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花鳥風月

気ままに回文歌、いろは歌を書いています。

まわりうた 

かみそのの なみきとくさの
  めうりあり うめのさくとき みなののそみか

(神園の 並木と草野 妙理あり 梅の咲く時 皆の望みが)

解説

草野は「草の生えた野原。」、妙理(みょうり)は「すぐれて奥深い道理。常人にははかりしれない不思議な真理。玄妙な理。」の意味です。

余談

この歌は、-MYTH- The Xenogears Orchestral Albumの「やさしい風がうたう -Orchestra Version-」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

三千世界一度に開く梅の花

ということで、ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。

神示では時節には神にも叶わんことあると書かれてある。大本の基本宣伝歌にも「月日と土の恩を知れ」とある。この世の一切を構う国常立大神様でさえ時節が来るまでは艮に押し込められていたぐらいである。だがその退隠の時節も終わり、いよいよミロクの世の到来と相成った。

日月神示参照。

『新しくその日その日の生まれ来るのぞ、三日は三日、十日は十日の神どの守るのざぞ、時の神ほど結構な恐い神ないのざぞ、この方とて時節にはかなはんことあるのざぞ。今日なれば九月の二十八日であるが、旧の八月十一どのを拝みて呉れよ、二十八日どのもあるのざぞ。何事も時待ちて呉れよ、炒豆(いりまめ)にも花咲くのざぞ、この世では時の神様、時節を忘れてはならんぞ、時は神なりぞ。何事もその時節来たのざぞ、時過ぎて種蒔いてもお役に立たんのであるぞ、草物いふぞ。』(地つ巻 第二十五帖)

『春が来れば草木に芽が出る。花が咲く。秋になれば葉が枯れるのぢゃ。時節よく気付けて取違ひせんよういたしくれよ。時節程結構なものないが、又こわいものもないのであるぞ。丁度 呼吸のようなもので一定の順序あるのぞ。吸の極は呼となり、呼の極は吸となるぞ。これが神の用(ハタラキ)であるから、神の現われの一面であるから、神も自由にならん。この神も時節にはかなわんのであるのに、そなたは時々この時節を無視して自我で、或ひは時節を取違ひして押しまくるから失敗したり怪我したりするのぢゃぞ。素直にしておれば楽に行けるようになってゐるぞ。時まてばいり豆にも花さくのであるぞ。水が逆に流れるのであるぞ。上下でんぐり返るのであるぞ。上の人が青くなり、下の人が赤くなるのであるぞ。取りちがひないように理解して下されよ。』(月光の巻 第五十八帖)

『慌てて動くでないぞ。時節が何もかも返報(へんぽう)返しするぞ。時の神様 有難いと申してあろがな。神は臣民から何求めてゐるか。何時も与へるばかりでないか。神の政治、神国の政治は与へる政治とくどう申してあろがな。今の遣り方では愈々苦しくなるばかりぞ。早よう気付かぬと気の毒出来て来るぞ。金いらぬと申してあろが。やり方教へてやりたいなれど、それでは臣民に手柄無いから此の神示よく読みてくれといふてあるのぞ。よき事も現れると帳消しとなる事知らしてあろが、人に知れぬ様によき事はするのざぞ。この事よく深く考へて行へよ。昔からのメグリであるから、ちょっとやそっとのメグリでないから、何処へ逃げてもどうしてもするだけの事せなならんのざぞ。どこにゐても救ふ臣民は救うてやるぞ。真中動くでないぞ、知らぬ顔しておる事も起るぞ。』(日月の巻 第十六帖)

『今度の御用は世におちて苦労に苦労した臣民でないと中々につとまらんぞ、神も長らく世におちて苦労に苦労かさねてゐたのざが、時節到来して、天晴(あっぱれ)世に出て来たのざぞ、因縁のミタマ世におちてゐるぞと申してあろがな、外国好きの臣民、今に大き息も出来んことになるのざぞ、覚悟はよいか、改心次第で其の時からよき方に廻してやるぞ。改心と申して、人間の前で懺悔するのは神国のやり方ではないぞ、人の前で懺悔するのは神きづつけることになると心得よ、神の御前にこそ懺悔せよ、懺悔の悪きコトに倍した、よきコトタマのれよ、コト高くあげよ、富士晴れる迄コト高くあげてくれよ、そのコトに神うつりて、何んな手柄でも立てさせて、万劫末代名の残る様にしてやるぞ。この仕組判りたら上の臣民、逆立ちしておわびに来るなれど、其の時ではもう間に合はんから くどう気付けてゐるのざぞ。臣民、かわいから嫌がられても、此の方申すのざ。悪と思ふことに善あり、善と思ふ事も悪多いと知らしてあろがな、このことよく心得ておけよ、悪の世になってゐるのざから、マコトの神さへ悪に巻込まれて御座る程、知らず知らずに悪になりてゐるのざから、今度の世の乱れと申すものは、五度の岩戸しめざから見当とれん、臣民に判らんのは無理ないなれど、それ判りて貰はんと結構な御用つとまらんのざぞ、時が来たら、われがわれの口でわれが白状する様になりて来るぞ、神の臣民はづかしない様にして呉れよ、臣民はづかしことは、神はづかしのざぞ。愈々善と悪のかわりめであるから、悪神暴れるから巻込まれぬ様に褌しめて、この神示よんで、神の心くみとって御用大切になされよ。』(磐戸の巻 第十八帖)

『土地分け盗りばかりか、天まで分け盗って自分のものと、威張ってゐるが、人民の物一つもないのぢゃ。大引上げにならんうちに捧げた臣民 結構ぞ。宮の跡はSとなるぞ。ナルトとなるぞ。天の言答(一八十)は開いてあるぞ。地の言答(一八十)、人民 開かなならんぞ、人民の心次第で何時でも開けるのざぞ。泥の海になると、人民思ふところまで一時は落ち込むのぢゃぞ、覚悟はよいか。神国には神国の宝、神国の臣民の手で、元の所へ納めなならんのざ。タマなくなってゐると申してあらうがな。何事も時節到来致してゐるのざぞ、真理(ふじ)晴れるばかりの御代となってゐるのぢゃぞ。人民 神に仕へて下さらんと神のまことの力出ないぞ、持ちつ持たれつと申してあらうがな、神まつらずに何事も出来んぞ、まつらいでするのが我よしぞ、天狗の鼻ざぞ。まつらいでは真暗ぞ、真暗の道で、道開けんぞ。神は光ぞと申してあらうが、てん詞(し)様よくなれば、皆よくなるのざぞ。てん詞(し)様よくならんうちは、誰によらん、よくなりはせんぞ、この位のことなぜにわからんのぢゃ、よくなったと見えたら、それは悪の守護となったのぢゃ。神がかりよくないぞ、やめて下されよ、迷ふ臣民出来るぞ。程々にせよと申してあらうが。皆々心の鏡掃除すれば、それぞれに神かかるのぢゃ。肉体心で知る事は皆粕(カス)ばかり、迷ひの種ばかりぢゃぞ、この道理判りたであらうがな、くどう申さすでないぞ。』(風の巻 第九帖)

『向ふの云ふこと、まともに聞いてゐたら、尻の毛まで抜かれてしまふのが、神にはよく判りて気つけてゐたのに、今の有様その通りでないか。まだまだ抜かれるものあるぞ。のばせばのばせば、人民まだまだ苦しいことになるぞ。延ばさねば助かる人民ないし、少しは神の心も察して下されよ、云ふ事きいて素直にいたされよ、神たのむぞ。愈々時節来たのであるから、何と申しても時節にはかなわんから、神示通りになって来るから、心さっぱり洗ひ晴らしてしまふて、持ち物さっぱり洗ひかへしてしまふて、神のみことに生きて呉れよ、みことになるぞ、タマぞ、ミコト結構ぞ。~後略~。』(岩の巻 第六帖)

『ミロク世に出づには神の人民お手柄致さなならんぞ、お手柄 結構々々、神の人民 世界中に居るぞ。この中に早くから来てゐて何も知りませんとは云はれん時来るぞ、神示よく読んでゐて呉れよ。時来たら説き出せよ、潮満ちてゐるぞ、潮時誤るなよ。早う目覚めんと、別の御用に廻らなならんぞ、ウシトラコンジン様、何事も聞き下さるぞ、誠もってお願ひせよ、聞かん事は聞かんぞ、聞かれる事は聞いてやるぞ。神、仏、キリスト、ことごとく人民の世話もしてやるぞ。時節到来してゐるに未だ気付かんか、人民の物と云ふ物は何一つないのざぞ、未だ金や学で行けると思ふてゐるのか、愈々の蓋あいてゐるに未だ判らんか。奥山に参りて来ねば判らんことになって来るぞ。奥山、おく山ぞ、同じ奥山が、その時々により変って来るぞ、身魂磨けば磨いただけ光りできておかげあるぞ、この道理判るであろがな。』(空の巻 第九帖)

『外が悪くて中がよいといふことないのぢゃ。外も中も同じ性もってゐるのぢゃ。時節来てゐるから、このままにしておいても出来るが、それでは人民 可哀さうなから、くどう申してゐるのぢゃ。三千年花咲くぞ。結構な花、三年、その後三年であるぞ。二(ツギ)の三年めでたやなあ めでたやなあ、ヒカリのふで裏迄 読んで見なされ、よく解ってビシビシその通りになっておろうがな。このほう念じてやれよ。この火(ほう)この水(ほう)ぞ。この火ばかりと思ふなよ。火と水(ヒトミ)ざぞ。善き火(ホー)に廻してやるぞ、良き水(ホー)の御用も回してやるぞ。しくじりも人間にはあるぞ。しくじったらやり直せよ。しくじりは火と水の違ひぞ。このことよく心得てなされよ。しくじり、しくじりでなくなるぞ。何も思案投首 一番罪深い。皆それぞれに喜び与へられてゐるでないか。何不足申すのざ。』(黄金の巻 第二十八帖)

『慾が深いから先が見えんのぢゃ。悪神よ、今迄は思ふ通りに、始めの仕組通りにやれたなれど、もう悪の利かん時節が来たのであるから、早う善に立ちかへりて下されよ。善の神まで捲き入れての仕放題、これで不足はもうあるまいぞや。いくら信仰しても借銭なくなる迄は苦しまねばならん。途中でへこたれんやうに、生命がけで信仰せねば借銭なし六ヶ敷いぞ。途中で変る紫陽花(アジサイ)では、御用六ヶ敷いぞ。』(黄金の巻 第八十帖)

『喜びがヽ、真、善、美、愛と現はれ、それが又、喜びとなり、又、ヽ、真、善、美、愛となり、又現はれ、限りないのぢゃ。喜びの本体はあの世、現はれはこの世、あの世とこの世合せて真実の世となるのぞ。あの世ばかりでも片輪、この世ばかりでも片輪、まこと成就せんぞ。あの世とこの世と合せ鏡。神はこの世に足をつけ衣とし、人はあの世を◎として、心として生命しているのぢゃ。神人と申してあろうがな。この十理(ドーリ)よくわきまへよ。この世にあるものの生命はあの世のもの、あの世の生命の衣はこの世のもの。くどいようなれど このこと肚の中に、得心なされよ。これが得心出来ねば どんなによいことをしても、まこと申しても なにもならん、ウタカタぢゃぞ。時節来たのぢゃから、今迄のように一方だけではならんぞよ。』(春の巻 第六帖 ◎は「○にヽ」の形)

『東は扶桑(二三)なり、日(◎)出づる秋(とき)は来にけり。この巻 扶桑(二三)の巻、つづく六の巻を合せて七の巻一百四十四帖の黙示を五十黙示と申せよ。 イシもの言ふぞと申してありたが、イセにはモノ言ふイシがあると昔から知らしてあろうがな、五の一四(イシ)がもの言ふのであるぞ、ひらけば五十となり、五百となり、五千となる。握れば元の五となる、五本の指のように一と四であるぞ、このほうを五千の山にまつれと申してあろうが、これがイチラ(五千連)ぞ、五十連(イツラ)ぞ、判りたか、五十連 世に出るぞ。 天に神の座あるように、地には人民の座があるぞ、天にも人民の座があるぞ、地に神の座があるぞ。七の印(しるし)と申してあるぞ、七とはモノのなることぞ、天は三であり、地は四であると今迄は説かせてあったなれど愈々時節到来して、天の数二百十六、地の数一百四十四となりなり、伊邪那岐三となり、伊邪那美二となりなりて、ミトノマグハイして五となるのであるぞ、五は三百六十であるぞ、天の中の元のあり方であるぞ、七の燈台は十の燈台となり出づる時となったぞ、天は数ぞと申してあろう、地はいろは(意露波)であるぞ。判らん者が上に立つこととなるぞ、大グレン目の前、日本のみのことでないぞ、世界中のことであるぞ、今度は三千世界が変るのであるから今迄のようなタテカヘではないのであるぞ。何も彼も鏡にうつるのであるぞ。鏡が御神体であるぞ。何もうつらん御神体のカガミは何もならんぞ。』(扶桑の巻 第一帖 ◎は「○にヽ」の形)

『岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。素盞鳴の命にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ。神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのであるぞ、その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸しめであるぞ。』(碧玉の巻 第十帖)

『ナルの仕組とは【成十】(七@十)の経綸であるぞ、八が十になる仕組、岩戸(言答)ひらく仕組、今迄は中々に判らなんだのであるが、時節が来て、岩戸がひらけて来たから、見当つくであろう、富士(二二、普字)と鳴門(ナルト)(七@十、成答)の仕組、結構致しくれよ。』(星座の巻 第二帖)

