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花鳥風月

気ままに回文歌、いろは歌を書いています。

まわりうた 

なかきよの こむよみちしほ
  のひてきて ひのほしちみよ むこのよきかな

(永き代の 来む世満ち潮 伸びて来て 火の星地見よ 無辜の良きかな)

解説

来む世は「来世。」、無辜(むこ)は「罪のないこと。また,その者。」の意味です。

雑感

今、火星が地球に大接近している。

一般的に火星は戦を連想させる星と言われているが、下記記事(前回火星接近時の2003年~2005年当時)では、火星が地球に接近するとまるでスイッチが入ったかのように地球環境が激変すると書かれている。情報がやや古く、予言的な部分、時期的な部分に関しては外れている所もあるが、おおまかな流れはどんぴしゃりだと思う。

抜粋はしないが、他の箇所では大きい地震が日本とカリフォルニアに起こるとも書かれてある。東日本大震災がすでに起きていることを考えると、今後アメリカで大地震が起こる可能性と、それに伴う全世界への影響を考えておいても損はないように思う。

もしアメリカで大地震が起こるようなことがあれば、3年間持ちこたえられるぐらいの備蓄は必要になってくる。時を経るに従って食料・水その他生活用品は買えなくなると思われるので、そうなった時にはすぐに行動に移すことをお勧めする。対岸の火事と傍観していると、世界最強国家アメリカ没落の余波で、日本の社会情勢も見る見るうちに変化していって、すぐに物は無くなってしまう。一番良いのは、まだ物が溢れている今の今から、それ相応の備蓄をしておくことだ。そうすれば土壇場になっての取り合い、奪い合いに極力参加しなくて済む。

ちなみに次回の火星大接近は2年2か月後の2018年7月31日、その次は2287年8月28日と計算されている。

いよいよ潮が満ちて来た感があるが、神示等を踏まえて総合すると、メグリ(カルマ)の無い者は、神心近くある者は、どのような激変の地でも心配無いと伝えてられている。備蓄も重要だが、やはり身魂を磨いておくことが最強の防御になる。何としてでも自身の身魂を磨き切って、なるべく小難でこの大峠を越えたい限りである。

下記記事参照。

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「9. 母なるガイア 2003. 9.29.」(お土のうたさんより)
http://rokushohblog.blog41.fc2.com/blog-entry-42.html

先日の6万年ぶりの火星大接近は大きな意味を持っていました。火星は激質(動く)ラジャスの星、地球は暗質(止まる)タマスの星、火星は止まっていた地球に、そろそろ動くよう促しに来たのです。

「色んな情報を総合すると今年の秋が本番ですか 2005.10」(お土のうたさんより)
http://rokushohblog.blog41.fc2.com/blog-entry-48.html

2003年8月27日、火星が6万年ぶりに大接近しました。実を言うと、これには、非常に大きな意味がありました。火星は激質(ラジャス)、すなわち動の星、地球は鈍質(タマス)、すなわち静の星、ですが、この時、火星と地球はお互いの性質(グナ)を修正する予定だったのです。具体的には、火星は、その時点から、水をたたえた静かな星へと移行し、逆に地球は、火を噴く動の星へと移行するはずだったのです。がしかし、誰かさんたちが、NESARAシナリオを推進するために、予定をキャンセルしてしまったのです。この結果、それ以後、何らそれらしきことが起きなかったため、大勢の方が気づくきっかけを失い、落第してしまいました。

そして、それから2年2ヶ月後の2005年10月30日、火星が再度接近します。まあ、すぐにどうということはないと思いますが、もし今回邪魔が入らずに、予定通りグナの修正が行われれば、数ヵ月後には、地球は火を噴く動の星へと移行していくことになるでしょう。

「★ 天 変 地 異」(お土のうたさんより)
http://rokushohblog.blog41.fc2.com/blog-entry-40.html

これから起こる天変地異は、人類が造り上げた経済・政治・文化等のあらゆる不完全なモノやコトを短期間でことごとく破壊し、人類を神たる原点にまで一気にたち戻らせる意図のもとにとり行われるものなので、これをどのように表現したらよいものかアレコレ迷うが、一言で言ってしまえば、普段見慣れた世界地図がまるでよその星の地図みたいにガラリと変わってしまう、ようなことがこれから起こるのである。

気の早い霊能者の中には、早々と新世界地図を発表されている方もいるから一度ご覧になってみられることをおススメするが、ひょっとするとあなたの大事なマンションや一戸建ては、海底に沈んでしまって、かわいいお魚さん達のアパートになっている方も少なくないかも知れない。地震はマグニチュードが1違うとエネルギー量が31倍違い、2違うと約千倍、4違うと約百万倍違うそうだが、これから起こる地震はM10とかM11とかが当たり前になる。そうなれば、あちこちの地面がパカッと割れて、下から赤いマグマがワンサカ出てくることになるのだろう。

宇宙空間から地球を眺めれば、昼間青い地球は夜になると赤くなり、ウットリするほど魅力的に見えるのだろうが、下に居る者にとっては、それこそ炎熱地獄そのものである。世界中の火山活動により、大量に大気中に噴き上げられた火山灰は、太陽光を遮り昼でも暗くなるが、これが暴風・暴雨をもたらし、あらゆる作物をなぎ倒し、世界はまたまたく間に飢餓につつまれる。

ヨハネの黙示録にはこの辺のところが詳しく述べてあるので、この先を知りたい方は研究してみたらよいが、いずれにせよもうまもなく、人類全員参加型の ”この世の地獄巡りのツアー” が始まる。多分ツアーは2回あり、1回めのツアーは苦百苦十苦日間続き、草を枕に青空ホテル、ベッドは地ベタで毛布なし、シャワー・風呂なし、食事ヌキの超ハードなツアーになるだろうが、事前にしっかりとした準備をして元気で生還し、来る2回めのツアーにのぞんで頂きたい。

2回めのツアーについては、どのように推移するかは人類が放出するカルマに大きく左右されるので、詳しい言及は差し控えるが、このHPをご覧の皆様のご健闘を心よりお祈り申し上げる。(地殻に蓄えることができるエネルギーの理論的限界値は、地殻の平均的な弾性限界から、従来5×10の24乗エルグ、すなわちマグニチュード8.6相当がこれまで限界とされていたが、今後はそれを上回るものが発生するのである)

