02 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 04

花鳥風月

気ままに回文歌、いろは歌を書いています。

まわりうた 

なかきよの よしのくさのき
  よものへの もよきのさくの しよのよきかな

(永き代の 吉野草の木 四方の辺の 萌黄の咲く野 時余の良きかな)

解説

吉野草(よしのぐさ)は「桜の異名。」、四方(よも)は「東西南北。前後左右。しほう。」、辺(へ)は「ほとり。あたり。」、萌黄(もよぎ)は「やや黄色みを帯びた緑色。もえぎ。」、時余は「一時間あまり。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「花咲谷」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2016/03/31 Thu. 23:16 [edit]

category: まわりうた

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31

まわりうた 

くたるのち みよにほんこく
  こちかせか ちこくこんほに よみちのるたく

(下る後 見よ日本国 東風が 地獄昏暮に 黄泉路の流謫)

解説

下るは「上位の人や権威ある人から決定・判定・判決・命令などが言い渡される。」「時が過ぎる。また,年月が過ぎて後の時代になる。」、日本国は「日本の国名としての正称。」、東風(こちかぜ)は「東から吹く風。ふつう、春風をいう。こち。」、地獄は「非常に苦しく,つらいこと。」「悪業をした者が死後苦報をうけると信じられている世界。」、昏暮(こんぼ)は「日暮れ。夕暮れ。また,日没の後。」、黄泉路(よみじ)は「黄泉(よみ)へ行く道。冥途(めいど)への道。また,黄泉。」、流謫(るたく)は「罪により,遠地へながされること。島流し。謫流。りゅうたく。」の意味です。

余談

この歌は、WAVEのアルバム「Citra re:verse -其歌は真言顕す欠片と為りて-」の中にある「須佐能乎命-SUSANOWO SYSTEM-」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

戦前の大本の出口王仁三郎聖師は素戔嗚尊の化身だと言われているが、当時の政府から弾圧を二度受けている。しかしそれこそが聖師の意図であり、それが型となって当時の軍国主義の大日本帝国は解体された。つまり素戔嗚尊が退治するべき八岐大蛇は日本の国体そのものであったと言える。

思うに、八岐大蛇に毎年差し出される娘とは国体のシステムに否応なしに呑み込まれていく国民であり、最後に残された末娘の奇稲田姫とは、社会的軸で見れば国の一番末端に位置する国民であり、歴史的軸で見れば将来の日本を担う子供たちであろう。クシナダヒメはさしずめ苦死(くし)の涙(なだ)の人命(=‘ひと’と‘めい’=ひ・め)と言ったところか。

当時の大多数の一般国民は正しい戦局の状態も解らず、空襲から命からがら逃げ回り日々食うことに精一杯なだけであった。おそらく神が一番救いたかったのは、善良なる一般の人々であったように思う。

翻って今日の日本も同じ道を辿っているようにしか思えない。

一昨日3月29日に集団的自衛権行使の根拠となる安全保障関連法が施行されたが、仮に日本のどこかでテロが起これば国内の空気が一変し、事実上その時点で時代が変わるように思う。

その際、緊急事態的に国民全ての生活が一変するような法が発令されれば、地獄の三段目が始まるように思う。

歌の中の春風を意味する「東風」がよくわからないが、日月神示に「春マケドン」とあることから、これは春の季節を意味している可能性がある他、緊急事態的状態に国が突入していくと、福島原発のコントロールもままならなくなる可能性も考えられることから、東から吹く風によっていよいよ首都圏が制御不能になっていくことを意味しているのかもしれない。

次の「昏暮」は日没の意味でもあるので、日本が没するという意味であろう。お上(=政府)が機能しなくなって事実上無くなると共に、ハルマケドンが起こることで、いよいよそれぞれの霊的な位置づけが決定し、人によっては三界流転の身となる場合もあるということだろう。

だが日月神示では途中でカラリと変る仕組みがしてある、悪い予言はうそにしたい、とも書いてある。

立替の最後の最後の最後と思われるこの今、日々の変化があまりにも大きいのでうろたえるばかりだが、ひたすら神を信じながら油断することなく、焦ることなく、日々を誠実に過ごしていくしかなさそうだ。

日月神示参照。

『よき神にはよき御用、悪き神には悪き御用、自分で自分がつとめあげるのぢゃ、人になんと云はれても腹の立つ様では御用六ヶ敷いぞ、腹立つのは慢心ぢゃと申してあろがな。仕組途中でグレンと変り、カラリと変る仕組してあるのぢゃ、其処に一厘の仕組、火水の仕組、富士と鳴門の仕組、結構々々大切致してあるのぢゃ。仕組変り変りて人民には判らんなり、よき世と致すのぢゃ、いくら智あっても人間心では出来ん仕組ぞ、智捨てて神にすがりて来ねば分らん仕組ぢゃ、と云ふて人間世界は人間の智いるのぢゃ、智でない智を神が与へるぞ、神人共にと申してあろがな、つとめ上げたら他にない結構な御用。』(青葉の巻 第十帖)

