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花鳥風月

気ままに回文歌、いろは歌を書いています。

まわりうた 

なかきよの みなとねふみる
  すのかみか のするみふねと なみのよきかな

(永き代の 港合歓見る 主の神が 乗する神船と 波の良きかな)

解説

合歓(ねぶ)は「ネムノキの別名。」、乗すは「乗せる。」、神(み)は「霊的な力をもつものの意。‘山祇(やまつみ)’‘海神(わたつみ)’など他の語と複合して用いられる。」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。

ちなみに漢字名の「合歓木」は、中国においてネムノキが夫婦円満の象徴とされていることから付けられたものだそうだ。花言葉は「歓喜」。

またネムノキは「眠(ねむ)の気(き)」に通じる。主の神が用意するミロクの世行きの神船に乗るのは、おそらく肉体的には眠っている状態の時ということだろう。

最後は仮死状態になると日月神示では書かれているので、その時かと思われる。

下記「人に内在する良心神(神言会)」さんのブログ参照。
『みの尾張の女子とは白山菊理姫様のことか?。その肉体の演技に「静御前」?』
http://kamikotokai-b.jugem.jp/?day=20150517

『霊界に表れるビジョンに絶対性はないが、注意の喚起は必要』
http://kamikotokai-b.jugem.jp/?day=20141028

Posted on 2015/12/31 Thu. 12:25 [edit]

category: まわりうた

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31

まわりうた 

なかきよの みなきつきつむ
  さいはうは いさむつきつき なみのよきかな

(永き代の 御名気付き頭 細胞は 勇む次々 波の良きかな)

解説

頭(つむ)は「人間のあたま。つぶり。かしら。つむり。おつむ。」の意味です。

余談

この歌は、ゼノギアスアレンジヴァージョン-CREIDの中にある「CREID」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。ちなみに「CREID」はゲール語で「信じる」という意味だそうです。

雑感

ここでの御名(みな)は神の御名のことと解釈したいが、同時に御名は皆に通じる。全ての人、物には名前が付けられるが、それら全てを絶対神の現れと解釈すれば、この世界そのものが神の世界とも言えるのかもしれない。

仮にあらゆる宗教、民族、また善人悪人富者貧者問わずに、全人類一人残らず同じ瞬間になんらかの同じ体験をすれば、皆等しく神を信じ、また神からこの上なく愛されていることも会得でき、より良い世界になる気もする。

Posted on 2015/12/31 Thu. 12:13 [edit]

category: まわりうた

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31

まわりうた 

よるかあけ かみのひかりて
  なみのまの みなてりかひの みかけあかるよ

(夜が明け 神の光で 波の間の 皆照り佳美の 御影上がる世)

解説

佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、御影は「神や貴人の霊魂。神霊。みたま。」「死んだ人の姿、または絵や肖像。みえい。」の意味です。

余談

この歌は、-MYTH- The Xenogears Orchestral Albumの「最先(いやさき)と最後(いやはて) -Orchestra Version-」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

昔、空一面から光のシャワーが降って来て、周りの人々がまるで神様とでも出会ったかのような感謝と喜びに打ち震えながら、その光と共に瞬時に消滅していき、同時に肉体から抜け出た霊魂が天へと昇っていく、という映像を見た、というか想像したことがあるのだけれど、ふとそれを思い出したので歌にしました。

その光はなんとも優しく清々しく、また何者にも犯すことができない荘厳さと終わりの無い奥行きが感じられる光で、まるですっぽりと母に抱かれているような、或いは父に見守られているような、或いは自分のことを昔から知っている懐かしい親友と出会ったかのような、或いは冬に冷たくなった身体をいい感じに温めてくれる、風呂場のシャワーの気持よさを何万倍にしたかのような、そんな光でした。

Posted on 2015/12/29 Tue. 08:18 [edit]

category: まわりうた

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29

まわりうた 

いかせいき たまのみかきと
  すなほあほ なすときかみの またきいせかい

(生かせ息 魂の磨きと 素直阿呆 成す時神の 全き異世界)

解説

全い(またい)は「完全である。欠けていない。」の意味です。

余談

この歌は、下記文章を見て書いた歌です。あ、なるほどと思いました。

『【身魂磨】心のお洗濯、その方法。』(アセンション実践倶楽部さんより)
https://www.evernote.com/shard/s251/sh/ef80daaf-acf6-43d4-9631-fe9f5937e3f8/96fa3c144d82b47dd4e4c325fd12b1cb

雑感

息は「自+心」なので、ここでは自分の心の流れと解釈したい。要するに呼吸のように次から次へと出て来る自分の本心を、湧き出ずるままに素直に出すということ。日月神示の「赤子になれ」「アホになれ」という言葉に通じる。

日月神示参照。

『改心とはアホになることざぞ、世界中のアホ中々ぢゃ、中々アホになれまいがな。世界中の人民に云ふて聞かして改心さすのではキリがないから大変を致さなならんのざぞ。六ヶ敷いこと申してゐるが平とう説かねば判らんぞ、世界の説教をよく聞きてくれよ、天の教、地の導き、よく耳すまして聞きとれよ、神の心 段々に判りて来るぞ。この者は見込ないとなったら物云わんぞ、もの聞けん様になったら、神示いやになったら其の守護神 可哀想になるのざぞ、見込なくなれば神は何も申さんぞ、今の内に神示肚に入れよ。』(青葉の巻 第十八帖)

『神界のことは顕界ではなかなかに分るものでないと云ふこと分りたら、神界のこと分るのであるぞ。一に一足すと二となると云ふソロバンや物差しでは見当取れんのざぞ。今までの戦でも、神が蔭から守ってゐること分るであらうがな、あんな者がこんな手柄立てたと申すことあらうが、臣民からは阿房に見えても、素直な人には神がかかり易いのであるから、早う素直に致して呉れよ。海のつなみ気をつけて呉れ、前に知らしてやるぞ。』(地つ巻 第二十一帖)

『気の合う者のみの和は和ではない。色とりどりの組合せ、ねり合せこそ花さくぞ。総てが神の子ぢゃ。大神の中で弥栄ぞ。大き心、広き心、長い心 結構。中々に合わんと申すなれど、一つ家族でないか。心得なされよ。 夫婦けんかするでない。夫のみいかんのでない。妻のみ悪いのでないぞ。お互に己の姿を出し合ってゐるのぞ。よく会得せよ。 判らんことが更に判らなくなるぞ。ききたいことは何でもきけよ。大グレ目の前。アホになれよ。一先づは月の代となるぞ。ひっくり返り、ビックリぢゃ。』(月光の巻 第九帖)

『行は、世界中の行、誰一人のがれるわけには行かんぞ。めぐり果たしたものから、うれしうれしになる仕組。そなたの心配 一応は無理ないなれど、何処で、どんなことをしてゐても、みたま磨けてさへ居れば、心配なくなるぞ。心配は、磨けて居らぬ証拠ぞ。そなたはものに不足するとこぼして御座るなれど、ものに不足するのは、心に足らぬ所があるからぞ。心いたれば ものいたるぞ。何ごとも神の申す通り素直になされよ。素直結構ぢゃなあ。』(月光の巻 第三十六帖)

『頭を下げて見なされ、流れて来るぞ。頭も下げず低くならんでゐては流れては来ないぞ。神のめぐみは淡々とした水のようなものぞ。そなたは頭が高いぞ。天狗ぞ。その鼻まげて自分のにほひをかいで見るがよい。そなたは左に傾いてゐるぞ。左を見なければならんが、片よって歩いてはならんぞ。そなたは右を歩き乍ら、それを中道と思って御座るぞ。そなたは平面上を行ってゐるから、中道のつもりで、他に中行く道はないと信じてゐるが、それでは足らんのう。立体の道を早うさとりなされよ。【正中の大道】あるのであるぞ。左でもなく右でもなく、うれしうれしの道あるぞ。左も右も上も下も相対の結果の世界ぢゃ。原因の世界に入らねばならん。平面より見れば相対あるなれど、立体に入り更に複立体、複々立体、立立体の世界を知らねばならんぞ。相対では争ひぢゃ。いくさぢゃ。真の世界平和は今のやり方、考へ方では成就せんぞ。三千世界和平から出発せねばならんぞ。そなたは神示をよくよんでゐるが、それだけでは足らん。神示を肚に入れねばならん。つけ焼刃ではならん。神示を血とし生活とすれば、何事も思ふ通りスラリスラリと面白い程 栄えて来るぞ。思ふように運ばなかったら省みよ。己が己にだまされて、己のためのみに為してゐることに気づかんのか。それが善であっても、己のためのみならば死し、善のための善ならば弥栄えるぞ。善にも外道の善あるぞ。心せよ。神示見て居らぬとびっくりが出てくるぞ。この世始まってないことが出てくるのぢゃ、世界の片はし八まべからぞ。判りたか。そなたは神体を偶像と申して御座るが、それはそなた自身が偶像なるが故であるぞ。礼拝を忘れ、祈りをわすれることは神をわすれることぢゃ。そなたの住む段階では、祈り畏こみ謹んで実践しなければならんぞ。拝まんでも拝んでゐる境地はなかなかぢゃなあ。そなたはわれが助かろうとするから助からんのぢゃ。世界はこの世ばかりではないことを、よく得心して下されよ。我をすてて素直になされよ。三千年の秋が来てゐるのであるぞ。』(月光の巻 第五十四帖)

