神でない事には出来ないのであるぞ。それで素直に言ふ事聞けとくどう申すのぞ、今度は神の道もさっぱりとつくりかへるのざぞ。臣民の道は固(もと)より、獣の道もつくりかへぞ。戦の手伝い位 誰でも出来るが、今度の御用はなかなかにむつかしいぞ。赤いものが赤い中にゐると色無いと思ふのぞ、気付けて呉れよ。悪神の守護となれば自分で正しいと思ふ事、悪となるのざぞ。悪も改心すれば助けてやるぞ。海の御守護は竜宮のおとひめ様ぞ。海の兵隊さん竜宮のおとひめ殿まつり呉れよ。まつわり呉れよ。竜宮のおとひめ殿の御守護ないと、海の戦は、けりつかんぞ。朝日照る夕日たださす所に宝いけておいてあるぞ。宝 愈々世に出るぞ。人民の改心第一ぞ。顔は今日でも変るぞ。民の改心なかなかぞ。』(松の巻 第八帖)

『神の申すこと何でも素直にきくやうになれば、神は何でも知らしてやるのぞ。配給のことでも統制のことも、わけなく出来るのぞ、臣民みな喜ぶやうに出来るのぞ、何もかも神に供へてからと申してあろがな、山にも川にも野(ぬ)にも里にも家にも、それぞれに神祀れと申してあろがな、ここの道理よく分らんか。神は知らしてやりたいなれど、今では猫に小判ぞ、臣民 神にすがれば、神にまつはれば、その日からよくなると申してあろが、何も六ヶ敷いことでないぞ、神は無理言はんぞ、この神示読めば分る様にしてあるのざから役員早う知らして縁ある臣民から知らして呉れよ。印刷出来んと申せば何もしないで居るが、印刷せいでも知らすこと出来るぞ、よく考へて見よ、今の臣民、学に囚へられて居ると、まだまだ苦しい事出来るぞ、理屈ではますます分らんやうになるぞ、早う神まつれよ、上も下も、上下揃えてまつりて呉れよ、てんし様を拝めよ、てんし様にまつはれよ、その心が大和魂ぞ、益人のます心ぞ、ますとは弥栄のことぞ、神の御心ぞ、臣民の心も神の御心と同じことになって来るぞ、世界中一度に唸(うな)る時が近づいて来たぞよ。』(富士の巻 第二十一帖)

また下記ブログでは、さらに具体的に書かれているので、こちらも参考になるのではないだろうか。

『大黒様と出口王仁三郎随筆「日本魂(やまとだましい)とは」について』(月は盈つとも虧くるとも by oni567さん)
http://blog.livedoor.jp/oni567/archives/3572893.html

Posted on 2017/05/03 Wed. 07:21 [edit]

category: まわりうた

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03

まわりうた 

なかとりの とふはるゆきに
  まいのりの いまにきゆるは ふとのりとかな

(長鳥の 飛ぶ春斎木に 真祈りの 今に消ゆるは 太祝詞かな)

解説

長(なが)は「 他の語の上または下に付いて複合語をつくり、ながいことの意を表す。」、斎木(ゆき)は「神前に供える常磐木(ときわぎ)。サカキの類。」、太祝詞(ふとのりと)は「祝詞(のりと)の美称。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「ウシワカ登場」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2017/05/02 Tue. 10:45 [edit]

category: まわりうた

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02

まわりうた 

ちのいのり いたりのいのり
  かいはうは いかりのいのり たいりのいのち

(地の祈り 至りの祈り 解放は 怒りの祈り 大理の命)

解説

大理は「根本にある道理。」の意味です。

余談

この歌は、「風の谷のナウシカ サウンドトラック はるかな地へ・・・」の中の「ナウシカ・レクイエム」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

具体的にいうと、風の谷のナウシカに出て来る大海嘯(だいかいしょう 王蟲の大群が暴走すること)をイメージしたものです。

Posted on 2017/05/01 Mon. 23:16 [edit]

category: まわりうた

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01

まわりうた 

ひかさふと しけみのらかな
  むかのちの かむなからのみ けしとふさかひ

(日暈ふと 繁み野良かな 無我の地の 惟神のみ 消し飛ぶ境)

解説

日暈(ひがさ)は「太陽の周りに見える光の輪。」、野良は「野原。野。」「田畑。農場。」、無我は「 あらゆる事物は現象として生成しているだけで、それ自体を根拠づける不変的な本質は存在しないとする仏教の根本的な思想」、惟神(かむながら)は「神慮のまま。かんながら。」の意味です。

余談

この歌は「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX O.S.T」の中にある「Fish - Silent Cruise」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2017/05/01 Mon. 19:07 [edit]

category: まわりうた

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01

まわりうた 

ますみよし つうのみかへす
  ときてきて きとすへかみの うつしよみすま

(真澄良し 通のみ返す 時出来て きと皇神の 現世見す間)

解説

真澄は「よく澄んでいること。澄み切っていること。」、通(つう)は「神通力。」、きとは「しっかりと。確かに。」、皇神は「神を敬っていう語。すめかみ。」、現世(うつしよ)は「この世。げんせ。」、見すは「‘見る’の尊敬語。ご覧になる。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

意訳

何もかも澄み切って良し。今の行き詰まりに唯一通用する力、神力を、心の澄み切った人から(順次神が)授け返す時節と出て来て、確かにこの世は神が治めている世であると、誰もが判る世の中になるのだ。さあ、とくとご覧あれ。

雑感

この「出来て」は「出来る」の意味の他、「出+来て」で、出て来て、という意味も含まれていると思われる。

さて、日月神示によれば、この先は神の力を頂かかないとどうにもならいと書かれている。一方、身魂を磨けた人から千人力を与えるともある。

神示では学力と神力の戦いとも示されているが、学の世が何もかも行き詰った所で、誠を持った人達が常人とは思えない働きを怒涛の如く見せる、ということをこの歌は詠っているように思う。

いよいよ時節が到来して、そのような人々がわんさか出て来ることだろう。特に日本は神国なのであるから、そういう人が後から後から出て来るに違いない。神示でも、神があるかないかをはっきりさせる、という旨のことが書かれている。

もし出て来ないのであれば、日本は神国ではなかった、或いはあまりに汚れてしまって、神様から見放された国になってしまった、ということだろう。とは言え、それはちょっと忍びないものがある。

既に神からの綱が切れている感がありありだが、「そこを何とか……。」と、頼み込みたい気持ちである。ここは何とか身魂を磨いて、神に通じる力をお借りしたい、と願わざるを得ない。

下記文献を読んで見ると、通常1問20~30分もかかる難しい数学の問題を、わずか1~2分で解いてしまう、とあるので、とにかく神力はすごいらしい。しかし、それすらも神力の威力を知るに足る一端に過ぎないという。

『大本史料集成Ⅱ 運動篇 第一部 明治・大正期の運動 第三章 幹部その他関係文書 第一節 一葉落ちて知る天下の秋』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~」さんより)
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195502c1301

やはりここは素直に身魂を磨いて、神にすがりながらも、何とかしてこの国難を乗り切りたいところだ。

日月神示参照。

『大き器持ちて御座れよ、小さい心では見当とれんことになるぞ。慢心取違いポキンぞ。ミタマ何時でも変るのざぞ、次々に偉い人出て来るから神示よく読んでグングン行って進めよ、行ふ所 神現はれるぞ、光の道 弥栄ぞ、なせばなるのざぞ、人民どんどん行はなならんのざぞ、この神示から、ひかり教会から世に出せよ、この巻「ア火ハ(アオバ)の巻」、前の巻は「三@(ソラ)の巻」とせよ。』(青葉の巻 第一帖 @は原文では「○にヽ」の形)

『万物の長とは神の臣民の事であるぞ、世界の人民も皆万物の長であるが、この世の神は臣民ぢゃぞ、神に次いでの良き身魂(みたま)ぞ、臣民は地(くに)の日月の神様ざぞ。火の粉でやけどするなよ、気付けおくぞ。世に出てゐる守護神のする事知れてゐるぞ。元の生神様 御一方(おんひとかた)御力出しなされたら手も足も出んことになるのぢゃ、神力と学力とのいよいよの力くらべぢゃ、元の生神様の御息吹きどんなにお力あるものか、今度は目にもの見せねばならんことになったぞ、肉体ばかりか、魂までのうにならふやも知れんぞ、震へ上がるぞ。理が神ぞ。理が神の御用ざと申してあろがな。』(梅の巻 第十二帖)

『何によらず不足ありたら、神の前に来て不足申して、心からりと晴らされよ、どんな事でも聞くだけは聞いてやるぞ、不足あると曇り出るぞ、曇り出ると、ミタマ曇るからミタマ苦しくなりて天地曇るから遠慮いらん、この方に不足申せよ、この方 親であるから、不足一応は聞いてやるぞ。気晴らしてカラリとなって天地に働けよ、心の不二晴れるぞ、はじめの岩戸開けるぞ。早のみ込み大怪我の元、じっくりと繰り返し繰り返し神示よめよ、神示 肚の肚に入れよ、神示が元ざぞ、今度は昔からの苦労のかたまり、いき魂(たま)でないと御用むつかしいぞ。世のたとへ出て来るぞ。神が人の口使ふて云はせてあるのぢゃぞ。神国は神力受けねば立ちては行けんぞ、神なくして神力ないぞ、神なくなれば丸潰れざぞ。まわりに動く集団(まどひ)早うつくれよ。数で決めやうとするから数に引かれて悪となるのざ、数に引かれ困らん様 気付けよ。この神示とくのはタマでないと少しでも曇りあったら解けんぞ。悪に見せて善(ぜん)行はなならん事あるぞ。この行 中々ざぞ。此の世の鬼 平らげるぞよ。鬼なき世となりけるのざぞ。判りたか。キリスト教の取次さん、仏教の取次さん、今の内に改心結構ぞ、丸潰れ近づいて御座るに気付かんのか。同じ名の神二つあるぞ。人民三つ四つにもおろがんで御座るぞ、ふみ出すもよいなれど、神示読むのが先ざぞ。神第一ざぞと申してあらうが。暫し待て。世界のふみ出す時来るぞ。アワの様な今のふみ何にもならんぞ、時待てと申してあらうがな、この巻から謄写もならんぞ、時来る迄 写して皆に分けとらせよ。』(光の巻 第八帖)

『役員それぞれのまとひつくれよ、何れも長(おさ)になる身魂でないか。我軽しめる事は神軽くすることざ、わかりたか。おのもおのも頭領であるぞ、釈迦ざぞ。キリストざぞ。その上に神ますのざぞ、その上 神又ひとたばにするのざぞ、その上に又ヽでくくるぞ、その上にもヽあるのざぞ、上も下も限りないのざぞ。奥山 何処に変っても宜いぞ、当分 肉体へおさまるから何処へ行ってもこの方の国ぞ、肉体ぞ、心配せずに、グングンとやれよ、動くところ、神力 加はるのざぞ、人民のまどひは神無きまどひぞ、神無きまどひつくるでないぞ、神上に真中(まなか)に集まれよ。騒動待つ心 悪と申してあること忘れるなよ、神の申した事ちっとも間違ひないこと、少しは判りたであろがな。同じ名の神 二柱あるのざぞ、善と悪ざぞ、この見分けなかなかざぞ、神示よめば見分けられるように、よく細かに解(と)いてあるのざぞ、善と悪と間違ひしてゐると、くどう気付けてあろがな、岩戸開く一つの鍵ざぞ、名同じでも裏表ざぞ、裏表と思ふなよ、頭と尻 違ふのざぞ。千引(ちびき)の岩戸開けるぞ。』(風の巻 第一帖)

『神示よく読めと、神示よく肚に入れと申してあるが、神示肚に入れると胴すわるのざぞ、世界から何んな偉い人が出て来て何んな事尋ねても教へてやれる様になるのざぞ、神示胴に入れて頭下げて天地に働いて下されよ、まつりて下されよ、素直になれば其の場から其の場其の場で何事も神が教へてやるから、力つけて導いてやるから、何んな神力でも授けてやるぞ。一二三四五六七八九十百千卍(ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろず)授け申して神人となるぞ。我さえよけらよいとまだ思って御座る臣民まだで御座るぞ、自分一人で生きてゆけんぞ、神許りでも生きてゆけんぞ、爪の垢でもだてについてゐるのではないのざぞ、判らんと申しても余りで御座るぞ、まつりせよ、地(つち)にまつろへよ、天(あめ)にまつろへよ、人にまつろへよ、草木動物にまつろへよ、と、くどう知らしてあるのに未だ判らんのか、神拝む許りがまつりでないぞ。待ちに待ちし日の出の御代となりにけり、一二三(ひふみ)いろはの世はたちにけり。身慾信心してゐる臣民人民、今に神示聞けぬ様に いれものつんぼになるのざぞ、きびしくなって来るぞ、毒にも薬にもならん人民、今度は役に立たんのざぞ、悪気ない許りでは一二(ひつき)の御民とは申されんぞ。あら楽し、黒雲一つ払ひけり、次の一つも払ふ日近し。淋しくなりたら神示尋ねて御座れ、神示読まねば益々判らん事になったであろうが、天国に底ない様に地獄にも底ないぞ、何処までも落ちるぞ、鼻高の鼻折らな人民何んと申しても神承知出来ん。』(雨の巻 第六帖)

『天も地も一つにまぜし大嵐、攻め来る敵は駿河灘(するがなだ)、富士を境に真二つ。先づ切り取りて残るもの、七つに裂かん仕組なり。されど日本は神の国。最後の仕組神力に、寄せ来る敵は魂まで、一人残らずのうにする。夜明けの御用つとめかし。晴れたる富士のすがすがし。』(松の巻 第二十七帖)

『人民同士の戦ではかなはんと云ふ事よく判りたであろがな。神と臣民融け合った大和魂でないと勝てんことぞ。悪神よ。日本の国を此処までよくも穢したな、これで不足はあるまいから、いよいよ此の方の仕組通りの、とどめにかかるから、精一杯の御力でかかりて御座れ。学問と神力の、とどめの戦ざぞ。』(松の巻 第十八帖)