『大奥山は神人交流の道の場である。道は口で説くものではない。行ずるものである。教は説かねばならない。多数決が悪多数決となるわけが何故に判らんのぢゃ。投票で代表を出すと殆んどが悪人か狂人であるぞ。世界が狂ひ、悪となり、人民も同様となっているから、その人民の多くが選べば選ぶ程、益々混乱してくるのであるぞ。 それより他に人民の得心出来る道はないと申してゐるが、道はいくらでもあるぞ。人民の申してゐるのは平面の道、平面のみでは乱れるばかり、立体にアヤなせば弥栄えて真実の道が判るのぢゃ。ぢゃと申して独裁ではならん。結果から見れば神裁ぢゃ。神裁とは神人交流によることぞ。(十二月二十五日) 神はうそつきぢゃと人民申しても、悪い予言はうそにしたいので日夜の苦労、こらえられるだけこらえてゐるのである。もう、ものばかりでは治まらんこと、キンでは治まらんこと、平面のみでは駄目であること、よく判ってゐるのにカブトぬげん神々様よ、気の毒が来ぬ前に改心結構。遠くからでは判らんし、近づくと迷うし、理屈すてて神にほれ参らせよ。よくこの神をだましてくれたぞ、この神がだまされたればこそ、太神の目的なってくるのぢゃ。細工はりゅうりゅう仕上げ見て下されよ。 区別すると力出るぞ、同じであってはならん。平等でなくてはならんが、区別なき平等は悪平等である。天に向って石を投げるようなことは、早くやめねばならん。霊かかりもやめて下されよ。 人民が絶対無と申してゐるところも、絶対無ではない。科学を更に浄化弥栄させねばならん。 空間、時間が霊界にないのではない。その標準が違うから無いと考えてよいのである。 奥山は奥山と申してあろう。いろいろな団体をつくってもよいが、何れも分れ出た集団、一つにしてはならん。奥山はありてなきもの、なくて有る存在である。 奥山と他のものとまぜこぜまかりならん。大き一つではあるが別々ぞ。今迄になかった奥山のあり方、判らんのも無理ないなれど、これが判らねば この度の大神業、判りはせんぞ。』(月光の巻 第七帖)

『この神示 言波としてよみて呉れよ、神々様にもきかせて呉れよ、守護神どのにも聞かして呉れよ、守護神どのの改心まだまだであるぞ、一日が一年になり百年になると目が廻りて真底からの改心でないとお役に立たんことになりて来るぞ。』(天つ巻 第十一帖)

『この神示 心で読みて呉れよ、九エたして読みて呉れよ、病も直るぞ、草木もこの神示よみてやれば花咲くのざぞ。この道広めるには教会のやうなものつとめて呉れるなよ、まとゐを作りて呉れるなよ。心から心、声から声、身体(からだ)から身体へと広めて呉れよ、世界中の臣民みなこの方の民ざから、早う伝へて呉れよ。神も人も一つであるぞ、考へてゐては何も出来ないぞ、考へないで思ふ通りにやるのが神のやり方ぞ、考へは人の迷ひざぞ、今の臣民 身魂くもりてゐるから考へねばならぬが、考へればいよいよと曇りたものになる道理分らぬか。一九(ひく)れを気つけて呉れよ、日暮れよくなるぞ、日暮れに始めたことは何でも成就するやうになるのざぞ、一九(ひく)れを日の暮れとばかり思うてゐると、臣民の狭い心で取りてゐると間違ぶぞ。◎のくれのことを申すのざぞ。』(地つ巻 第二十三帖 ◎は「○にヽ」の形)

Posted on 2016/03/31 Thu. 01:11 [edit]

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31

まわりうた 

なかくらき よみのいはやと
  くたくあく たくとやはいの みよきらくかな

(中暗き 黄泉の岩屋戸 砕く開く 抱くと野梅の 見好き楽かな)

解説

暗しは「暗い。」「わからない。はっきりしない。」、黄泉は「死後,霊魂が行くとされる所。死者の国。冥府。冥土。よみの国。よみじ。よもつ国。」、岩屋戸(いわやど)は「岩屋の入り口。いわと。」、野梅(やばい)は「野に咲く梅。野生の梅。」、見好い(みよい)は「見た感じがよい。みぐるしくない。」、楽は「身も心もやすらかな・こと(さま)。安楽。 」「ゆっくりくつろぐこと。身も心もゆったりしていること。また,そのさま。」「〔‘千秋楽’の略〕 興行の終わり。転じて,物事の終わり。」の意味です。

余談

この歌は、WAVEのアルバム「Citra re:verse -其歌は真言顕す欠片と為りて-」の中にある「伊邪那岐命 -PROTO:IZANAGI-」~「伊邪那美命 -PROTO:IZANAMI-」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