『春が来れば草木に芽が出る。花が咲く。秋になれば葉が枯れるのぢゃ。時節よく気付けて取違ひせんよういたしくれよ。時節程結構なものないが、又こわいものもないのであるぞ。丁度 呼吸のようなもので一定の順序あるのぞ。吸の極は呼となり、呼の極は吸となるぞ。これが神の用(ハタラキ)であるから、神の現われの一面であるから、神も自由にならん。この神も時節にはかなわんのであるのに、そなたは時々この時節を無視して自我で、或ひは時節を取違ひして押しまくるから失敗したり怪我したりするのぢゃぞ。素直にしておれば楽に行けるようになってゐるぞ。時まてばいり豆にも花さくのであるぞ。水が逆に流れるのであるぞ。上下でんぐり返るのであるぞ。上の人が青くなり、下の人が赤くなるのであるぞ。取りちがひないように理解して下されよ。』(月光の巻 第五十八帖)

『九分行ったら一休みせよ、始めから終りまで休まずに行くと、今の人民では息切れ致すぞ、一休みして自分の来た道をふり返れよ。この世の世話をさすために、人民には肉体を与えてあるのぞ、活神(いきがみ)がしたのでは堪(こば)れんものが沢山に出て来るからぢゃ、立替、立直し一時に来ているから、われよしの人民には判らんことになるぞ、この世の動きが判らんのはわれよしざからぞ、今度の岩戸びらきは五度の岩戸しめを一度にひらくのであるから、人民には中々に理解出来んことに、折り重なってくるから、何事も神の申す通りハイハイと素直にきくのが一等であるぞ。』(碧玉の巻 第九帖)

『神の申すこと何でも素直にきくやうになれば、神は何でも知らしてやるのぞ。配給のことでも統制のことも、わけなく出来るのぞ、臣民みな喜ぶやうに出来るのぞ、何もかも神に供へてからと申してあろがな、山にも川にも野(ぬ)にも里にも家にも、それぞれに神祀れと申してあろがな、ここの道理よく分らんか。神は知らしてやりたいなれど、今では猫に小判ぞ、臣民 神にすがれば、神にまつはれば、その日からよくなると申してあろが、何も六ヶ敷いことでないぞ、神は無理言はんぞ、この神示読めば分る様にしてあるのざから役員早う知らして縁ある臣民から知らして呉れよ。印刷出来んと申せば何もしないで居るが、印刷せいでも知らすこと出来るぞ、よく考へて見よ、今の臣民、学に囚へられて居ると、まだまだ苦しい事出来るぞ、理屈ではますます分らんやうになるぞ、早う神まつれよ、上も下も、上下揃えてまつりて呉れよ、てんし様を拝めよ、てんし様にまつはれよ、その心が大和魂ぞ、益人のます心ぞ、ますとは弥栄のことぞ、神の御心ぞ、臣民の心も神の御心と同じことになって来るぞ、世界中一度に唸(うな)る時が近づいて来たぞよ。』(富士の巻 第二十一帖)

『元からの神示 腹に入れた人が、これから来る人によく話してやるのざぞ。この道はじめは辛いなれど楽の道ぞ。骨折らいでも素直にさへして その日その日の仕事しておりて下されよ。心配要らん道ぞ。手柄立てようと思ふなよ。勝たうと思ふなよ。生きるも死ぬるも神の心のままざぞ。どこにどんな事して居ても助ける人は助けるのざぞ。神の御用ある臣民 安心して仕事致しておりて下されよ。火降りても槍降りてもびくともせんぞ。心安心ぞ。くよくよするでないぞ。神に頼りて神祀りてまつわりておれよ。神救ふぞ。』(日月の巻 第三十五帖)

『今の臣民見て褒める様な事は皆奥知れてゐるぞ。之が善である、まことの遣り方ぞと思ってゐる事九分九厘迄は皆悪のやり方ぞ。今の世のやり方、見れば判るであらうが、上の番頭殿 悪い政治すると思ってやってゐるのではないぞ。番頭殿を悪く申すでないぞ。よい政治しようと思ってやってゐるのぞ。よいと思ふ事に精出してゐるのざが、善だと思ふ事が善でなく、皆悪ざから、神の道が判らんから、身魂曇りてゐるから、臣民困る様な政治になるのぞ。まつりごとせなならんぞ。わからん事も神の申す通りすれば自分ではわからんこともよくなって行くのざぞ。悪と思ってゐることに善が沢山あるのざぞ。人裁くのは神裁くことざぞ。怖いから改心する様な事では、戦がどうなるかと申す様な事ではまことの民ではないぞ。世が愈々のとことんとなったから、今に大神様迄 悪く申すもの出て来るぞ。産土様(うぶすなさま)何んぞあるものかと、悪神ばかりぞと申す者 沢山出てくるぞ。此の世始まってない時ざから我身我家が可愛い様では神の御用つとまらんぞ。神の御用すれば、道に従へば、我身我家は心配なくなると云ふ道理判らんか。何もかも結構な事に楽にしてやるのざから、心配せずに判らん事も素直に云ふ事聞いて呉れよ。子に嘘吐く親はないのざぞ。神界の事知らん臣民は色々と申して理屈の悪魔に囚はれて申すが、今度の愈々の仕組は臣民の知りた事ではないぞ。神界の神々様にも判らん仕組ざから、兎や角申さずと、神の神示腹に入れて身魂磨いて素直に聞いて呉れよ。それが第一等ざぞ。此の神示は世に出てゐる人では解けん。苦労に苦労したおちぶれた人で、苦労に負けぬ人で気狂いと云はれ、阿呆と謂はれても、神の道 素直に聞く臣民でないと解けんぞ。解いてよく噛み砕いて世に出てゐる人に知らしてやりて下されよ。苦労喜ぶ心より楽喜ぶ心高いぞ。』(日月の巻 第三十六帖)

『神の国には昔から神の民より住めんのであるぞ、幽界(がいこく)身魂は幽界(がいこく)行き。一寸の住むお土も神国にはないのざぞ。渡れん者が渡りて穢して仕舞ふてゐるぞ。日本の人民、大和魂 何処にあるのざ、大和魂とは神と人と解け合った姿ぞ。戦いよいよ烈しくなると、日本の兵隊さんも、これは叶はんと云ふ事になり、神は此の世にいまさんと云ふ事になって来るぞ。それでどうにもこうにもならん事になるから、早よう神にすがれと申してゐるのぞ。誠ですがれば、その日からよくなるぞ、神力現れるぞ。今度の建替は、此の世 初まってない事であるから、戦ばかりで建替出来んぞ。世界隅々まで掃除するのであるから、どの家もどの家も、身魂も身魂も隅々まで生き神が改めるのざから、辛い人民 沢山出来るぞ。ミタマの神がいくら我張っても、人民に移っても、今度は何も出来はせんぞ。世の元からの生神でない事には出来ないのであるぞ。それで素直に言ふ事聞けとくどう申すのぞ、今度は神の道もさっぱりとつくりかへるのざぞ。臣民の道は固(もと)より、獣の道もつくりかへぞ。戦の手伝い位 誰でも出来るが、今度の御用はなかなかにむつかしいぞ。赤いものが赤い中にゐると色無いと思ふのぞ、気付けて呉れよ。悪神の守護となれば自分で正しいと思ふ事、悪となるのざぞ。悪も改心すれば助けてやるぞ。海の御守護は竜宮のおとひめ様ぞ。海の兵隊さん竜宮のおとひめ殿まつり呉れよ。まつわり呉れよ。竜宮のおとひめ殿の御守護ないと、海の戦は、けりつかんぞ。朝日照る夕日たださす所に宝いけておいてあるぞ。宝 愈々世に出るぞ。人民の改心第一ぞ。顔は今日でも変るぞ。民の改心なかなかぞ。』(松の巻 第八帖)

『今度 役目きまったら、末代続くのざぞ、神示に出た通りの規則となるぞ。善も末代ぞ、悪も末代ぞ。此の世は一(ひとつ)であるぞ。われの身体われに自由にならぬ時来たぞ。神に縋(すが)るより仕方なくなって、すがったのでは、間に合はんぞ。今度はいろはの世に戻すぞ。ひふみの世に戻すぞ。素直にすればタマ入れかへて、よい方に廻してやるぞ。よろこびの身といたしてやるぞ。』(松の巻 第十帖)