「《2005年9月15日》」(お土のうたさん)
http://rokushohblog.blog41.fc2.com/blog-entry-47.html

大混乱は、人間を短期間で変えるための最良の方法である。激変こそが、人間の本質である、善き事をする意思、を表面化させ、人間の意識をクリアーにすることが出来る。これより、最短7年から最長12年の間で変化は完了する。この間、天変地異、核戦争、彗星の衝突のうち、必ずひとつは起こる。もし核が使われた場合、終焉は恐るべき速さでやってくる。今から3年後には、人類の三分の一が淘汰されている可能性がある。また、2007年から2012年の間に、人類の三分の二は淘汰されているだろう。2005年から、人間のDNAの変化が本格化する。また、2007年からは、大気の組成や、重力・引力が変化する。大規模な地表の作り変えが行われるので、世界地図は一変する。そうした変化に対応できるよう、今から準備した方が良い。仕事が無い、食べ物が無い、電気が無い、といった状況に備えなさい。地表で安全な場所は、どこにも無い。光を保持するものだけが、どこにいても無害である。彼らは、大いなる方から守られている。火山の噴火も、核爆発も、彗星の衝突も、みな光である。これから、そうした強大な光が、触れるもの全てを変えていく。そして、地球は火とクリスタルの領域になる。いにしえからの預言は全て成就する。

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Posted on 2016/05/31 Tue. 10:15 [edit]

category: まわりうた

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31

まわりうた 

なかきよの せいけんてらす
  たひらそら ひたすらてんけ いせのよきかな

(永き代の 聖言照らす 平ら空 一向天下 伊勢の良きかな)

解説

聖言は「聖人の言葉。また,天子の言葉。」、平ら(たいら)は「平らな場所。平地。」、一向(ひたすら)は「すっかり。全く。」、天下(てんげ)は「天の下に広がる全空間。世界中。てんか。」の意味です。

雑感

この歌は、WAVEのアルバム「Citra re:verse -其歌は真言顕す欠片と為りて-」の中にある「天照大御神-AMATERAS SYSTEM-」~「月読命-TSUKUYOMI SYSTEM-」~「須佐能乎命-SUSANOWO SYSTEM-」を聴きながら、下記記事を見てそれをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2016/05/30 Mon. 19:01 [edit]

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30

まわりうた 

なかきよの せいちみなかり
  かひのその ひかりかなみち いせのよきかな

(永き代の 政治皆仮 佳美の苑 光かな道 伊勢の良きかな)

解説

政治は「統治者・為政者が民に施す施策。まつりごと。」「国家およびその権力作用にかかわる人間の諸活動。広義には,諸権力・諸集団の間に生じる利害の対立などを調整することにもいう。」、佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、苑(その)は「庭。庭園。また,花・野菜・果樹を栽培する区域。」、光りかは「光り輝くように美しいさま。」の意味です。

余談

この歌は、WAVEのアルバム「Citra re:verse -其歌は真言顕す欠片と為りて-」の中にある「天照大御神-AMATERAS SYSTEM-」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

神の国にはただマツリがあるだけという。つまり真釣り事(まつりごと)である。政治経済は二義的なものであり、政治ための政治、学問としての経済ではない。早く何もかも無料で与えて、税金の無い政治に移行することを強く望むばかりだ。神示では与える政治と表現されている。

皆タダ働きとなるが、天地と他人に奉仕できる喜びを知り、また全てが無料になることで、今までの要らない仕事が劇的に減って、皆1~2時間ほどで有り余るようになる。

お金が無くなって税金無くなれば、決算書も要らないので経理が要らない、複雑な確定申告の手続きも要らない、節税対策も要らない、スーパーのレジ打ちも要らない、過剰な広告も要らない、豊作貧乏にもならない、家賃光熱費が無くなるので生活に困窮しない、自然と必要な所へ必要なだけ物やサービスが行き渡るので過剰な消費を促すこともそれに追い立てられることもない、お金が要らないのでそもそも泥棒や詐欺をする必要がない、貧困で女性が風俗に働きにいく必要もない、乗り物も無料なので気軽にどこでも遊びにいける。その他、ちょっと考えれば今の経済とは全く逆の、良い事尽くめなのは明らかだ。

日月神示参照。

『天国の政治は、歓喜の政治である。故に、戒律はない。戒律の存在する処は、地獄的段階の低い陰の世界であることを知らねばならない。天国の政治は、愛の政治である。政治する政治ではない。より内奥の、より浄化されたる愛そのものからなされる。故に、与える政治として現われる。天国は、限りなき団体によって形成されている。そして、その政治は、各々の団体に於ける最中心、最内奥の歓喜によりなされるのである。~中略~。これらの統治者は権力を奪することなく、また指令することもない。よりよく奉仕するのみである。奉仕するとは、如何にしてよりよく融和し、善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなし、これらの総てを神の力として生かし、更に高度なる大歓喜に到らんかと努力することである。また統治者自身は、自分達を他の者より大なる者とはせず、他の善と真とを先とし、その歓喜を先ずよろこび、己はその中にとけ入る。故にこそ、統治者は常にその団体の中心となり、団体の歓喜となるのである。指令することは、戒律をつくることであり、戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っている。天国に於ける政治の基本は、以上の如くであるが、更に各家庭に於ては、同一の形体をもつ政治が行なわれている。一家には、一家の中心たる主人、即ち統治者がおり、前記の如き原則を体している。またその家族たちは、主人の働きを助け、主人の意を意として働く。その働くことは、彼等にとって最大の歓喜であり、弥栄である。即ち、歓喜の政治であり、経済であり、生活であり、信仰である。』(地震の巻 第十九帖)

『富士とは火の仕組ぞ、渦うみとは水の仕組ぞ、今に分りて来るのぞ。神の国には、政治も経済も軍事もないのざぞ、まつりがあるだけぞ。まつらふことによって何もかもうれしうれしになるのざぞ。これは政治ぞ、これは経済ぞと申してゐるから「鰻つかみ」になるのぞ、分ければ分けるほど分からなくなって手におへぬことになるぞ。』(天つ巻 第三十帖)

『われよしの政治ではならんぞ、今の政治経済はわれよしであるぞ。臣民のソロバンで政治や経済してはならんぞ、神の光のやり方でないと治まらんぞ、与へる政治がまことの政治ぞよ、臣民いさむ政治とは上下まつろひ合はす政治のことぞ、日の光あるときは、いくら曇っても闇ではないぞ、いくら曇っても悪が妨げても昼は昼ぞ、いくらあかりつけても夜は夜ぞ、神のやり方は日の光と申して、くどう気つけてあらうがな。政治ぞ、これは経済ぞと分けることは、まつりごとではないぞ。』(地つ巻 第十八帖)