三千世界一度に開く梅の花

ということで、ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。

日月神示参照。

『ここに伊邪那美命 息吹き給ひて千引岩(ちびきいわ)を黄泉比良坂に引き塞(そ)へて、その石なかにして合ひ向ひ立たして つつしみ申し給ひつらく、うつくしき吾が那勢命(なせのみこと)、時廻り来る時あれば、この千引の磐戸、共にあけなんと宣り給へり、ここに伊邪那岐命しかよけむと宣り給ひき。ここに妹(いも)伊邪那美の命、汝(みまし)の国の人草、日にちひと死(まけ)と申し給ひき。伊邪那岐命 宣り給はく、吾は一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)生まなむと申し給ひき。』(日月の巻 第四十帖)

『岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。』(碧玉の巻 第十帖)

『千引岩をとざすに際して、ナミの神は夫神の治(し)らす国の人民を日に千人喰ひ殺すと申され、ナギの神は日に千五百の産屋(うぶや)を建てると申されたのであるぞ。これが日本の国の、又地上の別名であるぞ、数をよく極めて下されば判ることぞ、天は二一六、地は一四四と申してあろうが、その後ナギの神は御一人で神々をはじめ、いろいろなものを生み給ふたのであるぞ、マリヤ様が一人で生みなされたのと同じ道理、この道理をよくわきまへなされよ。此処に大きな神秘がかくされている、一神で生む限度は七乃至八である、その上に生まれおかれる神々は皆七乃至八であるが、本来は十万十全まで拡がるべきものである。或る時期迄は八方と九、十の二方に分れてそれぞれに生長し弥栄し行くのであるぞ。』(至恩の巻 第九帖)

『国常立神も素盞鳴命も大国主命も、総て地(智)にゆかりのある神々は皆、九(光)と十(透)の世界に居られて時の来るのをおまちになってゐたのであるぞ、地は智の神が治(し)らすのぞと知らしてあろうが、天運 正にめぐり来て、千(智)引の岩戸(言答)はひらかれて、これら地(智)にゆかりのある大神達が現れなされたのであるぞ、これが岩戸ひらきの真相であり、誠を知る鍵であるぞ。』(至恩の巻 第十帖)

歌の中の「砕」の漢字が「石+九十」になっていることに注目したい。石は「いわ」とも読めるが、その石戸(いわと)が開かれると一八(=いわ=一から八の世界)に加えて九、十の世界が開かれるということであろう。

さらに九、十の次は百、千、万(卍)となる。つまり九十の世界が開かれると、今までとは桁違いで物事が進むということだ。今まで一桁の世界だったのが百桁、千桁、万桁の世界になるのだから、今からでは想像もつかないほどの歓喜弥栄の世界である。「人民には見当取れん大きな大きな大望ざから」というのもうなずける。

『死ぬか生きるかは人民ばかりでないぞ、神々様も森羅万象の悉くが同様であるぞ、しばらくの生みの苦しみ。八の世界から十の世界になるのであるから、今迄の八方的な考へ方、八方的な想念や肉体では生きては行かれんのであるぞ、十方的想念と肉体でなくてはならんぞ。』(至恩の巻 第十三帖)

『八方的地上から十方的地上となるのであるから、総ての位置が転ずるのであるから、物質も念も総てが変るのであるぞ。これが元の元の元の大神の御神策ぞ、今迄は時が来なかったから知らすことが出来んことでありたなれど、いよいよが来たので皆に知らすのであるぞ。百年も前からそら洗濯ぢゃ、掃除ぢゃと申してありたが、今日の為であるぞ、岩戸ひらきの為であるぞ。今迄の岩戸ひらきと同様でない、末代に一度の大岩戸(言答)ひらきぢゃ。』(至恩の巻 第十四帖)

『一二三四五六七八九十百千卍(ひとふたみよいつむななやここのたりもちよろず)。今度は千人万人力でないと手柄出来んと申してあろがな。世界中総掛かりで攻めて来るのざから、一度はあるにあられん事になるのぞ。大将ざからとて油断出来ん。富士の山動く迄にはどんな事も耐(こら)えねばならんぞ。上辛いぞ。どんなことあっても死に急ぐでないぞ。今の大和魂と神の魂と違ふ所あるのざぞ。その時その所によりて、どんなにも変化(へんげ)るのが神の魂ぞ。馬鹿正直ならんと申してあろ。今日(けう)あれし生命勇む時来たぞ。』(日月の巻 第三十一帖)