『神の国には昔から神の民より住めんのであるぞ、幽界(がいこく)身魂は幽界(がいこく)行き。一寸の住むお土も神国にはないのざぞ。渡れん者が渡りて穢して仕舞ふてゐるぞ。日本の人民、大和魂 何処にあるのざ、大和魂とは神と人と解け合った姿ぞ。戦いよいよ烈しくなると、日本の兵隊さんも、これは叶はんと云ふ事になり、神は此の世にいまさんと云ふ事になって来るぞ。それでどうにもこうにもならん事になるから、早よう神にすがれと申してゐるのぞ。誠ですがれば、その日からよくなるぞ、神力現れるぞ。今度の建替は、此の世 初まってない事であるから、戦ばかりで建替出来んぞ。世界隅々まで掃除するのであるから、どの家もどの家も、身魂も身魂も隅々まで生き神が改めるのざから、辛い人民 沢山出来るぞ。ミタマの神がいくら我張っても、人民に移っても、今度は何も出来はせんぞ。世の元からの生神でない事には出来ないのであるぞ。それで素直に言ふ事聞けとくどう申すのぞ、今度は神の道もさっぱりとつくりかへるのざぞ。臣民の道は固(もと)より、獣の道もつくりかへぞ。戦の手伝い位 誰でも出来るが、今度の御用はなかなかにむつかしいぞ。赤いものが赤い中にゐると色無いと思ふのぞ、気付けて呉れよ。悪神の守護となれば自分で正しいと思ふ事、悪となるのざぞ。悪も改心すれば助けてやるぞ。海の御守護は竜宮のおとひめ様ぞ。海の兵隊さん竜宮のおとひめ殿まつり呉れよ。まつわり呉れよ。竜宮のおとひめ殿の御守護ないと、海の戦は、けりつかんぞ。朝日照る夕日たださす所に宝いけておいてあるぞ。宝 愈々世に出るぞ。人民の改心第一ぞ。顔は今日でも変るぞ。民の改心なかなかぞ。』(松の巻 第八帖)

『世の元からの生神が揃うて現はれたら、皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの云へん様になるのざぞ。神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ、神徳はいくらでも背負ひきれん迄にやるぞ、大き器もちて御座れよ、掃除した大きいれものいくらでも持ちて御座れよ、神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ。今度はマコトの神の力でないと何も出来はせんぞと申してあろが、日本の国は小さいが天と地との神力強い、神のマコトの元の国であるぞ。洗濯と申すのは何事によらん、人間心すてて仕舞て、智恵や学に頼らずに、神の申すこと一つもうたがはず生れ赤子の心のうぶ心になりて、神の教 守ることぞ。ミタマ磨きと申すのは、神からさづかってゐるミタマの命令に従ふて、肉体心すてて了ふて、神の申す通りそむかん様にすることぞ。学や智を力と頼むうちはミタマは磨けんのざ。学越えた学、智越えた智は、神の学、神の智ざと云ふこと判らんか、今度の岩戸開きはミタマから、根本からかへてゆくのざから、中々であるぞ、天災や戦ばかりでは中々らちあかんぞ、根本の改めざぞ。小さいこと思ふてゐると判らんことになると申してあろがな、この道理よく肚に入れて下されよ、今度は上中下三段にわけてあるミタマの因縁によって、それぞれに目鼻つけて、悪も改心さして、善も改心さしての岩戸開きざから、根本からつくりかへるよりは何れだけ六ヶ敷いか、大層な骨折りざぞよ。叱るばかりでは改心出来んから喜ばして改心さすことも守護神にありてはあるのざぞ、聞き分けよい守護神殿 少ないぞ、聞き分けよい悪の神、早く改心するぞ、聞き分け悪き善の守護神あるぞ。この道の役員は昔からの因縁によってミタマ調べて引寄せて御用さしてあるのざ、めったに見当くるわんぞ、神が綱かけたら中々はなさんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくる廻って又始めからお出直しで御用せなならん様になって来るぞ。ミタマ磨け出したら病神などドンドン逃げ出すぞ。出雲(いずも)の神様 大切申せと知らしてあること忘れるなよ。子(ネ)の歳真中にして前後十年が正念場、世の立替へは水と火とざぞ。ひつじの三月三日、五月五日は結構な日ぞ。』(磐戸の巻 第十六帖)

『今度は世に落ちておいでなされた神々様をあげねばならぬのであるぞ、臣民も其の通りざぞ、神の申す通りにすれば何事も思ふ通りにすらすらと進むと申してあろがな。此れからは神に逆らふものは一つも埓あかんぞ、やりてみよれ、九分九厘でぐれんざぞ。神の国は何うしても助けなならんから、神が一日一日と延ばしてゐること会得らんか。皆の者がかみを軽くしてゐるからお蔭なくなってゐるのざぞ、世の元の神でも御魂となってゐたのではまことの力出ないのざぞ。今度の経綸(しぐみ)は世の元の生き通しの神でないと間に合はんのざぞ。何処の教会も元はよいのであるが、取次役員がワヤにしてゐるのぞ、今の様(さま)は何事ぞ。此の方は力あり過ぎて失敗(しくじ)った神ざぞ、此の世かもう神でも我出すと失敗るのざぞ、何んな力あったとて我出すまいぞ、此の方がよい手本(みせしめ)ぞ。世界かもう此の方さへ我で失敗ったのぞ、執念(くど)い様なれど我出すなよ、慢心と取違ひが一等気ざはりざぞ。改心ちぐはぐざから物事後先になりたぞ、経綸少しは変るぞ。今の役員、神の道広めると申して我(われ)を弘めてゐるでないか、そんな事では役員とは言はさんぞ。今迄は神が世に落ちて人が神になりておりたのぞ、これでは世は治まらんぞ。神が上(かみ)で、臣民、人民 下におらねばならんぞ。吾が苦労して人救ふ心でないと、今度の岩戸開けんのざぞ、岩戸開きの御用する身魂は吾の苦労で人助けねばならんのざ。 十年先は、五六七(みろく)の世ざぞ、今の人間 鬼より蛇より邪見ざぞ、蛇の方が早う改心するぞ、早う改心せねば泥海にせなならんから、神は日夜の苦労ぞ。道は一つと申してあろがな、二つ三つ四つあると思ふてはならんぞ、足元から鳥立つと申してあろが、臣民 火がついてもまだ気付かずにゐるが、今に体に火ついてチリチリ舞ひせなならんことになるから、神、執念気つけておくのざぞ。三四気つけて呉れよ、神の国は神の力で何事も思ふ様に行く様になりてゐるのに、学や智に邪魔されてゐる臣民ばかり、早う気付かぬと今度と云ふ今度は取返しつかんぞ。見事なこと神がして見せるぞ、見事なことざぞ、人間には恐しいことざぞ、大掃除する時は棚のもの下に置く事あるのざぞ、下にあったとて見下げてはならんぞ、この神は神の国の救はれること一番願ってゐるのざぞ、外国人も神の子ではあるが性来が違ふのざぞ、神の国の臣民がまことの神の子ざぞ、今は曇りてゐるなれど元の尊い種植えつけてあるのざぞ、曇り取り去りて呉れよ、依怙(えこ)の様なれど外国は後廻しぞ、同じ神の子でありながら神の臣民の肩持つとは公平でないと申す者あるなれど、それは昔からの深い経綸であるから臣民には会得(わから)んことであるぞ、一に一足す二でないと申してあろが、何事も神の国から神の臣からぞ、洗濯も同様ぞ。今度の御用外(はず)したら何時になりても取返しつかんことになるのざから、心して御用して呉れよ、遣り損なひ出来ないことになりてゐるのざぞ。天に一柱 地に一柱 火にも焼けず水にも溺れぬ元の種隠しておいての今度の大建替ぞ、何んなことあっても人間心で心配するでないぞ、細工は隆々仕上げ見て呉れよ、此の神はめったに間違いないぞ。三千年 地に潜りての経綸で、悪の根まで調べてからの経綸であるから、人間殿 心配せずに神の申す様 素直に致して下されよ。末法の世とは地の上に大将の器(うつわ)無くなりてゐることざぞ。オロシヤの悪神(あく)と申すは泥海の頃から生きてゐる悪の親神であるぞ。北に気つけて呉れよ、神の国は結構な国で世界の真中の国であるから、悪の神が日本を取りて末代の住家とする計画でトコトンの智恵出して何んなことしても取る積りで愈々を始めてゐるのざから余程褌締めて下されよ、日本の上に立ちて居る守護神に分りかけたら ばたばたに埓あくぞ。早う改心して呉れよ。』(日の出の巻 第二十帖)

『一度に立替へすると世界が大変が起るから、延ばし延ばしてゐるのざぞ、目覚めぬと末代の気の毒できるぞ。国取られた臣民、どんなにむごいことになりても何も言ふこと出来ず、同じ神の子でありながら余りにもひどいやり方、けものよりもむごいことになるのが、よく分りてゐるから、神が表に出て世界中救ふのであるぞ、この神示腹に入れると神力出るのざぞ、疑ふ臣民沢山あるが気の毒ざぞ。一通りはいやがる臣民にもこの神示一二三(ひふみ)として読むやうに上の人してやりて下されよ。生命あるうちに神の国のこと知らずに死んでから神の国に行くことは出来んぞ、神の力でないと、もう世の中は何うにも動かんやうになってゐること、上の番頭どの分かりて居らうがな、何うにもならんと知りつつ まだ智や学にすがりてゐるやうでは上の人とは申されんぞ、智や学越えて神の力にまつはれよ、お土拝みて米作る百姓さんが神のまことの民ぞ、神おろがみて神示取れよ、神のない世とだんだんなりておろがな。真通(まつ)ることは生かす事ぞ。生かす事は能(はたら)かす事ぞ。神の国には何でもないものないのざぞ、神の御用なら何でも出て来る結構な国ぞ、何もなくなるのは やり方わるいのぞ、神の心に添はんのぞ。』(地つ巻 第三十帖)

『神の国八つ裂きと申してあることいよいよ近づいたぞ、八つの国一つになりて神の国に攻めて来るぞ。目さめたらその日の生命(いのち)おあづかりしたのざぞ、神の肉体、神の生命 大切せよ。神の国は神の力でないと治まったことないぞ、神第一ぞ、いつまで仏や基(キリスト)や色々なものにこだはってゐるのぞ。出雲の神様 大切にありがたくお祀りせよ、尊い神様ぞ。天つ神、国つ神、みなの神々様に御礼申せよ、まつろひて下されよ、結構な恐い世となりて釆たぞ、上下ぐれんぞ。』(地つ巻 第六帖)

『今度の戦は◎と○との大戦ぞ。神様にも分らん仕組が世の元の神がなされてゐるのざから、下(しも)の神々様にも分らんぞ。何が何だか誰も分らんやうになりて、どちらも丸潰れと云ふ所になりた折、大神のみことによりて この方らが神徳出して、九分九厘という所で、神の力が何んなにえらいものかと云ふこと知らして、悪のかみも改心せなならんやうに仕組みてあるから、神の国は神の力で世界の親国になるのぞ。◎と○とは心の中に「ヽ」があるか「ヽ」がないかの違ひであるぞ。この方は三四五(みよいつ)の神とも現われるぞ。江戸の御社(みやしろ)は誰でも気楽に来て拝める様にして置いて呉れよ、この方の神示(ふで)書く役員、神示うつす役員、神示説いてきかす役員要るぞ、役員は人の後について便所を掃除するだけの心掛ないとつとまらんぞ、役員づらしたら直ぐ替身魂使ふぞ。』(下つ巻 第九帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)

『二二は晴れたり、日本晴れ。神の国のまことの神の力をあらはす代となれる、仏もキリストも何も彼もはっきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るから みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ、この世初まって二度とない苦労である。このむすびは神の力でないと何も出来ん、人間の算盤では弾けんことぞ、日本はお土があかる、外国はお土がさかる。都の大洗濯、鄙の大洗濯、人のお洗濯。今度は何うもこらへて呉れというところまで、後へひかぬから、その積りでかかって来い、神の国の神の力を、はっきりと見せてやる時が来た。嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来る◎は神の国、神の力でないと何んにも成就せん、人の力で何が出来たか、みな神がさしてゐるのざ、いつでも神かかれる様に、綺麗に洗濯して置いて呉れよ。戦は今年中と言っゐるが、そんなちょこい戦ではない、世界中の洗濯ざから、いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。臣民同士のいくさでない、カミと神、アカとあか、ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさぞ。己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ、早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一。さびしさは人のみかは、神は幾万倍ぞ、さびしさ越へて時を待つ。加実が世界の王になる、てんし様が神と分らん臣民ばかり、口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふぞ。神の臣民みな命(みこと)になる身魂、掃除身魂結構。』(上つ巻 第一帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)

『喰うものがないと申して臣民不足申してゐるが、まだまだ少なくなりて、一時は喰う物も飲む物もなくなるのぞ、何事も行(ぎょう)であるから喜んで行して下されよ。滝に打たれ、蕎麦粉(そばこ)喰うて行者は行してゐるが、断食する行者もゐるが、今度の行は世界の臣民みな二度とない行であるから、厳しいのぞ、この行 出来る人と、よう我慢出来ない人とあるぞ、この行 出来ねば灰にするより他ないのぞ、今度の御用に使ふ臣民はげしき行さして神うつるのぞ。今の神の力は何も出ては居らぬのぞ。この世のことは神と臣民と一つになりて出来ると申してあろがな、早く身魂みがいて下されよ。外国は○、神の国はヽと申してあるが、ヽは神ざ、○は臣民ぞ、○ばかりでも何も出来ぬ、ヽばかりでもこの世の事は何も成就せんのぞ、それで神かかれるやうに早う大洗濯して呉れと申してゐるのぞ、神急(せ)けるぞ、この御用大切ぞ、神かかれる肉体 沢山要るのぞ。今度の行は○を綺麗にする行ぞ、掃除出来た臣民から楽になるのぞ。どこに居りても掃除出来た臣民から、よき御用に使って、神から御礼申して、末代名の残る手柄立てさすぞ。神の臣民、掃除洗濯出来たらこの戦は勝つのぞ、今は一分もないぞ、一厘もないぞ、これで神国の民と申して威張ってゐるが、足許からビックリ箱があいて、四ツん這ひになっても助からぬことになるぞ、穴掘りて逃げても、土もぐってゐても灰になる身魂は灰ぞ、どこにゐても助ける臣民 行って助けるぞ、神が助けるのでないぞ、神助かるのぞ、臣民も神も一緒に助かるのぞ、この道理よく腹に入れて呉れよ、この道理分りたら神の仕組はだんだん分りて来て、何といふ有難い事かと心がいつも春になるぞ。』(富士の巻 第五帖)