『天の日津久の大神(あめの一二の◎)のお神示(ふで)であるぞ、特にお許しもろて書きしらすぞ。十二の巻 説いて知らすのであるぞ、此の巻アメの巻と申せよ、此の度は昔から無かりた事致すのであるから人民には判らん事であるから素直に致すが一等ざぞ、惟神(かんながら)の道とか神道とか日本の道とか今の臣民申してゐるが、それが一等の間違ひざぞと申してあろが、惟神(かんながら)とは神人共に融け合った姿ざぞ。今の臣民 神無くして居るではないか、それで惟神も神道もないぞ、心大きく、深く、広く持ちて下されよ、愈々となるまでは落しておくから見当とれんから、よくこの神示読んでおいて下されよ。世界ぢゅうに面目ない事ないよにせよと申してあろが。足元から鳥立ちてまだ目覚めんのか、神示(ふで)裏の裏までよく読めと申してあろがな。此の道は只の神信心とは根本から違ふと申してあろが、三千世界の大道ざぞ。所の洗濯と身魂の洗濯と一度になる所あるぞ、「イスラ」の十二の流れの源泉(みなもと)判る時来たぞ。命がけで御用つとめてゐると思ふて邪魔ばかり致しておろがな、金や学や智では大峠越せんぞ。神はせよと申すことするなと申すこともあるのぞ、裏の裏とはその事ぞ、よく心得て下さりて取違ひいたすでないぞ。手のひら返すぞ返さすぞ、此の度の岩戸開きは人民使ふて人民助けるなり、人民は神のいれものとなって働くなり、それが御用であるぞ、いつでも神かかれる様に、いつも神かかっていられるようでなくてはならんのざぞ。神の仕組 愈々となったぞ。』(雨の巻 第一帖 ◎は「○にヽ」の形)

『神示よく読めと、神示よく肚に入れと申してあるが、神示肚に入れると胴すわるのざぞ、世界から何んな偉い人が出て来て何んな事尋ねても教へてやれる様になるのざぞ、神示胴に入れて頭下げて天地に働いて下されよ、まつりて下されよ、素直になれば其の場から其の場其の場で何事も神が教へてやるから、力つけて導いてやるから、何んな神力でも授けてやるぞ。一二三四五六七八九十百千卍(ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろず)授け申して神人となるぞ。我さえよけらよいとまだ思って御座る臣民まだで御座るぞ、自分一人で生きてゆけんぞ、神許りでも生きてゆけんぞ、爪の垢でもだてについてゐるのではないのざぞ、判らんと申しても余りで御座るぞ、まつりせよ、地(つち)にまつろへよ、天(あめ)にまつろへよ、人にまつろへよ、草木動物にまつろへよ、と、くどう知らしてあるのに未だ判らんのか、神拝む許りがまつりでないぞ。待ちに待ちし日の出の御代となりにけり、一二三(ひふみ)いろはの世はたちにけり。身慾信心してゐる臣民人民、今に神示聞けぬ様に いれものつんぼになるのざぞ、きびしくなって来るぞ、毒にも薬にもならん人民、今度は役に立たんのざぞ、悪気ない許りでは一二(ひつき)の御民とは申されんぞ。あら楽し、黒雲一つ払ひけり、次の一つも払ふ日近し。淋しくなりたら神示尋ねて御座れ、神示読まねば益々判らん事になったであろうが、天国に底ない様に地獄にも底ないぞ、何処までも落ちるぞ、鼻高の鼻折らな人民何んと申しても神承知出来ん。』(雨の巻 第六帖)

『四八音(ヨハネ)世に出るぞ、五十音(イソネ)の六十音(ムソネ)と現はれるぞ、用意なされよ。それまでにさっぱりかへてしもうぞ、天も変るぞ地も変るぞ。此の方等が世建直すと申して此の方等が世に出て威張るのでないぞ、世建直して世は臣民に任せて此の方等は隠居ぢゃ、隠れ身ぢゃぞ。地から世持ちて嬉し嬉しと申すこと楽しみぞ、子供よ、親の心よく汲み取りてくれよ。此の神示読まいでやれるならやりてみよれ、彼方(あちら)でこつん 此方(こちら)でくづれぢゃ、大事な仕組 早う申せば邪魔はいるし、申さいでは判らんし、何にしても素直に致すが一番の近道ざぞ、素直になれんのは小才があるからざぞ。鼻高ぢゃからざぞ。神の国は神の国のやり方あると申してあろがな、よきは取り入れ悪きは捨てて皆気付け合って神の国は神の国ぢゃぞ、金は金ぢゃ、銀は銀ぢゃぞと申してあろがな、盲ならんぞ、カイの御用もオワリの仕組も何も彼も裏表あるのざぞ、裏と表の外(ほか)に裏表あるぞ、ウオヱであるぞ、アとヤとワざぞ、三つあるから道ざぞ、神前に向って大きくキを吸ひ肚に入れて下座に向って吐き出せよ、八度繰り返せよ、神のキ頂くのざぞ、キとミとのあいの霊気頂くのざぞ。ひふみがヨハネとなり、五十連(イツラ)となりなって十二の流れとなるのざぞ、ムがウになるぞ、ンになるぞ、ヤとワとほりだして十二の流れ結構ざぞ。知らしてあろがな、是迄の考へ方やり方致すなら建替ではないぞ、何も彼も上中下すっかりと建替へるのざぞ、外国は竜宮の音秘(オトヒメ)様ぐれんと引繰り返しなさるのざぞ、竜宮の音秘(オトヒメ)様、雨の神様の御活動 激しきぞ。今度 次の大層が出て来たら愈々ざぞ。最後の十十※(トドメ)(透答命)ざぞ、今度こそ猶予ならんのざぞ、キリキリであるから用意なされよ、三四月気付けよ、キきれるぞ。信心なき者ドシドシ取り替へるぞ、此の中、誠一つに清め下されよ、天明まだまだざぞ、世の元の型まだまだざぞ、神の仕組 成就せんぞ、神人共にと申してあろがな、神厳しきぞ、ぬらりくらりぬるくって厳しきぞ、と申してあろがな。役員多くなくても心揃へて胴(十)すへて居りて下されよ、神がするのであるから此の世に足場作りて居りて下されよ、神無理申さんぞと申してあろがな、けれどもちっとも気許しならんのざぞ。身魂相当に皆させてあろがな、掃除早うせよ、己の戦まだすんでゐないであろが、洗濯掃除 早う結構ぞ、此の方の神示元と判り乍ら他の教で此の道開かうとて開けはせんのざぞ、鏡曇ってゐるから曲って写るのざぞ、一人の改心ではまだまだぞ、一家揃って皆改心して手引き合ってやれよ、外国人も日本人もないのざぞ、外国々々と隔て心悪ぢゃぞ』(雨の巻 第十五帖 ※は原文では「目のマーク」の形)』

『向ふの云ふこと、まともに聞いてゐたら、尻の毛まで抜かれてしまふのが、神にはよく判りて気つけてゐたのに、今の有様その通りでないか。まだまだ抜かれるものあるぞ。のばせばのばせば、人民まだまだ苦しいことになるぞ。延ばさねば助かる人民ないし、少しは神の心も察して下されよ、云ふ事きいて素直にいたされよ、神たのむぞ。愈々時節来たのであるから、何と申しても時節にはかなわんから、神示通りになって来るから、心さっぱり洗ひ晴らしてしまふて、持ち物さっぱり洗ひかへしてしまふて、神のみことに生きて呉れよ、みことになるぞ、タマぞ、ミコト結構ぞ ~後略~。』(岩の巻 第六帖)

『苦しむと曲るぞ、楽しむと伸びるぞ、此の方 苦しむこと嫌ひぢゃ、苦を楽しみて下されよ。此の方に敵とう御力の神、いくらでも早う出て御座れ、敵とう神 此の方の御用に使ふぞ、天晴れ御礼申すぞ。世界のどんな偉い人でも、此の方に頭下げて来ねば今度の岩戸開けんぞ、早う神示読んで神の心汲み取って、ミロクの世の礎 早う固めくれよ。算盤のケタ違ふ算盤でいくらはじいても出来はせんぞ、素直にいたしてついて御座れ、見事 光の岸につれて参って喜ばしてやるぞ。』(梅の巻 第二十七帖)