『神から出る真、善、美、愛の用に奉仕するのが霊人たちの生命であり、仕事であり、栄光であり、歓喜である。故に、霊界における霊人たちの職業は、その各々の有する内分により、段階によって自ら定まる。為にその用は無数であり、且つ千変万化する。歓喜第一、神第一の奉仕が霊人の職業である。故に、自分自身の我が表に出た時は、力を失い、仕事を失い、苦悩する。霊人の仕事は限りなく、地上人の仕事以上に多様であるが、より良さ、より高さ、より神に近い霊人生活に入るための精進であり、喜びであることが知られる。そして、その何れもが神の秩序、即ち大歓喜の秩序、法則によって相和し、相通じ、全般的には一つの大きな神の用をなしているのである。故に、何れの面の用をなすとも、自己というものはなく、弥栄あるのみ、神あるのみとなる。なお注意すべきことは、霊界において、権利なるものは一切感ぜず、義務のみを感じているということである。即ち、義務することが霊人の大いなる歓喜となるのである。為に、命令的なものはない。只、ひたすら奉仕があるのみである。その奉仕は地上人であった時の職業と相通ずるものがある。何故ならば、霊と物とは対応しているからである。生前は生後であり、死後はまた生前であって、春秋日月の用をくりかえしつつ弥栄えている。従って、霊界に住む霊人たちも、両性に区別することができる。陽人と、陰人とである。陽人は、陰人のために存在し、陰人は、陽人の為に存在する。太陽は、太陰によりて弥栄え、太陰は太陽によりて生命し歓喜するのである。この二者は、絶えず結ばれ、また絶えず反している。故に、二は一となり、三を生み出すのである。これを愛と信の結合、または結婚とも称えられている。三を生むとは、新しき生命を生み、且つ歓喜することである。新しき生命とは新しき歓喜である。歓喜は物質的形体はないが、地上世界では物質の中心をなし、物質として現われるものである。霊界に於ける春は、陽であり、日と輝き、且つ力する。秋は、陰であり、月と光り、且つ力する。この春秋のうごきを、また、歓喜と呼ぶのである。春秋の動きあって、神は呼吸し、生命するとも云い得る。また、悪があればこそ生長し、弥栄し、且つ救われるのである。故に神は、悪の中にも、善の中にも、また善悪の中にも、悪善の中にも呼吸し給うものである。』(地震の巻 第十八帖)

『何も六ヶ敷いこと申すのではない。自分の、内の自分を洗濯して明らかに磨けばよいのぢゃ。内にあるものを浄化すれば、外から近づくものがかわって来る道理。内の自分を洗濯せずにゐて、きたないものが近づくとか、世の中がくらいとか不平申して御座るなれど、そこにそなたの間違いがあるぞ。木でも草でも中から大きくなって行くのぢゃ。三千年に一度の時がめぐり来てゐるのであるぞ。為せば成る時が来てゐるのぢゃ。為さねば後悔ぞ。時すぎて種まいても、くたびれもうけ。そなたは世の中が悪いとか人がよくないとか申してゐるが、すべては大神の肚の中にゐて、一応 大神が許しなされて居ればこそ存在し、いのちしてゐるのであるぞ。悪くうつるのは心のかがみがくもってゐるからぞ。悪い世の中、悪い人と申すことは、神を悪く申し、神界が悪いのぢゃと申すのと同じであるぞ。新しき世界には新しき【てんし(天詞)てんか】をこしらえねばならん。このこと間違えるでないぞ。珍らしき御型(方)が出て来てびっくりぢゃ。びっくりしなければヒックリとはならんぞ。神は今迄 化けに化けていたが、もう化けては居られん。人民ももう化けては居られんぞ。九分九厘までは化けて、がまんしてゐたなれど、化けの世、方便の世、方便の教はすんだのぢゃ。教では世は正されん。教のつどいはつぶれて了うのぢゃ。無理してはならん。そなたの無理押しは よいことをわるく曲げるぞ。』(月光の巻 第五十帖)

『理屈は一方的のものぞ。どんな理屈も成り立つが、理屈程 頼りないもの、力にならんものないぞ。理(リ)が◎(カミ)の御能(オンハタラキ)ぞ、よく見極めねば間違うぞ。囚はれるなよ。他の為に苦労することは喜びであるぞ。全体のために働くことは喜びぞ。【光の生命】ぞ。誰でも重荷負はせてあるのぢゃ。重荷あるからこそ、風にも倒れんのざ。この道理、涙で笑って汗で喜べよ。それとも重荷外してほしいのか。重い重荷もあるぞ。軽い重荷もあるぞ。今まいた種、今日や明日には実らんのざ。早く花が見たく、実がほしいからあせるのぢゃ、人間の近慾と申すもの。神の大道に生きて実りの秋(トキ)まてよ。まいた種ぢゃ。必ず実る。誰も横取りはせんぞ。万倍になってそなたにかへると申してあらう。未来にもえつつ現在にもえよ。神相手に悠々と天地に歩め。』(黒鉄の巻 第三帖 ◎は「○にヽ」の形)

「神園の 並木と草野 妙理あり」は、春となれば芽が出、秋となれば枯れるという風に、一見何でもないように見える木々や草々の活動にもちゃんとした秩序があり、奥深い道理があるということ。つまり何事にも時節があるということ。

「梅の咲く時 皆の望みが」は、その時節の道理に従って三千世界一度に開く梅の花が咲く時、初めて皆の望みが叶えられるということ。皆の望みとはおそらく食らうことからの解放と身の安全、即ち衣食住の保証と天下泰平の世のことであろう。

Posted on 2016/01/29 Fri. 08:16 [edit]

category: まわりうた

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29

まわりうた 

なかきよの こころいるはな 
  ふうかいか うふなはるいろ ここのよきかな

(永き代の 心入る花 風槩が 産な春色 此処の良きかな)

解説

心入る(こころいる)は「心が引きつけられる。夢中になる。」、風槩(ふうがい)は「自然の美しいながめ。風光。景色。」、産(うぶ)は「生まれたときのままであること。」「自然のままであること。また,できたときのままであること。」、春色は「春らしい色。桜色や若草色など、春を連想させる色。」の意味です。

余談

この歌は、-MYTH- The Xenogears Orchestral Albumの「盗めない宝石 -Orchestra Version-」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

三千世界一度に開く梅の花

ということで、ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。

意訳

どこまでも心引かれる花が咲いている。見渡す限りの景色一面が、生まれたままの春色に彩られている。あぁ、この世界の何と美しいことだろう。

Posted on 2016/01/28 Thu. 09:23 [edit]

category: まわりうた

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28

まわりうた 

なかきよの いはとひらかむ
  とのもても のとむからひと はいのよきかな

(永き代の 岩戸開かむ 外の面でも 和む唐人 拝の良きかな)

解説

外の面(とのも)は「家の外。戸外。」、和む(のどむ)は「心や気持ちをゆったりさせる。のどかにする。」「動作が控えめに行われるようにする。」、唐人(からびと)は「中国,または朝鮮の人。」、拝は「頭を下げて敬礼すること。おがむこと」の意味です。

余談

この歌は、十二国記 O.S.T.1 - 十二幻夢組曲にある「国~東方麗韻」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2016/01/27 Wed. 15:35 [edit]

category: まわりうた

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27

まわりうた 

むらくさに ことほくもりか
  ひみちあち みひかりもくほ とこにさくらむ

(叢草に 言祝ぐ杜が 陽満ち彼方 御光木母 何処に咲くらむ)

解説

叢草(むらくさ)は「むらがり生い繁っている草。」、言祝ぐは「言葉で祝福する。祝いの言葉を述べて,幸運を祈る。」、杜は「社がある神域の木立。」、彼方(あち)は「遠称の指示代名詞。あちら。あっち。」、木母(もくぼ)は「梅の異名。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

三千世界一度に開く梅の花

ということで、ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。

意訳

叢草を分け入った先に、この度明けたミロクの世を祝う杜が見える。陽だまりとなっている向こう側の神域では、神々しいまでの光が降り注いでいる。また辺りは何とも言えない芳しい香りに包まれているけれど、三千世界一度に開くという梅の花は何処に咲いているのだろう。

Posted on 2016/01/25 Mon. 22:20 [edit]

category: まわりうた

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25

まわりうた 

よるかあけ さなかのおにか
  さますあす まさかにおのか なさけあかるよ

(夜が明け 最中の鬼が 覚ます崩岸 まさかに己が 情け上がる世)

解説

最中は「物事が盛んに行われているとき。さいちゅう。もなか。」、鬼は「(天つ神に対して)地上の国つ神。荒ぶる神。」「醜悪な形相と恐るべき怪力をもち,人畜に害をもたらす,想像上の妖怪。仏教の影響で,夜叉(やしゃ)・羅刹(らせつ)・餓鬼や,地獄の獄卒牛頭(ごず)・馬頭(めず)などをさす。牛の角を生やし,虎の皮のふんどしをつけた姿で表されるのは,陰陽道(おんようどう)で丑寅(うしとら)(北東)の隅を鬼門といい,万鬼の集まる所と考えられたためという。」、崩岸(あず)は「くずれた岸。がけ。」、まさかは「今まさに物事が目の前に迫っていること。予期しない緊急の事態にあること。」、己がは「私の。自分の。」、情けは「人間味のある心。他人をいたわる心。人情。情愛。思いやり。」「もののあわれを知る心。風雅を解する心。風流心。」「風情。おもむき。あじわい。」

余談

この歌は、「大神 オリジナル・サウンドトラック」にある「妖怪退治」~「双魔神 モシレチク コタネチク退治」~「妖魔王キュウビ退治」~「ヤマタノオロチ復活」~「ヤマタノオロチ退治 其の一」~「ヤマタノオロチ退治 其の二」を聴きつつ、下記ブログの記事を見て、それをモチーフに書いた歌です。

『おにあけ?。心の窓を開ける。窓(宇宙の公の心)は【真戸】を開く。伊都能売とは?。』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)
http://kamikotokai-b.jugem.jp/?day=20160123

雑感

いよいよ夜が明けつつあるようである。大局的に見れば救いの時節に入ったが、個々で見るとこれからメグリ(カルマ)が本格的に噴き出してくるので、思わぬ怪我や病気になったり、トラブルに巻き込まれることもあるかと思われる。

悪もことごとく苦しい時節になって来る。ちょうど朝日を浴びて消えていくドラキュラの事例を思い浮かべると判りやすいと思う。だからこそ、これから悪神も暴れると各神示には書かれてある。

日月神示参照。

『今度の御用は世におちて苦労に苦労した臣民でないと中々につとまらんぞ、神も長らく世におちて苦労に苦労かさねてゐたのざが、時節到来して、天晴(あっぱれ)世に出て来たのざぞ、因縁のミタマ世におちてゐるぞと申してあろがな、外国好きの臣民、今に大き息も出来んことになるのざぞ、覚悟はよいか、改心次第で其の時からよき方に廻してやるぞ。改心と申して、人間の前で懺悔するのは神国のやり方ではないぞ、人の前で懺悔するのは神きづつけることになると心得よ、神の御前にこそ懺悔せよ、懺悔の悪きコトに倍した、よきコトタマのれよ、コト高くあげよ、富士晴れる迄コト高くあげてくれよ、そのコトに神うつりて、何んな手柄でも立てさせて、万劫末代名の残る様にしてやるぞ。この仕組判りたら上の臣民、逆立ちしておわびに来るなれど、其の時ではもう間に合はんから くどう気付けてゐるのざぞ。臣民、かわいから嫌がられても、此の方申すのざ。悪と思ふことに善あり、善と思ふ事も悪多いと知らしてあろがな、このことよく心得ておけよ、悪の世になってゐるのざから、マコトの神さへ悪に巻込まれて御座る程、知らず知らずに悪になりてゐるのざから、今度の世の乱れと申すものは、五度の岩戸しめざから見当とれん、臣民に判らんのは無理ないなれど、それ判りて貰はんと結構な御用つとまらんのざぞ、時が来たら、われがわれの口でわれが白状する様になりて来るぞ、神の臣民はづかしない様にして呉れよ、臣民はづかしことは、神はづかしのざぞ。愈々善と悪のかわりめであるから、悪神暴れるから巻込まれぬ様に褌しめて、この神示よんで、神の心くみとって御用大切になされよ。』(磐戸の巻 第十八帖)

火水伝文参照。

「 口受けて心動くのぞ、心動きて行成るのぞ。【霊主心従体属】であるぞ。【口・心・行】のタテワケも出来て無くれば、口の御座に火の座されるマコト、マコトの神真釣る、マコト一如のハタラキも、成すは適わぬ事になるぞ。そのままにありては汝等の歩み行く所、段々狭く成りてしもうて、しまいには足場まで無う成るやも知れんぞ。そは汝等の足場申すが『あやま知』土台に作りあるが由なるぞ。『あやま知』の響き今今は、タテカエの末期であるぞ。どんどん暴かれ消え行きて居るのが解からんか。何時までも『あやま知』で作りし、土台に立ちて居りては落ち行くだけでござろうが。三真釣る行いがマコトの土台ぞ。鳴り出す響きがマコトの足場じゃ。【足場】早う創れ申すこと解かりて下されよ。
 【足場】は【ア】じゃぞ。コトの初めであるぞ。言魂であるぞ。鳴り成る響きであるぞ。三真釣り持ち行かねば、マコトの響き出すは難いぞ。三真釣り持ち行くその事が【足場】のタテカエ、タテナオシ、同時に叶える事になるのじゃぞ。マコトの響き、いずる様に成りて初めて、神のお宮と鳴りて参るのじゃ。神のお宮が【足場】でござる。神社の事にては無いぞ。汝ご自身の事にてあるぞ。この世の事は汝ご自身が変わらねば、何一つ変わりはせんのじゃ。今世に残りて居る【足場】、一厘にござるぞ。九分九厘ウソざ申す事、汝、存じて居りたかや。
 今世申すは何でも九分九厘対一厘であるぞ。何事も『あやま知』含みて成るものは、精一杯鳴りたところで、九分九厘にて仕舞いであるぞ。どうあがきても十【カミ】には鳴れぬ魔釣り道じゃ。小さき事どもから大き事ども迄、そうなりて居るのじゃぞ。身欲を基の台と成す『あやま知』病みたる母体から、産まれ鳴りたる事どもは、汝ご一人の思いから世界を統べる企み迄、総ての総てが九分九厘で引っ繰り返るぞ。もはや悪の芽切りたから新たな悪は育たぬぞ。芽吹いた先から滅んで行くがさだめであるよ。今今に悪に見ゆるは、悪を使うて悪払うこ度に使う道具なれば、まだまだ悪の世が続く思いて居ると、怪我をする伝えあろうがな。これからは悪と悪の共食いになりて参りて、悪神も苦しくあるから暴れる程に益々危うき世となりて参るから、汝等は巻き込まれん様に気を付けて下されよ。メグリ多く持ちあると巻き込まれてしもう由、早う自ら清まりてメグリ払いて下され申し参りたのじゃ。自らに厳しく三真釣り持ち行くが急ける事にてござるぞ。
 人民様の真中にありても同じ事が起こりて居るのじゃ。汝、未だ気付かず。なれど汝等は宇宙コトワリのに似素型にてある。なれば今今の神経綸の御ハタラキ、そっくりそのまま、汝等の真中にても既にハタラキあるを知りて下されよ。汝等の真中に残りありた一厘のマコト、元つ大神のお出ましに呼応致して、汝の真中を占拠する身欲を基の台と成す、九分九厘の『あやま知』を自ら払わんと鳴り響きて居るのじゃ。一厘対九分九厘の戦でござるぞ。汝が早う気が付きて、孤立無援で戦する、汝の真中の一厘に、三真釣る行にてマコト出し、透け切る心に火を立てて、真中と一如に共鳴れば、勝てる戦にあるなれど、汝のメグリ必ず暴れるから、一厘のマコト余程しかりご守護なさなば危ういぞ。この方は全く心配ござらぬが、汝等はこ度は自らが清まりて、マコトの少しなりと鳴り出される様に成りて下さらねば、この方も手を貸す事は出来ぬのぞ。こ度は汝等お一人お一人が、自ら三真釣り持ち行き少しでも、清まりマコトを出す事が、こ度の仕組みの要にて、外すは適わぬ事にてあるのじゃ。こをどうありても解かりて下されよ。三歳苦難のタテカエ申すは、神々含む汝等を、一挙に一度に清める事にてござるのぞ。悪を使うて悪を払うお仕組みなれば、そがために九分九厘までは悪神に、勝ちを持たして上ぐるのじゃ。この方にとりてはこ程楽な事も無いなれど、それでは残る人民殆どないから、くどうくどう申して居るのじゃぞ。この方は人民様の酷きザマ見とう無いのじゃ。この方も辛いのぞ。神、頼むぞ。三歳苦難のタテカエ迄に少しなりともマコト磨きて下されよ。マコト三真釣り持ち来たりて、マコトの響き鳴りてる者は、正神真神のご一統がご守護に回りて汝を支えるから、どんな事がありても起こりても、何のご心配も無いぞ。安心致して見て居るが善いぞ。」