『今度 集まっても、まとまりつくまいがな。世界の型出して実地に見せてあるのぢゃ。骨が折れるなれど実地に見せねばならんし、まとまらんのを纏めて、皆がアフンの仕組、気のつく人民 早う元へかへりて下されよ。心に誠あり。口にまこと伝へるとも実行なきもの多いぞ。偽りに神の力は加はらない。偽善者 多いのう。祈り行じて洗濯すれば皆世界のサニワにもなれる結構なミタマばかり。死産の子も祀らねばならん。』(黄金の巻 第五十五帖)

『御土は神の肉体ぞ。臣民の肉体もお土から出来てゐるのぞ、この事分りたら、お土の尊いことよく分るであろがな。これからいよいよ厳しくなるぞ、よく世の中の動き見れば分るであろが、汚れた臣民あがれぬ神の国に上がってゐるではないか。いよいよとなりたら神が臣民にうつりて手柄さすなれど、今では軽石のような臣民ばかりで神かかれんぞ。早う神の申すこと、よくきいて生れ赤子の心になりて神の入れものになりて呉れよ。一人改心すれば千人助かるのぞ、今度は千人力与えるぞ、何もかも悪の仕組は分りているぞ、いくらでも攻めて来てござれ、神には世の本からの神の仕組してあるぞ、学や知恵でまだ神にかなふと思ふてか、神にはかなはんぞ。』(富士の巻 第十二帖)

『我がなくてはならん、我があってはならず、よくこの神示(ふで)よめと申すのぞ。悪はあるが無いのざぞ、善はあるのざが無いのざぞ、この道理分りたらそれが善人だぞ。千人力の人が善人であるぞ、お人よしではならんぞ、それは善人ではないのざぞ、神の臣民ではないぞ、雨の神どの風の神どのにとく御礼申せよ。』(天つ巻 第二十三帖)

『一升桝には一升しか入らぬと臣民思ふてゐるが、豆一升入れて粟(あわ)入れる事出来るのざぞ。その上に水ならばまだはいるのざぞ。神ならばその上にまだ幾らでもはいるのざぞ。神が移りたら人が思はぬ事出来るのざぞ。今度は千人力与へると申してあろが。江戸の仕組 世の終わりぞ。天おろがめよ。つちおろがめよ。まつはれよ。秋の空グレンと申してあろがな。冬も春も夏も気つけてくれよ。』(日月の巻 第二十三帖)

『一二三四五六七八九十百千卍(ひとふたみよいつむななやここのたりもちよろず)。今度は千人万人力でないと手柄出来んと申してあろがな。世界中総掛かりで攻めて来るのざから、一度はあるにあられん事になるのぞ。大将ざからとて油断出来ん。富士の山動く迄にはどんな事も耐(こら)えねばならんぞ。上辛いぞ。どんなことあっても死に急ぐでないぞ。今の大和魂と神の魂と違ふ所あるのざぞ。その時その所によりて、どんなにも変化(へんげ)るのが神の魂ぞ。馬鹿正直ならんと申してあろ。今日(けう)あれし生命勇む時来たぞ。』(日月の巻 第三十一帖)

『この方 悪神、祟神(たたりがみ)と人民に云はれてトコトン落されてゐた神であるぞ、云はれるには云はれるだけの事もあるのぢゃ、此の方さへ改心いたしたのであるぞ、改心のおかげで此の度の御用の立役者となったのぢゃぞ、誰によらん改心致されよ。改心とは まつろふ事ぞ、中行くことぞ、判りたか。今度は十人並のおかげ位では誠の信心とは申されんぞ、千人万人のおかげを取りて下されよ、千人力与へると申してあろが、大事な御先祖様の血統を皆世に落して了ふて無きものにして了ふて、途中からの代へ身魂を、渡りて来た身魂を、まぜこぜの世と致して、今の有様は何事ぞ、まだ判らんのかなあ、人民もぐれんぞ。』(海の巻 第十帖)

『落ちてゐた神々様、元へお帰りなさらねば この世は治まらんのであるぞ。一人一人ではいくら力ありなされても物事成就せんぞ。それは地獄の悪のやり方。一人一人は力弱くとも一つに和して下されよ。二人寄れば何倍か、三人寄れば何十倍もの光出るぞ。それが天国のまことのやり方、善のやり方、善人、千人力のやり方ぞ。誰でも死んでから地獄へ行かん。地獄は無いのであるから行けん道理ぢゃなあ。曲って世界を見るから、大取違ふから曲った世界つくり出して、自分で苦しむのぢゃ。其処に幽界出来るのぢゃ。有りてなき世界、有ってならん。』(黄金の巻 第九十四帖)

『そなたはよく肚をたてるが、肚がたつのは慢心からであるぞ。よく心得なされよ。下肚からこみあげてくる怒りは大きな怒りであるから、怒ってよいのであるなれど、怒りの現わし方を出来るだけ小さく、出来るだけ清く、出来るだけ短かくして下されよ。怒りに清い怒りはないと、そなたは思案して御座るなれど、怒りにも清い怒り、澄んだ怒りあるぞ。三月三日。 そなたはいつも自分の役に不足申すくせがあるぞ。そのくせ直して下されよ。長くかかってもよいから、根の音(ね)からの改心結構ぞ。手は手の役、足は足、頭は頭の役、それぞれに結構ぞ。上下貴賎ないこと、そなたには判ってゐる筈なのに、早う得心して下されよ。 そなたはこの神ときわめて深い縁があるのぢゃ。縁あればこそ引きよせて苦労さしてゐるのぢゃ。今度の御用は苦の花咲かすことぢゃ。真理に苦の花さくのであるぞ。因縁のそなたぢゃ、一聞いたなら十がわかるのぢゃ。云われんさきに判ってもらわねばならんぞ。知らしてからでは味ないぞ。十人並ぞ。今度の御用は千人力、十人並では間に合わんぞ。人間の目は一方しか見えん。表なら表、右なら右しか見えん。表には必ず裏があり、左があるから右があるのぢゃ。自分の目で見たのだから間違いないと、そなたは我を張って居るなれど、それは只一方的の真実であるぞ。独断は役に立たんぞと申してあろうが。見極めた上にも見極めねばならんぞ。霊の目も一方しか見えんぞ。霊人には何でも判ってゐると思ふと、大変な間違ひ起るぞ。一方と申しても霊界の一方と現界の一方とは、一方が違ふぞ。 そなたは中々に立派な理屈を申すが、理屈も必要ではあるが、あわの如きもの、そなたの財産にはならんぞ。体験の財産は死んでからも役にたつ。 ざんげせよと申しても、人の前にざんげしてはならんぞ。人の前で出来るざんげは割引したざんげ。割引したざんげは神をだまし、己をだますこととなるぞ。悔ひ改めて下され。深く省みて下され。深く恥ぢおそれよ。心して慎しんで下されよ。直ちによき神界との霊線がつながるぞ。霊線つながれば、その日その時からよくなってくるぞ。気持が曲ったら霊線が切り替えられる。』(月光の巻 第五十五帖)

火水伝文参照。

「 時いよいよ現れ来たりたぞ。これより先、新しき世に至るまで暫しの年月、辛抱肝心ぞ。人民様、程度の差こそあれ業火の死、遂げる者。生き残り塗炭の苦しみ、受くる者。二つに一つになりたぞよ。人ごとでないぞ、汝も同じぞ。悪人、善人らちもない。死に行かれる者も、残し置かれる者も聞くのざぞ。
 この度は地球最後の転生の時、天意転換の時ぞ。それ由の厳しさぞ。全人類、己が囚われ積みしケガレ、一点の曇り無きまで払い清めせなならんから、数多の民、死ぬる者も残りし者も相等しく、阿鼻叫喚の地獄の如き洗礼をその身に受けねばならんのぞ。女、子供辛きこと哀れであるが、一人とてこれ避けること出来んから、早よう魂磨きてくれよと申してきたであろうが。
 遅し。神、既に動きたぞ。浮かれ暮らす人民様、この度のこと取り違えおれば末期の不覚となりぬるぞ。しっかと世情見ていて下されよ。現界の荒らぶる現象いよいよ混乱狂気となりておろうが。正邪、背徳、驕奢の膿、様々なる形なさして世に噴出させておろうが。これ予兆ぞ。既に世界はウラにて一つになりたぞよ。真中を過ぎし不測の時、世界の悪勢一挙に入り来たり全土を一つと七つに分け占めて修羅の地獄と化さしめん。これ、こたび始めの神仕組なり。これ日本の事ぞ、マコトぞ。仕組ありて、真先に日本払い清めせなならんからぞ。国、土台から破壊され。ケガレし権力潰れしも外なるケガレ逆巻きて内なるケガレ払うのぞ。私有財産壊滅し、衣食住にも窮迫し、国民同士の戦ある。人と獣との分かれ目ぞ。ケガレしものの消ゆるまで、三歳苦難の道行きぞ。こは神仕組み神ハタラキなれど、汝等人民様の招きしことなるぞ。汝の欲心甘やかし来たりたであろうが。しただけのことは拒めぬぞ。神恨むでないぞ。
 しかあれ、人民様の苦しき死。残り苦しむ様。神、望みてないぞ。既に遅けれど、このワケ、縁ある者に伝え置く。この度死ぬる者はこのワケ聞いて肚に入れ、生き戻れるように死んで下されよ。死んでも頑張りて下されよ。残されし者も同じぞ。死に急ぎなさるなよ。よくよく頑張りて下されよ。よいな、三年の間ぞ。三年の間、汝等の心魂、修羅場と化せしその地にて耐え難きを耐え魂磨くのぞ。死して逃れんと欲っせしも、異界にて万倍の地獄飲まなならんのぞ。神、頼むぞ。汝蒔いた種なればこらえにこらえて三真釣り持ち行け。」