『学の鼻高さん何も出来んことになるぞ、今に世界から正真(しょうまつ)が段々判り来て、あわてても間に合はんことになるぞ、今の内に神示よく肚に入れておけよ、この道には色々と神の試(ためし)あるから漫心するとすぐひっくり返るぞ、考へでは判らん、素直結構ぞ。日本には五穀、野菜、海、川、いくらも弥栄の食物あるぞ、人民の食物 間違へるでないぞ、食い過ぎるから足らんことになるのざぞ、いくら大切な、因縁の臣民でも仕組の邪魔になると取り替へるぞ、慢心取違ひ致すなよ、代へ身魂いくらでもあるぞ。学問の世はすみたぞ、学者は閉口するぞ、商売の世も済みたから商売人も閉口するぞ、力仕事は出来んし、共喰するより他に道ないと申す人民許りになるぞ、今迄とはさっぱり物事変るから今迄のやり方 考え方 変へて呉れよ、神示通りに行へば其の日その時から嬉し嬉しざぞ、此処は落した上にも落しておくから、世の中の偉い人には中々見当とれんから、身魂の因縁ある人には成程なあと直ぐ心で判るのぢゃぞ、九の花咲けば皆よくなるのぞ、九の花中々ぞ。』(空の巻 第十二帖)

『人民の我では通らん時となった位 判って居らうがな、早よ我捨ててこの方について参れよ、素直にいたせば楽に行けるのざぞ、大峠越せるのざぞ、時節の仕組 中々人民には判るまいがな、悪抱き参らす為には我が子にまで天のトガをおはせ、善の地の先祖まで押し込めねば一応抱く事出来んのであるぞ、ここの秘密知るものは天の御先祖様と地の御先祖様より他には無いのであるぞ。我が我がと早う出世したい様では、心変へんと人民は御用六ヶ敷いぞ。神に分けへだてなし、へだては人民の心にあるぞ。此の道は因縁なくしては判らん六ヶ敷い道であれど、此の道つらぬかねば、世界は一平にならんのぢゃ、縁ある人は勇んで行けるのぢゃ、神が守るからおかげ万倍ぢゃ、神の帖面 間違ひないぞ、思ふ様にならぬのは、ならぬ時は我の心に聞いて見るがよいぞ、神の仕組は変らねど、此の世では、人民の心次第で良くも悪くも出て来るのぢゃ、仕事は変らねど出て来るのが変るのざ、悪く変ると気の毒なから くどう申してゐるのぢゃぞ。』(海の巻 第十八帖)

『何処で何してゐても道さへふんで居れば弥栄えるぞ。行き詰ったら省みよ。己の心の狂ひ、判って来るぞ。神から伸びた智と愛でないと、人民の智や学や愛はすぐペシャンコ。やりてみよれ。根なし草には実は結ばんぞ。お尻出したら お尻綺麗にふいてやれよ。怒ってはならん。子の尻と思うて拭いてやれよ。判った人民よ。今の内は阿呆結構ぞ。一つに和して御座れ。人間心で急ぐでないぞ。』(黄金の巻 第六十四帖)

『神の心の判りた臣民から助ける御用にかかりて呉れよ、助ける御用とは清めの御用で御座るぞ、天地よく見て悟りて呉れよ。三四五(みよいづ)の御用は出来上がりてしまはんと御用してゐる臣民にはさっぱり判らんのであるぞ、つかわれてゐるから判らんのであるぞ、出来上がりてから これは何んとした結構な事でありたかとビックリするのざぞ。アメのひつ九のか三とはアメの一二の神で御座るぞ、アメのθ◎(つきひ)の神で御座るぞ、元神で御座るぞ、ムの神ぞ、ウの神ぞ、元のままの肉体持ちて御座る御神様ぞ、つちのひつ九のおん神様ぞ、つちの◎θ(ひつき)の御神様と今度は御一体となりなされて、今度の仕組 見事成就なされるので御座るぞ、判りたか、九二つちの神 大切申せとくどう知らしてあろがな、今迄の臣民人民、九二の御先祖の神おろそかにしてゐるぞと申して知らしてあらう、神は千に返るぞ、九二つちつくること何んなに難儀な事か人民には判るまいなれど、今度さらつの世にするには人民もその型の型の型位の難儀せなならんのざぞ。それでよう堪(こば)れん臣民 沢山にあるのざぞ、元の神の思ひの何万分の一かの思ひせんならんのざぞ、今度 世変りたら、臣民 此の世の神となるのざぞ。国の洗濯はまだまだ楽であるが、ミタマの洗濯 中々に難しいぞ、人民 可哀想なから延ばしに延ばして御座るのざぞ、幾ら言ひ聞かしても後戻り許りぢゃ、言ひ聞かして改心出来ねば改心する様致すより もう手ない様になってゐるのざ。何時どんな事あっても神は知らんぞ、上から下までも誰によらん今迄の様な我儘させんぞ、役員 馬鹿にならなならんぞ、大のつく阿呆になれよ、※のつく阿呆にあやまって呉れるなよ、阿呆でないと今度の誠の御用なかなかざぞ。命捨てて命に生きる時と申してあろがな、非常の利巧な臣民人民アフンで御座るぞ、今にキリキリ舞するのが目に見へんのか。何時も変らぬ松心でおれと申して御座ろがな、建替へ致したら世界は一たん寂しくなるぞ、神が物申して居る内に改心せなならんぞ、後悔間に合はんと申してあろがな。』(雨の巻 第七帖 原文では◎は「○にヽ」、θは「月のマーク」の形、※は「‘大’の字を180度逆さまにした文字」の形です)』(雨の巻 第七帖)

『天の岩戸開いて地の岩戸開きにかかりてゐるのざぞ、我一(いち)力では何事も成就せんぞ、手引き合ってやりて下されと申してあること忘れるでないぞ。霊肉共に岩戸開くのであるから、実地の大峠の愈々となったらもう堪忍して呉れと何んな臣民も申すぞ、人民には実地に目に物見せねば得心せぬし、実地に見せてからでは助かる臣民少ないし神も閉口ぞ。ひどい所程 身魂に借銭あるのぢゃぞ、身魂(みたま)の悪き事してゐる国程 厳しき戒(いまし)め致すのであるぞ。五と五と申してあるが五と五では力出ぬし、四と六、六と四、三と七、七と三ではカス出るしカス出さねば力出んし、それで神は掃除許りしてゐるのざぞ、神の臣民それで神洲清潔する民であるぞ、キが元と申してあるが、キが餓死(うえじに)すると肉体餓死するぞ、キ息吹けば肉息吹くぞ、神の子は神のキ頂いてゐるのざから食ふ物無くなっても死にはせんぞ、キ大きく持てよと申してあるが、キは幾らでも大きく結構に自由になる結構な神のキざぞ。臣民 利巧(りこう)なくなれば神のキ入るぞ、神の息通ふぞ、凝りかたまると凝りになって動き取れんから苦しいのざぞ、馬鹿正直ならんと申してあろがな、三千年余りで身魂の改め致して因縁だけの事は否でも応でも致さすのであるから、今度の御用は此の神示読まいでは三千世界のことであるから、何処(ドコ)探しても人民の力では見当取れんと申してあろがな、何処探しても判りはせんのざぞ、人民の頭で幾ら考へても智しぼっても学ありても判らんのぢゃ。ちょこら判る様な仕組なら こんなに苦労致さんぞ、神々様さえ判らん仕組と知らしてあろが、何より改心第一ぞと気付けてあろが、神示肚にはいれば未来(さき)見え透くのざぞ。此の地(つち)も月と同じであるから、人民の心 其の儘に写るのであるから、人民の心悪くなれば悪くなるのざぞ、善くなれば善くなるのぞ。理屈 悪と申してあろが、悪の終りは共食ぢゃ、共食ひして共倒れ、理屈が理屈と悪が悪と共倒れになるのが神の仕組ぢゃ、と判ってゐながら何うにもならん事に今に世界がなって来るのざ、逆に逆にと出て来るのぢゃ、何故そうなって来るか判らんのか、神示読めよ。オロシヤの悪神の仕組 人民には一人も判ってゐないのざぞ。神にはよう判っての今度の仕組であるから仕上げ見て下されよ、此の方に任せておきなされ、一切心配なく此の方の申す様にしておりて見なされ、大舟に乗って居なされ、光の岸に見事つけて喜ばしてやるぞ、何処に居ても助けてやるぞ。雨の神、風の神、地震の神、荒の神、岩の神様に祈りなされよ、世の元からの生き通しの生神様 拝(おろ)がみなされよ。日月の民を練りに練り大和魂の種にするのであるぞ、日月の民とは日本人許りでないぞ、大和魂とは神の魂ぞ、大和の魂ぞ、まつりの魂ぞ、取違ひせん様に気付けおくぞ。でかけのみなとは九九(ココ)ぢゃぞ、皆に知らしてやりて下されよ、幾ら道進んでゐても後戻りぢゃ、此の神示が出発点ぞ、出直して神示から出て下されよ、我張りてやる気ならやりて見よれ、九分九分九厘で鼻ポキンぞ、泣き泣き恥ずかしい思いしてお出直しで御座るから気付けてゐるのぢゃ、足あげて顔の色変へる時近付いたぞ。世建替へて広き光の世と致すのぢゃ、光の世とは光なき世であるぞ、此の方の元へ引寄せて目の前に楽な道と辛い道と作ってあるのぢゃ、気付けてゐて下されよ、何(ど)ちら行くつもりぢゃ。』(雨の巻 第十帖)