歌の突っ込んだ解説。

「夜が明け」というのは、三千年の夜が明けてミロクの世が来たという意味だけでなく、これまで悪いことをしても闇に隠れられていた悪が、一切通用しなくなったということでもある。

日月神示参照。

『今迄は闇の世であったから、どんな悪い事しても闇に逃れる事出来てきたが闇の世はもうすみたぞ。思ひ違ふ臣民 沢山あるぞ。何んな集ひでも大将は皆思ひ違ふぞ。早ふさっぱり心入れ換へて下されよ。神の子でないと神の国には住めんことになるぞ。幽界(がいこく)へ逃げて行かなならんぞ。二度と帰れんぞ。幽界(がいこく)行きとならぬ様、根本から心入れかへて呉れよ。日本の国の臣民 皆兵隊さんになった時、一度にどっと大変が起るぞ。皆思ひ違ふぞ。カイの御用はキの御用ぞ。それが済みたら、まだまだ御用あるぞ。行けども行けども、草ぼうぼう、どこから何が飛び出すか、秋の空グレンと変るぞ。この方 化(ば)けに化けて残らずの身魂調べてあるから、身魂の改心なかなかにむつかしいから、今度と云ふ今度は、天の規則通り、びしびしとらちつけるぞ。御三体の大神様 三日此の世をかまひなさらぬと この世はクニャクニャとなるのざぞ。結構近づいて居るのざぞ。大層が近づいて居るのざぞ。この神示読みて神々様にも守護神殿にも聞かせて呉れよ。いよいよあめの日津久の神様おんかかりなされるぞ。』(水の巻 第十四帖)

『一四三○(ビョーサマ)一四三○(ビョーサマ)、改心 早う結構ぞ。道知るのみでは何にもならん。道味はへよ、歩めよ、大神の道には正邪ないぞ。善悪ないぞ。人の世にうつりて正と見え邪と見えるのぢゃ。人の道へうつる時は曇りただけのレンズ通すのぢゃ。レンズ通してもの見ると逆立するぞ。神に善と悪あるやうに人の心にうつるのぢゃ。レンズ外せよ。レンズ外すとは神示読むことぞ。無き地獄、人が生むぞ。罪ぞ。曲ぞ。今迄は影の守護であったが岩戸ひらいて表の守護となり、裏表揃うた守護になりたら、まことの守護ぞ。悪も善も、もう隠れるところ無くなるぞ。』(黄金の巻 第三十帖)

『前にも建替はあったのざが、三千世界の建替ではなかったから、どの世界にでも少しでも曇りあったら、それが大きくなって、悪は走れば苦労に甘いから、神々様でも、悪に知らず知らずなって来るのざぞ。それで今度は元の生神が天晴れ現はれて、悪は影さへ残らぬ様、根本からの大洗濯するのぞ、神々様、守護神様、今度は悪は影も残さんぞ。早よう改心なされよ。建替の事 学や智では判らんぞ。』(松の巻 第十二帖)

火水伝文参照。

「 三千年の昔より、汝等には解からぬよう汝等の心身の薄弱化を図り続け来たる力ありたぞよ。そは汝等の身魂捕らえるがためぞ。汝等の心、曇り曇らせ汝等の光輝忘却させ、自ら思考する事の出来ぬ獣と化さしめ、欲望のままに生くる者となさしむるがためぞ。そは汝等アメとムチにて治めんがためなるぞ。そは己が野望を成就せんがためなるぞ。そは自ら地球の盟主とならんがためでありたのじゃ。
 汝等を獣化せしむるに用いたる、主たる力が『あやま知』なるぞ。かの力、侮りてはならんと申した事、こ度の人類の歴史、彼等の思うどうりに描かれ来たりたの見つれば得心致すであろうがな。汝、幾度もの転生揺りかごから墓場までどぷりと彼等の作りせし世で過ごし来たりたのぞ。三千年の企みぞ。そ度『あやま知』に囚われ囚われ苦しみ来たったのぞ。ソクラテス殺せし力も、イエス殺せし力も『あやま知』なるぞ。マコト唱えし者殺しマコト覆い隠せし力『あやま知』なるぞ。『あやま知』言うも直接手を下せしは『あやま知』に囚われたる人民様でありたのぞ。ここそ『あやま知』の狙うた企みぞ。果であるぞ。力であるぞ。
 『あやま知』仕掛けた者ども、この力よく知りておる。本来チカラ無きも知りておるのじゃ。悪は苦労に甘いから、知らず誉め称える人民様ばかりじゃ。誉めて力与えしも人民様ご自身なるぞ。誉め称える度毎に汝等の身魂、曇りに曇りて行きたのじゃ。ワナにはまりて行きたのぞ。治め易き獣と成り果てたのじゃ。
 『あやま知』操る者どもも『あやま知』振りまく害悪を、知るが唯一の者なれば自ら冒され無き者と、勝ち誇りておるなれど、こ度は悪の影さえ残さぬのざから最期の仕上げを見てござれ。こ度の相手は元つ神ぞ。決死の覚悟で来てござれ」

「最中の鬼が 覚ます崩岸」は、まさに鬼と思えるような天の規則、即ち因果応報の法則が各自の心の在り方を覚まし、それは人によっては崖から真っ逆さまに突き落とされるような壮絶なものになるということ。

具体的には何でもありで、結婚数日後に奥さんや旦那さんが白血病で亡くなるとか、これまで株や為替で大儲けしていた人が一生支払い切れない借金地獄になるとか、電車のホームで待っていたらいきなり後ろから突き落とされて命を落とすとか、青信号で横断歩道を渡っていたら赤信号を無視した車に跳ねられるなど、もはや予測不可能である。

大事なのは何が起こるかではなく、起こった後どれだけ誠実に対応できるかにかかっている。

また「鬼」は地上の国の神の意味もあることから、これから地(くに)の日月の神、即ち人の中から、絶体絶命のこの今の時期に、千人力の力を発揮する者も出て来るという意味でもある。

日月神示参照。

『光の巻しるすぞ、地(くに)の日月の神とは臣民の事であるぞ、臣民と申しても今の様な臣民ではないぞ、神人共に弥栄の臣民の事ぞ、今の臣民も掃除すれば九二(くに)の一二(ひつぎ)の神様となるのざぞ、自分いやしめるでないぞ、皆々神々様ざぞ。もの頂く時は拍手打ちて頂けよ、神への感謝ばかりでないぞ、拍手は弥栄ざぞ、祓ざぞ、清めぞと申してあらうが、清め清めて祓ひてから頂くのざぞ、判りたか、次の五の巻の謄写(とうしゃ)は四十九でよいぞ、十は神よきに使ふぞ、前のも十はよきに使ふたぞ、判りたか、皆に分けるぞよ、次は十二の巻の中からよきに抜きて謄写よいぞ。』(光の巻 第一帖)

『万物の長とは神の臣民の事であるぞ、世界の人民も皆万物の長であるが、この世の神は臣民ぢゃぞ、神に次いでの良き身魂(みたま)ぞ、臣民は地(くに)の日月の神様ざぞ。火の粉でやけどするなよ、気付けおくぞ。世に出てゐる守護神のする事知れてゐるぞ。元の生神様 御一方(おんひとかた)御力出しなされたら手も足も出んことになるのぢゃ、神力と学力とのいよいよの力くらべぢゃ、元の生神様の御息吹きどんなにお力あるものか、今度は目にもの見せねばならんことになったぞ、肉体ばかりか、魂までのうにならふやも知れんぞ、震へ上がるぞ。理が神ぞ。理が神の御用ざと申してあろがな。』(梅の巻 第十二帖)

火水伝文参照。

「 今までの世は、世界中何処にありてもマコトの真釣りを外し参りて居りたから、マコトの真中を失うて、争いの絶えぬ心傷つく世と成り果てたのであるぞ。アタマと力で真中を作ろう思いても万古末代叶わぬぞ。マコトの真釣りはそんな事では取れはせんぞ。こが汝等の歴史いうものでござるぞ。真釣りを外し来た歴史でござるよ。そのままに、神幽顕、三千世界挙げてアタマの魔釣り成す、修羅の地獄を続けては、元つ基の神仕組み、初発の泥に戻さねば、ならぬ事態も招くから、万年早く蘇り、ミロクの御代へ致すなり。こ度が、真釣りを外し来たアタマの勢力と、元つ真釣りのこの方が、元つ仕組みで対峙する。ミロクに結ぶ最後の戦にござるよ。こ度は、総ての総てを元つマコトの神真釣りに返し奉るのであるぞ。
 汝等お一人お一人に、こ度の事をしかり解かり取りてもらうには、汝等のマコトの素型を明かさねば、進み適わぬ事なれば、汝等の基は、マコト地の日月(ヒツク)の神成るを今今に伝え知らせ参るなれど、汝がそのままにありて神そのもの申せば、今の人民様はよほどご苦労無しの、極楽蜻蛉でござるから、今より酷き好き放題をなされて、目も当てられぬ終末を迎えるが見えて居る由、この事はよくよく注意を致して、毛程の過ちも無く、分と礼節をわきまえて取りて下されよ。こ度は汝等の真ハタラキを取るる程には伝えねば、益々素性ケガレし『あやま知』にいいように弄ばれ、末代取り返しのつかんご無念となりてしもうから、この方はよくよくに気を付けて居るのざぞ。この方の申す事、悪き使いの申す事、紙一重の差にありても天国と地獄の違いにてあるから、嫌われる程にご注意致すのであるぞ。この方が今世の酷きを申すが解からぬ者は、既に危ういぞ。」

「 汝等皆々スメラの身魂の神民なれば、ヒノモト真中申せば、汝等皆々の真中の事にてあるもハキリ知りて下されよ。なれば今今ヒノモトの、真中の御座のケガレ鳴る、誰ぞの響きの鳴す業か、申すも恥ずかし事なれど、神々含む汝等の心底今今ここに来て、開きて明けねば解からぬか。ミタマの改め必ずあるから、神の神民恥ずかしゅう無い様、日々に心清め参りて下されよ。汝等が恥ずかしくあるなれば、この方も恥ずかしいぞ。汝等皆々、地の日月の神と崇め真釣らるる神成る身なれば、汝のケガレがヒトをも含むアメツチに、及ぼす恥力をご自覚召されよ。」

「 《快欲》に囚われたる《我善し》力と『あやま知』の、仇ケガレし神々が改心出来ずにそのままに、四(ヨ)の御座に居直りて《身欲》を基のそのままに、何とか自ら手の内に、末代致すお積もりでジタバタ画策なしあるは、総ての総て知りて居るのぞ。最期の最後じゃ、どうなりとかかりて参られよ。こ度は得心致すまでかかりてござれ申して居るのじゃ。九分九厘までは勝たして差仕上ぐる程に、いよいよ精一杯かかりて来るが善いぞ。今今の改心は許すなれど後は無いのぞ。
 解かりて下されたか。ヒノモトは世界のヒナ型でござるから、世界の真中でござるから、ヒノモトの真中が曇り居れば世界も曇るが神仕組みにござりたのじゃ。それ由、初発にヒノモトのタテカエ致す申すも解かるでござろうが、タテナオシとて同じこと、世界の御祖のヒノモトが地軸の立ちたる新つ地を、地の日月の神成る自覚を開き持ち、統べるマコトで範を垂れ、口舌の無い世に整えて、ミロクへ結ぶが天命にござるのぞ。何事もヒノモトから始まるのじゃ。タテナオシに入りて暫くは、何かとゴタゴタ致すのであるが、岩戸は既にタテカエの最後の最後に開けて居る由、ミロク様も代にお出まし成されて居られるから、何か事ありた時には大神様がご守護を出されるぞ。この方からも、それはこう。あれはこう。申してあるから、汝は立てたマコトを持ち行きて、神と共に天命を歩んで下されよ。タテナオシ申すはスメラのミタマの天命にありて、この方とその方で共に耕すご苦労じゃ。ミロクと統べりたその時に、この方からマコトにご苦労様でござりたと、厚く御礼申し上げ、末代名の残る万古弥栄の誉れの響きと鳴らしめさせて頂くぞ。汝等皆々、危うき身欲は控え捨て、天命自ら掲げ持ち、ミロクを結ぶそのための、基と鳴るため今今を、三真釣り持ち行き魂磨き、嬉し喜び行なして、マコトの響く者と成り鳴りて下されよ。身欲残すは恥を残すぞ。善いな。」