「 新しき御代の体申すは、新た鳴る高き響きにて真釣ろい創りあるのぞ。響き一つ上ぐりて居るのじゃ。光一つ上ぐる伝え知らせあろうがな。この方が汝等に生きありても、死にありても三真釣り持ち行き、マコト磨け申したは、この事に関わりて大事な事にてある由、くどうくどう申し来たりたのじゃ。そは汝等のミタマ、マコトの響き無くあれば、新しき代の肉のお宮に入るは適わぬからであるぞ。光一つ上ぐりた肉のお宮に収まれるだけの、ミタマに鳴りておい出なされませ。
 申すも辛い事なれど、今ザマの人民様のありザマにありては、適わぬ事と知り置かれよ。なれば汝等皆々神の響きを行成す者と成り鳴りて、一人でも多くの方々に真釣りあるを知らせくれよ。三真釣り持ち行き鳴するがミチぞ。解かりたか。
 今今は心曇りて居るが由、ご自身自ら、アタマでご自身の体をバラバラに分け縛り付けて居られるから、体の各部は益々酷き有り様と鳴りて居るのぞ。日本が世界のヒナ型申すは、汝等も世界のヒナ型申すを言うのであるぞ。真釣り役の胴体がふ抜けて居りては、ご自身のお体が真釣れぬ同様、世界が真釣れぬも無理無かろうが。この方がヒノモトの人民様に厳しく申すは、この事在りて有るが由ぞ。汝等ヒノモトの民申すものは、地球世界を真釣り背負わねば鳴らぬ、スメラの御ミタマにござるのぞ。汝等の申す、人知に汚れた、への突っ張りにもならぬ話をして居るので無いぞ。数ある民魂の真中の御役、最も辛きご苦労の、地の日月の神と統べ真釣る導き御役の響きにておわすのぞ。辛きご苦労のお身魂であるが由、枝葉とタテワケ、一段も二段も上の響きのご苦労に堪えれる様、【元つキ】の直の御チ筋を引かせあるのぞ。中身のご苦労もなさらいで、カタチばかりで取り違え、日本は偉い偉いなぞ申し参りても、ハラにマコトの一厘も無きが者の成さり様は、犬、猫にも恥ずかしい限りであるぞよ。自らの真中のマコトが解からぬから、カタチばかりの言の葉で、体裁を作りて我が一番、我が一番等と威張り合うて参りたから枝葉の身魂にも劣る、悪き身魂に落ちてしもうたのじゃ。
 マコトを立て持つご苦労を、堪えて厭わぬおハタラキが、出くる身魂を上段の霊魂、申すのぞ。少しは恥を知りて下されよ。それだけの霊魂授かり、地の日月の神と鳴り成さる御チ筋にありながら、今のザマは何たる事ぞ。ハラが枝葉のやり方真似てどうするのじゃ。未だにハラにマコトの無き者は、アタマの毒に侵され居るから、自ら選んで成りた訳でもないに迷惑じゃ等、申す者も居られ様が何度も申し伝えある様に、そが者どもは、この方一人も要らんから、お邪魔せぬ様下がって見て居れ申し居ろうがな。枝葉は真釣るを知らんから、我善し勝手に持ち荒らし、やがて潰えてしまうから、そうなりてからでは遅いから、可哀想なから、枝葉束ねる汝等に早う五体統べ真釣りて下され申し来たのであるぞ。世界を統べ真釣りて下され申すも同じぞ。肝腎要の真釣りが外され居りたのじゃ。
 真釣り統べるがハラのハタラキにござるのぞ。ハラにマコトが据えてござらぬから、腰が座らんのであるよ。ハラに真釣りの何かが解かりてござらぬから、アタマが取り違えを致して、我善しで何をやりても良い思い込みて、五体を好き放題我善し力で使い動かしありたのじゃ。なれど真釣りて使うて居らぬから、バラバラに不都合出ありて、継ぎ接ぐマコトの無き世となりたから、五体各部も何が何だか解からぬままに、我善し力のやり方で自由勝手に真似だして、更鳴る魔釣り世となさしめたのじゃ。しかあれ皆々真釣りて無きが由、皆々段々衰えて参りて、先行き不安となりたところで、体(地球)の栄養を一人受け居る、結構なハラ(日本)が悪いとアタマが仕組み煽りて、四体を巻き込みハラを弱らせ攻め入りて、何としても真中のハラを我が物と致して、胴を奪いて五体(世界)の魔コトの王にならんと画策致し居るが解からんか。日本の上を預かる者どもは、これより訪れ参る外圧に、好い加減なところで妥協せんとなされるが、そは適わぬ事と知り置かれよ。この方が許さぬなり。そが時、汝等マコトの者は世間より悪く悪し様になされる由、今今よりシカリ、心鍛えてマコト護持出くる様、気張りて下されよ。
 アタマが何をなさろうが、ハラがマコト真釣りを少しでも致して居れば、如何様にも持ち直す事は出来たのであるぞ。今の世の酷き有様はハラにマコトが無い由に、アタマのやり方を善き様に吹き込まれ、思い込まされ、身欲に走りて信じ込み、行に結びたが終わりの始めとなりたのじゃ。今今になりても、世の識者呼ばれる者共や宗教家申す者共は、マコト耳に入れども聞きもせず、見せども見えぬあき盲ばかりでござるから、日本はだまされて居りたのじゃから、日本ばかり責めいで下され等と物知り顔で申すなれど、そは今今に至りても尚、ヒノモトの真姿の見えぬ大ウツケの申し様でござるぞ。マコトの事が解かりて無くあれば、人民様のお邪魔にならぬ様、口を慎み、心を慎み、行を慎みて黙って見て居れよ。
 汝等の申し様は、親が子にだまされ成せし悪なれば、ワレばかり責めねで子も責むが公平なり、と申すが如きぞ。何たる情け無きザマであるか。恥を知りて下されい。ユダヤのミタマ申すは、大き構えが陽の構えでござるから、ハタラキは水の御ハタラキと鳴りて居るのぞ。情けと花の表の音色じゃ。スメラのミタマ申すは大き構えが陰の構えにござるから、ハタラキは火の御ハタラキと鳴りて居るのじゃ。情けと花の裏の音色ぞ。どちらがどちらを背負うのか、これでハキリ解かりたでござろうが。世界の人民様申すは、すべて皆々大神のご大切なる御子なれど、汝等の兄弟にてはあらぬ者なり、汝等は親なり、世界の人民様は皆々、汝のお子なり。この神仕組み取り違い居りていては、世は滅ぶなり。今までの考え様、さっぱり捨てて下されと、くどう申して居ろうが。マコトの解からぬ神や仏にいつまでも使われて居るからそのザマであるぞ。
 よきか、今今の汝等のマコトの有り様申すものは、汝等ご自身のお子を自ら殺すか生かすかの瀬戸際に立ちて居るのぞ。今一歩踏み選べばどちらかに決まりてしもう瀬戸際じゃ、申して居るのぞ。人類皆兄弟等と腰抜けたる思い様にありては易きミチに入るは必定。目も当てられぬ残念ご無念でござるよ。
 親と申すものは、子にマコトを立て開くがハタラキでござるのぞ。マコト真釣りて行に結ぶを【口、心、行】にて開き渡すなり。顕すなり。子にマコトの開くのを【情け】と【花】にて見守るが、親たる者の有り様でござろうが。情けの表は【真釣る厳しさ】であるぞ。情けの裏は【忍ぶご苦労】でござるよ。花の表は【行に結びた形】にござる。花の裏は【散らぬマコトの花一輪】ハラに咲かせしことなるぞ。見守るご守護のハタラキは、表に立ちては適わぬぞ。下に下り下りて与えるが陰のご守護の基なり。親と申すはこれ程のご苦労の御役なり、さればそれだけの力与えあるは、幼子にありては尚、解かる道理でござるのぞ。
 【散らぬマコトの花一輪】汝のハラにも、お子のハラにも、見事咲かすが出くたなら、万古末代弥栄じゃ。どうでも利かぬお子であれば、強きメグリ背負いたお子なれは尚の事、今生に覚え無くありても、何時の世かで共に真釣りを崩す様な因縁を持たれたは、明々白々であろうから、お子を神と崇められ、お詫びの響きを感謝に繋げ、汝が三真釣り持ち行きて、マコトに結ぶご苦労を少しでも早うなさりて下されよ。メグリ申すものは、真釣りた響きで逃げも和するも致すのざから申して居るのぞ。やって見なされよ。この方がついて居る言うて居ろうが。
 汝等、世界の人民様の親なれば、世界の人民様より一段も二段も上の霊魂授けあるを伝え知らせあろうがな。偉い偉く無いの話で無いぞ。尊き神真釣りの基であるぞ。いつまでもイシヤの仕組みに引っ掛かりて居りて、この世にありもせぬ自由・平等・博愛なる戯言に振り回された挙げ句、不自由・不平等・不博愛なる世を創り上げてしもうた事に、まだ気付かんか。アタマの創りた『あやま知』の世にありては適わぬ事でありたのじゃ。自由・平等・博愛なる、マコトの響き言うは【真釣り】た全一如の和したる響きなかりせば、有りは致せぬ事なのぞ。親有りて子が有るのであろうが。神有りて人が有ると同じ事ぞ。汝等皆々、宇宙コトワリの似姿なると申し伝えあろうが。親なる中心が有りて、幹なる中心が有りて初めて枝葉に全一如のハタラキが出くるのであろうが。こに自由・平等・博愛なることどもは、猛々しく言挙げさるるも無く、至善に生き活かされあるのでござろうが。日本の人民様、良い加減にシャキッと目を覚まして下されよ。自覚無き申しても余りのザマでござるぞ。真中が真釣りを忘れて居りてはどうする事も出来はせんぞ。五体におきても同じ事ぞ。ハラは五体の基なり、親なり。胴が無くれば五体バラバラであろうが。五体すべてを真釣る由、元つ気ハラに集め居るのぞ。五体すべてをかまう由、滋養ここより取るる様、型に示しあるを忘るなよ。四体、枝葉も神の御子なれば、尊き御ハタラキ持ちて居るのぞ。なれどそはハラが真釣り統べりてあれば、の事にてござるのぞ。ハラが真釣らねばいつでも逆法に鳴りてしもうは、アタマの仕組みで型示しあるは、伝え知らせあろうがな。
 ヒノモトの人民様は、世界の父親なる責を忘れて久しくありたから、今今のザマと成り果てしもうてござるが、今、最期の時。子にマコトも示せず散りて果てるは末期の恥と知りて下されよ。今今に、汝の三真釣り持ち行くが、マコト鳴り成る響きにて、汝のお子にも世界にも、マコト知らしむ型と成る。解かりたか。
 ここまで申し伝え来たなれば、よもや不足は無かろうまい。今今の時節にありては、真釣りた響き無くれば、何事も成就致せんと、くどう申し参りたが。汝に一厘のマコト残りあるなれば、今を外して、何時に使うお積もりか。こ度は万古末代二度は無い、後にも先にも一度こっきりの大層でござるぞ。今までの世は、何あろう命ありての物だねでも良かりたのであるが、これからの世申すは、マコト無くては生きられぬ神代と成るのであるから、既にその響きに入って久しくあるから、マコト有りてのお命なるを、決して忘れんで下されよ。何に付け、今生にマコト懸けての花一厘、見事に咲かすか、果て散るか、今今、この場で決めて下され。ここ今に決めれぬ者はもういらぬ。お好きな様になさるが善かろうぞ。
 この方は死に急げ、申して居るので無いぞ。逆ぞ。汝等皆々、大事な神の御子様じゃ。タテナオシの尊き天命背負いて居られる、地の日月の神々様じゃ。魔釣りの魔やかす毒牙にて、尊きおイノチ散らさるるを、この方、見るに忍びぬ由、か程きつう申すのじゃ。何がありてもマコトを護持致せ申すは、汝のハラ内に末代倒れぬマコトを立て持て申して居るのぞ。マコトが大事じゃ申しても、ケガレ逆巻く悪き世に、ご一人でマコトを掲げて正面からぶつかられては、おイノチがいくらありても足りはせぬぞ。かたひじ張らずに、避けれるものはのらりくらり機転を利かして避けくれよ。汝がことさら荒立てねば、相手もそが以上の罪ケガレ、積まねで済むのじゃ。汝の思いは次にして相手善かれの心を持つも、神の心に適うマコトにてござるぞ。汝のマコトを貫くためにもそうして下されよ。そも修行の内でござるよ。解かりたな。無駄死にはして下さるなよ。神、頼みたぞ。
 汝等皆々、こ度のご用に使うてやりたいから申して居るのぞ。ハラにマコトの立ちてる者で無くればこ度使うは出来んのじゃ。曇り残りある程に、汝ご自身が苦しゅうて、とてもご用どころの騒ぎで無いぞ。由にくどう申して居るのじゃ。身魂相応に使う申しても、【足場】の【足場】の【足場】のアの字も出来て居らん様な身魂でありてはとても使うことは出来んから、早う三真釣り持ち行きて一成る花を二成る花へ、二成る花を三成る花へ、自らにマコト持ち行く情けを課して、堪えるご苦労に勝ち行く程に、楽にご用が勤まる様に成るのであるから、ご苦労を成された分、キッチリ見取って、楽に出来るだけのご用に回してやるぞ。マコトが一番でござるから、マコトを手にして下されよ。ケガレ多き身、思えど、残るマコトの一厘で何かの神のご用をさせくれと、ケガレたとは申せ、ひそかに思うがマコト日本の人民様じゃ。この方それを知りて居る由、汝が愛しいのじゃ。何かのご用に使うてくれ申す者、一人も余さず使うてやるから、残るマコトの花一輪、何かに付けて見事咲かすが汝の務めじゃ。一厘、磨き出されて見事、水晶と成して見なされ。この方しっかと見届け致して、アッバレご用に使うてやるから、ガンバリ成されよ。」

Posted on 2017/05/01 Mon. 12:53 [edit]

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01

まわりうた 

かみのその さゆりかひのみ
  つむのへの むつみのひかり ゆさのそのみか

(神の園 小百合佳美のみ 頭の上の 睦みの光 ゆさの其の身が)

解説

小百合(さゆり)は「ユリの美称。」、佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、頭(つむ)は「人間のあたま。つぶり。かしら。つむり。」、上(へ)は「あるものの表面。うえ。」、睦(むつみ)は「むつむこと。また、むつむ気持ち。」、ゆさは「わらを編んで作った揺り籠。」の意味です。

余談

この歌は、オムニバスアルバム「still echo」の中にある「アヴェ・マリア」(シューベルト)を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

初めは、頭上から何か抜けていく感覚? を表現する流れだったが、モチーフにした曲の世界観に引っ張られて、楽園での風景っぽくなってしまった。

Posted on 2017/04/30 Sun. 23:59 [edit]

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30

まわりうた 

なかきよき かみのひかてり
  とものわの もとりてかひの みかきよきかな

(中清き 神の秘が照り 友の輪の 戻りて佳美の 御垣良きかな)

解説

中は「(物の)内部。内側。中。心の内。胸中。」、佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、御垣は「宮中・神社などの神聖な地域のまわりにある垣。」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

意訳

今までは表に出て来なかった、人の心の中の清い部分が発露されるに伴い、神の秘密も照り輝いて、誰の目にも映るようになった。その結果、世界中の人々が皆お互いに、友達と映るような平和的な輪の状態、円(まる)の状態、円か(まどか)なる状態に戻って、この地上が嬉し楽しの場、大きな祭りが行われる場、という一つの枠に無事収まった。本当に良いことだなぁ。

Posted on 2017/04/30 Sun. 21:50 [edit]

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30

まわりうた 

すはやけむ とこよかみきて
  のひのひの ひのてきみかよ ことむけやはす

(素早けむ 常世神来て 伸び伸びの 日の出君が世 言向け和す)

解説

けは「上代のク活用形容詞の未然形活用語尾。」、むは「推量を意味する助動詞。…だろう。…う。」、伸び伸びは「心配などがなく、自由でゆったりとしたさま。」、言向くは「 話して相手を自分の意に従わせる。説き伏せる。また、服従させる。」、和(やわす)は「やわらげる。また、平和にさせる。帰服させる。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「ウシワカ登場」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

意訳

中々解釈が難しい……。とりあえず意訳してみる。

事(言)は素早く為されるだろう。(何が為されるのかというと)常世の神が来て、皆が何の心配もなくゆったりと過ごせる日の出の世、即ちイザナギとイザナミの神様の両方が揃う岐美(きみ)の世になったことを皆にいち早く告げて、安心させ納得させるのだ。

雑感

「言向け和す」の言(こと)は九十(こと)であり、一八(いわ=岩)の中の世界、即ち1~8までの世界とは全く違う九、十の世界ということだろう。今までとは全く異なる(九十鳴る)世界に皆の意識を向かせて、そしてそのやり方で今までの八方ふさがりの世界を開かせるということではないかと思う。

ちなみにこの「素早けむ」は「素早+け+む」と同時に「素+早けむ」でもあるように思う。上で書いたような、今の閉塞した空気を打破する新しい流れが出て来るにあたって、それは誰か一人の超人的な天才とか救世主の下で為されるのではなく、同時多発的にどこからともなくスーーっと自然に出て来て、気付いたらそういう人達が世に出て来て、最終的に安楽の世へ向かう、というニュアンスを感じる。

常世の神がどういう神様なのかよくわからないが、辞書によれば「常世の国の神。長寿・富などを授けるとされる。」とある。ちなみに常世の国とは、一般的には海の彼方にある国で、少彦名神、田道間守、また浦島太郎などが渡ったとされている。何となく七福神っぽいニュアンスも感じなくもない。

調べて見ると、その昔、常世神信仰があったそうな。その信仰とは、常世の神であるこの虫(蚕に似た虫で一説ではイモムシのこと)を祀れば、「貧しい人は富を得て、老いた人は若返る」というもの。さらに人々に財産を喜捨させ、酒や食物を道端に並べ「新しい富が入って来たぞ」と唱えさせたそうだ。当時の人々は熱狂したらしい。しかし、何のご利益もなく、大損する人が出て来た。

そしてついに、この信仰は当時、聖徳太子の側近である秦河勝(はたのかわかつ)によって鎮圧された。

その時に称えられた歌が下記となる。

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『太秦(うずまさ)は 神とも神と 聞こえくる 常世の神を 打ち懲(きた)ますも』(日本書紀 皇極)

意訳

秦氏は、神の中の神だという評判が聞こえてくる。あの常世の神を打ち懲らしめたのだからなぁ。

---------------------------------

さて、この類のお話はどこかで聞いたような話である。

不老不死や金運の御利益をエサに、財産を根こそぎ差し出させる新興宗教。そんな怪しい宗教に引っかかるわけがない、と思うものの、しかし意外や意外、その現実離れしたご利益につられて、多くの人がそれに熱狂し、信仰する人が後を絶たない。その結果、社会の秩序も乱れて来るほどになる始末。この蔓延する害悪の元凶を取り除くべく、時の権力者もついに動き出し、無事これを鎮圧した、というニュアンスを孕むが……本当にそうだろうか?