Posted on 2015/12/27 Sun. 17:14 [edit]

category: まわりうた

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27

まわりうた 

かけあるく ていろここまて
  みなめさめ なみてまこころ いてくるあけか

(駆け歩く 泥路ここまで 皆目覚め 並みて真心 出で来る明けが)

解説

駆け歩くは「あちこち走り回る。転じて,忙しくする。」、泥路は「ぬかるみのみち。どろみち。」、並むは「並ぶ。連なる。」、真心は「他人のために尽くそうという純粋な気持ち。偽りや飾りのない心。誠意。」、出で来(いでく)は「出て、ここに来る。」「現れる。」、明けは「夜が明けること。明け方。」の意味です。

余談

この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「TALES」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

日月神示参照。

『御光(みひかり)の輝く御代となりにけり、嬉し嬉しの言答(一八十)明けたり。あなさやけ、三千年の夜は明けて、人、神、となる秋(とき)は来にけり。日月(一二)大神、キリスト大神、シャカ大神、マホメット大神、黒住大神、天理大神、金光大神、大本大神、老子大神、孔子大神、総て十柱の大神は、光の大神として斎き祀り結構致しくれよ、二二晴れるぞ、一八十開けるぞ。御神名書かすぞ、ひかり教会のりとは、ひかりの大神、弥栄ましませ弥栄ましませ、ひかりの大神守り給へ、幸へ給へと、申せよ。弥栄弥栄(やさかいやさか)。』(空の巻 第十四帖)

『岩戸開けたり野も山も、草のかき葉もことやめて、大御光により集ふ、楽しき御代とあけにけり、都も鄙(ひな)もおしなべて、枯れし草木に花咲きぬ、今日まで咲きし草や木は、一時にどっと枯れはてて、つちにかへるよすがしさよ、ただ御光の輝きて、生きの生命(いのち)の尊さよ、やがては人のくにつちに、うつらん時の楽しさよ、岩戸開けたり御光の、二二(ふじ)に九(こ)の花どっと咲く、御代近づきぬ御民等よ、最後の苦労 勇ましく、打ち越し呉れよ共々に、手引きあひて進めかし、光の道を進めかし。ウタのまどひつくれよ。目出度(めでたき)夜明けぞ。』(風の巻 第四帖)

ということで、ミロクの世を言祝ぐ歌です。

Posted on 2015/12/26 Sat. 07:26 [edit]

category: まわりうた

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26

まわりうた 

なかきよは みかすけきりて
  うくるはる くうてりきけす かみはよきかな

(永き代は 身が透け切りて 受くる春 空照り気化す 神は良きかな)

解説

空(くう)は「空中。空間。そら。」、化す(けす)は「形を変える。変化する。ばける。 」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

意訳

これから来る永遠に続く代は、身体が透けるように輝いて、皆我が世の春を享受することになる。空間もまた同じように照り、その空間に充満する気が森羅万象に変化していく。そのような神の治める世界の何とも良いことだなぁ、といった感じ。

日月神示参照。

『祈りは弥栄であり、限りない生活であるぞ。生命のイキであるぞ。祈りから総てのもの生れるぞ。誠の喜びの祈りからはヽが生命し、かげの祈りからは○が生命するぞ。人祈れば神祈り、人為せば神なる道理ぢゃ。禁慾は神の御旨でないぞ。慾を浄化して、生めよ。産めよ。今の人民、慾の聖化を忘れて御座るぞ。慾は無限に拡がり、次々に新しきもの生み出すぞ。慾を導けよ。自分だけならば五尺の身体、五十年の生命であるが、霊を知り、宇宙の意志を知り、神にとけ入ったならば、無限大の身体、無限の生命となるぞ。マコトの嬉し嬉しのよろこびとなるのであるぞ。』(黒鉄の巻 第三十四帖)

『人民には分別与へてあるから反省できるのであるぞ。反省あるから進展するのであるぞ。ほっておいても、いらんものは無くなり、いるものは栄へるのであるが、人民の努力によっては、よりよくなるのぢゃ。省みねば生れた時より悪くなると申してあろうが。慾、浄化して喜びとせよ。喜び何からでも生れるぞ。広い世界に住めば広く、深い世界に住めば深く向上する。物の世界から霊の世界へ、無限の世界へ入るから無限の生命が与へられるのぢゃ。無限の喜び得ること出来るのぢゃ。無限世界とは物と霊との大調和した、限りなき光の世界ぞ。真理を知ることが、無限を得ること。まことの神をつかむことぞ。よいものつくるには大き手数かかるのぢゃ。ふところ手でいては出来ん。手出せ、足出せよ。』(春の巻 第九帖)

『神の世と申すのは、今の臣民の思ふてゐるやうな世ではないぞ、金(きん)は要らぬのざぞ、お土からあがりたものが光りて来るのざぞ、衣類たべ物、家倉まで変るのざぞ。草木も喜ぶ政治と申してあらうがな、誰でもそれぞれに先の分る様になるのぞ。お日様もお月様も海も山も野も光り輝いて水晶の様になるのぞ。悪はどこにもかくれること出来ん様になるのぞ、ばくち、しょうぎは無く致すぞ。雨も要るだけ降らしてやるぞ、風もよきやうに吹かしてやるぞ、神をたたえる声が天地にみちみちて うれしうれしの世となるのざぞ。』(天つ巻 第二十帖)

『世界丸めて一つの国にするぞと申してあるが、国はそれぞれの色の違ふ臣民によりて一つ一つの国作らすぞ。その心々によりて、それぞれの教作らすのぞ。旧きものまかりて、また新しくなるのぞ、その心々(こころこころ)の国と申すは、心々の国であるぞ、一つの王で治めるのざぞ。天つ日嗣の実子様が世界中照らすのぞ。国のひつきの御役も大切の御役ぞ。道とは三つの道が一つになることぞ、みちみつことぞ、もとの昔に返すのざぞ、つくりかための終りの仕組ぞ、終は始ぞ、始は霊(ひ)ぞ、富士、都となるのざぞ、幽界(がいこく)行きは外国行きぞ。神の国光りて目あけて見れんことになるのざぞ、臣民の身体からも光が出るのざぞ、その光によりて その御役、位、分るのざから、みろくの世となりたら何もかもハッキリして うれしうれしの世となるのぞ、今の文明なくなるのでないぞ、たま入れていよいよ光りて来るのぞ、手握りて草木も四つあしもみな唄ふこととなるのぞ、み光にみな集まりて来るのざぞ、てんし様の御光は神の光であるのざぞ。』(地つ巻 第十一帖)

Posted on 2015/12/25 Fri. 07:38 [edit]

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25

まわりうた 

なかきよの せかいはやくさ
  かをりけり をかさくやはい かせのよきかな

(永き代の 世界は八草 香りけり 丘咲く野梅 風の良きかな)

解説

八(や)は「名詞の上に付いて数の多いことを表す」、野梅(やばい)は「野に咲く梅。野生の梅。」の意味です。

余談

この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「水晶のささやき」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2015/12/22 Tue. 07:51 [edit]

category: まわりうた

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22

まわりうた 

なかきよの ほとりかひみる
  ひあたるた あひるみひかり とほのよきかな

(永き代の 辺佳美見る 陽当たる田 浴びる御光 徒歩の良きかな)

解説

佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、徒歩は「乗り物に乗らずに歩くこと。かち。」の意味です。

余談

この歌は、ゼノギアスアレンジヴァージョン-CREIDの中にある「CREID」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

昨日「Mr.ビーン カンヌで大迷惑?!」という映画を見たのだが、その中のヨーロッパ風の田園風景を思わせる菜の花畑のシーンがとても美しかったので、それに触発されて書いたものです。

Posted on 2015/12/20 Sun. 09:42 [edit]

category: まわりうた

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20

まわりうた 

よみとこよ みろくよつかぬ
  きつねのね つきぬかつよく ろみよことみよ

(黄泉常世 弥勒世着かぬ 狐の音 尽きぬ渇欲 漏見よ言見よ)