「 新しき御代の体申すは、新た鳴る高き響きにて真釣ろい創りあるのぞ。響き一つ上ぐりて居るのじゃ。光一つ上ぐる伝え知らせあろうがな。この方が汝等に生きありても、死にありても三真釣り持ち行き、マコト磨け申したは、この事に関わりて大事な事にてある由、くどうくどう申し来たりたのじゃ。そは汝等のミタマ、マコトの響き無くあれば、新しき代の肉のお宮に入るは適わぬからであるぞ。光一つ上ぐりた肉のお宮に収まれるだけの、ミタマに鳴りておい出なされませ。
 申すも辛い事なれど、今ザマの人民様のありザマにありては、適わぬ事と知り置かれよ。なれば汝等皆々神の響きを行成す者と成り鳴りて、一人でも多くの方々に真釣りあるを知らせくれよ。三真釣り持ち行き鳴するがミチぞ。解かりたか。
 今今は心曇りて居るが由、ご自身自ら、アタマでご自身の体をバラバラに分け縛り付けて居られるから、体の各部は益々酷き有り様と鳴りて居るのぞ。日本が世界のヒナ型申すは、汝等も世界のヒナ型申すを言うのであるぞ。真釣り役の胴体がふ抜けて居りては、ご自身のお体が真釣れぬ同様、世界が真釣れぬも無理無かろうが。この方がヒノモトの人民様に厳しく申すは、この事在りて有るが由ぞ。汝等ヒノモトの民申すものは、地球世界を真釣り背負わねば鳴らぬ、スメラの御ミタマにござるのぞ。汝等の申す、人知に汚れた、への突っ張りにもならぬ話をして居るので無いぞ。数ある民魂の真中の御役、最も辛きご苦労の、地の日月の神と統べ真釣る導き御役の響きにておわすのぞ。辛きご苦労のお身魂であるが由、枝葉とタテワケ、一段も二段も上の響きのご苦労に堪えれる様、【元つキ】の直の御チ筋を引かせあるのぞ。中身のご苦労もなさらいで、カタチばかりで取り違え、日本は偉い偉いなぞ申し参りても、ハラにマコトの一厘も無きが者の成さり様は、犬、猫にも恥ずかしい限りであるぞよ。自らの真中のマコトが解からぬから、カタチばかりの言の葉で、体裁を作りて我が一番、我が一番等と威張り合うて参りたから枝葉の身魂にも劣る、悪き身魂に落ちてしもうたのじゃ。」

「まさかに己が 情け上がる世」は、まさかとも思えるような事態になった時、これまで自分が誰かにかけた情けがものを云う世になったということである。今まで善を為しても、誰からも褒められることなく、恩を仇で返されることさえあったかもしれないが、神様はちゃんと見ており、最後は神から情けをかけて救ってもらい「かたじけない」という状況になるということ。

ただこの情けは因果応報の法則を受け切ってからのことなので、その法則が発動している間は情け容赦なくメグリ(カルマ)がやってくる。いわばこの度の大変は強制捜査のようなもので、その捜査が終わり、最後神様から裁判にかかった段階で情状酌量を得られる余地があるということである。

なので、人に情けをかける、思いやりを持って接する姿勢が回りまわって自分を助けることになるということです。

日月神示参照。

『そなたの用意が足らんぞ。日々の人間の御用を、神の御用と和すように、神の御用が人の御用、人の御用が神の御用となるのがまことの道であり、弥栄の道であり大歓喜であるぞ。いつでも神かかれるように神かかってゐるように、神かかっていても、われにも他にも判らぬようになりて下されよ。鍬とる百性が己をわすれ、大地をわすれ、鍬をわすれてゐる境地が、まことのみたましづめであり、神かかりであるぞ。そこらでなさる行も、それに到る一つの道ではあるが、それのみではならんぞ。気つけ合ってよきに進んで下されよ。そなたが歩むのぢゃ。道は自分で歩まねばならんぞ。他人におんぶしたり、他人が歩かしてくれるのではないぞ。そなたの力で、そなた自身の苦労で人を助けねばならんぞ。人を助ければその人は神が助けるのであるぞ。この道理なぜに判らんのぢゃ。人を助けずに我を助けてくれと申しても、それは無理と申すもの。神にも道はまげられんぞ。』(月光の巻 第四十九帖)

『何事も天地に二度とないことで、やり損ひしてならん多陀用幣流天地(たたよへるくに)の修理固成(かため)の終りの四あけであるから、これが一番大切の役であるから、しくじられんから、神がくどう申してゐるのざ、神々さま、臣民みなきいて呉れよ。一二三(ひふみ)の御用出来たら三四五(みよいつ)の御用にかからなならんから、早う一二三の御用して呉れよ。何も心配ないから神の仕事をして呉れよ、神の仕事して居れば、どこにゐても、いざといふ時には、神がつまみ上げて助けてやるから、御用第一ぞ。一日(ひとひ)に十万の人死ぬ時来たぞ、世界中のことざから、気を大きく持ちてゐて呉れよ。』(上つ巻 第三十四帖)

『いよいよ戦烈しくなりて喰ふものもなく何もなくなり、住むとこもなくなりたら行く所なくなるぞ。神の国から除かれた臣民と神の臣民と何ちらがえらいか、その時になりたらハッキリするぞ、その時になりて何うしたらよいかと申すことは神の臣民なら誰でも神が教えて手引張ってやるから、今から心配せずに神の御用なされよ、神の御用と申して自分の仕事をなまけてはならんぞ。何んな所にゐても、神がスッカリと助けてやるから、神の申すやうにして、今は戦して居りて呉れよ。てんし様 御心配なさらぬ様にするのが臣民のつとめぞ。神の臣民 言(こと)に気をつけよ、江戸に攻め来たぞ。』(富士の巻 第十帖)

火水伝文参照。

「 よう戻りて下された。永きご苦労の旅でありたが、神、よくよく汝の元つ光輝知りておる。神、汝が可愛いのじゃ。もう離れんで下されよ。神頼むぞ。
 こ度このフミこの時出すは、汝等早うスミキリて神ごころに戻るを促すがためなるぞ。こ度の大変、身魂磨かれ居れば、スミキリて神ごころ近くありせば何処に居ろうが、何が起ころうがご心配まったくご無用なるを知りて欲しいからぞ。」

Posted on 2016/01/24 Sun. 09:11 [edit]

category: まわりうた

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まわりうた 

なかきよと かみのうそみよ
  むこのもの こむよみそうの みかとよきかな

(永き代と 神の鷽見よ 無辜の者 来む世未曾有の 帝良きかな)

解説

鷽(うそ)は「スズメ目アトリ科の鳥。スズメより少し大きい。頭は黒,背は青灰色。腹は灰色。雄のほおはバラ色。ヨーロッパ・アジア北東部に分布。日本では本州中部以北で繁殖し,冬は暖地に渡るものが多い。口笛を吹くように鳴き,よく人になれる。うそひめ。ことひき鳥。」、無辜(むこ)は「罪のないこと。また,その者。」、来む世(こむよ)は「死後に、生まれかわって住む世。らいせ。」、未曾有は「今まで一度もなかったこと。きわめて珍しいこと。みぞうう。」、帝は「天子・天皇の尊称。また,その位。」「国家。天皇が治める国。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

天満宮には鷽替え(うそかえ)という神事があるそうな。鷽(ウソ)が嘘(うそ)に通じることから、前年にあった災厄・凶事などを嘘とし、本年は吉となることを祈念して行われる。また鷽は天神様の使いとされる。

また未曾有の語源は、奇跡の意味のサンスクリット語の「adbfuta」で「未だ曾(かつ)て有らざる」の意味。本来はすばらしいことを形容し、めでたいことを修飾する言葉であった。

歌の意訳としては、永遠の時間から見た視点と神の使いである鷽、即ち誠心を見よ。その誠心に照らし合わせて罪が無いものは、来世には天神様が治める国の臣民として晴れて生まれ変わることができるだろう、といったもの。

死後が無く神様も居ないならば、どれだけ悪事を働いても関係ないし、嘘も云ったもの勝ちで自分が有利になるが、逆に死後があり神様が居るという視点に立てば、自分のした報いは必ず受けるので、結果神様の心に叶わない生き方をしていると来世には神様が守ってくれる世界にいけませんよ、ということ。

……と、書くと、ふーんそうなんだ、ぐらいに思ってしまうかもしれないが、大事なのは「未曾有の 帝」の所。未だかつて誰も見たことのない天の王、天の神様の治める国に行けるかどうかの大事な大事な瀬戸際に今立っているということだ。

下記日月神示にある通り、本当の天照大神はまだ現れておらず、これから出て来る。

『岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。~後略~。』(碧玉の巻 第十帖)

なので今の今から、自らの中にある誠心を中心に据えて、自分の言葉、思い、行いを正していくのが一番だ、ということです。

火水伝文参照。

「 これよりはくどくど申す事、多くあるも、そは汝等皆々こ度を越すに少しでも易き様、量りて申す事なれば、ス直について参るが善いぞ。きつき事も度々に申さねばならぬ由、怒らず、今今に許し置かれて下されよ。
 汝等が、幾転生再生に渡りてご苦労致し来たりたは、唯ただ、汝等の不調和を調和に和する真ハタラキを顕すがためであるぞ。マコト、マコトの神真釣りに帰一するがためじゃ。元つマコトに神真釣る、成り鳴る響きを鳴り顕すがためでありたを今今に知り置かれよ。この地にミロクを顕ずるが汝の天命にござるのぞ。
 【神真釣り】なるは初め無き始めよりオワリ無き終わり迄、無限絶対力徳を、備わしめある尊きマコト力徳の、御ハタラキを称し奉りてあるのぞ。汝等の宗教におきてもマツリ、マツリ言うは数多あるが、マコト神真釣りを開き立てたるところは今に無いのぞ。この方が今に無い申すは、殊にこ度の事に関わりて始源よりの【真釣り】と『智恵』と《快欲》の因縁を、【スメラ】と『ユダヤ』と《逆十字》の因縁を、タテワケ解かりて取り開きたるところが無かりたと申して居るのぞ。幾許かのマコトの者が【真釣り】を取りたに過ぎぬ程の深きご経綸でありたのじゃ。こ度の【神真釣り】は最期のご経綸でござるから、この宇宙創りた元つ神でなくれば知らぬ事もありた言うは解かるであろうが。何事も時節いうものがありて、致し方無く秘めたるもありたなれど、今今の時申すは既に実地に入りて久しくある由、残されし汝等お一人お一人に【マコト真釣る】を急ぎ取り戻しもらうには、汝等の今までの心の持ち様を今今に、綺麗にさらりと捨てなさる赤き心の無かりせば適わぬ事と覚悟めされよ。足元にいよいよ残念が来て居るぞよ。
 こ度はいと易くお伝え致すためのご苦労なれど、マコト真釣るをアタマにて取るるは適わぬ事なれば、日々、三真釣り持ち行きて行に結ぶをやかましく、くどくどうるさく申し行くも、残る時節を鑑みて直しの利かぬ神真釣り。万古末代に一度の事であるから申すのぞ。辛抱第一に、なさるが散らぬ、梅の花じゃ」

「 口受けて心動くのぞ、心動きて行成るのぞ。【霊主心従体属】であるぞ。【口・心・行】のタテワケも出来て無くれば、口の御座に火の座されるマコト、マコトの神真釣る、マコト一如のハタラキも、成すは適わぬ事になるぞ。そのままにありては汝等の歩み行く所、段々狭く成りてしもうて、しまいには足場まで無う成るやも知れんぞ。そは汝等の足場申すが『あやま知』土台に作りあるが由なるぞ。『あやま知』の響き今今は、タテカエの末期であるぞ。どんどん暴かれ消え行きて居るのが解からんか。何時までも『あやま知』で作りし、土台に立ちて居りては落ち行くだけでござろうが。三真釣る行いがマコトの土台ぞ。鳴り出す響きがマコトの足場じゃ。【足場】早う創れ申すこと解かりて下されよ。
 【足場】は【ア】じゃぞ。コトの初めであるぞ。言魂であるぞ。鳴り成る響きであるぞ。三真釣り持ち行かねば、マコトの響き出すは難いぞ。三真釣り持ち行くその事が【足場】のタテカエ、タテナオシ、同時に叶える事になるのじゃぞ。マコトの響き、いずる様に成りて初めて、神のお宮と鳴りて参るのじゃ。神のお宮が【足場】でござる。神社の事にては無いぞ。汝ご自身の事にてあるぞ。この世の事は汝ご自身が変わらねば、何一つ変わりはせんのじゃ。今世に残りて居る【足場】、一厘にござるぞ。九分九厘ウソざ申す事、汝、存じて居りたかや。
 今世申すは何でも九分九厘対一厘であるぞ。何事も『あやま知』含みて成るものは、精一杯鳴りたところで、九分九厘にて仕舞いであるぞ。どうあがきても十【カミ】には鳴れぬ魔釣り道じゃ。小さき事どもから大き事ども迄、そうなりて居るのじゃぞ。身欲を基の台と成す『あやま知』病みたる母体から、産まれ鳴りたる事どもは、汝ご一人の思いから世界を統べる企み迄、総ての総てが九分九厘で引っ繰り返るぞ。もはや悪の芽切りたから新たな悪は育たぬぞ。芽吹いた先から滅んで行くがさだめであるよ。今今に悪に見ゆるは、悪を使うて悪払うこ度に使う道具なれば、まだまだ悪の世が続く思いて居ると、怪我をする伝えあろうがな。これからは悪と悪の共食いになりて参りて、悪神も苦しくあるから暴れる程に益々危うき世となりて参るから、汝等は巻き込まれん様に気を付けて下されよ。メグリ多く持ちあると巻き込まれてしもう由、早う自ら清まりてメグリ払いて下され申し参りたのじゃ。自らに厳しく三真釣り持ち行くが急ける事にてござるぞ。
 人民様の真中にありても同じ事が起こりて居るのじゃ。汝、未だ気付かず。なれど汝等は宇宙コトワリのに似素型にてある。なれば今今の神経綸の御ハタラキ、そっくりそのまま、汝等の真中にても既にハタラキあるを知りて下されよ。汝等の真中に残りありた一厘のマコト、元つ大神のお出ましに呼応致して、汝の真中を占拠する身欲を基の台と成す、九分九厘の『あやま知』を自ら払わんと鳴り響きて居るのじゃ。一厘対九分九厘の戦でござるぞ。汝が早う気が付きて、孤立無援で戦する、汝の真中の一厘に、三真釣る行にてマコト出し、透け切る心に火を立てて、真中と一如に共鳴れば、勝てる戦にあるなれど、汝のメグリ必ず暴れるから、一厘のマコト余程しかりご守護なさなば危ういぞ。この方は全く心配ござらぬが、汝等はこ度は自らが清まりて、マコトの少しなりと鳴り出される様に成りて下さらねば、この方も手を貸す事は出来ぬのぞ。こ度は汝等お一人お一人が、自ら三真釣り持ち行き少しでも、清まりマコトを出す事が、こ度の仕組みの要にて、外すは適わぬ事にてあるのじゃ。こをどうありても解かりて下されよ。三歳苦難のタテカエ申すは、神々含む汝等を、一挙に一度に清める事にてござるのぞ。悪を使うて悪を払うお仕組みなれば、そがために九分九厘までは悪神に、勝ちを持たして上ぐるのじゃ。この方にとりてはこ程楽な事も無いなれど、それでは残る人民殆どないから、くどうくどう申して居るのじゃぞ。この方は人民様の酷きザマ見とう無いのじゃ。この方も辛いのぞ。神、頼むぞ。三歳苦難のタテカエ迄に少しなりともマコト磨きて下されよ。マコト三真釣り持ち来たりて、マコトの響き鳴りてる者は、正神真神のご一統がご守護に回りて汝を支えるから、どんな事がありても起こりても、何のご心配も無いぞ。安心致して見て居るが善いぞ。
 何かに付け三真釣り持ち行く申すは、口と心と行いを、少しも違えず行に結ぶことでござるから、【違えず行に結ぶこと】だけを念頭に、身欲損得を捨てて行じて下されよ。考え深くあるよりは、真釣り深くありて下されよ。真釣りに響く考えるは【カミカエル】でござるから、善いのであるが、魔釣りに響く考えるは《我が得る》だけであるからぞ。《我が得る》だけでは、益々真釣りを外すだけではござらぬか。神のご用に使う程の者は、我があり過ぎても無さ過ぎても困るのであるから、真中と我、どちらが汝の主であるか、今今にハキリ、タテワケ致しおいて下されよ。汝等の真中と我、同じじゃ思い見なし居りては間違うぞ。」