渡来人である秦氏はハタという名前の通り、当時最先端の養蚕や機織りの技術を持っていた。であれば、彼ら自身、既に蚕の神を祀っていた可能性もある。

そんな中、同じように虫を祀り崇める集団が出て来たかと思えば、爆発的に人々が熱狂していく。権力側にいた秦氏からすれば、現体制を揺るがしかねない脅威に映っていたのではないだろうか。

そして、この常世神信仰の形態を見てみると、どうもこの信仰はこの世の御利益ではなくあの世の御利益を謳ったもののように思う。

キリスト教では、お金持ちが天国に行くのは難しいという話があったり、仏教では喜捨(きしゃ)という言葉もあったりするが、生きている内に善行や徳を積むことで、あの世で幸せに暮らせる、という話は、古今東西の宗教で既に言われていることだ。

ましてや、常世神の常世とはあの世のことである。虫は成長すれば、その姿からは想像もつかない美しい蝶の姿になる。この世では惨めな虫であっても、常世神を信仰すれば、あの世では蝶のような美しい姿になれる。そういう信仰でもあったようにも感じる。

この世では到底老人が若返ることはできないし、貧乏人がお金持ちになれるのも一握りだが、この話があの世(霊界)の話であれば十分考えられる。

そもそも虫は無私(むし)に繋がる。財産を誰かに施したとしても、この世では何のご利益もないが、霊界ではその徳、善行によって地位が上がり、そこで幸せな暮らしができる、ということではないだろうか。

秦氏はユダヤの末裔だとも言われているが、日月神示ではユダヤはミツグ(身継ぐ)の民と表現されている。ちなみに日本はヒツグ(霊継ぐ)。

思うに常世神信仰と秦氏が祀る神は「不老不死」「金運招福」という点では全く同じだろうが、霊的なご利益、体的なご利益、という点で一厘違い、紙一重なのではないかと思う。

だから秦氏から見れば、自身が祀る神と似たような虫の神を祀り、不老不死やお金持ちになれるとの触れ込みをしているにも関わらず、(現実的な視点で見れば)そんなことは全く実現しておらず、人々を惑わしているように見えたのではないか。自分たちとうまく似せてはいるが紙一重のニセモノなので、討伐しなければならない、と。

どちらが良い悪いとは言えないが、一方は霊的な視点で見て、一方は体的な視点で見ているので、どちらも噛み合わない(神会わない)のは、当然の道理なのかもしれない。

ただ下記日本書紀にも書かれているように、この常世の虫が「常に橘(タチバナ)の木になる」という点が、非常に臭う。思うに、これは単なる新興宗教の話ではないような気がする。

お話を読んでみると、この常世神信仰を起こした人は、ムーブメントが起きた際、どのような行動を取って、どのような状態であったかは書かれてはいない。

『日本書紀 皇極天皇(二十三)大生部多の虫と常世の神・秦造河勝は神を打つ』(日本神話・神社まとめさん)
http://nihonsinwa.com/page/2036.html

常世神信仰が過熱した結果「それで得られるものがあるわけもなく、損失がただただ極めて多くなるばかり。」とあるが、しかしその得られるものがないのは、損失が極めて多くなるばかりなのは、一体誰なのか? それは秦氏であり当時の政権がそうだったに過ぎないのではないか?

そんなに無知蒙昧な信仰なのであれば、そんなに何もかも得られるものがなく、損ばかりするのであれば、なぜ一介の村人から始まった信仰が都にまで広がるのか。仮に、村里の人々がたまたま純粋無垢で迷信深い人達だったからだまされていた、と見ても、様々な情報が集まっていたであろう都の人々にまで広まるだろうか?

想像するに、常世神信仰によって喜捨された財産は、貧しい人が貰っていったのではないか? ではその貧しい人はどうするのか? 当然その人々も常世神信仰を通じて喜捨していたはずで、それらはさらに貧しい人々へ渡っていたはずだ。

おそらく常世神を祀る祭壇にはいつも、酒や食べ物など様々な幸があふれていたはずだ。お話によれば、ただ財産を喜捨するだけでなく、そこで歌や舞もしていたという。

これはまさしく、祭りそのものだ。

ご利益は「貧しい人は富を得て、老いた人は若返る」ということだが、このシステムによって実際に貧者は施しをされ富を得、またその常世神が祀られた場所で常に行われる歌や舞のにぎわいは、老いた人でさえ元気を取り戻すほどの活気ぶりだったのではないだろうか。

こうして、都の人々もその賑わいが楽しくて、常世神信仰が爆発的に広がっていったのではないか?

他の為に尽くすと天国に行ける……といって、その尽くされた善意を、本来神の取次となるべき教団幹部が食い物にするならば邪教になるが、その取次幹部はおらず、神だけとなれば、どうなるだろうか?

自らの持てる能力やスキルは、全て神から与えられたものとして受け取り、それを無料で天地に奉仕する。一人残らず、全員がそれをしだしたら、どうなるか? 富裕者も貧困者も、持っている物やお金やその他権利財産全てを神様に一旦捧げて、その代わり何もかも無料にしたら、一体社会はどうなるか?

上記、日本書紀に書かれている常世神信仰は、奇しくも日月神示に書かれている「与える政治」に、本質的な部分において非常に近いものを感じる。

「与える政治」については下記参照。

「山彼方 海の地の岸 霞止み 清しき後の 神歌流れむ」
http://uresitanosi123.blog.fc2.com/blog-entry-1220.html

「真祈る場 言霊が治す 元の気の 点す地がまた 常春の今」
http://uresitanosi123.blog.fc2.com/blog-entry-267.html

ただ唯一困る集団がいるとすれば、それは現行の社会システムを永続的に支配したい権力者だけではないのだろうか。それがあったから、秦氏は常世神信仰を潰したのではないか。

話は飛ぶが、戦前、数々の予言を的中させた出口王仁三郎聖師は、日本の敗戦後、下記のように述べている。いわゆる「吉岡発言」と言われるもの。

『大阪朝日新聞 昭和20年12月30日 朝刊【吉岡発言】』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館」さん)
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=NPOAc19451230A1

ということで、人や枝葉の神様ではなく、大元の根源の神様を祀って、全ての恵みはその神様から頂く、という風にすれば、全てがうまくいくと思う。

下記日月神示にもにあるように、かみ(上)の役員に分かりかけたらバタバタと埒つく、とある。「与える政治」のやり方が中々実現しないが、しかし広まる時はあっという間に広がるのではないか。なぜならこのやり方は、誰にでもすぐ理解できて、また誰が見ても、誰もが幸せになれるやり方だと合点がいくはずだからだ。

『神の国のカミの役員に判りかけたらバタバタに埒(らち)つくなれど、学や智恵が邪魔してなかなかに判らんから、くどう申しているのざぞ。』(地つ巻 第十五帖)

『神は一時は菩薩とも現はれてゐたのざが、もう菩薩では治まらんから、愈々生神の性来現はしてバタバタにらちつけるのざぞ、今の学ある者 大き取り違ひいたしてゐるぞ。』(磐戸の巻 第十三帖)

『オロシヤの悪神(あく)と申すは泥海の頃から生きてゐる悪の親神であるぞ。北に気つけて呉れよ、神の国は結構な国で世界の真中の国であるから、悪の神が日本を取りて末代の住家とする計画でトコトンの智恵出して何んなことしても取る積りで愈々を始めてゐるのざから余程褌締めて下されよ、日本の上に立ちて居る守護神に分りかけたら ばたばたに埓あくぞ。早う改心して呉れよ。』(日の出の巻 第二十帖)

以下、蛇足です。

橘について、もう少し考えてみたいと思う。

そもそも橘とは蜜柑のことで、鏡餅の上に乗っかっているあれである。

橘はしばしば太陽の象形とみなされることがある。確かに鏡餅を真上から見れば蜜柑が太陽、餅が太陽光と見えなくもない。

一方真横から見れば、蛇のとぐろのようにらせん状に昇っていくエネルギーの形であり、蜜柑はその頂点に当たる。よくわからないが、霊的な成長を指しているようにも感じる。

餅は二段あることから、これは右回りと左回りの流れが同時にらせん状に駆け上がっていくような感じを受ける。火垂り(ひだり)と水極り(みぎり)ということだが、同時に下の餅が現界、上の餅が霊界っぽい感じもする。

とすると、その上の蜜柑は霊界も現界も全て照らす、何というか、根源的な太陽、言わば大元の太陽というか、霊的な太陽というか、まあそういう象徴なのかもしれない。一番しっくりくるのは、岩戸開きの後に輝くまことの太陽と受け取れるが……。

また天津祝詞にも「皇親神伊邪那岐命 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に」とあり、橘の言葉が出て来るので、やはり太陽との関連がうかがえる。

思い付きで書いてみると、筑紫は尽くし。日向は日(霊)に向かう、または日(霊)を迎える。橘は立ち端(たちばな)。小戸(おど)は音(おと)がドドドっと押し寄せて来る様。阿波岐原は、あぁー、っと掃き祓う動き、と感じる。

(何かを)尽くして、自らの内なる霊(ひ)を迎え、その霊と向かい立つ先端の中から来る音、響き、閃きがドドドとやって来る、まさにその中心にある掃き清め祓う動きの中に、といった感じか。

さらに話が脱線するが、常世神は古事記に「常世思金神」とあることから、オモイカネの神様と受け取れなくもない。(体系に対する)霊系である高皇産霊神 (たかみむすびのかみ) の子とされるので、系統としては合っている気はする。

日月神示では地は智の神様がしらす、とある。ゆえに歌にある「常世神」は智恵の神様であるオモイカネの神様と見ても良いのかもしれない。

『国常立神も素盞鳴命も大国主命も、総て地(智)にゆかりのある神々は皆、九(光)と十(透)の世界に居られて時の来るのをおまちになってゐたのであるぞ、地は智の神が治(し)らすのぞと知らしてあろうが、天運 正にめぐり来て、千(智)引の岩戸(言答)はひらかれて、これら地(智)にゆかりのある大神達が現れなされたのであるぞ、これが岩戸ひらきの真相であり、誠を知る鍵であるぞ。』(至恩の巻 第十帖)

Posted on 2017/04/30 Sun. 00:56 [edit]

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30

まわりうた 

はるかさり をかてなほほく
  よきかせか きよくほほなて かをりさかるは

(春が去り 丘で尚祝く 良き風が 清く頬撫で 香り盛る葉)

解説

去るは「(本来は移動する意で、古くは、遠ざかる意にも近づく意にもいう)ある場所から離れる。そこを離れてどこかへ行ってしまう。遠ざかる。」「 時・季節などが近づく。巡ってくる。」、祝く(ほく)は「祝い言を唱える。ことほぐ。祝う。」、清いは「にごりやけがれがない。きれいである。さわやかだ。」、盛るは「にぎわう。栄える。」の意味です。

余談

この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「鳥は鳴き、僕は歌う」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

「春が去り」の解釈が難しい。去るは「遠ざかる」だけでなく「近づく」の意味でも使われるが、本来は移動する意味だという。よって、この歌の「去り」は、今を起点として、やって来た春と過ぎ去っていく春の、その真ん中にある春というニュアンスで捉えたい。つまり概念的な春ではなく、今まさにやって来て過ぎ去ろうとしていく、臨場感溢れる春の様子と捉えたいということ。

意訳

やって来た春は、今まさに過ぎ去ろうとしているけれども、丘ではなお、この季節を祝うかように良い風が吹き、さわやかに頬を撫でていく。(風に乗ってやって来る)緑の香りと、さやさやと音を立てて賑わう葉もまた、春らしいなぁ。

Posted on 2017/04/28 Fri. 10:42 [edit]

category: まわりうた

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28

まわりうた 

はるのいけ とほのそらてり
  ほのかなか のほりてらその ほとけいのるは

(春の池 遠の空照り 仄かな香 昇り寺苑 仏祈る場)

解説

遠(とお)は「‘とおつ’‘とおの’の形で、または直接に名詞の上に付き、遠いことの意を表す。」、香(か)は「におい。かおり。」、苑(その)は「庭。庭園。また、花・野菜・果樹を栽培する区域。」の意味です。

余談

この歌は新日本風土記のテーマ曲「あはがり」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。「あはがり」は奄美の島言葉で「全てが明るい」という意味だそうです。

Posted on 2017/04/27 Thu. 19:52 [edit]

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27

まわりうた 

なかきよの こころいきより
  むけんかん けむりよきいろ ここのよきかな

(永き代の 心意気より 無限間 烟良き色 此処の良きかな)

解説

心意気は「性格。気性。気質。」「真情。こころね。」、烟(けむり)は「水蒸気。霞(かすみ)。霧。もや。塵(ちり)。▽けむりのようにたなびいたり、かすんだり、立ちのぼったりするもの。」「炊事のけむり。▽暮らし・生活を意味する。」の意味です。

余談

この歌は、ゼノギアスアレンジヴァージョン-CREIDの中にある「MELKABA」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

まあ要するに、これまでの長い道のりで得た体験により、それぞれの身魂の色が決まり、それに応じて各々の生活様式が必然的に決まって、それ相応の天国に住むことになる、ということだろう。