解説

黄泉は「死後,霊魂が行くとされる所。死者の国。冥府。冥土。よみの国。よみじ。よもつ国。」、常世は「古代人がはるか遠隔の地にあると信じていた国。」「不老不死の仙境。中国伝来の神仙思想と結びついてできた観念とされる。」「よみのくに。死者の国。」、渇欲(かつよく)は「喉の渇きをいやす水を求めるような強烈な欲求。」、狐は「(狐は人をだましたり,たぶらかしたりすると俗にいうことから)悪賢い人。他人をだます人。」、音(ね)は「音。なき声。ひびき。」、漏(ろ)は「流れて漏れ出てくるけがれ。煩悩(ぼんのう)のこと。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「常闇ノ皇」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

下記ブログによれば、最近狐憑きなどの霊懸かりが増えているそうな。

『注意!。最近霊媒質者の憑依が激しくなっていて、犯罪が多発して来る可能性あり』(人に内在する良心神(神言会)さん)
http://kamikotokai-b.jugem.jp/?day=20151117


『世界的医学雑誌に掲載された「ゾンビ感染症対策」論文で思い出すゾンビに関するいくつかのこと』(in deepさん)
http://indeep.jp/zombie-infections-world-is-real/

各神示でも同じようなことが書かれてある。

火水伝文参照。

「 これより先、神がかり数多い出来て何が何だかワケ解からん様になりてしもうから、苦難最も辛き時、神も仏もあるものかと人民様必ず思う様になるから、その時では遅いから、いまの今よりこの神の申すことしっかりハラに入れて、その時お蔭落とさぬ様にしていて下されよ。神、確かに申し渡したぞ。よいな。」

日月神示参照。

『天人が人民に語る時は、人民の中に来て、その人民のもつ言葉で語り文字を使うのであるぞ、自分と自分と語る如くなるのであるぞ、天人同士の文字は数字が多いぞ。夜明け前になると霊がかりがウヨウヨ、勝手放題にまぜくり返すなれど、それもしばらくの狂言。』(星座の巻 第十八帖)

『世界中が霊かかりとなると申してあるのは今のことであるぞ、かかりてゐる世界自身わからなくなっているぞ、サニワせねばならん、サニワの方法書き知らすぞ。世界を、日本を、自分をサニワせねばならん。目に見へぬ所からの通信は高度のものほど肉体的には感応が弱くなり、暗示的となるものであるぞ、ドタンバタン、大声でどなり散らすのは下の下。神もフトマニに従わねばならん。順を乱すわけには参らん、高度の霊が直ちに肉体人に感応することはなく、それぞれの段階を経て感応するのであることを忘れてはならんぞ、下級霊は現実界と紙一重の所に住んでゐるのであるから、その感応は極めて強く、如何にも尤(もっと)もらしく人民の目にうつるものであるぞ、高度のものは、その人民のミタマの如何(いかん)によって、それと同一波調の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現されるのであるぞ。特別の使命をもつ天使は、最下級の霊界まで降って来て、人民に特別な通信をなし、指示することもあるぞ。また天使の霊が母体に宿り人民として生れてくる事もあるぞ、末世にはこの種の降誕人が沢山あるぞ。』(竜音の巻 第三帖)

『金(かね)いらん事になると申してあろが、世界の人民 皆青くなって、どうしたらよいかと何処尋ねても判らん事近づいたぞ、早うこの神示読ましてくれよ、神の心が九分通り臣民に判りたら、神の政治判るのぢゃ、与へる政治いくらでもあるぞ、一通りと思ふなよ、時と所によっていくらでもあるのぢゃ、つまることない神のまつりごとぢゃ。人民の政治 神国には用いられんのぢゃ、三千世界天晴れの政治 早う心得て、まつり呉れよ。悪神の眷族はまだよいのぢゃ、箸にも棒にもかからん、話の判らん動物霊に化かされて、玩具(おもちゃ)にされてゐて、まだ気付かんのか、神は何時迄も待たれんから、こんな身魂(ミタマ)は一所に集めて灰にするより他ないから心得て居りて下されよ。』(マツリの巻 第七帖)

また霊に懸られる原因も自分にあると書かれてある。

日月神示参照。

『仲よしになって道伝へよ。道を説けよ。一切を肯定して二九(ジク)を伝へよ。悪神かかりたなれば自分では偉い神様がうつりてゐると信じ込むものぞ。可哀さうなれど それも己の天狗からぞ。取違ひからぞ。霊媒の行見ればすぐ判るでないか。早う改心せよ。霊のおもちゃになってゐる者多い世の中、大将が誰だか判らんことになるぞ。先生と申してやれば皆先生になって御座る。困ったものぞ。』(黄金の巻 第五十七帖)

『赤丹(あかに)の頬に きこしめしませ 御酒(ミキ)たてまつる。 何事が起って来ても先づ喜んで迎へねばならんぞ、近づいてくるのは呼びよせたからぢゃ、こんないやな、きたないものは、ごめんぢゃと申す人民もあるなれど、それは皆 己の心のうつしでないか。内に無いものが外から近よる道理ないのぢゃ、どんなものでも、喜んでむかへるとよろこびとなる結構な仕組、よく会得せよ。何事も一段づつ、一歩づつぢゃ、一足飛びは大怪我のもと。』(扶桑の巻 第十帖)

『宇宙は霊の霊と物質とからなってゐるぞ。人間も又同様であるぞ。宇宙にあるものは皆人間にあり。人間にあるものは皆宇宙にあるぞ。人間は小宇宙と申して、神のヒナガタと申してあらう。人間には物質界を感知するために五官器があるぞ。霊界を感知するために超五官器あるぞ。神界は五官と超五官と和して知り得るのであるぞ。この点 誤るなよ。霊的自分を正守護神と申し、神的自分を本守護神と申すぞ。幽界的自分が副守護神ぢゃ。本守護神は大神の歓喜であるぞ。 神と霊は一つであって、幽と現、合せて三ぞ。この三は三にして一、一にして二、二にして三であるぞ。故に肉体のみの自分もなければ霊だけの自分もない。神界から真直ぐに感応する想念を正流と申す。幽界を経て又幽界より来る想念を外流と申すぞ。人間の肉体は想念の最外部、最底部をなすものであるから肉体的動きの以前に於て霊的動きが必ずあるのであるぞ。故に人間の肉体は霊のいれものと申してあるのぞ。 又 物質界は、霊界の移写であり衣であるから、霊界と現実界、又 霊と体とは殆んど同じもの。同じ形をしてゐるのであるぞ。故に物質界と切り離された霊界はなく、霊界と切り離した交渉なき現実界はないのであるぞ。人間は霊界より動かされるが、又 人間自体よりかもし出した霊波は反射的に霊界に反影するのであるぞ。人間の心の凸凹によって、一は神界に、一は幽界に反影するのであるぞ。幽界は人間の心の影が生み出したものと申してあろうがな。 総ては大宇宙の中にあり、その大宇宙である大神の中に、大神が生み給ふたのであるぞ。このことよくわきまへて下されよ。善のこと悪のこと、善悪のこと、よく判って来るのであるぞ。故に、人間の生活は霊的生活、言の生活であるぞ。肉体に食ふことあれば霊にもあり、言を食べているのが霊ぞ。霊は言ぞ。この点が最も大切なことじゃから、くどう申しておくぞ。 死んでも物質界とつながりなくならん。生きてゐる時も霊界とは切れんつながりあること、とくと会得せよ。そなた達は神をまつるにも、祖先まつるにも物質のめあてつくるであろうがな。それはまだまだ未熟な事ぞ。 死後に於ても、現実界に自分がある。それは丁度、生きてゐる時も半分は霊界で生活してゐるのと同じであるぞ。自分の衣は自分の外側であるぞ。自分を霊とすると、衣は体、衣着た自分を霊とすれば家は体、家にゐる自分を霊とすれば土地は体であるぞ。更に祖先は過去の自分であり、子孫は新しき自分、未来の自分であるぞ。兄弟姉妹は最も近き横の自分であるぞ。人類は横の自分、動、植、鉱物は更にその外の自分であるぞ。切りはなすこと出来ん。 自分のみの自分はないぞ。縦には神とのつながり切れんぞ。限りなき霊とのつながり切れんぞ。故に、神は自分であるぞ。一切は自分であるぞ。一切がよろこびであるぞ。 霊界に於ける自分は、殊に先祖との交流、交渉深いぞ。よって、自分の肉体は自分のみのものでないぞ。先祖霊と交渉深いぞ。神はもとより一切の交渉あるのであるぞ。その祖先霊は神界に属するものと幽界に属するものとあるぞ。中間に属するものもあるぞ。神界に属するものは、正流を通じ、幽界に属するものは外流を通じて自分に反応してくるぞ。正流に属する祖先は正守護神の一柱であり、外流に加はるものは、副守護神の一柱と現はれてくるのであるぞ。外流の中には、動植物霊も交ってくることあるぞ。それは己の心の中にその霊と通ずるものあるためぞ。 一切が自分であるためぞ。常に一切を浄化せなならんぞ。霊は常に体を求め、体は霊を求めて御座るからぞ。霊体一致が喜びの根本であるぞ。一つの肉体に無数の霊が感応し得るのざ。それは霊なるが故にであるぞ。霊には霊の霊が感応する。又 高度の霊は無限に分霊するのであるぞ。 二重三重人格と申すのは、二重三重のつきものの転換によるものであり、群集心理は一時的の憑依霊であると申してあろうがな。霊が元と申してくどう知らしてあろうが。人間は現界、霊界共に住んで居り、その調和をはからねばならん。自分は自分一人でなく、タテにもヨコにも無限につながってゐるのであるから、その調和をはからねばならん。それが人間の使命の最も大切なことであるぞ。 調和乱すが悪ぞ。人間のみならず、総て偏してならん。霊に偏してもならん。霊も五、体も五と申してあらう。ぢゃが主は霊であり体は従ぞ。神は主であり、人間は従であるぞ。五と五と同じであると申してあろう。差別則平等と申してあらう。取り違い禁物ぞ。 神は愛と現はれ、真と現はれるのであるが、その根はよろこびであるぞ。神の子は皆よろこびぢゃ。よろこびは弥栄ぞ。ぢゃがよろこびにも正流と外流とあるぞ。間違へてならんぞ。正流の歓喜は愛の善となって現はれて、又 真の信と現はれるぞ。外流のよろこびは愛の悪となって現れるぞ。何れも大神の現れであること忘れるなよ。 悪抱き参らせて進むところにマコトの弥栄あるのであるぞ。神は弥栄ぞ。これでよいと申すことないのであるぞ。大完成から超大大完成に向って常に弥栄してゐるのであるぞよ。宇宙は総てに於ても、個々に於ても総てよろこびからよろこびに向って呼吸してゐるのぞ。よろこびによって創られてよろこんでゐるのであるぞ。故によろこびなくして生きないぞ。合一はないぞ。 愛は愛のみではよろこびでないぞと申してあろう。真は真のみでは喜びでないと申してあろうが。愛と真と合一し、ヽするところに、陰と陽と合一、弥栄したところによろこびあるのぢゃぞ。』(冬の巻 第一帖)