『今の政治はむさぶる政治ぞ、神のやり方は与へぱなしざぞ、@(ウズ)ぞ、マコトぞ。今のやり方では世界は治まらんぞ、道理ぢゃなあ。天にはいくらでも与えるものあるぞ、地にはいくらでも、どうにでもなる、人民に与へるものあるのざぞ、おしみなく、くまなく与えて取らせよ、与へると弥栄へるぞ、弥栄になって元に戻るのざ、国は富んで来るぞ、神徳 満ち満つのぢゃ、この道理判るであらうがな。取り上げたもの何にもならんのぢゃ、ささげられたものだけがまことじゃ、乗るものも只にせよ、田からも家からも税金とるでないぞ、年貢とりたてるでないぞ、何もかも只ぢゃ、日の光見よ、と申してあらうが、黄金(きん)はいらんと申してあろが、暮しむきのものも只でとらせよ、只で与へる方法あるでないか、働かん者食ふべからずと申す事 理屈ぢゃ、理屈は悪ぢゃ、悪魔ぢゃ、働かん者にもドシドシ与へてとらせよ、与へる方法あるでないか、働かんでも食べさせてやれよ、何もかも与へぱなしぢゃ、其処に神の政治始まるのぢゃぞ、神の経済あるのぢゃ。やって見なされ、人民のそろばんでは木の葉一枚でも割出せないであらうが、この方の申す様にやって見なされ、お上は幸でうもれるのぢゃ、余る程与へて見なされ、お上も余るのぢゃ、此の道理判りたか。仕事させて呉れと申して、人民 喜んで働くぞ、遊ぶ者なくなるぞ、皆々神の子ぢゃ、神の魂うゑつけてあるのぢゃ、長い目で見てやれ、おしみなく与へるうちに人民 元の姿あらはれるぞ。むさぶると悪になって来るのぢゃ、今のさま見て改心結構ぞ、そろばん捨てよ、人民 神とあがめよ、神となるぞ、泥棒と見るキが泥棒つくるのぢゃ、元の元のキの臣民 地(くに)の日月の神ぢゃと申してあろがな。』(光の巻 第三帖 @は原文では「渦巻き」の形)

『まつりてない時はお日様とお月様おろがめよ、マトとせよ。裁判所(しらす)いらんぞ、牢獄(ろうや)いらんぞ、法律いらんぞ、一家仲ようしたらいらんのぢゃ、国も同様ざぞ。そんな事すれば、世の中メチャメチャぢゃと申すであらうが、悪人がとくすると申すであろが、誰も働かんと申すであらうが、与へる政治だめぢゃと申すであろ、人間の小智恵ぢゃ。其処に人間の算盤(そろばん)の狂うたところ気付かんか、上に立つ人もっともっと大き心 結構ぞ、算盤なしで梶とらすぞ、神の申す通りに進むのぢゃ、これが出来ねば一段さがって頭下げてござれ、余り大き取違ひばかりぢゃぞ、悪の守護となってゐるからぢゃ、此処の道理判るまでは動きとれんのぢゃぞ。世界国々所々に世の大洗濯知らす神柱(かむはしら)現はしてあろが、これは皆この方の仕組ぢゃから、皆 仲良う手引き合ってやって呉れよ。』(光の巻 第四帖)

『金(かね)いらん事になると申してあろが、世界の人民 皆青くなって、どうしたらよいかと何処尋ねても判らん事近づいたぞ、早うこの神示読ましてくれよ、神の心が九分通り臣民に判りたら、神の政治判るのぢゃ、与へる政治いくらでもあるぞ、一通りと思ふなよ、時と所によっていくらでもあるのぢゃ、つまることない神のまつりごとぢゃ。人民の政治 神国には用いられんのぢゃ、三千世界天晴れの政治 早う心得て、まつり呉れよ。悪神の眷族はまだよいのぢゃ、箸にも棒にもかからん、話の判らん動物霊に化かされて、玩具(おもちゃ)にされてゐて、まだ気付かんのか、神は何時迄も待たれんから、こんな身魂(ミタマ)は一所に集めて灰にするより他ないから心得て居りて下されよ。』(マツリの巻 第七帖)

『我が勝手に解訳してお話して神の名汚さん様にしてくれよ、曇りた心で伝へると、曇りて来る位 判って居ろがな、神示通りに説けと申してあろが、忘れてならんぞ。履物も今に変って来るぞ、元に返すには元の元のキのマヂリキのない身魂と入れ替へせねばならんのぢゃ、ゝ(タマ)が違って居るから世界中輪になっても成就せん道理分るであろがな、一度申した事はいつまでも守る身魂でないと、途中でグレングレンと変る様では御用つとまらんぞ、人力屋、酒屋、料理屋、芸妓(げいこ)屋、娼妓(しょうぎ)、無く致すぞ、世つぶす基(もと)ざぞ、菓子、饅頭も要らんぞ、煙草もくせぞ、よき世になったら別の酒、煙草、菓子、饅頭出来るぞ、勝手に造ってよいのざぞ、それ商売にはさせんぞ。』(空の巻 第十三帖 娼妓は「公認の売春婦。公娼。」のこと)

『神の世と申すのは、今の臣民の思ふてゐるやうな世ではないぞ、金(きん)は要らぬのざぞ、お土からあがりたものが光りて来るのざぞ、衣類たべ物、家倉まで変るのざぞ。草木も喜ぶ政治と申してあらうがな、誰でもそれぞれに先の分る様になるのぞ。お日様もお月様も海も山も野も光り輝いて水晶の様になるのぞ。悪はどこにもかくれること出来ん様になるのぞ、ばくち、しょうぎは無く致すぞ。雨も要るだけ降らしてやるぞ、風もよきやうに吹かしてやるぞ、神をたたえる声が天地にみちみちて うれしうれしの世となるのざぞ。』(天つ巻 第二十帖)

『今の経済は悪の経済と申してあろがな、もの殺すのぞ。神の国の経済はもの生む経済ぞ。今の政治はもの毀(こわ)す政治ぞ、神の政治は与へる政治と申してあろが。配給は配給、統制は統制ぞ。』(日月の巻 第六帖)