根拠はないが、この「烟」は霊体の本質、という感じを受ける。無限に続く世界で、自分が自分でよかった、と皆が言えるようになるのだろう。これまでの時代には一度も見られなかった、大変有り難い時代になってきたようだ。

Posted on 2017/04/27 Thu. 10:06 [edit]

category: まわりうた

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27

まわりうた 

なかきよの ひかるまとてき
  ときのまの きときてとまる かひのよきかな

(永き代の 光る窓出来 時の間の 来と来て止まる 佳美の良きかな)

解説

時の間は「少しの間。きわめて短い時間。つかのま。」、来と来(きとく)は「遠くからはるばるやって来る。」「次々と来る。」、佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」の意味です。

雑感

窓は真戸、真音かしらね。真十(まど)で真神という意味ならば、窓は「ウ+公+心」なので、皆に公の心が生まれるとも受け取れる。我善しと対極にある公の心、即ち良心であろう。

或いは○十(まど)とすると、○(始め)と十(終わり)が同時に出来て、という意味にもなるかもしれない。だから「永き代」がついている。始めと終わりが同居している世界、中今の世界ということかと思う。

だから「止まる」が、十(と)の○(まる)となって、表の○から十(まど)と裏の十から○(とまる)がそれぞれ至って、表の11(○~十)と裏の11(十~○)が合わさって22となり、ここに二二(ふじ=不二)の世界が現れるということであろう。

石器時代から現在まで、物質的には○から十へと発達したと言えるが、精神的には十から○へと退化したと言える。この全てを体験して、新しい窓が開かれるのであろう。

また窓は英語でwindowだが、ここには風(wind)が含まれている。火(精神)と水(物質)の道の流れが、究極にまで極まることで、その中心に風が起こるということなのかもしれない。これによって、これまで火水(ひみつ=秘密)であったものが、火風水(ひふみ=一二三)となり、今までとは全く違う新しい道が一、二、三と進んでいく、とも読み取れる。

というかまあ、シンプルに考えると、個人的には「光る窓」は、ひところ騒がれたクオンタムリープ(量子的飛躍)の意味に受け取れる。そしてそのあまりの激しい変化がゆえに、瞬間、時が止まったかのようなインパクトとなる、ということなのだと思う。

Posted on 2017/04/27 Thu. 08:52 [edit]

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27

まわりうた 

なかきよの かなしきのかれ
  たいうちう いたれかのきし なかのよきかな

(長き世の 悲しき逃れ 大宇宙 至れ彼の岸 仲の良きかな)

解説

彼(か)は「遠称の指示代名詞。話し手や聞き手からともに離れた物や人をさし示す。かれ。あれ。」の意味です。

余談

この歌は、ゼノギアスアレンジヴァージョン-CREIDの中にある「MELKABA」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2017/04/27 Thu. 08:18 [edit]

category: まわりうた

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27

まわりうた 

しけるはの きとくさかをり
  かひなはな ひかりをかさく ときのはるけし

(繁る葉の 木と草香り 佳美な花 光り丘咲く 時の遥けし)

解説

佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、遥けしは「空間的・時間的に遠くへだたっている。はるかである。」の意味です。

余談

この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「鳥は鳴き、僕は歌う」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2017/04/26 Wed. 21:21 [edit]

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26

まわりうた 

ひたちはて みしひんかしに
  のありけり あのにしかんひ しみてはちたひ

(日立ち果て 見し東に 野ありけり あの虹甘美 沁みては千度)

解説

東(ひんがし)は「ひがし。」、甘美は「うっとりと快く楽しい・こと(さま)。」、千度は「回数の非常に多いこと。千回。」の意味です。

余談

この歌は「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX O.S.T」の中にある「Fish - Silent Cruise」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2017/04/26 Wed. 19:28 [edit]

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26

まわりうた 

とものひか なみてろくかい
  かくのまの くかいかくろて みなかひのもと

(友の悲歌 並みて六骸 核の間の 苦界各炉で 真中火の元)

解説

悲歌(ひか)は「悲しみの気持ちを表した歌。悲しい調子の歌。また、死者をいたむ歌。エレジー。」「悲しみ歌うこと。」、並むは「並ぶ。連なる。」、六骸(ろくがい)は「人体を構成する六つの部分。すなわち、頭・胴・両手・両足。りくがい。」、苦界(くがい)は「苦しみの多い世界。生死を繰り返して流転するこの世。人間界。」、炉は「金属などを加熱して溶かしたり化学反応を起こさせたりする装置。」、真中(みなか)は「真ん中。」、火の元は「(火事の原因になるような)火の気のある所。」の意味です。

余談

この歌は、「交響組曲 ドラゴンクエストⅣ 導かれし者たち」の中にある「エレジー~不思議のほこら」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

あろうことか、北朝鮮からミサイルが飛んで来るかもしれないこの時期に、佐賀県知事の同意を受けて、玄海原発の再稼働が年内にも実現しそうだという。ある程度この流れは予想していたものの、ひょっとすれば今回の軍事危機によって流れが変わるかもしれない、との淡い期待があったが、見事に打ち砕かれた。このような状況でも再稼働するのであれば、今後どのような状況であっても再稼働の流れになるだろう。

たとえば、夜○時以降は計画的に停電するなどして、一部不都合が出ても再稼働しない方向で行く、という流れには出来なかったのだろうか。いや、熟慮を重ねてこのような結果になったのだから、おそらく出来なかったのだろう。

詰まるところ、これでもう日本は完璧に終わったように思う。福島と違って玄海原発に事故が起きれば、当然のことながら偏西風に乗って、日本の九州・四国・本州の国土の大部分が放射性物質で汚染されることになる。

今回のことを一つの型示しと見れば、どこかの時点で、いずれ限界(げんかい)を超えて、日本中に放射性物質(特にウランとプルトニウム)が未来永劫、半永久的に降り注ぐことになるだろう。

ウランはウラノス(天空神)、プルトニウムはプルート(冥界の王)が語源らしいが、そうなれば、天上の王と冥界の王が同時に日本に降臨することになる。

ふと下記部分が思い出されて、何とも、もの寂しいばかりである。

火水伝文参照。

「 汝等盲しいた由、段々に語り聞かす外なきも情けなきが、暫し止むなし。なれど、日本は元のキの国。ヒの元つ国。マコトの国なるを覚え置き下されよ。今の人民様にはわかるまいなれど、スミキリてくれば段々にわかりて来ることぞ。
 そは始源の時、宇宙創りた、元つ神の神仕組みなり。マコト、マコトに尊き御国。ヒノモトの国は元つ神のご神体そのものなるぞ。今この時、ハキリ他国とタテワケ肝腎ぞ。ヒノモトなければ外国ないぞ。外国ありてヒノモトあるのでないぞ。ヒノモトありて外国あるのぞ。それ由、日本は世界の雛形と申して居る。区別大切ぞ。差別でないぞ。区別することが平等であるぞ。区別タテワケせぬことが不平等であるのぞ。取り違えしてはならん。
 汝等のご身体見て御座れ。宇宙コトワリの似姿なるぞ。頭は頭。胸は胸。手足それぞれの区別してタテワケ、ハタラク仕組みなり。日本は世界の真中のヘソの国。肚の国なるぞ。元つキの国。元つ神気いずる国なるぞ。これ日本の尊き御ハタラキなり。日本大切と申すこと、ここより外に元つ神気いずる国、なきが由ぞ。これあるによりて地球のケガレ、元の元つ国なる日本が背負わねばならんのじゃ。
 こ度の天意転換は、この宇宙創りたる始源より決まりてありたことなのぞ。汝等の宇宙、光ひとつ上ぐる仕組み、七つに別けて進み来たりたのじゃ。こ度がその最期なり。七期目の仕上げの時になりたのじゃ。しかあれ、こ度の大変は天意転換なるが由でなきこと、先ず知りおきて下され。世界の人民様ケガレ無くありたなら、マコト麗しき幕の上がりでありたのじゃ。なれどケガレ逆巻く気枯れ世と成り成してしもうたが、こ度の大変招きしワケ成るぞ。
 こ度ケガレ祓うは元つ神なるぞ。こ度はハラとアタマの戦ぞ。神力と学力の戦いであるぞ。アタマ『あやま知』用いて汝等の神気いずるを封じ込め、さんざん世を気枯れケガラし【マコト】無き世と成さしめたのじゃ。神にはアタマを操るの仕組みし企み、すべて解かりて居る由、最後の最後の最後のところで見事ひくり返し、あっぱれ新しき御代建てるも心配無きが、人民様にはこれよりひと苦労ふた苦労、地獄の苦労もせなならん者もあるから、しっかり【マコト】持ち行きて下されよ。汝等、悪神の仕組みし企み知るよりも三真釣り持ち行く【マコト】大切なるを忘るなよ。それ無くば、何を知りてもご無念ぞ。
 日本の大変が酷いのは上に立つお偉い様方、ヒノモトは《元つキの国》なるを『あやま知』に惑わされすっかりだまされ忘れ去り、神気息も出来ぬほどにケガレ気枯らしてしもうたが由なるぞ。汚してはならぬ元つ神のご神体でありたのじゃ。汚したるご無礼、末代ワビつると申せど取り返しのつかぬ事でありたのじゃ。一度は日本はもう潰れたと、誰もが思うひどき有りざまにせなならぬ。神も辛いがこれも人民様にマコト無きが由ぞ。マコト無き所にマコトの神は降りぬのぞ。」

「 三千年の昔より、汝等には解からぬよう汝等の心身の薄弱化を図り続け来たる力ありたぞよ。そは汝等の身魂捕らえるがためぞ。汝等の心、曇り曇らせ汝等の光輝忘却させ、自ら思考する事の出来ぬ獣と化さしめ、欲望のままに生くる者となさしむるがためぞ。そは汝等アメとムチにて治めんがためなるぞ。そは己が野望を成就せんがためなるぞ。そは自ら地球の盟主とならんがためでありたのじゃ。
 汝等を獣化せしむるに用いたる、主たる力が『あやま知』なるぞ。かの力、侮りてはならんと申した事、こ度の人類の歴史、彼等の思うどうりに描かれ来たりたの見つれば得心致すであろうがな。汝、幾度もの転生揺りかごから墓場までどぷりと彼等の作りせし世で過ごし来たりたのぞ。三千年の企みぞ。そ度『あやま知』に囚われ囚われ苦しみ来たったのぞ。ソクラテス殺せし力も、イエス殺せし力も『あやま知』なるぞ。マコト唱えし者殺しマコト覆い隠せし力『あやま知』なるぞ。『あやま知』言うも直接手を下せしは『あやま知』に囚われたる人民様でありたのぞ。ここそ『あやま知』の狙うた企みぞ。果であるぞ。力であるぞ。
 『あやま知』仕掛けた者ども、この力よく知りておる。本来チカラ無きも知りておるのじゃ。悪は苦労に甘いから、知らず誉め称える人民様ばかりじゃ。誉めて力与えしも人民様ご自身なるぞ。誉め称える度毎に汝等の身魂、曇りに曇りて行きたのじゃ。ワナにはまりて行きたのぞ。治め易き獣と成り果てたのじゃ。
 『あやま知』操る者どもも『あやま知』振りまく害悪を、知るが唯一の者なれば自ら冒され無き者と、勝ち誇りておるなれど、こ度は悪の影さえ残さぬのざから最期の仕上げを見てござれ。こ度の相手は元つ神ぞ。決死の覚悟で来てござれ。
 しかあれ、彼の者どもも始源の時汝等と共に『囚われ』の重き病みにかかりた者でありたのじゃ。このこと彼の者どもも知らず。由に『我善し』と思うておるのじゃ。この事、こ度に関わる深因なるゆえ覚えおきくれよ。後に解かるぞよ。
 今、最期の時。彼等の企み、彼等の申すとうり九分九厘成功しておるのぞ。彼等の企み最も鮮やかに花開きたるは日本なるぞ。汝、気付かぬか。日本の人民様見てご戯れ、上から下まで見てご戯れ。彼等の言うた〈自ら思考する事の出来ぬ〉人民様や〈欲望のままに生くる〉人民様ばかりの世になりなりておろうが。ここそ『あやま知』に見事にはめられし果ぞ。実ぞ。証ぞ。破滅の花でありたのじゃ。
 破滅の花はこわいぞ。欲心の種何処ともなく寄り付きて汝に芽吹くが由なるぞ。これ大事なことぞ。汝『あやま知』にどぷりと囚われておるが由、関わり無きと申すなれど、汝の持ちたる衣の糸引いて見て下されよ。食の糸引いて見て下されよ。住の糸引いて見て下されよ。衣食住その糸引きたる先見れば、商人がいるであろうが。更に引きたる先見れば工場見えるであろうが、農場見えるであろうが。さてその先に、汝何を認めしか。汝等日々ほとんど省みし事なきが、そは資源ぞ。汝等の創りたりえぬモノぞ。天恵ぞ。水ぞ。油ぞ。食物ぞ。鉱物ぞ。森林ぞ。海洋ぞ。地球ぞ。すべてのすべて神なるぞ。
 汝等この天恵なくば一日たりとも生きてはおれんのぞ。されば汝等一人一人にその糸集まりきておろうが。されど汝等、自然とあまりにも隔たされ過ぎたるが由に衣食住の本義忘れ、ただただ『あやま知』たる衣食住むさぼり生くるようになりてしもうたのじゃ。食えば食ほどゼイに入り、着買え着捨つる狂り返し、住むに不自然作り上げ怪適かなえる物集み、『あやま知』病みたる欲望の糸引く勢い増しに増し、『我善し』消費の限り尽く。引かれし糸の先見れば、ワガ国ばかりか他国まで天恵むさぼり略奪の汚名頂く様となる。三千年の策略に、まんまとはまりし由なれど、成せしは汝の罪なるぞ。天恵とられし国々は、衣食貧しく住難く、辛き思いの国なるぞ。物心飢餓の国作り、地球の環境悪化させ、騒ぎ起きれば人ごとの、援助、援助と騒ぎ立て、汝の成せしは自覚無く『あやま知』たてたる援助にて、金出し、口出し、手を出して自国ばかりか他国まで利権むさぼり食い尽くし。『あやま知』散々ばらまきて、山死ぬ海死ぬ心死ぬ、貧富逆巻く悪き世にさせたが日本の罪なるぞ。寝ぼけマナコに在りては危ういぞ。こ度の大変、悪神は日本の人民様餌食に致してやり通す、申す声聞こえんか。これより日本を世界の悪者に成す仕組み、どんどん表に顕れ来るぞ。出て来てから騒ぐなれど後の祭りじゃ。真釣りは真先でなくてはならんのじゃ。これで少しは解かりたか。
 汝、外に悪認めしと申すなれど、悪現われたる元見れば、汝の手元に結ぶのぞ。汝の集めしその糸は『我善し』汝のご都合に合わせ作らる欲糸ぞ。『あやま知』生みたる悪の糸。汝の育む欲糸じゃ。汝の厭う原子力、背後で育む悪親は『あやま知』病みたる汝等の『我善し』使うる電力のひたすら消費が真の親ぞ。汝等、悪滅っせんと申すなれど、握りた糸切ったかや。汝等欲糸引かずば悪育たず。生ぜず。自ら滅するの他無きであろうが。糸切りて滅びる産業、悪の業と知る時ぞ。慘業でありたのじゃ。滅びる他に無きものでありたのじゃ。お役目終わりぞ。」