『神示よく読めと、神示よく肚に入れと申してあるが、神示肚に入れると胴すわるのざぞ、世界から何んな偉い人が出て来て何んな事尋ねても教へてやれる様になるのざぞ、神示胴に入れて頭下げて天地に働いて下されよ、まつりて下されよ、素直になれば其の場から其の場其の場で何事も神が教へてやるから、力つけて導いてやるから、何んな神力でも授けてやるぞ。一二三四五六七八九十百千卍(ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろず)授け申して神人となるぞ。我さえよけらよいとまだ思って御座る臣民まだで御座るぞ、自分一人で生きてゆけんぞ、神許りでも生きてゆけんぞ、爪の垢でもだてについてゐるのではないのざぞ、判らんと申しても余りで御座るぞ、まつりせよ、地(つち)にまつろへよ、天(あめ)にまつろへよ、人にまつろへよ、草木動物にまつろへよ、と、くどう知らしてあるのに未だ判らんのか、神拝む許りがまつりでないぞ。待ちに待ちし日の出の御代となりにけり、一二三(ひふみ)いろはの世はたちにけり。身慾信心してゐる臣民人民、今に神示聞けぬ様に いれものつんぼになるのざぞ、きびしくなって来るぞ、毒にも薬にもならん人民、今度は役に立たんのざぞ、悪気ない許りでは一二(ひつき)の御民とは申されんぞ。あら楽し、黒雲一つ払ひけり、次の一つも払ふ日近し。淋しくなりたら神示尋ねて御座れ、神示読まねば益々判らん事になったであろうが、天国に底ない様に地獄にも底ないぞ、何処までも落ちるぞ、鼻高の鼻折らな人民何んと申しても神承知出来ん。』(雨の巻 第六帖)

『天地の先祖、元の神の天詞(てんし)様が王の王と現はれなさるぞ、王の王はタマで御現はれなされるのざぞ。礼拝の仕方 書き知らすぞ、節分から始めて下されよ、先づキ整へて暫し目つむり心開きて一拝二拝八拍手せよ、又キ整へて一二三四五六七八九十(ひとふたみよいつむゆななやここのたり)と言(こと)高くのれよ、又キ整へてひふみ三回のれよ、これはこれは喜びの舞、清めの舞、祓の歌であるぞ。世界の臣民 皆のれよ、身も魂も一つになって、のり歌ひ舞へよ、身魂(みたま)全体で拍手するのざぞ、終って又キ整へて一二三四五六七八九十、一二三四五六七八九十百千卍(ももちよろず)と言(こと)高くのれよ、神気整へて天(アメ)の日月の大神様 弥栄ましませ弥栄ましませと祈れよ、これは祈るのざぞ、九二(くに)のひつくの神様 弥栄ましませ弥栄ましませと祈れよ、終りて八拍手せよ、次に雨の神様、風の神様、岩の神様、荒の神様、地震の神様、百々(もも)の神様、世の元からの生神様、産土(うぶすな)の神様に御礼申せよ、終りてから神々様のキ頂けよ、キの頂き方 前に知らしてあろがな、何よりの臣民人民の生(いき)の命の糧(かて)であるぞ、病なくなる元の元のキであるぞ、八度繰り返せと申してあろ、暫くこのやうに拝めよ、神代になる迄にはまだ進むのざぞ、それまではその様にせよ、此の方の申す様にすればその通りになるのざぞ、さまで苦しみなくて大峠越せるぞ、大峠とは王統消(わうとうけ)すのざぞ。新しき元の生命(いのち)と成るのざぞ。神の心となれば誠判るぞ。誠とはマとコトざぞ、神と人民 同じになれば神代ざぞ、神は隠身(かくりみ)に、人民 表に立ちて此の世治まるのざぞ。雀の涙程の物 取り合ひ へし合ひ 何して御座るのぞ、自分のものとまだ思ってゐるのか。御恩とは五つの音の事ざぞ、御音(恩)返さなならんのざぞ、此の事よく考へて間違はん様にして下されよ。此の巻は雨の巻ぞ、次々に知らすからミタマ相当により分けて知らしてやれよ、事分けて一二三(ひふみ)として知らしてやるのもよいぞ。役員皆に手柄立てさしたいのぢゃ、臣民人民 皆にそれぞれに手柄立てさしたいのぢゃ、待たれるだけ待ってゐるのぢゃ、一人で手柄は悪ぢゃ、分けあってやれよ、手握りてやれよ。石もの云ふぞ、十六の八の四の二の一目出度や目出度やなあ。神の仕組の世に出でにけり、あなさやけ、あな面白や、五つの色の七変はり八変はり九(ここ)の十々(たりたり)て百千万(ももちよろず)の神の世弥栄。』(雨の巻 第十七帖)

『わからんミタマも今迄は機嫌取って引張りて来たなれど、もう機嫌取りは御免ぢゃ。こんなことに長う掛かりてゐたなら実地が遅れるから、ひときりにいたすぞ。神代となれば天は近くなるぞ、神人共にと申してあらうがな。一人となりても、神の申す事ならば、ついて来る者が誠の者ざぞ、誠の者少しでも今度の仕組は成就するのざぞ、人は沢山には要らんのざぞ。信者引張ってくれるなよ。道は伝へて下されと申してあらうがな。竜宮の乙姫殿のお宝、誰にも判るまいがな。びっくり箱の一つであるぞ。キT(た)がよくなる、キたが光るぞ、きT(た)が一番によくなると申してあること段々に判りて来るのざぞ。これ程に申してもまだ疑ふ人民 沢山あるなれど、神も人民さんには一目置くのぞ、閉口ぞ、よくもまあ曇ったものぢゃなあ、疑ふなら今一度 我でやって見よれ、それもよいぞ、あちらこちらにグレングレンとどうにもならんのざぞ、人民には見当取れん大きな大きな大望ざから、その型だけでよいからと申してゐるのぢゃ、型して下されよ。改心の見込ついたら、世の元からの生神が、おのおのにタマ入れてやるから、力添へ致してやるから、せめてそこまで磨いて下されよ。悪はのびるのも早いが、枯れるのも早いぞ。いざとなればポキンぞ。花のまま枯れるのもあるぞ。』(岩の巻 第十帖)