「 ついて参りて居るか。人民様の囚われ居る『あやま知』申すは、マコト、オカシキ事にてあるから、無理に解かる必要は無いのじゃが、アタマで着て。アタマで食べて。アタマで住み居る。救い難き者共にハキリ『あやま知』の正体を伝えねばならぬ由、今暫しくどう申すも許して下されよ。ス直に元つ天地の大恩に感謝を致し、今までの有り様を心底より、詫びて改心出くる程の者なれば、こが事は解かり取れねでも善いぞ。難しく思いたら、解かるとこだけ取れば善いのじゃ。心配致すで無いぞ。この方の申したきは、マコトの改心を持ちて三真釣りなされて欲しくあるだけにござるから、【口と心と行い】を違えず一如に真釣ろうご苦労を致して下されば、それで善い。そが一番ぞ。この方もそが一等嬉しいのじゃ。ここまで良く良くついて参りた。もう後少しじゃ。ゆっくり、ゆっくりついて参られよ。この方がお手を引いて居る由、手を離すで無いぞ。解かりたな」

「 大変起こるそれまでに『あやま知』捨つるミチのれよ。大変起きしその後は『マコト』貫くミチのれよ。ふたミチ貫く大切は『口・心・行』とぞ知れぞかし。三真釣り合わぬミチのりは、神も仏も無きものと思う世界へ向かうなり。三真釣り合わせしミチのりは、意乗り(祈り)神来るミロク世へ生くる唯一のミチなるぞ。
 汝等これまで言うてる事、心に思うてる事、行うてる事皆ばらばらでありたであろうが。そは『あやま知』の世に合わせ生くるためでありたと申すも、最早ならぬぞ。生きて地獄、死にて地獄。益々その身さいなむだけぞ。後いくばくも無き年月、ちいとはご苦労して見なされよ。今この時一つのご苦労百の安らぎぞ。」

「 ヒノモトの人民様は、世界の父親なる責を忘れて久しくありたから、今今のザマと成り果てしもうてござるが、今、最期の時。子にマコトも示せず散りて果てるは末期の恥と知りて下されよ。今今に、汝の三真釣り持ち行くが、マコト鳴り成る響きにて、汝のお子にも世界にも、マコト知らしむ型と成る。解かりたか。
 ここまで申し伝え来たなれば、よもや不足は無かろうまい。今今の時節にありては、真釣りた響き無くれば、何事も成就致せんと、くどう申し参りたが。汝に一厘のマコト残りあるなれば、今を外して、何時に使うお積もりか。こ度は万古末代二度は無い、後にも先にも一度こっきりの大層でござるぞ。今までの世は、何あろう命ありての物だねでも良かりたのであるが、これからの世申すは、マコト無くては生きられぬ神代と成るのであるから、既にその響きに入って久しくあるから、マコト有りてのお命なるを、決して忘れんで下されよ。何に付け、今生にマコト懸けての花一厘、見事に咲かすか、果て散るか、今今、この場で決めて下され。ここ今に決めれぬ者はもういらぬ。お好きな様になさるが善かろうぞ。
 この方は死に急げ、申して居るので無いぞ。逆ぞ。汝等皆々、大事な神の御子様じゃ。タテナオシの尊き天命背負いて居られる、地の日月の神々様じゃ。魔釣りの魔やかす毒牙にて、尊きおイノチ散らさるるを、この方、見るに忍びぬ由、か程きつう申すのじゃ。何がありてもマコトを護持致せ申すは、汝のハラ内に末代倒れぬマコトを立て持て申して居るのぞ。マコトが大事じゃ申しても、ケガレ逆巻く悪き世に、ご一人でマコトを掲げて正面からぶつかられては、おイノチがいくらありても足りはせぬぞ。かたひじ張らずに、避けれるものはのらりくらり機転を利かして避けくれよ。汝がことさら荒立てねば、相手もそが以上の罪ケガレ、積まねで済むのじゃ。汝の思いは次にして相手善かれの心を持つも、神の心に適うマコトにてござるぞ。汝のマコトを貫くためにもそうして下されよ。そも修行の内でござるよ。解かりたな。無駄死にはして下さるなよ。神、頼みたぞ。
 汝等皆々、こ度のご用に使うてやりたいから申して居るのぞ。ハラにマコトの立ちてる者で無くればこ度使うは出来んのじゃ。曇り残りある程に、汝ご自身が苦しゅうて、とてもご用どころの騒ぎで無いぞ。由にくどう申して居るのじゃ。身魂相応に使う申しても、【足場】の【足場】の【足場】のアの字も出来て居らん様な身魂でありてはとても使うことは出来んから、早う三真釣り持ち行きて一成る花を二成る花へ、二成る花を三成る花へ、自らにマコト持ち行く情けを課して、堪えるご苦労に勝ち行く程に、楽にご用が勤まる様に成るのであるから、ご苦労を成された分、キッチリ見取って、楽に出来るだけのご用に回してやるぞ。マコトが一番でござるから、マコトを手にして下されよ。ケガレ多き身、思えど、残るマコトの一厘で何かの神のご用をさせくれと、ケガレたとは申せ、ひそかに思うがマコト日本の人民様じゃ。この方それを知りて居る由、汝が愛しいのじゃ。何かのご用に使うてくれ申す者、一人も余さず使うてやるから、残るマコトの花一輪、何かに付けて見事咲かすが汝の務めじゃ。一厘、磨き出されて見事、水晶と成して見なされ。この方しっかと見届け致して、アッバレご用に使うてやるから、ガンバリ成されよ。」

Posted on 2016/01/22 Fri. 10:54 [edit]

category: まわりうた

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まわりうた 

とひとひの しかいかみちに
  いまにくに まいにちみかい かしのひとひと

(飛び飛びの 死骸が道に 今に国 毎日未開 餓死の人々)

解説

飛び飛びは「あちこちに散在しているさま。」、死骸は「死んだ人の体。死体。しかばね。」、餓死は「飢えのために死ぬこと。飢餓死。うえじに。」の意味です。

余談

この歌は「デモンベインO,C,T,DISC-1」の中にある「宇宙・生命・神・悪魔」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

年明けから株が大暴落しているが、経済面でも世界中がひっちゃかめっちゃかになっている感が否めない。

下記参照。

『【twit】2016、いきなり6連続暴落。』(アセンション倶楽部さんより)
https://www.evernote.com/shard/s251/sh/e3bbb28f-3361-4734-ac34-901f7f297002/bf988b03355e65add481fcc708558a4f

『“預金封鎖”もうひとつのねらい』(NHK ONLINEより)
http://www9.nhk.or.jp/nw9/marugoto/2015/02/0216.html

敗戦直後の昭和21年2月16日に預金封鎖が行われたように、突如預金封鎖がされることもこれからは念頭に置かなければならない。そうなれば今の紙幣は紙くず同然となるので、何でも買えるこの今から【物】への転換をしておくべきであろう。

最終的にはどれだけ善徳を積んだかによって魂の位が決まることから、結局は【誠】が物を言うこととなるが、当面は金の価値はなくなって【物】が物を言う時期に差し掛かってきたものと思われる。

日月神示参照。

『この先どうしたらよいかと云ふ事は、世界中 金(かね)の草鞋(わらじ)で捜しても九九(ここ)より他 分からんのざから、改心して訪ねて御座れ。手取りてよき方に廻してやるぞ。神の国の政治は、もの活かす政治と申してあろが、もの活かせば、経済も政治も要らんぞ。金もの云ふ時から、物もの云ふ時来るぞ。誠もの云う時来るぞ。石もの云ふ時来るぞ。』(松の巻 第五帖)

『此の世の位もいざとなれば宝も富も勲章も役には立たんのざぞ、此の世去って、役に立つのは身魂の徳だけぞ、身についた芸は其の儘役立つぞ。人に知れぬ様に徳つめと申してあろがな、神の国に積む徳のみが光るのざぞ、マアカタの御用結構であったぞ、富士晴れるぞ、湖(うみ)晴れるぞ。』(日の出の巻 第二十三帖)

特に下記部分では食物の騒動が今に起こり、共喰いになる可能性が示されている。共喰いとは「○○を食い物にする」という表現があるように、他人を騙したり殺したりして、食料その他自分の利益になるものを奪うということかと思われる。

『日本には五穀、海のもの、野のもの、山のもの、皆人民の食ひて生くべき物、作らしてあるのぢゃぞ、日本人には肉類禁物ぢゃぞ。今に食物の騒動激しくなると申してあること忘れるなよ、今度は共喰となるから、共喰ならんから、今から心鍛へて食物大切にせよ、食物おろがむ所へ食物集まるのぢゃぞ。ひたすらに神にすがりてお詑びせよ、それより他に今は道なし。』(梅の巻 第十四帖)

『学の鼻高さん何も出来んことになるぞ、今に世界から正真(しょうまつ)が段々判り来て、あわてても間に合はんことになるぞ、今の内に神示よく肚に入れておけよ、この道には色々と神の試(ためし)あるから漫心するとすぐひっくり返るぞ、考へでは判らん、素直結構ぞ。日本には五穀、野菜、海、川、いくらも弥栄の食物あるぞ、人民の食物 間違へるでないぞ、食い過ぎるから足らんことになるのざぞ、いくら大切な、因縁の臣民でも仕組の邪魔になると取り替へるぞ、慢心取違ひ致すなよ、代へ身魂いくらでもあるぞ。学問の世はすみたぞ、学者は閉口するぞ、商売の世も済みたから商売人も閉口するぞ、力仕事は出来んし、共喰するより他に道ないと申す人民許りになるぞ、今迄とはさっぱり物事変るから今迄のやり方 考え方 変へて呉れよ、神示通りに行へば其の日その時から嬉し嬉しざぞ、此処は落した上にも落しておくから、世の中の偉い人には中々見当とれんから、身魂の因縁ある人には成程なあと直ぐ心で判るのぢゃぞ、九の花咲けば皆よくなるのぞ、九の花中々ぞ。』(空の巻 第十二帖)

『この神示は心通りにうつるのざぞ、思ひ違ふといくら神示読んでも違ふことになるぞ、心違ふと今度はどんなに偉い神でも人でも気の毒出来るぞ、この方クヤム事嫌いぞ。次の世となれば、これ迄の様に無理に働かなくても楽に暮せる嬉し嬉しの世となるのざが、臣民 今は人の手に握ってゐるものでもタタキ落して取る様になりてゐるのざから神も往生ざぞ、神は臣民楽にしてやりたいのに楽になれて、自分でした様に思ふて神をなきものにしたから今度の難儀となって来たのざぞ、其処にまだ気付かんか、キが元ざと申してあろがな、早う気付かんと間に合はんぞ。この神は従ふ者にはおだやかざが、さからふ者には鬼となるのざぞ。』(キの巻 第五帖)

『三千年の昔に返すと申してあらうがな。よい御用いたす身霊(みたま)ほど苦労さしてあるのぢゃ。他から見ては、わからんなれど、苦労に苦労さして、生き変り、死に変り、鍛へに鍛へてあるのぢゃぞ。肉体の苦労も霊の苦労も、どちらの苦労にも、まけん人民臣民でないと、眼先のことで、グレングレンと引繰りかへりて、あわてふためく様なことでは、どんな事あっても、びくともせん、ミタマでないと、御用六ヶ敷いぞ。こんどの苦の花は真理(ふじ)に咲くのみざぞ。不二に九(こ)の花咲くや媛(ひめ)まつれと申してあるが、九(こ)の花、おのもおのもの心の富士にも咲くのざぞ。九(こ)の花咲けば、此の世に出来んことないぞ。まことの@かかりぞ。この先もう建替出来んギリギリの今度の大建替ぢゃ。愈々の建替ざから、もとの神代よりも、も一つキの光輝く世とするのぢゃから、中々に大層ざぞ。人民 苦しからうが、先楽しみに御用見事つとめ上げて下されよ。二つづつある神様を一つにするのであるから、嘘偽(うそいつわり)ちっともならんのぢゃ。少しでも嘘偽あったら、曇りあったら、神の国に住めんことになるのざぞ。途中から出来た道では今度と云ふ今度は間に合はんのざぞ。根本からの道でないと、今度は根本からの建直しで末代続くのぢゃから間に合はん道理わかるであらうがな。われの国同士の戦 始まるのぢゃ。この戦、神は眼あけて見ておれんなれど、これも道筋ぢゃから、人民にも見て居られんのぢゃが、友喰ひと申して知らしてあらうが。この方等が天地自由にするのぢゃ。元のキの道にして、あたらしき、キの光の道つくるのぢゃ。あらたぬし、世にするのぢゃと申してあること愈々ざ、人民、臣民 勇んでやりて下され。神々様 守護神どの、勇め勇め。』(第十五巻 岩の巻 第二帖 @は原文では「渦巻き」の形)