『瓜(うり)の蔓(つる)に茄子(なす)ならすでないぞ。茄子には茄子と申してあろがな。味噌も糞も一つにするでないぞ。皆がそれぞれに息する道あろがな。野見よ森見よ。神の経済よく見よ。神の政治よく見て、まことの政治つかへて呉れよ。すべてにまつろう事と申してあろがな。上に立つ番頭殿 目開いて下されよ。間に合はん事出来ても神は知らんぞ。神急(せ)けるぞ。役員も気配れよ。』(日月の巻 第八帖)

『学も神力ぞ。神ざぞ。学が人間の智恵と思ってゐると飛んでもない事になるぞ。肝腎の真中なくなりてゐると申してあろが。真中動いてはならんのざぞ。神国の政治は魂のまつりことぞ。苦しき御用が喜んで出来る様になりたら、神の仕組判りかけるぞ。何事も喜んで致して呉れと申してあろがな。』(日月の巻 第十一帖)

『慌てて動くでないぞ。時節が何もかも返報(へんぽう)返しするぞ。時の神様 有難いと申してあろがな。神は臣民から何求めてゐるか。何時も与へるばかりでないか。神の政治、神国の政治は与へる政治とくどう申してあろがな。今の遣り方では愈々苦しくなるばかりぞ。早よう気付かぬと気の毒出来て来るぞ。金いらぬと申してあろが。』(日月の巻 第十六帖)

『神の道は一筋ざと申してあろが。何なりとそれぞれの行せねばマコトのことは出来んのざぞ、世界の片八四浜辺からいよいよが始まると知らしてあること近うなりたぞ、くどい様なれどさっぱりと洗濯してくれよ、神の国は神のやり方でないと治まらんから今までの法度(はっと)からコトから、やりかたかえて、今迄はやりかた違ってゐたから、神のお道通りに致しますと心からお詫びせねば、する迄 苦しむのざぞ、この苦しみは筆にも口にもない様なことに、臣民の心次第でなるのざから、くどう申してゐるのざぞ、何も彼も神にささげよ、てんし様にささげよと申してあろがな、それが神国の民の心得ぞ、否(いや)でも応(おう)でもそうなって来るのざぞ。神国の政治経済は一つざと申してあろうがな、今の臣民に判る様に申すならば、臣民働いてとれたものは、何でも神様にささげるのざ、神の御社は幸でうづもれるのざぞ、御光輝くのざぞ、光のまちとなるのざぞ。神からわけて下さるのざぞ、其の人の働きによってそれぞれに恵みのしるし下さるのざぞ、それがお宝ぞ、お宝 徳相当に集まるのざぞ、キンはいらんと申してあろがな、元の世になる迄に、さうした事になって それからマコトの神の世になるのざ。神の世はマツリあるだけぞ、それ迄にお宝下さるのざぞ、お宝とは今のお札(さつ)の様なものざぞ。判る様に申すなら、神の御社と臣民のお役所と市場と合した様なものが、一時は出来るのざぞ、嬉し嬉しとなるのざぞ、マコトのマツリの一(ハジメ)ざぞ。このことよく肚に入れて一二三(ひふみ)として説いて、早う上の守護人殿にも、下の守護人殿にも知らして、安心して、勇んで暮す様にしてやりて下されよ。それも臣民の心次第、素直な人、早う嬉しくなりて、心勇むぞ、さびしくなりたら たづねて御座れと申してあろがな。』(磐戸の巻 第十三帖)

『火と水と申してあろがな。火つづくぞ。雨つづくぞ。火の災(わざわい)あるぞ。水の災あるぞ。火のおかげあるぞ、水の災 気つけよ。火と水 入り乱れての災あるぞ、近ふなりたぞ。火と水の御恵みあるぞ。一度は神の事も大き声して云へん事あるぞ、それでも心配するでないぞ。富士晴れるぞ。家族幾人居ても金いらぬであろが。主人(あるぢ)どっしりと座りておれば治まっておろが。神国の型 残してあるのざぞ。国治めるに政治はいらぬぞ、経済いらぬぞ。神おろがめよ、神祭れよ、てんし様おろがめよ。何もかも皆神に捧げよ、神からいただけよ。神国治まるぞ。戦もおさまるぞ。今の臣民 口先ばかりでまこと申してゐるが、口ばかりでは、なほ悪いぞ。言やめて仕へまつれ。でんぐり返るぞ。』(水の巻 第十三帖)

『神の国の政治は、もの活かす政治と申してあろが、もの活かせば、経済も政治も要らんぞ。金もの云ふ時から、物もの云ふ時来るぞ。誠もの云う時来るぞ。石もの云ふ時来るぞ。』(松の巻 第五帖)

『このたびの岩戸開きは、なかなかぞと申してあろが、見て御座れ、善一筋の、与へる政治で見事建替へてみせるぞ。和合せんとまことのおかげやらんぞ、一家揃ふたらどんなおかげでもやるぞ。一国そろたらどんな神徳でもやるぞ、おのづから頂けるのざぞ。神いらん世にいたして呉れよ。』(風の巻 第十三帖)  

『悪の総大将は奥にかくれて御座るのぞ。一の大将と二の大将とが大喧嘩すると見せかけて、世界をワヤにする仕組、もう九分通り出来てゐるのぢゃ。【真の理解に入ると宗教に囚はれなくなるぞ。形式に囚はれなくなるぞ】。真の理解に入らねば、真の善も、真の信も、真の悪も、真の偽りも判らんのぢゃ。今にイワトひらいてあきらかになったら、宗教いらんぞ。政治いらんぞ。喜びの歌高らかにナルトの仕組、二二(フジ)にうつるぞ。』(黒鉄の巻 第十四帖)

『他力の中の自力ぢゃ。ぢゃと申して、まかせきったと申して、ふところ手ならん。自力大切ぢゃ。まつりは常住坐臥にあるぞ。拝むばかりではならん。【拝むまつりはまつりのカタぢゃ】。カタから入るのが入り易いが、この程度の境地では戒律いるぞ。カタに囚われてはならん。戒律の世界にいつ迄もいてはならん。十年たてば十才になるぞ。恩、知らねばならん。恩に報ひなければならんぞ。人民、天地の恩 忘れているから、喜び少ないのぢゃ。ものの順序わきまえねばならん。悪平等ならん。政治や経済は裏、二義的のもの。』(春の巻 第二十帖)