火水伝文参照。

「 この方が、マコト汝は地の日月の神じゃ申すは、こ度の事に関わりて汝の自覚を促すがためなるぞ。日月地、真釣るハタラキは神で無くれば出来ぬ由、汝の正味を伝えしが、マコト火水(カミ)成るそれまでは、三真釣る苦労で耕して、自覚育む肥やしさし、マコト芽吹けるそれまでは、陰に回りて守護すなり。初発より今今に生き通しの元つ神々様のご苦労も、少しは察してやりなされよ。よほど返せぬご恩に生かされありた事どもを、知りて解かりて来る程に、深きマコトのお詫び持ち、感謝の鳴り鳴る響き持て、汝の三真釣る行持ちて、こ度のご用に立ちて下され。元つご霊統の神々様方は今の今の今今も、汝を真釣りに導くに言語を絶するご苦労を、汝を産みた初発から陰で支えて参りたのじゃ。汝等の行く末を案じ、少しでもメグリ少なく真釣れる様、万象万物に万化致して、汝の下の下の下に下り控えてご守護し参りたのでござるぞ。
 神々も汝等も、神、人含め、マコト、マコトの神真釣り、自ら取りてもろうため、この世に仕組みし神仕組み。情けと花の仕組みにて、仕組みし天の大神と、創りた元つ神々の艱難辛苦の裏舞台。陰で支えるご苦労の、毛の先程のその先の先々程のご苦労で、取らすミロクを創るには、至誠至愛一筋に、万古末代弥栄の真釣る尊き一二三(ヒフミ)鳴る、鳴り成る響き出すまでは、天の大神様初め、元つ神々様の、堪えに堪え堪う神仕組。
 汝等皆々神成る身。自ら取らるがお手柄と、汝が気付くそれまでは、我慢に我慢を重ね行き、注ぐ辛抱繰り返し、口惜しき思いは数知れず、蹴られ殴られ殺されて、悪き者よと蔑まれ侮蔑、裏切りない混ぜて、辛き思いの針の山、手刺し足刺し越え行きて、たどりた先で火に焼かれ、落ち行く先で水の責む、マコト受難の真釣りミチ。三千世界に仇をなす、ケガレ魔釣りし有りザマを、マコト一つで越え行くは、至難に至難のミチ行きで、気楽な事はいちに無く、陽気な思いを持ちたなら、瞬時にケガレと組み成して、マコト失う厳しさでありた。ご自身がどんな辛き思いを成されても、汝等を支えるが大神の情けと花の仕組みでありた。
 この方が陰にまわりて、三千世界を守護致し来たりたは、汝が一刻たりとも速やかに、自ら真釣るを取り戻し欲しく、願いありたからであるぞ。皆々神成る身なから、ご一柱も残す事無く、自ら取りて欲しかりたのじゃ。それ由のこの方の艱難辛苦でござりたのであるぞ。汝等がこの方をどの様な酷き扱いに成されてもそれでもじっと我慢を致し、ただただ汝等を守護致し、何とかお陰をお授け致して、少しなりと善き方にお向け差し上げたくての、至誠を貫きての願いからじゃ。
 今今に至る始源からのマコトに辛きご苦労は、ただただ汝等皆々が、早う『あやま知』に気が付きて、真釣るマコトを取りて欲しいがため、仕え真釣りたのであるぞ。この方は与える一方で取りたるものは一に無く、汝が愛しく可愛想なから、気付け、気付け、と朝に夕に、昼夜にたがわず打ち鳴らし来たりたなれど鳴り成らず、時節はとうに実地の響きに入りてしもうて、残り無くなりてしもうた。
 一人も残す事なく気付かせるは遂に出来なんだ。残念なことになりてしもうて遂に一度に一回で改心致させる他無き様となりて、身魂相応のケガレを一度で払うは修羅の地獄を生きるもならず、死ぬもならずさ迷い行かねばならぬ者、数多居りて、人民様には可愛想でお気の毒で、この方も見ては居られん極みにてあるが、愛しき我が子をこの手で屠る、修羅の地獄のそのまた下を、慙愧慟哭堪えに堪え、血の涙を流し支える大神の、至滋至愛の御心を、少しは察して下されよ。いたらなんだところは、始源から、汝等を支えるために陰に回りて、艱難辛苦のご苦労を、至誠貫きつくし参りた、元つ神々のマコトに免じて許して下されよ。
 解かりたでござろうが。今今の時申すは、マコトの淵に辛うじて残りある者を最期の最後のご守護を出して、あちらに一人、こちらに一人と拾うて居るのじゃ。このヒノモトも、今今は獣と人とに分かれありて居るなれば、先ず先ずに汝等お一人お一人が、自ら神のお宮と鳴り成されて下されよ。汝が心底この方について参りて居るなれば、既にご守護を出しあるのじゃ。気付きあれよ。汝の感謝の響きが糸にてあるのぞ。感謝の響き大切にしおくれよ。汝を救う命綱じゃ。」