そしてその時にどうすればいいかも神示で示されている。

『神の国は神の肉体ぞと申してあるが、いざとなれば、お土も、草も、木も、何でも人民の食物となる様に出来てゐるのざぞ。何でも肉体となるのざぞ。なるようにせんからならんのざぞ。それで外国の悪神が神の国が慾しくてならんのざ。神の国より広い肥えた国 幾らでもあるのに、神の国が欲しいは、誠の元の国、根の国、物のなる国、元の気の元の国、力の元の国、光の国、真中(まなか)の国であるからぞ、何も彼も、神の国に向って集まる様になってゐるのざぞ。神の昔の世は、そうなってゐたのざぞ。磁石も神の国に向く様になるぞ。北よくなるぞ。神の国おろがむ様になるのざぞ。どこからでもおろがめるのざぞ。おのづから頭さがるのざぞ。海の水がシメであるぞ。鳥居であるぞと申してあろうが、シメて神を押し込めてゐたのであるぞ。人民 知らず知らずに罪犯してゐたのざぞ。毎日、日日(ひにち)お詫(わび)せよと申してあらうが、シメて島国日本としてゐたのざぞ、よき世となったら、身体(からだ)も大きくなるぞ。命も長くなるぞ。今しばらくざから、辛抱してくれよ。食物心配するでないぞ。油断するでないぞ。皆の者喜ばせよ。その喜びは、喜事(よろこびごと)となって天地のキとなって、そなたに万倍となって返って来るのざぞ。よろこびいくらでも生まれるぞ。』(夜明けの巻 第二帖)

『この世はみな神のものざから臣民のものと云ふもの一つもないぞ、お土からとれた物、みな先づ神に供へよ、それを頂いて身魂を養ふ様になってゐるのに、神には献げずに、臣民ばかり喰べるから、いくら喰べても身魂ふとらぬのぞ、何でも神に供へてから喰べると身魂ふとるぞ。今の半分で足りるぞ、それが臣民の頂き方ぞ。』(上つ巻 第十七帖)

『空に変りたこと現はれたなれば地に変りたことがあると心得よ、いよいよとなりて来てゐるのざぞ。神は元の大神様に延ばせるだけ延ばして頂き、一人でも臣民助けたいのでお願ひしてゐるのざが、もうおことはり申す術(すべ)なくなりたぞ。玉串 神に供へるのは衣(ころも)供へることぞ、衣とは神の衣のことぞ、神の衣とは人の肉体のことぞ。臣民をささげることぞ、自分をささげることぞ、この道理分りたか。人に仕へるときも同じことぞ、人を神として仕へねばならんぞ、神として仕へると神となるのざから、もてなしの物出すときは、祓ひ清めて神に仕へると同様にして呉れよ、喰べ物 今の半分で足りると申してあるが、神に献げたものか、祓ひ清めて神に献げると同様にすれば半分で足りるのぞ、てんのゐへん気つけて居れよ。神くどう気つけて置くぞ。神世近づいたぞ。』(天つ巻 第十三帖)

『病、ひらくことも、運、ひらくことも、皆 己からぢゃと申してあろう。誰でも、何でもよくなるのが神の道、神の御心ぢゃ。親心ぢゃ。悪くなると云ふことないのぢゃ。迷ひが迷ひ生むぞ。もともと病も不運もない弥栄のみ、喜びのみぢゃ。神がよろこびぢゃから、その生んだもの皆よろこびであるぞ。この道理よくわきまえよ。毎日々々、太陽と共に、太陽について起き上がれよ。その日の仕事、与へられるぞ。仕事いのちと仕へまつれよ。朝寝するからチグハグとなるのぢゃ。不運となるのぢゃ、仕事なくなるのぢゃ。神について行くことが祈りであるぞ。よろこびであるぞ。食物、食べ過ぎるから病になるのぢゃ。不運となるのぢゃ。口から出るもの、入るもの気つけよ。いくさ起るのぢゃ。人間の病や、いくさばかりでない、国は国の、世界は世界の、山も川も海も、みな病となり、不運となってくるぞ。食べないで死ぬことないぞ。食べるから死ぬのぢゃぞ。 一椀をとって先づ神に供へよ。親にささげよ。子にささげよ。腹八分の二分はささげよ。食物こそは神から、親から与へられたものであるぞ。神にささげずにむさぶるからメグリつむのぢゃ。メグリが不運となり、病となるのぢゃぞ。運ひらくのも食物つつしめばよい。言つつしめばよい。腹十分食べてはこぼれる。運はつまってひらけん。この判りきったこと、何故に判らんのぢゃ。 ささげるからこそ頂けるのぢゃ。頂けたらささげると今の人民申してゐるが、それがウラハラと申すもの。衣類も家も土地も、みな神から頂いたのでないぞ。あづけられてゐるのであるぞ。人民に与へられてゐるものは食物だけぢゃ。日のめぐみ、月のめぐみ、地のめぐみだけぢゃぞ。その食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。病治るのぢゃ。人民ひぼしにはならん。心配無用。食物、今の半分で足りると申してあらうが。遠くて近いものヒフミの食べ方して見なされよ。運ひらけ、病治ってうれしうれしと輝くぞ。そんなこと位で、病治ったり、運ひらける位なら、人民はこんなに苦しまんと申すが、それが理屈と申すもの。理屈悪と申してあるもの。低い学に囚われたメクラ、ツンボと申すものぞ。 理屈すてよ。すててやって見なされ。みなみな気つかん理(ミチ)、気つかん病になってゐるぞ。ツキモノがたらふく食べてゐることに気づかんのか。食物節すればツキモノ改心するぞ。先づ百日をめあてに、百日過ぎたら一年を、三年つづけたら開運間違ひなし。病もなくなってうれしうれしとなるぞ。三年目、五年目、七年目ぞ、めでたいナア、めでたいナア。』(冬の巻 補帖)

『一二三(ひふみ)の食物(たべもの)に病無いと申してあろがな、一二三の食べ方は一二三唱(十七)へながら噛むのざぞ、四十七回噛んでから呑むのざぞ、これが一二三の食べ方頂き方ざぞ。神に供へてから此の一二三の食べ方すれば何んな病でも治るのざぞ、皆の者に広く知らしてやれよ。心の病は一二三唱へる事に依りて治り、肉体の病は四十七回噛む事に依りて治るのざぞ、心も身も分け隔て無いのであるが会得る様に申して聞かしてゐるのざぞ、取り違い致すでないぞ。日本の国は此の方の肉体と申してあろがな、何んな宝もかくしてあるのざぞ、神の御用なら、何時でも、何んなものでも与へるのざぞ、心大きく持ちてどしどしやりて呉れよ。集団(まどい)作るなと申せば、ばらばらでゐるが裏には裏あると申してあろが、心配(こころくば)れよ。』(日の出の巻 第八帖)

『天の岩戸開いて地の岩戸開きにかかりてゐるのざぞ、我一(いち)力では何事も成就せんぞ、手引き合ってやりて下されと申してあること忘れるでないぞ。霊肉共に岩戸開くのであるから、実地の大峠の愈々となったらもう堪忍して呉れと何んな臣民も申すぞ、人民には実地に目に物見せねば得心せぬし、実地に見せてからでは助かる臣民少ないし神も閉口ぞ。ひどい所程 身魂に借銭あるのぢゃぞ、身魂(みたま)の悪き事してゐる国程 厳しき戒(いまし)め致すのであるぞ。五と五と申してあるが五と五では力出ぬし、四と六、六と四、三と七、七と三ではカス出るしカス出さねば力出んし、それで神は掃除許りしてゐるのざぞ、神の臣民それで神洲清潔する民であるぞ、キが元と申してあるが、キが餓死(うえじに)すると肉体餓死するぞ、キ息吹けば肉息吹くぞ、神の子は神のキ頂いてゐるのざから食ふ物無くなっても死にはせんぞ、キ大きく持てよと申してあるが、キは幾らでも大きく結構に自由になる結構な神のキざぞ。臣民 利巧(りこう)なくなれば神のキ入るぞ、神の息通ふぞ、凝りかたまると凝りになって動き取れんから苦しいのざぞ、馬鹿正直ならんと申してあろがな、三千年余りで身魂の改め致して因縁だけの事は否でも応でも致さすのであるから、今度の御用は此の神示読まいでは三千世界のことであるから、何処(ドコ)探しても人民の力では見当取れんと申してあろがな、何処探しても判りはせんのざぞ、人民の頭で幾ら考へても智しぼっても学ありても判らんのぢゃ。ちょこら判る様な仕組なら こんなに苦労致さんぞ、神々様さえ判らん仕組と知らしてあろが、何より改心第一ぞと気付けてあろが、神示肚にはいれば未来(さき)見え透くのざぞ。此の地(つち)も月と同じであるから、人民の心 其の儘に写るのであるから、人民の心悪くなれば悪くなるのざぞ、善くなれば善くなるのぞ。理屈 悪と申してあろが、悪の終りは共食ぢゃ、共食ひして共倒れ、理屈が理屈と悪が悪と共倒れになるのが神の仕組ぢゃ、と判ってゐながら何うにもならん事に今に世界がなって来るのざ、逆に逆にと出て来るのぢゃ、何故そうなって来るか判らんのか、神示読めよ。オロシヤの悪神の仕組 人民には一人も判ってゐないのざぞ。神にはよう判っての今度の仕組であるから仕上げ見て下されよ、此の方に任せておきなされ、一切心配なく此の方の申す様にしておりて見なされ、大舟に乗って居なされ、光の岸に見事つけて喜ばしてやるぞ、何処に居ても助けてやるぞ。雨の神、風の神、地震の神、荒の神、岩の神様に祈りなされよ、世の元からの生き通しの生神様 拝(おろ)がみなされよ。日月の民を練りに練り大和魂の種にするのであるぞ、日月の民とは日本人許りでないぞ、大和魂とは神の魂ぞ、大和の魂ぞ、まつりの魂ぞ、取違ひせん様に気付けおくぞ。でかけのみなとは九九(ココ)ぢゃぞ、皆に知らしてやりて下されよ、幾ら道進んでゐても後戻りぢゃ、此の神示が出発点ぞ、出直して神示から出て下されよ、我張りてやる気ならやりて見よれ、九分九分九厘で鼻ポキンぞ、泣き泣き恥ずかしい思いしてお出直しで御座るから気付けてゐるのぢゃ、足あげて顔の色変へる時近付いたぞ。世建替へて広き光の世と致すのぢゃ、光の世とは光なき世であるぞ、此の方の元へ引寄せて目の前に楽な道と辛い道と作ってあるのぢゃ、気付けてゐて下されよ、何(ど)ちら行くつもりぢゃ。』(雨の巻 第十帖)

『土のまんぢうと申してあろう、土が食べられると申してあろう、土から人民を生んだと申してあろう、ウシトラコンジンの肉体は日本の土ざと知らしてあろう、土に生きよと申してあろう、地は血(智)であるぞ、素盞鳴命様であるぞ、その土が生長して果ての果てに皮をぬぐ、それが地変であるぞ。』(星座の巻 第十七帖)

『今のうちに草木の根や葉を日に干して貯へておけよ、保持(うけもち)の神様お怒りざから、九十四は五分位しか食べ物とれんから、その積りで用意して置いて呉れよ。神は気もない時から知らして置くから、この神示よく読んで居れよ。一握りの米に泣くことあると知らしてあろがな、米ばかりでないぞ、何もかも臣民もなくなるところまで行かねばならんのぞ、臣民ばかりでないぞ、神々様さへ今度は無くなる方あるぞ。臣民と云ふものは目の先ばかりより見えんから、呑気なものであるが、いざとなりての改心は間に合はんから、くどう気つけてあるのぞ。日本ばかりでないぞ、世界中はおろか三千世界の大洗濯と申してあろうがな、神にすがりて神の申す通りにするより他には道ないぞ、それで神々様を祀りて上の御方からも下々からも朝に夕に言霊がこの国に満つ世になりたら神の力現はすのぞ。江戸に先ず神まつれと、くどう申してあることよく分かるであろがな。』(富士の巻 第二十帖)

『親と子であるから、臣民は可愛いから旅の苦をさしてあるのに、苦に負けてよくもここまでおちぶれて仕まうたな。鼠でも三日先のことを知るのに、臣民は一寸先さへ分らぬほどに、よう曇りなされたな、それでも神の国の臣民、天道人を殺さず、食べ物がなくなっても死にはせぬ、ほんのしばらくぞ。木の根でも食うて居れ。闇のあとには夜明け来る。神は見通しざから、心配するな。手柄は千倍万倍にして返すから、人に知れたら帳引きとなるから、人に知れんやうに、人のため国のため働けよ、それがまことの神の神民ぞ。酒と煙草も勝手に作って暮らせる善き世になる、それまで我慢出来ない臣民 沢山ある。早く◎(モト)の神の申す通りにせねば、世界を泥の海にせねばならぬから、早うモト◎心になりて呉れよ、神頼むぞよ。盲が盲を手を引いて何処へ行く積りやら、気のついた人から、まことの神の入れものになりて呉れよ、悪の楽しみは先に行くほど苦しくなる、神のやり方は先に行くほどだんだんよくなるから、初めは辛いなれど、さきを楽しみに辛抱して呉れよ。配給は配給、統制は統制のやり方、神のやり方は日の光、臣民ばかりでなく、草木も喜ぶやり方ぞ、日の光は神のこころ、稜威ぞ。人の知恵で一つでも善き事したか、何もかも出来損なひばかり、にっちもさっちもならんことにしてゐて、まだ気がつかん、盲には困る困る。救はねばならず、助かる臣民はなく、泥海にするは易いなれど、それでは元の神様にすまず、これだけにこと分けて知らしてあるに、きかねばまだまだ痛い目をみせねばならん。冬の先が春とは限らんぞ。◎の国を八つに切って殺す悪の計画、◎の国にも外国の臣が居り、外国にも神の子がゐる。岩戸が明けたら一度に分かる。』(上つ巻 第二帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)

『大層が大層でなくなる道が神の道ざぞ、この道 中行く道、神示読みて早うガテン結構ぞ。行い正しく口静かにしたら神の仕組分るぞ、因縁ある身魂が、人民では知らん結構を致すぞ。神示読んで、どんな人が来てもその人々に当る所読みて聞かすが一等ざぞ。一分と九分との戦ひぢゃ、皆九分が強いと思ふてゐるが、今度の仕組、アフンの仕組ぞ。早呑込 大怪我の基と申すのは我が心通りに写るからぞ。くさい物喰ふ時来たぞ、ほんの暫くぞ、我慢よくよくせ、よくなるぞ、分れの集団の一つとして宗教も作れよ、他の宗教とは違ふヤリ方でないと成就せんぞ。大奥山はその儘ざぞ。別れざぞ、この宗教には教祖は要らんぞ、教祖は神示ぢゃ、神示がアと申してあろがな、ヤ、ワ、ヤ○、ワ○要るぞ、なせばなる、なさねば後悔ぢゃぞ。慎ましうして神に供へてから頂けば日本は日本で食べて行けるのざぞ、理屈に邪魔されて有る物も無くして食へなくなるのは悪の仕組ぢゃ、つ千の金神様を金(かね)の神様と申せよ。』(空の巻 第十一帖 「ヤ○」「ワ○」はそれぞれ「○の中にヤ・ワ」の記号)