『与へよ、与へよ、与へよ、与へる政治と申してあろうが。戦争か平和かと人民申してゐるなれど、道はその二つでないぞ、三が道と、くどう申してあろう。水の外道の武器と火の外道の武器の他に、新しき武器気づかんのか。神示よく読めば示してあるのであるぞ。ほかに道ないと きめてかかるから判らんのざ。生れ赤児になれば判るぞ。』(春の巻 第四十三帖)

火水伝文参照。

「 心濁らずば魂濁らず。魂もともとスミキリて居る。心濁らずばマハタラキ成るのぞ。心濁るは《囚われ》しが由なるぞ。心魂濁るれば言魂濁るのじゃ。言魂濁るれば不調和産むだけぞ。汝等皆々言魂スミキリて神に真釣り人に真釣りて好きなハタラキ成すなれば、汝等に出来ぬ事など無きが世と知りて解かりて下されよ。
 神、汝等の申せし理想語りておるのでないぞ。汝等食らうことなど自然と真釣り合わせつれば足ることぞ。神と人、真釣り合えば、ほんのチョットの嬉し楽しのお手伝いで済むことぞ。汝等の時間でいうならば日々一~二時間のことで有り余るのぞ。後は汝等の好きなことして良いのざぞ。食らう事から自由になれるのぞ。食らう事から自由になるれば、人民様ワレもワレもハタラクさせくれよと申し来るのぞ。汝等のハタラキ輝くぞ。今の今でもこれできるのぞ。マコトぞ。
 今の今も汝等の食らう分、有り余れる程に用意してあるのじゃぞ。天恵、誰のものでもないのじゃ。気候、風土誰のものでもないのと同じ事ぞ。誰のものでもないが由、そのお土に生まれし汝等、その地にあるもの好きなだけ自由に食らうて良いのざぞ。人、食らう量限りあるぞ。天恵限りないのぞ。限りあると思うこと『あやま知』なるぞ。限りあると申しつること『あやま知』の信奉者なるぞ。汝等働かずば食らう事出来なくなりたるは、汝等働かずば困る者の図りし事ぞ。そは『あやま知』操りし者どもの、成せしが悪しき業なるぞ。」