Posted on 2016/03/29 Tue. 19:04 [edit]

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29

まわりうた 

なかきよと かみくらひとや
  はいきのき いはやとひらく みかとよきかな

(長き夜と 神座人屋 拝跪の義 岩屋戸開く 帝良きかな)

解説

人屋は「牢屋(ろうや)。牢獄(ろうごく)。」、拝跪は「ひざまずいて拝むこと。」、義は「人のふみ行うべき正しい筋道。」「私欲を捨て、公共のためにすること。」、岩屋戸(いわやど)は「岩屋の戸口。」、帝は「天子・天皇の尊称。また,その位。」「天子・天皇の治める国土。国家。」の意味です。

余談

この歌は、WAVEのアルバム「Citra re:verse -其歌は真言顕す欠片と為りて-」の中にある「天照大御神-AMATERAS SYSTEM-」~「月読命-TSUKUYOMI SYSTEM-」~「須佐能乎命-SUSANOWO SYSTEM-」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。


雑感

畏れながらミカドは水火音(ミカド)のような気もしないでもない。霊界物語では水火にはイキのルビが振られていることから、ミカドは息の音、即ち言霊に通じるものがあるようにも思う。また日月神示ではてんし様には天詞様の漢字が振られている。天皇陛下のお言葉を詔(みことのり=御言宣り)とも言うので、言葉そのものが神様という考え方はあながち間違いではないのかもしれない。岩戸が言答(いわと)というのもおもしろい。

日月神示参照。

『国常立神も素盞鳴命も大国主命も、総て地(智)にゆかりのある神々は皆、九(光)と十(透)の世界に居られて時の来るのをおまちになってゐたのであるぞ、地は智の神が治(し)らすのぞと知らしてあろうが、天運 正にめぐり来て、千(智)引の岩戸(言答)はひらかれて、これら地(智)にゆかりのある大神達が現れなされたのであるぞ、これが岩戸ひらきの真相であり、誠を知る鍵であるぞ。』(至恩の巻 第十帖)

「長き夜と 神座人屋」は、人の中に神性が未だ閉じ込められたままで顕現されず、世の中が暗くなっているままの様が描かれているように思う。

「拝跪の義 岩屋戸開く 帝良きかな」は、しかしながら自らの神性と周り360度の世界全てを拝し、常に義を行うことで、天帝、即ち神が岩屋戸を開くということであろう。

Posted on 2016/03/28 Mon. 23:06 [edit]

category: まわりうた

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28

まわりうた 

なかきよの みかへるはなみ
  もやのまの やもみなはるへ かみのよきかな

(永き代の 見変へる花見 靄の間の 八面皆春方 神の良きかな)

解説

見変えるは「これまでとは見方を変える。また,別のものを見る。」、花見は「花、特に桜の花を眺めて楽しむこと。」、八面(やも)は「八つの方面。あらゆる方面。四方八方。」、春方(はるべ)は「春のころ。春。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2016/03/27 Sun. 17:37 [edit]

category: まわりうた

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27

まわりうた 

なかきよの なみとちよくさ
  めうりより うめさくよちと みなのよきかな

(永き代の 波と千代草 妙理より 梅咲く輿地と 皆の良きかな)

解説

千代草(ちよぐさ)は「マツの別称。」、妙理は「すぐれて奥深い道理。常人にははかりしれない不思議な真理。玄妙な理。」、輿地は「大地。地球。全世界。」の意味です。

余談

この歌は吉田兄弟のアルバム「Soulful」の中にある「百花繚乱」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

三千世界一度に開く梅の花

ということで、ミロクの世の到来を寿ぐ歌です。

Posted on 2016/03/26 Sat. 14:07 [edit]

category: まわりうた

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26

まわりうた 

なかきよの とこはにのさく
  さくらから くさくさのには ことのよきかな

(永き代の 常葉に野咲く 桜から 種々の庭 古都の良きかな)

解説

常葉は「常緑の木の葉。ときわ。」、種々(くさぐさ)は「物事の種類や品数などの多いこと。いろいろ。さまざま。」、古都は「昔のみやこ。また,昔から続いている,長い歴史のあるみやこ。」の意味です。