主なものを箇条書きしてみた。

・神に供えてから頂けば食物は半分で足りる
・ひふみ祝詞(ひふみ よいむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおえ にさりへて のますあせゑほれけ)を唱えつつ47回噛んでから食べる
・いざとなれば草も木も土も食べられる
・キが元なので何が起きても気を大きく持つ

要するに、食物は神様から頂いたものと思ってよく噛んで食べて、慎ましくしていれば、何だかんだでやっていけるということだろう。

目下の状況を見てみれば、仕舞いには食物が手に入らなくなり、最悪の場合、道端で餓死した人々が転がっているという状況に変わっていくことが考えられる。暮らしも未開人のような状態となり、頼れるものは神だけとなるので、今からお蔭を落とさぬように日々を過ごすのが吉だろう。

日月神示

『元の神代に返すといふのは、たとへでないぞ。穴の中に住まなならんこと出来るぞ、生(なま)の物食うて暮らさなならんし、臣民 取り違ひばかりしてゐるぞ、何もかも一旦は天地へお引き上げぞ、われの慾ばかり言ってゐると大変が出来るぞ。』(上つ巻 第三十六帖)

『天地引くるめて大建替いたすのぢゃ。天地のビックリ箱とはそのことざぞ。間違ひ出来んうちに、間違はん様 気つけて下されよ。出来てからは、いくら泣いても詫びしても後へは返せん。この方でもどうにもならん元のキの道ぢゃぞ。くどう気付けておくぞ。これまでは道はいくらもあったのぢゃが、これからの道は善一筋ざぞ。インチキ神の前には通らんのざぞ、心せよと知らしてあらうがな。三千年で世一キリといたすのぢゃぞ。まことの集まりが神徳ぢゃ、神徳つむと、世界中 見えすくのざぞ。神だけではこの世の事は成就せんと申してあらうがな。神がうつりて成就さすと申してあろうがな。こんなこと これまでにはなかりたぞ。』(岩の巻 第三帖)

『悪の衣(ころも)着せられて節分に押込められし神々様御出でましぞ。此の節分からは愈々神の規則通りになるのざから気つけておくぞ、容赦(ようしゃ)は無いのざぞ、それまでに型さしておくぞ、御苦労なれど型してくれよ。ヤの身魂 御苦労、石なぜもの言はぬのぞ、愈々となりてゐるではないか、春になりたら何んな事あるか分らんから今年中に心の洗濯せよ、身辺(みのまわり)洗濯せよ、神の規則 臣民には堪(こば)れんことあるも知れんぞ、気つけておくぞ。』(日の出の巻 第十六帖)

『山の谷まで曇りてゐるぞ、曇りた所へ火の雨降るぞ、曇りた所には神は住めんぞ、神なき所 愈々ざぞ。ひどい事あるぞ、神がするのでないぞ、臣民 自分でするのざぞ。一日一日のばして改心さすやうに致したなれど、一日延ばせば千日練り直さなならんから、神は愈々鬼となって規則通りにビシビシと埒(らち)あけるぞ、もう待たれんぞ、何処から何が出て来るか知れんぞと申してあろがな。花火に火つけよ、日本の国の乱れて来たのは来られんものを来らしたからぞ。三千年の昔に返すぞ、三万年の昔に返すぞ、三十万年の昔に返さなならんかも知れんぞ。家内和合出来ん様では、この道の取次とは申されんぞ、和が元ざと申してあろが、和合出来ぬのはトラとシシぞ、どちらにもメグリあるからざぞ、昼も夜もないのざぞ、坊主 坊主くさくてはならんぞ。』(キの巻 第十帖)

『富士は晴れたり世界晴れ。三千世界一度に晴れるのざぞ。世の元の一粒種の世となったぞ。松の御代となったぞ。世界ぢうに揺すりて眼覚ますぞ。三千年の昔に返すぞ。煎り豆 花咲くぞ。上下ひっくり返るぞ。水も洩らさん仕組ぞ。』(松の巻 第一帖)

『世界中の臣民はみなこの方の臣民であるから、殊に可愛い子には旅させねばならぬから、どんなことあっても神の子ざから、神疑はぬ様になされよ、神疑ふと気の毒出来るぞ。いよいよとなりたら、どこの国の臣民といふことないぞ、大神様の掟通りにせねばならんから、可愛い子ぢゃとて容赦出来んから、気つけてゐるのざぞ、大難を小難にまつりかへたいと思へども、今のやり方は、まるで逆様ざから、何うにもならんから、いつ気の毒出来ても知らんぞよ。外国から早く分りて、外国にこの方祀ると申す臣民 沢山出来る様になりて来るぞ。それでは神の国の臣民 申し訳ないであろがな、山にも川にも海にもまつれと申してあるのは、神の国の山川ばかりではないぞ、この方 世界の神ぞと申してあろがな。裸になりた人から、その時から善の方にまわしてやると申してあるが、裸にならねば、なるやうにして見せるぞ、いよいよとなりたら苦しいから今の内ざと申してあるのぞ。凡てをてんし様に献げよと申すこと、日本の臣民ばかりでないぞ、世界中の臣民みな てんし様に捧げなならんのざぞ。』(富士の巻 第二十五帖)

『ひかる誠の行をさしたら、皆 逃げて了ふから、ここまで甘くして引張って来たなれど、もう甘く出来んから、これからはキチリキチリと神の規則通りに行ふから、御手柄結構に、褌しめて下されよ。この世は神の国の移しであるのに、幽界から移りて来たものの自由にせられて、今の体裁、この世は幽界同様になってゐるぞ。地は九二(クニ)のやり方せねば治まらん。早う気付いた人民から、救ひの舟を出して下されよ。これと信じたらまかせ切れよ。損もよいぞ。病気もよいぞ。怪我もよいぞ。それによって めぐり取っていただくのぞ。めぐりなくなれば日本晴れぞ。今がその借銭済しぞ。世界のめぐり大きいぞ。真理は霊、芸術は体であるぞ。正し芸術から神の理(ミチ)に入るのもよいぞ。説くのもよいぞ。芸術の行き詰りは真理がないからぞ。芸術は調和。七つの花が八つに咲くぞ。』(黄金の巻 第八十三帖)

『天地まぜまぜになったら、まだまだなるのである。彼れ是れ、何が何だか判らんことになると申してあらうが。早う神示肚に入れておけよ。己に逆ふは神に逆ふものぞ。己拝むは神拝むもの。キリキリ舞、目の前。』(黄金の巻 第六帖)

『四ツ足を食ってはならん、共喰となるぞ、草木から動物生れると申してあろう、神民の食物は五穀野菜の類(たぐい)であるぞ。今の人民の申す善も悪も一度にひらいて、パッと咲き出るのが、次の世の新しき世の有様であるぞ、取違いせぬように、悪と申しても魔ではないぞ、アクであるぞ。大峠の最中になったら、キリキリまひして、助けてくれと押しよせるなれど、その時では間に合わん、逆立してお詫びに来ても、どうすることも出来ん、皆 己の心であるからぞ、今の内に改心結構、神の申す言葉が判らぬならば、天地のあり方、天地の在り方による動きをよく見極めて下されよ、納得の行くように致して見せてあるでないか。』(碧玉の巻 第八帖)

『誰の苦労で此の世出来てゐると思ふてゐるのぢゃ。此の世を我がもの顔にして御座るが、守護神よ、世を盗みた世であるくらゐ、わかってゐるであらうがな。早う元にかへして改心いたされよ、神国(かみくに)の王は天地の王ざぞ、外国(とつくに)の王は人の王ざぞ。人の王では長う続かんのぢゃ。外国にはまだまだ、きびしいことバタバタに出て来るぞ、日本にもどんどん出て来るぞ。云はねばならんことあるぞ。出づ道は二つ、一はひらく道、二は極む道、道出で世に満つ、ゑらぎゑらぐ世ぞ。前に書かしてあること、よく読めばわかるのぢゃ、御身(みみ)に利(き)かして御身でかかしたもの二曰(じし)んの巻といたせよ。いよいよア@九(あらく)なって来るのざぞ。因縁みたま結構となるのざぞ。』(岩の巻 第十一帖 @は原文では「渦巻き」の形)

『神の国には神も人も無いのざぞ。忠も孝もないのざぞ。神は人であるぞ。山であるぞ。川であるぞ。めである。野である。草である。木である。動物であるぞ。為すこと皆忠となり孝とながれるのぞ。死も無く生も無いのぞ。神心あるのみぞ。やがては降らん雨霰(あめあられ)、役員 気つけて呉れよ。神の用意は出来てゐるのざぞ。何事からでも早よう始めて呉れよ。神の心に叶ふものは どしどしとらち明くぞ。』(日月の巻 第五帖)

『桜咲き神の御国は明けそめにけり。十月になったらぼつぼつ会得るぞと申してあろがな。叩(はたき)かけてばたばたと叩く処もあるぞ、箒(ほうき)で掃く処もあるぞ、雑巾かけしたり水流す処もあるのざぞ、掃除始まったらばたばたに埒(らち)つくと申してあろがな、めぐりだけの事は、今度は何うしても借銭無しにするのざぞ、花咲く人もあるぞ、花散る人もあるぞ。あめのひつ九のかミの御神名書かすぞ、それを皆の者に分けてやれよ。聴き度い事はサニワで聞けよ、何んなことでも聞かしてやると申してあろがな、神せけるぞ。火吹くぞ。火降るぞ。』(日の出の巻 第十帖)

火水伝文

「 遅し。神、既に動きたぞ。浮かれ暮らす人民様、この度のこと取り違えおれば末期の不覚となりぬるぞ。しっかと世情見ていて下されよ。現界の荒らぶる現象いよいよ混乱狂気となりておろうが。正邪、背徳、驕奢の膿、様々なる形なさして世に噴出させておろうが。これ予兆ぞ。既に世界はウラにて一つになりたぞよ。真中を過ぎし不測の時、世界の悪勢一挙に入り来たり全土を一つと七つに分け占めて修羅の地獄と化さしめん。これ、こたび始めの神仕組なり。これ日本の事ぞ、マコトぞ。仕組ありて、真先に日本払い清めせなならんからぞ。国、土台から破壊され。ケガレし権力潰れしも外なるケガレ逆巻きて内なるケガレ払うのぞ。私有財産壊滅し、衣食住にも窮迫し、国民同士の戦ある。人と獣との分かれ目ぞ。ケガレしものの消ゆるまで、三歳苦難の道行きぞ。こは神仕組み神ハタラキなれど、汝等人民様の招きしことなるぞ。汝の欲心甘やかし来たりたであろうが。しただけのことは拒めぬぞ。神恨むでないぞ。」

「 解かりたでござろうが。汝等は何時までも、身欲を基のイサカイや汝病(なや)みをぐじぐじと、こねくり回し居る時にてはなかろうが。喜怒哀楽激しきはハラの座りて無きが証ぞ。早う三真釣り持ち行きて心の掃除をなしくれよ。後数年で総ての『過つカタチ』使え無うなりて来るのぞ。汝等を取り巻くカタチ九分九厘『過つカタチ』であるぞ。仕舞いには真釣りたマコトのカタチも、総ては一旦引き上げじゃ。カタチに総てを魔釣ろわせ、自らは何一つ真釣ろい産むが出くなくなりた汝等は、いかでこれより生くるのぞ。真っぱだかであるぞよ。衣食住ある思うなよ。穴に住まねばならぬぞよ。生もの食べねばならぬぞよ。マコトぞ。その日その日生くるがやっとに鳴りて来るのじゃ。頼れるものは、汝の真中唯一つ。それまでに真中スミキリ無くれば、透みて無い分、お苦しみぞ。こ度は真中透みて無くれば、いかな神に頼む申せど、この方が一切許さぬのぞ。真中スミキルがこ度のお仕組みの仕上げにござるからじゃ。汝等、地の日月の神成る身なれば余りに酷きザマとなる前に、見事、汝の真中磨いてござれよ。自ら磨くがこ度の要じゃ。ミロク明けますその時は、この方と共にハタラク申したではござらぬか。」

Posted on 2016/01/18 Mon. 06:26 [edit]

category: まわりうた

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18

まわりうた ~俳句バージョン~ 

ゆふのまや たのしきしのた やまのふゆ

(夕の間や 楽しき信田 山の冬)

解説

夕(ゆう)は「日が暮れて夜になろうとする時。ゆうぐれ。ゆうがた。」、やは「ある場面を詠嘆の意をこめて示す。」、信田は「大阪府泉北郡の旧村(現在和泉市)。付近には古墳が多い。信太の森がある。」、の意味です。

余談

信田山に青少年を対象とした野外活動センターがあるのだが、小学生のころそのプログラムに参加したことがあって、とても楽しかったのを覚えている。この歌はその時の記憶を遡りながら書いたものです。

もうあまり覚えていないが、いろんな学年の子が混ざっていて、一緒に野外炊飯したり、オリエンテーションをした。ある時、お世話をしてくれるお兄さんお姉さんに、周りの誰かが「給料なんぼなん?」みたいなことを聞いたら、タダでやっていると答えていて、当時はなぜタダでやるのか理解不能だった。(笑) おそらくボランティアで来ていたのだと思う。

Posted on 2016/01/15 Fri. 11:35 [edit]

category: まわりうた ~俳句バージョン~

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15

まわりうた 

よみのへし ことたまもとの
  そいしめし いそのともまた とこしへのみよ

(読み宣べし 言霊元の 素意示し 五十の音も又 常しへの御代)

解説

宣べるは「考え・意見などを口に出して言う。」「文章で表す。」、言霊は「古代日本で、言葉に宿っていると信じられていた不思議な力。発した言葉どおりの結果を現す力があるとされた。」、素意(そい)は「前々から抱いている考え・願い。」、五十(いそ)は「ごじゅう。また,数の多いことをいう。」、音(と)は「おと。ひびき。こえ。」、も又(もまた)は「もはや。もうすでに。」、常しえ(とこしえ)は「いつまでも続くこと。また、そのさま。永遠。永久。とこしなえ。」、御代は「天皇・皇帝・王などの治世を敬っていう語。ごよ。」