「 汝は知らず、気付かず。汝の真中に座し座すモノがマコトのモノで無いなれば、総てが総て知らず身欲に仕え魔釣る様になりてしもうのじゃ。真中に座し座す尊きは、マコト火の位の至誠にておわすなれば、心スミキリあらねば適わぬ事ぞ。
 汝等皆々それぞれにマコト聞きワケ護持致し、二(フ)の座、幽の座、心の座、こ度真中の要石、曇りハライて水晶のスミキル素型と鳴り鳴らし、ハキリタテワケ鳴りた火と、マコト組み組み組み結ぶ、水の清きを取り戻す、透け切る一二三(ヒフミ)の神と鳴る。解かりたでござろうか。フミにてマコトを聞きワケて、心の曇りを一つずつ、ハライ落として下されて、見え来るマコトを護持致し、口と心と行いを、違わず顕すそのことが、こ度の汝のタテカエにござるのぞ。タテカエ進みたそれ相応、真中のマコトが肥え太り、段々、真釣りが解かりて来るから、マコト真釣るが進みて参りて、ものごとも楽に進む様に鳴り成りて来るぞ。それまでのひと苦労ふた苦労申して居るのじゃ。苦労の多きはまだまだに、曇りマ釣りて居る由と、自ら厳しく清まるが至誠至楽に至るミチじゃ。励みて下されよ。
 大事なことを申して置くぞ。汝等を至誠至楽に導く、三真釣り鳴り成すに外すは適わぬ基の事であるぞ。外すは適わぬ基申すは元つ天地のご恩の事じゃ。マコト大事な事にてござるのぞ。汝等の思いも及ばぬ、真釣るに外せぬ、大き要のおイノチにござるから、簡単な言魂思いて軽く聞き流し居りては、すべての総てが水の泡と成りてしもうから、一度で取りて真ス直に行じて下されよ。汝等皆々忘れて居りた元つ天地のご恩を今今にハキリ気付きて、汝は知らず冒したとは申せ、汝が産みなされし初発より今今の今に至る迄の、汝の成せしご無礼の数々を、これよりは産な心に立ち戻りて深きお詫びを結ばねば、こ度の後は無きが世と知りて解かりて下されよ。マコト、マコト外せぬ大事なことにてあるを知りて下され。
 汝は知らず、親のご苦労を土台に致して、踏みつけに致して、なお解からず身欲に走りて不平不満を言うて居りたのぞ。子が親を殺すも今世の型示しにござるのじゃ。今世の人民様の有りザマ申すは、皆々九分九厘取り違え致し居りて、身欲を基の生きザマに逆転致して居るが由、天地に仇成すお子と成り果て居るのじゃ。今のままにありては天地の御祖を殺すがオチぞ。御祖を殺してご自身が在ると思いてか。身欲の所行申しても程があろうぞ。神が無くれば何も無い申して居ろうがな。親にお子を殺させる様な惨き真似、させんで下されよ。神、頼むぞ。
 今生の我の身には覚え無き事じゃ、我は清く正しく生きて居る。なぞ恥ずかしき申しザマするで無いぞ。神、恥ずかしいぞ。神の民が恥ずかしきザマに在れば、この方も恥ずかしい申したであろうがな。数うも適わぬ永き幾転生再生におきて、汝が元つ天地のご苦労を感謝も無しに、当然の事と致して、無断で盗み生きた事どもは消せぬ事実にござるのぞ。無から有を創り出せぬ者どもが何故に生きて居られるか、生かされあることに気付きて下されよ。この世に在りて有るものは、木の葉一枚、髪の毛一本、砂利粒一つ、神のものにてあらざるものは何一つあるは適わぬ事なれば、人民様のものは何一つ有りはせんのぞ。無から有を産み出す適わぬ人民様でござるから、元つ資源の【有】持ちて、有なる物々作りておるのでござろうが。汝等支える【元つ有】このまま一挙に引き上げられて、汝等いかで生き行く申すのぞ。そ程大事な元つ天地のご苦労を、身欲利便の好き放題、勝手に持ち荒らしたを泥棒と、申すも尽きせぬ悪き業でござろうが。そを、こは我のものじゃ。こも我のものじゃ等申して、神に無断で勝手に所有致した挙げ句、売り買い致して、相い争うて息も出来ぬ程の我利我利の世と成さしめしもうたではござらぬか。いかで天地を売り買い出くるのぞ。この方、誰ぞに売りた覚えも無くれば、誰ぞから買うた覚えもござらんぞ。無から創りたのじゃ。元つ火の響き鳴り鳴りお出ましなされてお鳴りに成られたのであるぞ。大神様の清き尊き響きを汚すも好い加減にしなされよ。世も持てぬ《我善し》力の天下の大泥棒を魔釣り上げ、『魔釣る経綸』の仕組みある、仕立てし使い魔なる金に、たぶらかされて踊らされ、身も心も腐り切り、挙げて天地を持ち荒らす。身欲に使われるお金も哀れであるが、お金の要るのも今暫しじゃ。マコトは金では買えぬが由じゃ。
 よう聞きあれよ、この天と地に、売り買い出くるものは何一つありはせんのぞ。なれば汝等の有りザマはオカシキ事にてあるを知りて下されよ。そんな事は解かりて居る申すその口、その先で、一筋のマコトもなさず、楽な道ばかりを探し居るはトコトン性根の腐りた証と取りて異存はなかろうな。そんな積もりは無かりた、申し訳無くありた思える鳴れば、産な心に立ち戻り身欲が成せし悪き業、今、今、今に、気付きあるが大事にてあるのじゃ。成せし来た事どもは消せぬ響きにござるから、元つ天地の大神様に、心底からの深きお詫びと感謝の響きを日々に鳴し出されて、これよりは天地の理法に違わぬ、強きス直な性根を磨き出される様、意乗り行じて下されよ。三真釣り持ちてなさるがマコトぞ。解かりたでござろうな。それ無くば、汝の成し来たケガレし響き、一挙に一度で渡すその他に、ケガレ真釣ろうミチは無いのぞ。今今ここに至りて尚、困らせねで下されよ。
 元つ天地のご恩の事をくどくど申し参りたは、汝の【口・心・行】を違えず一如と鳴し行く三真釣りを、護持ご守護致すは改心の、深き浅きで決まりて来るからくどう申して居るのじゃ。改心出くるそれだけで、真釣るを外すが無うなりて来るのぞ。マコトの改心が強き支えと成り鳴りて下さるを、ゆめお忘れ下さるなよ。天地の総ては真釣りあるだけなれば、真釣りが真釣りを助けてくれるのじゃ。
 マコト真釣ろうてあれば、たとえ汝が暑き地にあろうが、寒き地にあろうが、汝に暑き寒きは無いのぞ。そは汝が暑き思わば涼けさが寄りて参るからぞ。汝が寒き思わば暖かきが添いて来るのじゃ。今ザマの汝等に、こを解かれ申すはご無理ご難題なるを知りては居るなれど、こが如きがウソにてあらば、この世に神は座しまさん。真釣り申すは歓喜弥栄じゃ申して居ろうがな。不都合はどこにも無いのじゃ。今ザマの如くに、汝ご自身が暑きを避け寒きを避けむ必要はどこにも無いのじゃ。なれど身欲に囚われあれば話は別じゃ。
 人民様はこに囚われあるから、我知らずとんでもないことを平気で成し参り来たのであるよ。在りて有る総ての響きは大神様の授けものじゃ。そが由、総てに感謝致し一如に真釣ろうが、生かされある汝等の初発のミチにありたものを、汝等は真先に身欲に走りたのじゃ。身欲と感謝は裏表にござれば、感謝あれば身欲生ぜず。身欲あれば感謝生じぬのじゃ。こは解かるでござろうが。感謝は一如に真釣ろう響きにて、身欲はどっちが損か得か、どっちが苦か楽かに分かれ進む分裂の響きにてあるぞ。こが汝等の使い居る知恵の基にござるぞ。こを『分かつ知』申すなり。末代一如に真釣ろえぬ響きでござるよ。こが『あやま知』産み成す母体にてござるのじゃ。汝等が《身欲》囚われ居るから、せっかくのアタマが『あやま知』に走るのじゃ。もったい無い事をなさらいで下されよ。
 善いか、汝等はどっちが苦か、どっちが楽かの快欲に囚われて居る由、総てを二つに分け進み行くのであるよ。神々も汝等も、自らにご苦労致して産まれ出られた訳ではござらぬから、初めから真釣るマコトを知り得ぬも無理なくありたなれど、ちいとはご苦労なされてみれば、感謝の響きも鳴り出して、真釣ろう響きに入るも出くたでござろうに、汝等は楽ばかりを追い求める様になりたが由、苦を知る事になりたのじゃ。感謝の一如に真釣ろう響きにあれば、苦楽一如にあるだけなれば、苦も楽も知る事は無かりたのであるぞ。苦楽に分裂する事は無かりた申して居るのぞ。至楽あるのみでござりたのじゃ。なれど汝等は身欲の分裂する響きに入りて居りた由、どっちが楽かと比ぶるから、楽を知るのに苦も知る事になりてしもうたのじゃ。既にこに感謝の響きは無かろうまい。『分かつ知』で知る言うは、一如に真釣ろうハタラキを二つに分けて知る申す事にてあるのぞ。どっちが早きか比ぶるから、遅きも知る事になるのじゃ。どっちが善きかと比ぶるから、悪きも知る事になるのであろうがな。こも既に感謝の響きは無かろうぞ。心が曇りたが由でござるよ。苦ある悪ある申すなれば、そは『一如に真釣ろう響きを分け知りた』そが事にてごぎろうが。そが真釣りを外した証にてもあるのざぞ。そが汝等の知恵の正体にてもござるのじゃ。なれば『苦』申すは、そが知恵で汝等ご自身が創り出した『苦』なるを知りて下されよ。元つマコトの神真釣りには『苦』は影さえ無いからであるぞ。なれば初発の『苦』より今今に至る総ての『苦』申すものは、そこそ総て汝等の創り出せし『苦』にてあろうがな。こはゆめ忘れて下さるなよ。今に至りては『苦』あるを当たり前ざ思いてござらぬか。『苦』を『楽』に変え行くが人生ざ思いてござらぬか。よう曇りなされたなぁ。
 汝等は『苦』を自らの力にて、『楽』に変え来た如く思い成して居られようが、そうでは無いぞ。逆さじゃ。『楽』に変えた思いて『苦』を創りて居るのじゃぞ。善いか、よう聞きやれよ。自らが創り出せし『苦』を、そも元々無きが『苦』を、『楽』に変え行く申すは、いかなる事にてござろうか。自らが創り出せし『苦』申すは、真釣りを外したが由に現れたのでござるから、汝等のどちらが楽じゃ、どちらが得じゃと比ぶる『あやま知』分かつやり方で、いかで『楽』に変え行く申すのぞ。真釣りを外すやり方では、なさり様が逆様でござろうが。そは『苦』を『楽』に変え行きたにあらざるぞ。現れなされた『苦』を更に、新たな『苦・楽』に分けしめて、新たな『楽』を選び作りたに過ぎぬのじゃ。そは更に『あやま知』病みた申す事にてござろうが。真釣りを更に外し行きた事にてござろうが。真釣り外せば、情けのメグリが『苦』となりて、真釣り外したる事どもを、知らせ参るがお仕組みなれば、そは、新たな『苦』を自ら呼び入れた申すに同じ事にてござろうが。汝等は生くるに現る『苦』を更に、身欲を基の『苦』と『楽』の二つに新に分け進みて参りたのじゃ。ちいとも初発の『苦』は真釣ろい戻れぬばかりか、汝等が『分かつ知』で進めば進む程、新な『苦』を創り続けて参りた申すも解かるでござろうが。逆に分け進みた事どもを、一つに集めなおせば良い等と情け無きことを申して下さるなよ。同じ事じゃ。分け知る世界が見え来るだけで、『苦』はちいとも減りもさん。増えるだけぞ。末代真釣る一如には、至れぬ愚かな浅知恵じゃ。人民様、時が無いのじゃ。好い加減に目を覚まして下されよ。メグル苦楽の輪廻に入りてしもうて居るぞ。」