余談

下記動画を見ながら、それをモチーフに書いた歌です。

『[HD]CHERRY BLOSSOM in KYOTO JAPAN 満開の京都の桜 (sakura) 日本の桜 花の名所案内』

雑感

いつもは何かに突き動かされるように書く歌が多いですが、今回は息抜きで書きました。それなりにうまく出来上がって満足です。

蛇足ですが、下記の歌にしようか非常に迷いました。モチーフにした動画が桜メインなので、歌の中心が「桜から」となる上の方にしました。

夜らは「よる。」、殿(との)は「御殿(ごてん)。貴人の邸宅。」の意味です。

なかきよら くさくさのには
  ことのとの とこはにのさく さくらよきかな

(長き夜ら 種々の庭 古都の殿 常葉に野咲く 桜良きかな)
 

Posted on 2016/03/24 Thu. 22:03 [edit]

category: まわりうた

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24

まわりうた 

ちよきなり まつるみたまに
  みとりあり とみにまたみる つまりなきよち

(千代木なり 奉る身魂に 緑あり 頓にまた見る 詰まり無き輿地)

解説

千代木(ちよき)は「マツの別名。」、奉るは「神や上位者に対して物を届けたり,贈ったりすることの謙譲語で,受け手を敬う。たてまつる。献上する。」、頓には「急に。にわかに。」、輿地(よち)は「大地。地球。全世界。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。

下記ブログによれば、五六七(みろく)大神様の魂の色は翡翠(ヒスイ=火水)で緑色なのだそうだ。

『火水(カミ)を知りて、天使の羽を卒業する「翡翠」』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)
http://kamikotokai-b.jugem.jp/?day=20120325

ミロクの世は別名松の世とも呼ばれる。人民のことを「青人草」と言うが、いつも草木のように生きていたいものだ。

今は放射能汚染で日本中の自然が枯れかかっているが、世の為人の為と思い自らを奉る身魂には、また緑あふれる世界が与えられるということなのだろう。あと日月神示では「松お(食)せば判らん病直るのぢゃぞ」と書かれており、地味に内部被曝への対処法が示されていることにも驚く。

そもそも松は昔、美観、風致というより、栄養食、非常食として利用されていたそうだ。松葉は殺菌力があり、葉緑素やビタミン、ミネラルが含まれている。日月神示の「今のうちに草木の根や葉を日に干して貯へておけよ」の部分は、いざというとき、非常食だけではこれら栄養素が足りなくなるために示されているようにも思う。

歌の内容と直接関係ないがさらに言うと、「人」の漢字の周りを線で繋ぐと三角形が出来るが、「火」の漢字の周りを線で囲むと五角形、「水」の漢字の周りを線で囲むと六角形、「光」の漢字の周りを線で囲むと七角形が出来る。

ゆえに五六七(みろく)は火水光、火水(=カミ=神)の光、火水(=ヒスイ=翡翠)の光、火水(=ヒミツ=秘密)の光(=ヒカリ=霊化理)とも言え、これも岩戸開きに通じるものがある。そういえば日月神示にはお日様はみどりという記述がある。

日月神示参照。

『お日様 赤いのでないぞ、赤いとばかり思ってゐたであろがな、まともにお日様みよ、みどりであるぞ、お日様も一つでないぞ。ひとりまもられているのざぞ。さむさ狂ふぞ。』(風の巻 第二帖)

『けものさへ神のみ旨に息せるを神を罵る民のさわなる。草木さへ神の心に従ってゐるではないか、神のむねにそれぞれに生きてゐるでないか、あの姿に早う返りて呉れよ、青人草と申すのは草木の心の民のことぞ。道は自分で歩めよ、御用は自分でつとめよ、人がさして呉れるのでないぞ、自分で御用するのぞ、道は自分で開くのぞ、人頼りてはならんぞ。』(下つ巻 第十一帖)

『残る者の身も一度は死ぬことあるぞ、死んでからまた生き返るぞ、三分の一の臣民になるぞ、これからがいよいよの時ざぞ。日本の臣民同士が食い合ひするぞ、かなわんと云うて外国へ逃げて行く者も出来るぞ。神にシッカリと縋(すが)りて居らんと何も分らんことになるから、早く神に縋りて居れよ、神ほど結構なものはないぞ。神にも善い神と悪い神とあるぞ、雨の日は雨、風の日は風といふこと分らんか、それが天地の心ぞ、天地の心を早う悟りて下されよ。いやならいやで他に代りの身魂があるから神は頼まんぞ、いやならやめて呉れよ。無理に頼まんぞ。神のすること一つも間違ひないのぞ、よく知らせを読んで下されよ。』(上つ巻 第三十八帖)