余談

この歌は「デモンベインO,C,T,DISC-2」の中にある「神の摂理に挑む者達-魔を断つ剣は未だ折れず」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2016/01/14 Thu. 13:26 [edit]

category: まわりうた

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14

まわりうた 

なかきよの きしんはうこき
  たまさうさ またきこうはん しきのよきかな

(永き代の 鬼神は動き 魂捜査 全き公判 死期の良きかな)

解説

鬼神(きしん)は「荒々しく恐ろしい神。」「人の目に見えず,超人的な力をもつ存在。」「鬼。」「天地万物の霊魂。死者の霊魂と天地の神霊。」、魂(たま)は「たましい。」、全い(またい)は「完全である。欠けていない。」、公判は「裁判所が一般に公開した法廷で,関係者の立ち会いのもとに刑事事件の審理を行うこと。」、死期は「死ぬ時。命の終わる時。しご。」「命を投げ出すべき時。しご。」の意味です。

余談

この歌は、「大神 オリジナル・サウンドトラック」にある「妖怪退治~双魔神 モシレチク コタネチク退治~妖魔王キュウビ退治~ヤマタノオロチ復活~ヤマタノオロチ退治 其の一~ヤマタノオロチ退治 其の二」を聴きながら、下記ブログの内容をモチーフに書いた歌です。

『捜査開始』(「マトメノフミ」さん)
http://ameblo.jp/meme567/entry-12115883171.html

雑感

上記ブログによれば「おにあけ」ということで、牛頭虎パンツの鬼達が勢揃いしているとある。

年明けから世の中の流れがガラリと変った感じを受けるが、立て替え立て直しの本番は節分からの助走期間を経て、春ごろからかと思われる。これからの目を覆わんばかりの惨状を思うと胸が詰まる思いだが、これも通らなければならない道であろう。いよいよ命を賭して身魂の借銭を返す時、改心する時が来たようである。

どうか全人類一人残らず、皆揃ってミロクの世へ行けますように、と神様に祈り願うばかりである。

日月神示参照。

『悪の衣(ころも)着せられて節分に押込められし神々様御出でましぞ。此の節分からは愈々神の規則通りになるのざから気つけておくぞ、容赦(ようしゃ)は無いのざぞ、それまでに型さしておくぞ、御苦労なれど型してくれよ。ヤの身魂 御苦労、石なぜもの言はぬのぞ、愈々となりてゐるではないか、春になりたら何んな事あるか分らんから今年中に心の洗濯せよ、身辺(みのまわり)洗濯せよ、神の規則 臣民には堪(こば)れんことあるも知れんぞ、気つけておくぞ。』(日の出の巻 第十六帖)

『節分からは手打ち乍ら、ひふみ祝詞 宣(の)りて呉れよ、拍手は元の大神様の全き御働きぞ、タカミムスビ と カミムスビの御働きぞ、御音(おんおと)ぞ、和ぞ、大和(だいわ)のことぞ、言霊ぞ、喜びの御音ぞ、悪はらう御音ぞ。節分境に何も彼も変りて来るぞ、何事も掃除一番ぞ。』(キの巻 第一帖)

『天地の先祖、元の神の天詞(てんし)様が王の王と現はれなさるぞ、王の王はタマで御現はれなされるのざぞ。礼拝の仕方 書き知らすぞ、節分から始めて下されよ、先づキ整へて暫し目つむり心開きて一拝二拝八拍手せよ、又キ整へて一二三四五六七八九十(ひとふたみよいつむゆななやここのたり)と言(こと)高くのれよ、又キ整へてひふみ三回のれよ、これはこれは喜びの舞、清めの舞、祓の歌であるぞ。世界の臣民 皆のれよ、身も魂も一つになって、のり歌ひ舞へよ、身魂(みたま)全体で拍手するのざぞ、終って又キ整へて一二三四五六七八九十、一二三四五六七八九十百千卍(ももちよろず)と言(こと)高くのれよ、神気整へて天(アメ)の日月の大神様 弥栄ましませ弥栄ましませと祈れよ、これは祈るのざぞ、九二(くに)のひつくの神様 弥栄ましませ弥栄ましませと祈れよ、終りて八拍手せよ、次に雨の神様、風の神様、岩の神様、荒の神様、地震の神様、百々(もも)の神様、世の元からの生神様、産土(うぶすな)の神様に御礼申せよ、終りてから神々様のキ頂けよ、キの頂き方 前に知らしてあろがな、何よりの臣民人民の生(いき)の命の糧(かて)であるぞ、病なくなる元の元のキであるぞ、八度繰り返せと申してあろ、暫くこのやうに拝めよ、神代になる迄にはまだ進むのざぞ、それまではその様にせよ、此の方の申す様にすればその通りになるのざぞ、さまで苦しみなくて大峠越せるぞ、大峠とは王統消(わうとうけ)すのざぞ。新しき元の生命(いのち)と成るのざぞ。神の心となれば誠判るぞ。誠とはマとコトざぞ、神と人民 同じになれば神代ざぞ、神は隠身(かくりみ)に、人民 表に立ちて此の世治まるのざぞ。雀の涙程の物 取り合ひ へし合ひ 何して御座るのぞ、自分のものとまだ思ってゐるのか。御恩とは五つの音の事ざぞ、御音(恩)返さなならんのざぞ、此の事よく考へて間違はん様にして下されよ。此の巻は雨の巻ぞ、次々に知らすからミタマ相当により分けて知らしてやれよ、事分けて一二三(ひふみ)として知らしてやるのもよいぞ。役員皆に手柄立てさしたいのぢゃ、臣民人民 皆にそれぞれに手柄立てさしたいのぢゃ、待たれるだけ待ってゐるのぢゃ、一人で手柄は悪ぢゃ、分けあってやれよ、手握りてやれよ。石もの云ふぞ、十六の八の四の二の一目出度や目出度やなあ。神の仕組の世に出でにけり、あなさやけ、あな面白や、五つの色の七変はり八変はり九(ここ)の十々(たりたり)て百千万(ももちよろず)の神の世弥栄。』(雨の巻 第十七帖)

『悪いこと待つは悪魔ぞ、何時 建替、大峠が来るかと待つ心は悪魔に使はれてゐるのざぞ。この神示 世界中に知らすのざ、今迄は大目に見てゐたが、もう待たれんから見直し聞き直しないぞ、神の規則通りにビシビシと出て来るぞ、世界一平に泥の海であったのを、つくりかためたのは国常立尊であるぞ、親様を泥の海にお住まひ申さすはもったいないぞ、それで天におのぼりなされたのぞ。岩の神、荒の神、雨の神、風の神、地震の神殿、この神々様、御手伝ひでこの世のかため致したのであるぞ、元からの竜体持たれた荒神様でないと今度の御用は出来んのざぞ、世界つくり固めてから臣民つくりたのであるぞ、何も知らずに上に登りて、神を見おろしてゐる様で、何でこの世が治まるものぞ。天と地の御恩といふことが神の国の守護神に判りて居らんから難儀なことが、愈々どうにもならん事になるのぞ、バタバタとなるのぞ。臣民 生れおちたらウブの御水を火で暖めてウブ湯をあびせてもらふであろが、其の御水はお土から頂くのざぞ、たき火ともしは皆 日の大神様から頂くのざぞ、御水と御火と御土でこの世の生きあるもの生きてゐるのざぞ、そんなこと位 誰でも知ってゐると申すであろが、其の御恩と云ふ事知るまいがな、一厘の所 分かるまいがな。守護神も曇りてゐるから神々様にも早うこの神示読んで聞かせてやれよ、世間話に花咲かす様では誠の役員とは云はれんぞ、桜に花咲かせよ。せわしくさしてゐるのざぞ、せわしいのは神の恵みざぞ、今の世にせわしくなかったら臣民くさって了ふぞ、せわしく働けよ。』(キの巻 第九帖)

『マコトの者は千人に一人ざぞ、向ふの国にはまだまだドエライ仕組してゐるから今の内に神の申すこと聞いて、神国は神国のやりかたにして呉れよ。人の殺し合ひ許りではケリつかんのざぞ、今度のまけかちはそんなチョロコイことではないのざぞ、トコトンの処まで行くのざから神も総活動ざぞ、臣民 石にかじりついてもやらねばならんぞ、そのかわり今後は万劫末代のことざから何時迄もかわらんマコトの神徳あたへるぞ。云はれぬこと、神示に出せぬことも知らすことあるぞ。』(磐戸の巻 第十二帖)

『石物いふ時来るぞ、草物いふ時来るぞ。北おがめよ、北光るぞ、北よくなるぞ、夕方よくなるぞ、暑さ寒さ、やはらかくなるぞ、五六七(みろく)の世となるぞ。慌てずに急いで呉れよ。神々様みなの産土(うぶすな)様 総活動でござるぞ、神々様まつりて呉れよ、人々様まつりて呉れよ、御礼申して呉れよ。』(天つ巻 第二十七帖)

『今の臣民見て褒める様な事は皆奥知れてゐるぞ。之が善である、まことの遣り方ぞと思ってゐる事九分九厘迄は皆悪のやり方ぞ。今の世のやり方、見れば判るであらうが、上の番頭殿 悪い政治すると思ってやってゐるのではないぞ。番頭殿を悪く申すでないぞ。よい政治しようと思ってやってゐるのぞ。よいと思ふ事に精出してゐるのざが、善だと思ふ事が善でなく、皆悪ざから、神の道が判らんから、身魂曇りてゐるから、臣民困る様な政治になるのぞ。まつりごとせなならんぞ。わからん事も神の申す通りすれば自分ではわからんこともよくなって行くのざぞ。悪と思ってゐることに善が沢山あるのざぞ。人裁くのは神裁くことざぞ。怖いから改心する様な事では、戦がどうなるかと申す様な事ではまことの民ではないぞ。世が愈々のとことんとなったから、今に大神様迄 悪く申すもの出て来るぞ。産土様(うぶすなさま)何んぞあるものかと、悪神ばかりぞと申す者 沢山出てくるぞ。此の世始まってない時ざから我身我家が可愛い様では神の御用つとまらんぞ。神の御用すれば、道に従へば、我身我家は心配なくなると云ふ道理判らんか。何もかも結構な事に楽にしてやるのざから、心配せずに判らん事も素直に云ふ事聞いて呉れよ。子に嘘吐く親はないのざぞ。神界の事知らん臣民は色々と申して理屈の悪魔に囚はれて申すが、今度の愈々の仕組は臣民の知りた事ではないぞ。神界の神々様にも判らん仕組ざから、兎や角申さずと、神の神示腹に入れて身魂磨いて素直に聞いて呉れよ。それが第一等ざぞ。此の神示は世に出てゐる人では解けん。苦労に苦労したおちぶれた人で、苦労に負けぬ人で気狂いと云はれ、阿呆と謂はれても、神の道 素直に聞く臣民でないと解けんぞ。解いてよく噛み砕いて世に出てゐる人に知らしてやりて下されよ。苦労喜ぶ心より楽喜ぶ心高いぞ。』(日月の巻 第三十六帖)

『日本には五穀、海のもの、野のもの、山のもの、皆人民の食ひて生くべき物、作らしてあるのぢゃぞ、日本人には肉類禁物ぢゃぞ。今に食物の騒動激しくなると申してあること忘れるなよ、今度は共喰となるから、共喰ならんから、今から心鍛へて食物大切にせよ、食物おろがむ所へ食物集まるのぢゃぞ。ひたすらに神にすがりてお詑びせよ、それより他に今は道なし。外国を日本の地面にせなならん、日本とにほんと取違ひすな。何事も神第一ぞ、神よそになすこと云ふことスコタンばかりぢゃ。分け隔てあると思ふは我が心に分け隔てあるからぢゃぞ、世界中のそれぞれの国、皆、氏神様、産土様、愈々天の命令通りにかかり下されよ、もう待たれん事に時節参りて居るぞ、世界の人民 皆泥海の中に住んでゐるのぢゃぞ、元の水流して清めてやらねばならんなり、泥水を泥水と知らずに喜んでゐるので始末に困るぞ、清い水に住めん魚は誠の魚ではないのぢゃぞ。つらい役は因縁のミタマに致さすぞ。心得なされるがよいぞ。』(梅の巻 第十四帖)

『何時も気つけてあることざが、神が人を使うてゐるのざぞ、今度の戦で外国人にもよく分って、神様にはかなはん、何うか言ふこときくから、夜も昼もなく神に仕へるからゆるして呉れと申す様になるのざぞ、それには神の臣民の身魂掃除せなならんのざぞ、くどい様なれど一時(いちじ)も早く一人でも多く改心して下されよ、神は急ぐのざぞ。』(天つ巻 第十八帖)

『祈れば祈る程 悪うなることあるぞ。結構な道と判らんか。心して迷ふでないぞ。天国の門、貧者富者の別ないぞ。別ある境界つくるでないぞ。世界中一度にゆすぶると申してあらう。釦(ボタン)一つででんぐり返ると申してあること、未だ判らんのか。神罰はなし。道は一つ二つと思ふなよ、無数であるぞ。(但し内容は一つぞ。)新しき道拓いてあるに、何故 進まんのぢゃ。下腹からの怒は怒れ。胸からの怒は怒るなよ。昔から無いことするのであるから、取違ひ もっともであるなれど、分けるミタマ授けあるぞ。高い天狗の鼻まげて自分の香 嗅いで見るがよいぞ。鼻もちならんぞ。今迄のこと ちっとも交らん新しき世になるのであるから、守護神殿にも、判らんことするのであるから、世界の民みな一度に改心するやうに、どん詰りには致すのであるなれど、それ迄に一人でも多く、一時も早く、改心さしたいのぢゃ。気ゆるめたら肉体ゆるむぞ。後戻りばかりぢゃ。霊人と語るのは危ないぞ。気つけくれよ。人は人と語れよ。』(黄金の巻 第十八帖)

『岩(一○)隠れし 比売(ヒメ)(秘命)のミホト(実秀答)は 焼かへ給ひて。 三分の一の人民になると、早うから知らせてありたことの実地がはじまっているのであるぞ。何も彼も三分の一ぢゃ、大掃除して残った三分の一で、新しき御代の礎と致す仕組ぢゃ、三分六ヶ敷いことになっているのを、天の神にお願い申して、一人でも多く助けたさの日夜の苦心であるぞ、カンニンのカンニン、ガマンのガマンであるぞ、九◎(光ノ神)の花咲くぞ。』(扶桑の巻 第七帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)

Posted on 2016/01/12 Tue. 17:53 [edit]

category: まわりうた

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