一番は改心をして、霊(たま)を入れ替える、心を入れ替えることで、内なる神と繋がり守護してもらうことと思われる。

『判らんことは神示にきくがよいぞ。遠慮いらん。そなたは一足飛びに二階に上がりたい気持がぬけない。何事も一段ずつ、一歩づつ進まねばならん。それより他に進み方はないのぢゃぞ。先づそなたの中にゐるけだものを言向け合さねばならんぞ。よく話し、教へ、導かねばならん。けものを人間と同じにしようとしてはならん。けものはけものとして導かねばならん。金は金。鉛は鉛ぞ。鉛を金にしようとしてはならん。鉛は鉛として磨かねばならんぞ。浄化とはそのこと。世は七度の大変り、いよいよの段階に入ったら、何が何だか、われよしの人民にはいよいよ判らなくなり、あせればあせる程ふかみに落ち込むぞ。心の窓を大きくひらいて、小さい我の慾をすてると、遠くが見えてくるのぢゃ。見えたら先づ自分の周囲に知らせねばならん。知らすことによって次の道がひらけてくるのぢゃ。自分だけではうれしうれしとならん。うれしくないものは弥栄しないぞ。冬になったら冬ごもりぞ。死ぬ時には死ぬのが弥栄ぞ。遊ぶ時は遊ぶがよいぞ。コト=言(光透)と、時と、その順序さへ心得て御座れば、何をしても、何を話しても、何を考へてもよいのぢゃ。』(月光の巻 第四十帖)

『~前略~。そなた達は父と母と二人から生れ出たのか。さうではあるまいがな。三人から生れ出てゐること判るであらうがな。どの世界にも人が住んでゐるのであるぞ。◎の中に◎があり、その中に又◎があり、限りないのざと知らせてあらうが。そなた達の中に又人がゐて限りないのぢゃ。このほう人民の中にゐると知らしてあらうがな。そなた達も八人、十人の人によって生きてゐるのぞ。又十二人でもあるぞ。守護神と申すのは心のそなた達のことであるが、段々変るのであるぞ。自分と自分と和合せよと申すのは、八人十人のそなた達が和合することぞ。それを改心と申すのざぞ。和合した姿を善と申すのぢゃ。今迄の宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して、肉体をおろそかにしてゐたが、それが間違ひであること合点か。一切がよいのぢゃと云ふこと合点か。地獄ないこと合点か。悪抱き参らせよと申してあること、これで合点か。合点ぢゃナア。各々の世界の人がその世界の神であるぞ。この世ではそなた達が神であるぞ。あの世では、そなた達の心を肉体としての人がゐるのであるぞ。それがカミと申してゐるものぞ。あの世の人をこの世から見ると神であるが、その上から見ると人であるぞ。あの世の上の世では神の心を肉体として神がゐますのであって限りないのであるぞ。裏から申せば、神様の神様は人間様ぢゃ。心の守護神は肉体ぢゃと申してあらうがな。肉体が心を守ってゐるのであるが、ぢゃと申して肉体が主人顔してはならんぞ。何処迄も下に従ふのぢゃ。順乱すと悪となるぞ。生れ赤児ふみこえ、生れ赤児になって聞いて下されよ。そなた達の本尊は八枚十枚の衣着ているのぢゃ。死と云ふことは、その衣、上からぬぐことぢゃ。ぬぐと中から出て来て又八枚十枚の衣つけるやうになってゐるのぢゃ。判るやうに申してゐるのぢゃぞ。取違ひせんやうにせよ。天から気が地に降って、ものが生命し、その地の生命の気が又天に反影するのであるが、まだまだ地には凸凹あるから、気が天にかへらずに横にそれることあるぞ。その横の気の世界を幽界と申すのぢゃ。幽界は地で曲げられた気のつくり出したところぢゃ。地獄でないぞ。』(白銀の巻 第一帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)

『カミヒトと申すのは、神の弥栄のため、世の弥栄のため祈り、実践する人のことであるぞ。神のため祈れば神となり、世のため祈れば世と一体となるのぢゃ。自分のためばかりで祈れば迷信、われよしの下の下ぞ。誰でも霊かかりであるぞ。石でも木でも土でも霊かかりぞ。これは一般かみかかりであるぞ、特別神かかりは神の御力を強く深く集める行がいるのぢゃ。九分通りしくじるのぢゃ。太陽の光集めること知っているであらうが。神の理(ミチ)をよりよく、より高く集める理(ミチ)がマコトの信仰であるぞ。理(ミチ)であるぞ。世、迫って、霊かかりがウヨウヨ出ると申してある時来ているのぢゃ。悪かみかかりに迷ふでないぞ。サニワせよ。外はウソが多いぞ。内の声ウソないぞ。』(春の巻 第二帖)

『悪とはカゲのことであるぞ。斜めに光を頂くから影出来るのぢゃ。影は主人でないぞ。絶対は何と申しても絶対ぞ。相対から神を求めると、相対の神が顕はれるぞ。相対で神の道に導くこと中々ぢゃ。必ず後戻り、判りはせんぞ。この神示、肚に入ったらグレンと変りて来るぞ。早う肚に入れて下されよ。間に合はん。天の声は内から聞こえて来る。人間の言葉は外から聞こえて来る。霊耳と申すのは内からぞ。耳ふさいでも聞こえて来るのぢゃ。悪霊自身は自身を悪と思うてないぞ。』(黒鉄の巻 第二十四帖)

『無くて七癖、七七四十九癖、悪い癖 直して下されよ。天国へ行く鍵ぞ。直せば直しただけ外へひびくものが、かわって来るぞ。よくなってくるぞ。かわって来れば、外からくるもの、自分に来るもの、かわってくるぞ。よくなってくるぞ。幸となるぞ。よろこび満ち満つぞ。神みちみちて天国ぢゃ。一升桝もってきて一斗入れよと人民申しているが、神は一斗も二斗も入れてやりたいなれど、一升桝には一升しか入らん。大き桝もって来い。頂くには頂くだけの資格いるぞ。一歩づつ進め。一歩づつ絶えず進めよ。それより他に道はないのぢゃ。』(春の巻 第十二帖)

他にも神示には霊懸かりに対する情報や対処法が記されている。

『霊の要求ぢゃと申して、そのまま受け入れてはならんぞ、よく判断した上で処理せねばならん。下級霊、動物霊の場合は酔ひどれのように箸にも棒にもかからんことを申すものぞ。殊にその霊が病気に関連をもってゐる場合は微妙であるから、よく心得なされよ。悪い企て、悪い行為ぢゃとて、直ちにキメつけてはならん、やんわりともちかけて善きに導かねばならんぞ、悪をきらふ心があってはならん、悪抱き参らせと申してあろうがな。邪道的要求を容れて一時的に病気を治すと、それに倍してブリ返すぞ、この呼吸大切。』(竜音の巻 第十七帖)