「 汝等は苦の現れたる初発から、既にして取り違え致すのじゃ。生かされあるが真釣りなるを、少しでも知りて居りたなれば、苦、現れ来たりなばマコトのミチを外した証にござるから、真先に元つ天地のコトワリにお詫びを致し、ご恩に感謝の響きを成り鳴らし、三真釣るご苦労をなされるが、汝等のなさる初発の事にありて、そがメグリ現れ来たる苦を、響きにて真釣ろい和す事になるも、解かりたでござろうに。汝等は、真先に苦から逃れんと、お詫びと感謝を置き去りに、身欲に走りたその場から、魔釣りの虜と成り果てしもうのであるよ。メグリに処するに真釣りて参るか、魔釣りて参るか。生かしある神に委ぬるか、自ら生きある如くの人知に委ぬるか。神に委ねて真釣ろいあらば、総ては神がピタリ、ピタリと真釣ろうて、金でも、物でも、食べ物でも、要る時に要るだけのご用意を致して下さるのじゃ。こ度タテカエ真中にありても、変わる事無き真釣りの響きぞ。人知に委ねて魔釣ろいあらば、総ては真釣り外れて滅ぶのみ。人知申すは真先にありてはならんなり。真先に神に真釣ろうて、初めて真釣ろう智恵の響きと鳴りなさるのじゃ。言の葉のカタチから入りてはならん申すも同じ事ぞ。言魂の響きより入らねばならん申す事、解かり取りて下されよ。ス直にありせば出くる事ぞ。
 汝等の便利、利便申す事どもは、メグル情けに現れた、真釣りを戻すご苦労の、苦から逃れる手立てにて、『あやま知』使うて織り成した、メグリ逆巻く文明と、呼ぶが魔釣りの魔姿と、知りて解かるが汝等の、こ度外せぬ踏み絵にござるぞ。
 こ程言うて聞かせても、苦を逃れん思うのどこが悪きかと申さるる、曇りに曇りた人民様、数多居られる由、神も閉口ぞ。善いか、この方は苦から逃れるをオカシキ事じゃ申して居るので無いぞ。よう聞きやれよ。この世申すは神が無くれば何も無い伝え知らせあろうがな。そは万象万物申すは総て神、言うに同じ事ぞ。神、申すは真釣りそのものにござるから、万象万物申すも総て真釣りそのものにてござろうが。されば汝等皆々も、尊き真釣りそのものにありてござるを是非是非に、知りて解かりて下されよ。【真釣り】申すは、生かされあるそのままに全くの至美至善、至楽至便、歓喜弥栄の響きにてあれば、『苦』の影さえ入れぬ、尊き響きにてござるのじゃ。なれば『苦』が出くるが、そもオカシキ事にてあると、思い至るも出来ようが。汝こを取り違え致し居りては末代真釣りに至れぬぞ。
 汝等は永き幾生を魔釣りた世に生きて居られたから、人の世申すを苦界の如き申しザマで、『苦ある』を当たり前と思い成されて居られるが、仏魔にすっかりだまされて居るのじゃぞ。そは真っ赤なウソにてござるぞ。【苦なき】が当たり前にてござるのじゃ。【苦なき】が当たり前にてござるから、『苦』がある事がオカシキ事じゃと気付けるのであろうが。『苦ある』を当たり前と思い成されて居られては、『苦』がありてもオカシキ事とは気付けまいが。今までは『苦ある』を当たり前の如くに思いなされて居りたから、『苦』現れ来たりても、オカシキ事とも気付けずに、唯ただあきらめ苦悩から、逃れる身欲な信仰に、走り曇りて参りたのじゃ。自らが真釣りを外したが由に訪れた【情けのメグリ】を心から、知りて解かりて居りたなら、詫びる事なく唯ただに、真先に逃れんと欲するを、身欲と申すも解かるでござろうが。苦あるを当たり前と思いて居りては、マコトの改心は出来ようまい。【苦なき】マコトを知らなくば、身欲勝手な成しザマで、メグリがメグリを産むだけではござらぬか。真釣るマコトを知り居れば、『苦』が出くるがオカシキと、ハキリ解かり取るるから、いずれの真釣りを外したか、解かりなくとも今今に、身欲勝手な成しザマを、心の底からお詫びする、マコトの赤き改心に至るも出くる様に鳴りて来るのじゃ。苦を恥思う心が大切なのじゃ。
 生かされあるは解かりても、『苦ある』を当たり前と思いては、真先に『苦』から逃れたくあるが人情にござるから、《身欲》を基の『あやま知』を、使うて《我善し》力にて、『苦』を避け、進み参る様に鳴りてしもうのじゃ。しかあれ、神の真釣りの内に在る、汝は【苦なき】が当たり前にてござるから、『苦』現れい出来たれば、汝が真釣りを外したが由なりと、ハキリ、タテワケ解かるのぞ。真先に神にお詫びが出くるから、次々に真釣りを外し『恥』作る、身欲な魔釣りに入らねで、澄みて参るが出くるのじゃ。そも真釣り外して力徳を、失うたる自らの、ご一人の《力》や『思い』で力徳に、至れる思うその事が、既にオカシキ事にてござろうが。至れる思うその事が、末代真釣りに至れぬ『蛇の知』と、知りて解かりて下されよ。
 『苦』が現れい出たるは、汝等が真釣りを外したが、唯一つの因にござるから、真釣り戻すは真先に意乗るが、戻る唯一つの入り口にござりたのじゃ。総ての総ての真先でござるぞ。真先に何が来るかで後の総てが決まりてしもうから、くどう申して居るのじゃぞ。唯一つの入り口じゃ、残りは総て身欲勝手な入り口ばかりでござるから、間違えんで下されよ。首尾良くマコトの入り口に、入りて戻れた後々は、神と汝が真釣ろうて、メグリ真釣ろう響きにて、善き手立ても鳴り現れ参るのじゃ。神、人含めこの世にありてあるものは、真釣りを外す事あらば、苦を持て知らす【情けの仕組み】の中にあるのじゃ。汝等皆々、真釣り無くれば、元々無きがミタマにてあるをス直に知りて下されよ。なれば、真先に苦から逃れん思うより、苦が現れい出来たオカシキに、気付きてマコトの道に外れたを、恥じて天地にお詫びする。赤き心を持つことが、真先に鳴さねば鳴らぬ響きにてありたのじゃ。こが真釣る基の要の要ぞ。後が無い由、ゆめ忘れて下さるなよ。
 どうじゃ。少しは真釣りの何かにお気付き召されたか。何でも人民様だけのお力で成そう思うは、ご無理が出るぞ。真釣り外す事に成りてしもうから気を付けて置くぞ。汝が神を敬いて、神が汝をご守護致して、真釣る素型にてなさるが善いぞ。その様に成さるればマコトの力徳が出くるのじゃ。人民様ご自身の成されたメグリじゃから申して、ご自身で何とかするが筋じゃ思うは潔い事なれど、そも我でござるぞ。気を付け召されよ。神ありての人鳴るぞ。人ありての神鳴るぞ。ご守護ありて敬い生じ、敬いありてご守護益々力出せるのじゃ。汝はお一人ではござらぬぞ。余りに我が強くにあると真釣りしくじる由、心配致すのであるぞ。ご守護神様にも手柄立てさせてやりなされよ。共に励みて参るが、神、嬉しいぞ。
 余りにご自身を良くも悪くも思わねで下されよ。マコトのお詫びが出来なくなるから申して居るのじゃ。汝が如何様な有りザマに成りてあろうと、汝が生かされあるは、元つ天地の大神様のお許しあるが由にござろうが。善も悪も抱き参らせて生かしあるは、深きご経綸ありての事でござるのじゃ。このフミ読みて居ればそも段々解かりて参るぞ。そが解かりて参りたら、元つ天地の大神様の汲めども尽きせぬ深き尊き大恩が、ハラに染み入り参る程に、ハラの底より改心と感謝の響きが湧き鳴りて、マコト真釣りに戻るが出くるのじゃ。早う戻りて下されよ。
 こ度の事は【真釣る】が招きし事なるを、ハキリ解かり取るる者殆ど無いから汝等皆々今今に、綺麗さっぱり忘れて居る由、一等大事な事が解からず。一々くどくどうるさきと思うぐらいにしか取らぬから、キチリ申し置いたのであるぞ。
 くどくどと【真釣り】【真釣り】と申し来たは、汝等を日月の御座に迎えんがためなるぞ。汝等は、今今に至りて、すっかり神成る御身を忘れしが、マコト汝の真姿は、地の日月の神と称さるる、尊き御役の神成るぞ。神の真釣りは弥栄ぞ。この日のあるを待ちに待つ、元つ御祖の大神の、経綸成就が汝等の、神鳴る響きと鳴りなさる、真釣るマコトにかかるなり。ご自覚召されよ。」