「 三千年に渡り仕組み参りた、『魔釣り』の表を操る蛇の者共は、《身欲》を餌に金で釣りて思想を煽り、継ぎ接ぐ学にて仕組み説き、真釣り外せし枝だの葉の形を基の科学にて、思うが御代を造らんと成し来たりたのぞ。末代マコトに至れぬ、善を偽る『あやま知』で、『ウソ』を基の策謀で、この世を支配し参りたのであるよ。なればこれにて幾生も、育たれありた汝等の、ハラの真中に据え立つモノは、汝等が気付き無くありたなら、そは仇恐ろしき『ウソ』にござるが道理であろうが。身欲のためなら節度なく、何でも信じる『ウソ』にござるよ。知らぬは汝等ばかりなり。真中が総ての御座を統べ居るなれば、汝等の総ては、身欲のご都合に魔釣り副う、『ウソ』に依り立ち居るを今今に、ス直に知りて取らるが善かろうぞ。我のハラは大丈夫じゃ等と申して居るのでないぞ。天をも含む地を創り、神をも含む汝等を創りせしこの方の申す事にてある。一言半句の否やも言わせはせぬぞ。今のままでは汝等が危ういから言うて居る。黙して聞くのじゃ。素性卑しき《身欲》の響きを、永きに渡りて忘れる程に、汝等のハラに住まわせ居るから『ウソ』が入りても気付かんのじゃ。ご自身でミタマの検め成しくれよ。
 人民様の曇り様は救い難きに至りた由、多くを伝うも詮無きことなれど、汝等は少しでも曇りたマナコを明なに致すが大事にてござるから、今少し申し置くぞ。汝等は人の生き死の長短を神の無慈悲と嘆ずるが、そも《身欲》が基と知り居るか。短き命は医学の遅れた悲しき事にてござろうか。不慮の事故死は神の無きが証にてござろうか。なれば長く生きるは、医学の進みた嬉しき事にてござろうか。神の座し座す証にてござろうか。人の生き死の長短は、真釣るマコトのコトワリの、大事な情けの仕組みにて、大悲大愛の事にてあるは汝等も、深きところで知り居るなれど、《身欲》な思いが段々と、強きに響きて鳴り来ると、《身欲》を果たす基なる、この身、この時大切と、生くる基のマコトなる、生かされあるを忘れ去り、長きを得るに自らが、《我善し》力と『あやま知』で、長寿を図りた成し様は、真釣り外したそがために、多くのケガレを結び行く、囚われ曇りをカタチ成す、メグリ深める末期道。生かされある申すは、真釣るコトワリに鑑みて、生かす者はどうありても生かし行き、引き上ぐる者はどうありても引き上ぐるが神のオキテなれば、こに身欲人知を持ち込みて、情けの仕組みに仇成すは、カタチばかりのその内に、更なる情けを創り行く、げに恐ろしき魔釣り業。末期の酷きを知りぬるか。
 この方がこう申せば、医学は悪き業じゃ。医者は魔釣りの使い魔じゃ。なぞ取り違え致す底の浅き人民様も居られようから、ちいとご注意申し置くぞ。
 この方は、痛き辛きを治すが『あやま知』申して居るのでないぞ。こを取り違え致しては、片ハタラキの神々や狐や狸の戯言になりてしもうから、ハキリ申し置くぞ。善きか。汝等、真釣り外せば、情けが出くるは申し伝えあろうがな。なればこの世が『欲』と【情け】の両輪で動き参りたは解かりあるな。真釣りを外す度毎に情けをかけて参りた申しあろうがな。大神様は総てを知られ居りて、至誠至愛で汝等に情けをお渡しなされ居るのぞ。汝等の今がか弱き心身で、堪え得る情けをかけるのじゃ。痛き辛きを顕すが情けの表にてござるのぞ。病みたる表の顕れを水を基の医術にて〔治す〕が花の表にござるよ。堪ゆる辛抱が情けの裏じゃ。大神様も共に堪えてござるのぞ。汝一人の痛みで無いぞ。顕幽双方の世界に苦しむ総てのミタマの苦しみを、御身ご一人に移され堪えてござるのじゃ。この世に在りて有るものは総ての総て神なるが由ぞ。解かるでござろうが。堪ゆる辛抱が情けの裏じゃ申したが、こで汝等が、身欲にありて何かの真釣りを外しありた事に気が付きて、自らを生かし支えある元つ天地の深きご恩に、お詫びと感謝の響きが鳴り鳴り出くれば、真釣るマコトがハラに咲くのじゃ。ハラに咲かせた花一輪、こが花の裏にてござるのぞ。こが咲けば顕幽ただちに【直る】を知りて下されよ。外した真釣りのメグル響きも、真釣ろうた申すことにてあるぞ。
 なれど汝等皆々は、何時いつにありても気付けぬままに、水を基の医術のみで【直り】た積もりで〔治り〕て居りて、正味のメグル情けはそのままに、新たに酷きメグリを育み行くのじゃ。外した真釣りは気が付きて、真釣ろう響き出るまでは、万古末代鳴り鳴り響きて消えはせぬ、申したであろうがな。新たな酷きメグリ申すが、難しき病と鳴り行くは解かるであろうが。こが身欲を基の種となす医学の魔化けを促すのじゃ申して居るのぞ。誰ぞが医学の『あやま知』を押し進め参り来たか、これでハキリ解かりたでござろうが。医者の治すが魔釣りで無いぞ。汝の身欲が魔釣りでござる。人を責めむも業を責めむも恥ずかしき限りにてあるよ。汝の身欲が基じゃ。良う目を見開かれて、スミキリてあれよ。
 これで少しは解かりたか。医学に限らず総ての『学』や『業』呼ばれるものは、九分九厘、人民様の《欲》を基と成し居るが由、末のこ度は総て解くぞ。解く申すは新ら魂をお入れ致す申す事にてもあるぞ。何もかも綺麗サッパリ無うなる言うて居るので無いぞ。取り違え致すなよ。『商』の響きは末代無いぞ。そばかりか政治も経済も律法も総て無う成るぞ。タテナオシよりミロク代へ至る暫しの間、三つが一つになりた様なハタラキが在るだけぞ。マコト、ミロク代へ至りなば、農鳴る響き、漁鳴る響き、林鳴る響き、鉱鳴る響き、医鳴る響き、身欲を外したる総ての響き、新ら魂もお入りに鳴られて、一如に鳴り鳴り真釣ろう響きになりて、在りて有るのぞ。真釣りあるだけの、歓喜弥栄の御代と鳴るのじゃ。
 ざから『商』や『業』が無う成る申したは、そを支える初発の基が保身なる、身欲に発し在るからじゃとくどう言うて居ろうが。生かされあるものに保身の必要無きも申したな。逆に真釣るマコトのお邪魔に成るも解かりたであろうがな。今今の『学』や『商』や『業』の発展申すも、『魔釣り』に囚われた申すも、汝等お一人お一人の《身欲》強きが因でありたと、よくよく真ス直に取りて解かりて下されよ。【真中】に《身欲》の『魔釣るあやま知』を据え置くが、いかに気枯れケガレし世と成せしあるか、八御座総てが曇る申したも解かりたであろうがな。なれば、そを基と成したる力持て、力ある。国力ある。申すはマコト恥ずかしき事にてあろうが。ざから恥力じゃ申して居るのじゃ。解かりたか。
 汝は知らず、気付かず。汝の真中に座し座すモノがマコトのモノで無いなれば、総てが総て知らず身欲に仕え魔釣る様になりてしもうのじゃ。真中に座し座す尊きは、マコト火の位の至誠にておわすなれば、心スミキリあらねば適わぬ事ぞ。
 汝等皆々それぞれにマコト聞きワケ護持致し、二(フ)の座、幽の座、心の座、こ度真中の要石、曇りハライて水晶のスミキル素型と鳴り鳴らし、ハキリタテワケ鳴りた火と、マコト組み組み組み結ぶ、水の清きを取り戻す、透け切る一二三(ヒフミ)の神と鳴る。解かりたでござろうか。フミにてマコトを聞きワケて、心の曇りを一つずつ、ハライ落として下されて、見え来るマコトを護持致し、口と心と行いを、違わず顕すそのことが、こ度の汝のタテカエにござるのぞ。タテカエ進みたそれ相応、真中のマコトが肥え太り、段々、真釣りが解かりて来るから、マコト真釣るが進みて参りて、ものごとも楽に進む様に鳴り成りて来るぞ。それまでのひと苦労ふた苦労申して居るのじゃ。苦労の多きはまだまだに、曇りマ釣りて居る由と、自ら厳しく清まるが至誠至楽に至るミチじゃ。励みて下されよ。
 大事なことを申して置くぞ。汝等を至誠至楽に導く、三真釣り鳴り成すに外すは適わぬ基の事であるぞ。外すは適わぬ基申すは元つ天地のご恩の事じゃ。マコト大事な事にてござるのぞ。汝等の思いも及ばぬ、真釣るに外せぬ、大き要のおイノチにござるから、簡単な言魂思いて軽く聞き流し居りては、すべての総てが水の泡と成りてしもうから、一度で取りて真ス直に行じて下されよ。汝等皆々忘れて居りた元つ天地のご恩を今今にハキリ気付きて、汝は知らず冒したとは申せ、汝が産みなされし初発より今今の今に至る迄の、汝の成せしご無礼の数々を、これよりは産な心に立ち戻りて深きお詫びを結ばねば、こ度の後は無きが世と知りて解かりて下されよ。マコト、マコト外せぬ大事なことにてあるを知りて下され。
 汝は知らず、親のご苦労を土台に致して、踏みつけに致して、なお解からず身欲に走りて不平不満を言うて居りたのぞ。子が親を殺すも今世の型示しにござるのじゃ。今世の人民様の有りザマ申すは、皆々九分九厘取り違え致し居りて、身欲を基の生きザマに逆転致して居るが由、天地に仇成すお子と成り果て居るのじゃ。今のままにありては天地の御祖を殺すがオチぞ。御祖を殺してご自身が在ると思いてか。身欲の所行申しても程があろうぞ。神が無くれば何も無い申して居ろうがな。親にお子を殺させる様な惨き真似、させんで下されよ。神、頼むぞ。
 今生の我の身には覚え無き事じゃ、我は清く正しく生きて居る。なぞ恥ずかしき申しザマするで無いぞ。神、恥ずかしいぞ。神の民が恥ずかしきザマに在れば、この方も恥ずかしい申したであろうがな。数うも適わぬ永き幾転生再生におきて、汝が元つ天地のご苦労を感謝も無しに、当然の事と致して、無断で盗み生きた事どもは消せぬ事実にござるのぞ。無から有を創り出せぬ者どもが何故に生きて居られるか、生かされあることに気付きて下されよ。この世に在りて有るものは、木の葉一枚、髪の毛一本、砂利粒一つ、神のものにてあらざるものは何一つあるは適わぬ事なれば、人民様のものは何一つ有りはせんのぞ。無から有を産み出す適わぬ人民様でござるから、元つ資源の【有】持ちて、有なる物々作りておるのでござろうが。汝等支える【元つ有】このまま一挙に引き上げられて、汝等いかで生き行く申すのぞ。そ程大事な元つ天地のご苦労を、身欲利便の好き放題、勝手に持ち荒らしたを泥棒と、申すも尽きせぬ悪き業でござろうが。そを、こは我のものじゃ。こも我のものじゃ等申して、神に無断で勝手に所有致した挙げ句、売り買い致して、相い争うて息も出来ぬ程の我利我利の世と成さしめしもうたではござらぬか。いかで天地を売り買い出くるのぞ。この方、誰ぞに売りた覚えも無くれば、誰ぞから買うた覚えもござらんぞ。無から創りたのじゃ。元つ火の響き鳴り鳴りお出ましなされてお鳴りに成られたのであるぞ。大神様の清き尊き響きを汚すも好い加減にしなされよ。世も持てぬ《我善し》力の天下の大泥棒を魔釣り上げ、『魔釣る経綸』の仕組みある、仕立てし使い魔なる金に、たぶらかされて踊らされ、身も心も腐り切り、挙げて天地を持ち荒らす。身欲に使われるお金も哀れであるが、お金の要るのも今暫しじゃ。マコトは金では買えぬが由じゃ。
 よう聞きあれよ、この天と地に、売り買い出くるものは何一つありはせんのぞ。なれば汝等の有りザマはオカシキ事にてあるを知りて下されよ。そんな事は解かりて居る申すその口、その先で、一筋のマコトもなさず、楽な道ばかりを探し居るはトコトン性根の腐りた証と取りて異存はなかろうな。そんな積もりは無かりた、申し訳無くありた思える鳴れば、産な心に立ち戻り身欲が成せし悪き業、今、今、今に、気付きあるが大事にてあるのじゃ。成せし来た事どもは消せぬ響きにござるから、元つ天地の大神様に、心底からの深きお詫びと感謝の響きを日々に鳴し出されて、これよりは天地の理法に違わぬ、強きス直な性根を磨き出される様、意乗り行じて下されよ。三真釣り持ちてなさるがマコトぞ。解かりたでござろうな。それ無くば、汝の成し来たケガレし響き、一挙に一度で渡すその他に、ケガレ真釣ろうミチは無いのぞ。今今ここに至りて尚、困らせねで下されよ。
 元つ天地のご恩の事をくどくど申し参りたは、汝の【口・心・行】を違えず一如と鳴し行く三真釣りを、護持ご守護致すは改心の、深き浅きで決まりて来るからくどう申して居るのじゃ。改心出くるそれだけで、真釣るを外すが無うなりて来るのぞ。マコトの改心が強き支えと成り鳴りて下さるを、ゆめお忘れ下さるなよ。天地の総ては真釣りあるだけなれば、真釣りが真釣りを助けてくれるのじゃ。