『霊に◎(ひつぐ)神示をよんで聞かせて見よ、その偉大さがハッキリ判るぞ。どんな下級霊であっても、その霊を馬鹿にしてはいけない、馬鹿にすると反射的にサニワを馬鹿にして始末におへんことになるぞ。霊覚者や行者の中には奇跡的なことや非常識な行動をする者がよくあるぞ、一般の人民はそれにだまかされることがよくあるぞ、何れも下級霊のしわざであるぞ、正神には奇跡はない、奇跡ないことが大きな奇跡であるぞ、奇跡するものは亡びる。高級霊は態度が立派であるぞ、わかりたか。』(竜音の巻 第十八帖 ◎は原文では「○にヽ」の形。ひつぐ神示は「日月神示」のこと。)

『はじめに出て来る霊は殆ど下級霊であるぞ、玄関に先づ出て来るのは玄関番であるぞ。祖霊の出る場合は、何か頼みたい場合が多いぞ、浄化した高級霊ともなれば、人民に判るような感応は殆どないぞ。』(竜音の巻 第十六帖)

『霊には物質は感覚の対象とはならない、霊には、人間の肉体は無いのと同じである。祖先霊に化けて何かを企てる動物霊が多いから注意せよ。動物霊が何故祖先のことを知るかと申せば、その憑依の対象となる人間の肉体霊の知ってゐることを、直ちに知り得るからである。』(竜音の巻 第十一帖)

『霊の発動をとめて、静かにする法は「国常立大神 守り給へ幸(さき)はへ給へ」と三回くり返すこと。又「素盞鳴大神 守り給へ幸はへ給へ」と三回くり返すこと、又は「太日月地大神 守り給へ幸はへ給へ」と三回くり返すこと。世界そのものの霊かかり、日本の霊かかり、早うしづめんと手におえん事となるが、見て御座れよ、見事な事を致してお目にかけるぞ。』(竜音の巻 第十九帖)

『霊界にすむものは多くの場合、自分の住む霊界以外のことは知らない。その霊界が総ての霊界であるかの如く思ふものであるぞ。同じ平面上につながる霊界のことは大体見当つくのであるなれど、段階が異なってくると判らなくなるのであるぞ。他の霊界は霊自身のもつ感覚の対象とならないからである。人民界のことをよく知ってゐる霊は、人民界を去って間もない霊か、地上世界に長く住んでゐた動物霊か、人民に憑依してゐた霊であるぞ。特別な使命をもつ天使は別として、人霊以外の霊で人民に憑依するのは、日本では天狗風(てき)、神風(てき)、仙人風(てき)、狐風(てき)、狸風(てき)、猫風(てき)などが大部分であるから気つけおくぞ。』(竜音の巻 第九帖)

『動物霊が人間の言葉を使ふことは、フに落ちないと申すものが沢山あるなれど、よく考へて見よ、例へば他人の家に入って、其処にある道具類をそのまま使用するのと同じ道理ぢゃ、判りたか、動物霊でも他の霊でも人間に感応したならば、その人間のもつ言葉を或る程度使いこなせるのであるぞ、故に日本人に感応すれば日本語、米人なれば英語を語るのであるぞ。今の偉い人民がこの神示をよむと、理屈に合わん無茶苦茶な文章であるから、下級霊の所産だと断ずるなれど、それは余りにも霊界の事を知らぬ霊的白痴であることを、自分で白状してゐるのぞ、気の毒ぢゃなあ、ましてこの神示は八通りに読めるのであるから、いよいよ判らん事になるぞ。』(竜音の巻 第十二帖)

『時に、例外として人間の魂と動物の魂と入れ替ってゐることもあるぞ、この場合は肉体に入り込んだと考へてよいぞ。こう言ふ場合、例へばそれが狐ならば狐の様相を露呈するから、誰にでもすぐ判るなれど、悪行を積んだ霊ともなれば巧みに、その時代々々の流れに合せて化けているから、中々見破ること六ヶ敷いぞ、心得なされよ。或る種の霊は、自分自身は高度な神界に住んでゐると誤信してゐるものもあるが、こうした霊が感応した場合は自信を以って断言する場合が多い、人間が知らぬ世界のことを、自信を以って強く告げられると、多くのサニワは参って了ふぞ。』(竜音の巻 第十三帖)

『幽界霊も時により正しく善なることを申すなれど、それは只申すだけであるぞ。悪人が口先だけで善を語るようなものであるぞ、よいことを語ったとて直ちに善神と思ってはならん。よい言葉ならば、たとへ悪神が語ってもよいではないかと申すものもあるなれど、それは理屈ぢゃ、甘ければ砂糖でなくサッカリンでもよいではないかと申すことぞ。真の善言真語は、心、言、行、一致であるから直ちに力する、言葉の上のみ同一であっても、心、言、行、が一致しておらぬと力せぬ。偽りの言葉は、落ちついてきけばすぐ判るぞ、同じ「ハイ」と言ふ返事でも、不満をもつ時と喜びの時では違ふであろうがな。われは天照太神なり、などと名乗る霊にロクなものないぞ、大言壮語する人民はマユツバもの。』(竜音の巻 第十四帖)

『病、ひらくことも、運、ひらくことも、皆 己からぢゃと申してあろう。誰でも、何でもよくなるのが神の道、神の御心ぢゃ。親心ぢゃ。悪くなると云ふことないのぢゃ。迷ひが迷ひ生むぞ。もともと病も不運もない弥栄のみ、喜びのみぢゃ。神がよろこびぢゃから、その生んだもの皆よろこびであるぞ。この道理よくわきまえよ。毎日々々、太陽と共に、太陽について起き上がれよ。その日の仕事、与へられるぞ。仕事いのちと仕へまつれよ。朝寝するからチグハグとなるのぢゃ。不運となるのぢゃ、仕事なくなるのぢゃ。神について行くことが祈りであるぞ。よろこびであるぞ。食物、食べ過ぎるから病になるのぢゃ。不運となるのぢゃ。口から出るもの、入るもの気つけよ。いくさ起るのぢゃ。人間の病や、いくさばかりでない、国は国の、世界は世界の、山も川も海も、みな病となり、不運となってくるぞ。食べないで死ぬことないぞ。食べるから死ぬのぢゃぞ。 一椀をとって先づ神に供へよ。親にささげよ。子にささげよ。腹八分の二分はささげよ。食物こそは神から、親から与へられたものであるぞ。神にささげずにむさぶるからメグリつむのぢゃ。メグリが不運となり、病となるのぢゃぞ。運ひらくのも食物つつしめばよい。言つつしめばよい。腹十分食べてはこぼれる。運はつまってひらけん。この判りきったこと、何故に判らんのぢゃ。 ささげるからこそ頂けるのぢゃ。頂けたらささげると今の人民申してゐるが、それがウラハラと申すもの。衣類も家も土地も、みな神から頂いたのでないぞ。あづけられてゐるのであるぞ。人民に与へられてゐるものは食物だけぢゃ。日のめぐみ、月のめぐみ、地のめぐみだけぢゃぞ。その食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。病治るのぢゃ。人民ひぼしにはならん。心配無用。食物、今の半分で足りると申してあらうが。遠くて近いものヒフミの食べ方して見なされよ。運ひらけ、病治ってうれしうれしと輝くぞ。そんなこと位で、病治ったり、運ひらける位なら、人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理屈と申すもの。理屈悪と申してあるもの。低い学に囚われたメクラ、ツンボと申すものぞ。 理屈すてよ。すててやって見なされ。みなみな気つかん理(ミチ)、気つかん病になってゐるぞ。ツキモノがたらふく食べてゐることに気づかんのか。食物節すればツキモノ改心するぞ。先づ百日をめあてに、百日過ぎたら一年を、三年つづけたら開運間違ひなし。病もなくなってうれしうれしとなるぞ。三年目、五年目、七年目ぞ、めでたいナア、めでたいナア。』(冬の巻 補帖)

Posted on 2015/12/19 Sat. 08:51 [edit]

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まわりうた 

なかきよの めうりのみきし
  かをりけり をかしきみのり うめのよきかな

(永き代の 妙理の御岸 香りけり をかしき実り 梅の良きかな)

解説

妙理(みょうり)は「すぐれて奥深い道理。常人にははかりしれない不思議な真理。玄妙な理。」、をかしは「すぐれている。見事だ。すばらしい。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「神州平原」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2015/12/18 Fri. 07:06 [edit]

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