『人の十倍も今の仕事して其の上で神の御用するのが洗濯ぞ、掃除ぞと申して知らした事忘れたか、地に足つけよと申した事判らんのか、百姓になれ、大工になれと申した事判らんのか、青氣(てん)の地もあるぞ、天の百姓、大工もあるのざぞ。善と悪と小さく臣民分けるから判らんのざぞ、大きく目ひらけよ。松食(お)せよ、松おせば判らん病直るのぢゃぞ、松心となれよ、何時も変らん松の翠(みどり)の松心、松の御国の御民幸あれ。』(雨の巻 第十四帖 青氣は原文では「青+氣」の一文字漢字の形)』

『火と水と組み組みて地が出来たのであるぞ、地(つち)の饅頭(まんじゅう)の上に初めに生えたのがマツであったぞ。マツはもとのキざぞ、松植へよ、松供へよ、松ひもろぎとせよ、松玉串とせよ、松おせよ、何時も変らん松心となりて下されよ。松から色々な物生み出されたのぞ、松の国と申してあろが。』(松の巻 第十六帖)

『富士は晴れたり世界晴れ。三千世界一度に晴れるのざぞ。世の元の一粒種の世となったぞ。松の御代となったぞ。世界ぢうに揺すりて眼覚ますぞ。三千年の昔に返すぞ。煎り豆 花咲くぞ。上下ひっくり返るぞ。水も洩らさん仕組ぞ。』(松の巻 第一帖)

Posted on 2016/03/24 Thu. 14:03 [edit]

category: まわりうた

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24

まわりうた 

むさかなた みなてみなかの
  ひかるなる かひのかなみて なみたなかさむ

(武者彼方 皆で真中の 光るなる 歌碑の仮名見て 涙流さむ)

解説

武者(むさ)は「武芸をもって主人に仕え,戦いに従事する人。武士。つわもの。もののふ。むしゃ。」、真中(みなか)は「真ん中。」、なるは「断定を表す助動詞‘なり’の連用形。…である。…だ。」、歌碑は「和歌をきざみつけた碑。」、仮名は「日本で発生・発達した音節文字。平仮名・片仮名の総称。日本語の音節を表すのに,初めは漢字の音訓をそのまま用いた(=万葉仮名)が,それが簡略化されて片仮名が生まれ,一方草書体から草仮名を経て平仮名ができた。仮名文字。和字。国字。」、むは「意志を表す助動詞。…(し)よう。…(する)つもりだ。」の意味です。

余談

この歌は「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX O.S.T」の中にある「Fish - Silent Cruise」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。

ミロクの世では軍備が撤廃されているので「武者彼方」となっている。つまり兵(つわもの)は、兵士は遠い昔の彼方にあった古い職業というわけだ。

Posted on 2016/03/23 Wed. 20:57 [edit]

category: まわりうた

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23

まわりうた 

みなさいき たいきなさいき
  ゆはふけふ はゆきいさなき いたきいさなみ

(皆再起 大儀な再帰 結はふ今日 映ゆき伊弉諾 甚き伊弉冉)

解説

再起は「病気が治って元気になること。」「失敗や挫折から元の状態に立ち直ること。」、大儀は「手間のかかる面倒なこと。骨の折れること。また,そのさま。」、再帰は「再び帰ること。」、結はふ(ゆわう)は「しばる。むすぶ。ゆう。」、映ゆし(はゆし)は「照り輝くようである。まばゆい。」「きまりが悪い。恥ずかしい。照れくさい。」、甚し(いたし)は「すばらしい。感にたえない。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「ハラミ湖」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

日本神話ではイザナギとイザナミの神様が国生みの途中に話がこじれて、千引岩(千人で引かないと動かせないぐらいの大岩)を境に別れ別れになったという話があるが、日月神示ではこの時、時がまた巡りまわってきたら共にその岩の戸をあけましょう、と書かれている。

日月神示参照。

『ここに伊邪那美命 息吹き給ひて千引岩(ちびきいわ)を黄泉比良坂に引き塞(そ)へて、その石なかにして合ひ向ひ立たして つつしみ申し給ひつらく、うつくしき吾が那勢命(なせのみこと)、時廻り来る時あれば、この千引の磐戸、共にあけなんと宣り給へり、ここに伊邪那岐命しかよけむと宣り給ひき。ここに妹(いも)伊邪那美の命、汝(みまし)の国の人草、日にちひと死(まけ)と申し給ひき。伊邪那岐命 宣り給はく、吾は一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)生まなむと申し給ひき。』(日月の巻 第四十帖)

『岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。』(碧玉の巻 第十帖)

ということで、歌の内容はその時がついに巡り来て、イザナギとイザナミの神様が再会された様子をイメージしている。モチーフにした曲も聴いていると、何やら大きな儀式が取り計らわれている感じがしないでもない。

遠い昔の神話の時代、黄泉の国から逃げ帰ってしまったイザナギの神様は、照れながらも輝いたお顔をなされ、イザナミの神様も黄泉の国で見にくいお姿だったのが、見目麗しきお姿で夫神の前に登場なされ、共に厳かな再会の儀に臨まれている様が目に浮かぶようである。

Posted on 2016/03/21 Mon. 15:08 [edit]

category: まわりうた

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