 マコト真釣ろうてあれば、たとえ汝が暑き地にあろうが、寒き地にあろうが、汝に暑き寒きは無いのぞ。そは汝が暑き思わば涼けさが寄りて参るからぞ。汝が寒き思わば暖かきが添いて来るのじゃ。今ザマの汝等に、こを解かれ申すはご無理ご難題なるを知りては居るなれど、こが如きがウソにてあらば、この世に神は座しまさん。真釣り申すは歓喜弥栄じゃ申して居ろうがな。不都合はどこにも無いのじゃ。今ザマの如くに、汝ご自身が暑きを避け寒きを避けむ必要はどこにも無いのじゃ。なれど身欲に囚われあれば話は別じゃ。
 人民様はこに囚われあるから、我知らずとんでもないことを平気で成し参り来たのであるよ。在りて有る総ての響きは大神様の授けものじゃ。そが由、総てに感謝致し一如に真釣ろうが、生かされある汝等の初発のミチにありたものを、汝等は真先に身欲に走りたのじゃ。身欲と感謝は裏表にござれば、感謝あれば身欲生ぜず。身欲あれば感謝生じぬのじゃ。こは解かるでござろうが。感謝は一如に真釣ろう響きにて、身欲はどっちが損か得か、どっちが苦か楽かに分かれ進む分裂の響きにてあるぞ。こが汝等の使い居る知恵の基にござるぞ。こを『分かつ知』申すなり。末代一如に真釣ろえぬ響きでござるよ。こが『あやま知』産み成す母体にてござるのじゃ。汝等が《身欲》囚われ居るから、せっかくのアタマが『あやま知』に走るのじゃ。もったい無い事をなさらいで下されよ。
 善いか、汝等はどっちが苦か、どっちが楽かの快欲に囚われて居る由、総てを二つに分け進み行くのであるよ。神々も汝等も、自らにご苦労致して産まれ出られた訳ではござらぬから、初めから真釣るマコトを知り得ぬも無理なくありたなれど、ちいとはご苦労なされてみれば、感謝の響きも鳴り出して、真釣ろう響きに入るも出くたでござろうに、汝等は楽ばかりを追い求める様になりたが由、苦を知る事になりたのじゃ。感謝の一如に真釣ろう響きにあれば、苦楽一如にあるだけなれば、苦も楽も知る事は無かりたのであるぞ。苦楽に分裂する事は無かりた申して居るのぞ。至楽あるのみでござりたのじゃ。なれど汝等は身欲の分裂する響きに入りて居りた由、どっちが楽かと比ぶるから、楽を知るのに苦も知る事になりてしもうたのじゃ。既にこに感謝の響きは無かろうまい。『分かつ知』で知る言うは、一如に真釣ろうハタラキを二つに分けて知る申す事にてあるのぞ。どっちが早きか比ぶるから、遅きも知る事になるのじゃ。どっちが善きかと比ぶるから、悪きも知る事になるのであろうがな。こも既に感謝の響きは無かろうぞ。心が曇りたが由でござるよ。苦ある悪ある申すなれば、そは『一如に真釣ろう響きを分け知りた』そが事にてごぎろうが。そが真釣りを外した証にてもあるのざぞ。そが汝等の知恵の正体にてもござるのじゃ。なれば『苦』申すは、そが知恵で汝等ご自身が創り出した『苦』なるを知りて下されよ。元つマコトの神真釣りには『苦』は影さえ無いからであるぞ。なれば初発の『苦』より今今に至る総ての『苦』申すものは、そこそ総て汝等の創り出せし『苦』にてあろうがな。こはゆめ忘れて下さるなよ。今に至りては『苦』あるを当たり前ざ思いてござらぬか。『苦』を『楽』に変え行くが人生ざ思いてござらぬか。よう曇りなされたなぁ。
 汝等は『苦』を自らの力にて、『楽』に変え来た如く思い成して居られようが、そうでは無いぞ。逆さじゃ。『楽』に変えた思いて『苦』を創りて居るのじゃぞ。善いか、よう聞きやれよ。自らが創り出せし『苦』を、そも元々無きが『苦』を、『楽』に変え行く申すは、いかなる事にてござろうか。自らが創り出せし『苦』申すは、真釣りを外したが由に現れたのでござるから、汝等のどちらが楽じゃ、どちらが得じゃと比ぶる『あやま知』分かつやり方で、いかで『楽』に変え行く申すのぞ。真釣りを外すやり方では、なさり様が逆様でござろうが。そは『苦』を『楽』に変え行きたにあらざるぞ。現れなされた『苦』を更に、新たな『苦・楽』に分けしめて、新たな『楽』を選び作りたに過ぎぬのじゃ。そは更に『あやま知』病みた申す事にてござろうが。真釣りを更に外し行きた事にてござろうが。真釣り外せば、情けのメグリが『苦』となりて、真釣り外したる事どもを、知らせ参るがお仕組みなれば、そは、新たな『苦』を自ら呼び入れた申すに同じ事にてござろうが。汝等は生くるに現る『苦』を更に、身欲を基の『苦』と『楽』の二つに新に分け進みて参りたのじゃ。ちいとも初発の『苦』は真釣ろい戻れぬばかりか、汝等が『分かつ知』で進めば進む程、新な『苦』を創り続けて参りた申すも解かるでござろうが。逆に分け進みた事どもを、一つに集めなおせば良い等と情け無きことを申して下さるなよ。同じ事じゃ。分け知る世界が見え来るだけで、『苦』はちいとも減りもさん。増えるだけぞ。末代真釣る一如には、至れぬ愚かな浅知恵じゃ。人民様、時が無いのじゃ。好い加減に目を覚まして下されよ。メグル苦楽の輪廻に入りてしもうて居るぞ。
 ついて参りて居るか。人民様の囚われ居る『あやま知』申すは、マコト、オカシキ事にてあるから、無理に解かる必要は無いのじゃが、アタマで着て。アタマで食べて。アタマで住み居る。救い難き者共にハキリ『あやま知』の正体を伝えねばならぬ由、今暫しくどう申すも許して下されよ。ス直に元つ天地の大恩に感謝を致し、今までの有り様を心底より、詫びて改心出くる程の者なれば、こが事は解かり取れねでも善いぞ。難しく思いたら、解かるとこだけ取れば善いのじゃ。心配致すで無いぞ。この方の申したきは、マコトの改心を持ちて三真釣りなされて欲しくあるだけにござるから、【口と心と行い】を違えず一如に真釣ろうご苦労を致して下されば、それで善い。そが一番ぞ。この方もそが一等嬉しいのじゃ。ここまで良く良くついて参りた。もう後少しじゃ。ゆっくり、ゆっくりついて参られよ。この方がお手を引いて居る由、手を離すで無いぞ。解かりたな。
 何でもそうであるぞ。神の真釣りに外れるものは、人、物、事にかかわらず万象万物に渡りて不都合出くるが神法にてあるのぞ。そは真釣り外した情けの知らせあるに、人民様は真釣りを忘れ身欲にどぷり囚われあるが由、身欲勝手に物事を進め成し、次なる不都合現れい出来たるを、あたかも未開な不調和を見るが如く思い為し、自らこそが真釣りを外れたる不調和なるに全く気付けず、更なる欲膨れの手前勝手な思いにて、自らこの世に出せしある、真釣り外した不調和をまたまた身欲で外し行く。こが今ザマの人民様の真姿にてござるぞ。
 善いか、今少し汝等の《身欲》を基の『分かつ知』が、今世の酷きを作り成す、過つ先の狂いザマ、寒暖一つ取り上げて、例えて伝うる事ほどに、自ら辿りて見なされよ。汝等が身欲を基の『分かつ知』で一如の響きの寒暖を、二つに分け知りなされたが、寒いと申せば厚着なし、暑いと申せば薄着なす、『過つカタチ』の産み初めじゃ。このヒノモトは薄布一枚にて、心地良く過ごせる結構な国にてあるのぞ。汝等が一如に真釣ろい生きあらば、その如きカタチにては現れ来ぬものにてあるのじゃ。思いも見て下されよ。どの様な暑きところ、寒きところにありても、生かされあるものは在りて有るのぞ。なれど寒暖に合わせ、自ら真釣ろい授かりたマコトの衣以外なる、『過つカタチ』の肌衣、着替え着捨つる生きものはどこにも無いぞ。この方がその様に創りて有るからじゃ。その地その地の自然と真釣れる様、創りてあるのぞ。まして汝等皆々は、尊き神の鎮まれる尊きお宮と成して創りありたのじゃ。その地その地の気候風土に真釣りて創りしお宮なるぞ。五色人種見てござれ、世界のぐるりを見てござれよ。暑き寒きに真釣れる様、外見も中身も違えて創りてあろうがな。日月の響きも違えば、お土の響きも違うによりて、育む響きも違うて居るのぞ。そのお土より創りた汝等、そのお土より取れしマコトの響きと真釣りて居れば、苦はどこからも産まれはせんのじゃ。
 この方は、寒暖を我慢致せ申して居るので無いぞ。取り違え致すなよ。この方が申すは『苦』から逃れん思うその前に、神と真釣ろう感謝の響く心に在りせば自然と真釣りた善き手立て、顕れ産まれ成り鳴るを、くどう申して居るのじゃぞ。
 真釣りを我慢思うは違うて居るぞ。ヤセ我慢致せ申し居るので無いぞ。汝等が我慢思うは、魔釣る手立ての『分かつ知』で考え居るからじゃ。真釣りに我慢はありもさん。魔釣りから真釣りに変える一時に、鳴りて顕る響き成る『苦』鳴る響きに惑わされては鳴らぬ由、特に注意致し置くぞ。真釣ろう響きでお産まれなされた真コトのカタチと、魔釣ろう響きでお産まれなされた魔コトの『過つカタチ』ハキリ、タテワケ出くる様になりて下され。
 厚着、薄着の事ぐらい、さしたる事では無かろうと、思うが初発の終末の真釣れぬ響きと鳴るのざぞ。この方とて厚着、薄着に目くじら立てて居るので無いぞ。真釣り外すに気が付かず、『過つカタチ』で冒し行く、『あやま知』招く酷き世を知りて解かりて欲しいから、か程くどう申して居るのじゃ。軽く思いた初発から、その先いよいよ見てござれ。身欲で引いた糸先を、曇りたマナコを見開いて、いよいよハキリ見てござれよ。『あやま知』病みたる汝等の、暑き寒きを癒すため衣変え、食変え、住変えて防寒防暑に精を出し、カタチに冷暖魔釣ろわせ、真釣ろう基の自らは、真釣れぬ響きと成りたのじゃ。《身欲》を基に汝等が、寒暖分けたがそのために、防寒防暑の『あやま知』の、科学と呼ばしむ魔釣り業、魔釣るカタチを維持するに、元つ天地の資源から、石掘り燃やして水止めて、都合の好い様使い成し、神の真釣りを外し行き、油汲み上げ好き放題、燃やし化かして真釣ろえぬ、『過つカタチ』に奉仕させ、膨れる身欲を支えんと、魔釣るが求めた原子力、真釣る基はそのままに、カタチばかりに魔釣ろわせ、魔釣るカタチがあり無くば、生くるも難くなる程に、真釣れぬ響きと鳴りた成り。解かりたか。
 汝等皆々、『過つカタチ』で楽を得んと致したのじゃ。苦を避けむと致したのじゃ。そが汝等を破滅に導く、ウソを基の『魔釣りの経綸』とは気付きも出来ず、世を挙げて、専ら身欲を基の『あやま知』で、真釣りを外し続けて参りたのじゃ。一体何をやっているのざ。魔釣りと一如に魔釣ろうてどうするお積もりじゃ。
 寒暖だけにては無いのぞ。汝等は総てに渡りて一如の響きを分け分け進み参りたのじゃ。そ度、科学と技術は押し進み、『過つカタチ』を作り続けて参りたのじゃ。今今は枝葉ばかりの世となりて、真釣るも難き有り様と鳴りて居るのぞ。
 今世の科学言うも技術言うも九分九厘、こが『あやま知』に奉仕する業にてござるのぞ。奉仕する度毎に、真釣りを外して世を荒らす、響きと鳴りたが解からんか。そのままにありては、末代マコト真釣りに奉仕は出来ぬ悪き業ぞ。マコト『分かつ知』の申し子にてござるのぞ。何故こが解からんのじゃ。ス直大切ぞ。」

Posted on 2017/04/26 Wed. 01:16 [edit]

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まわりうた 

もくろみの よちすへかその
  にくきなき くにのそかへす ちよのみろくも

(目論見の 輿地統べ父の 憎き無き 国の祖返す 千代の弥勒も)

解説

目論見は「もくろむこと。また、その内容。計画。企て。」、輿地は「大地。地球。全世界。」、統ぶは「(ばらばらのものを)一つにまとめる。」「支配する。統轄する。統治する。」、父(かぞ)は「父(ちち)。」、千代は「千年。非常に長い年月。永遠。」、返すは「帰らせる。戻らせる。」「裏返す。ひっくり返す。」「戻す。返却する。返上する。」の意味です。

雑感

ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。

内容は見ての通り、国祖が地上世界を統べて、天の大神様にお目にかけるというものです。

Posted on 2017/04/25 Tue. 11:34 [edit]

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