霊界物語参照。

『八岐大蛇や醜狐  曲鬼探女の蔓れる
 暗黒無道の世の中は  仁義道徳影も無く
 常世の闇の如く也  人の心は日に荒び
 世道は月に頽廃し  親子疎んじ睨み合ひ
 兄弟互に相鬩ぎ  親戚争ひ相離れ
 朋友信を忘却し  各自に悪罵嘲笑し
 上下は常に反目し  意志の疎隔は恐ろしく
 紛擾絶ゆる暇も無く  資本家労働者相対し
 農商工は振起せず  不景気風は吹き捲り
 官民互に卑みて  政令全く行へず
 主僕疎遠に堕りて  国家社会は刻々に
 危機に瀕しつ諸々の  譎詐の曲業時を得て
 暴戻盛に行はる  忠誠の人士は足曳の
 山に隠ろひ野に潜み  頭をもたぐる時を得ず
 奸邪は天下に跳梁し  誠の神は世に出でず
 乱れ切つたる娑婆世界  挽回すべき由も無し
 医学衛生完備して  悪疫益々蔓延し
 交通機関は完備して  有無通ずるの途もなし
 国家の富力増進し  しかして饑餓は人々の
 頭に刻々迫り来る  法警成るに従ひて
 殺傷頻りに行はれ  生産倍々夥多にして
 物価は時々に凋落し  輸入超過の惨状は
 全くその度を失ひぬ  国庫漸く窮乏し
 兌換借款滔々と  経済界を危くし
 国防成るに従ひて  国辱頻りに興るあり
 高貴は俗に親しみて  卑賤は倍々僣上す
 富豪階級は押なべて  皆文弱に流落し
 淫酒の欲を漁りつつ  日に夜に社会を汚し行く
 貧弱愈窮乏し  怨嗟の声は弥高し
 都会に住める人々は  安逸快楽に馴れ染まり
 奢侈限り無く増長す  田舎は都会の風に染み
 淳朴の気は地を払ふ  学者の偏狭陋劣さ
 怪論迷説相ひさぎ  宗教宣布に従事する
 僧侶は教義を曲解し  宗祖の教旨を滅して
 品行月に堕落しつ  精神界を攪乱し
 武人は銭を愛着し  士道全く廃り行く
 商賈は謀計事となし  信用全く地に落ちぬ
 青壮年は悪風に  眼を眩惑し世に習ひ
 競うてハイカラのみ好む  良家の子女は学校に
 通ひながらも蝶の如  紅白粉を塗立てて
 淫靡の風は吹き荒び  不良少年続出し
 社会の秩序を混乱し  拾収すべからず成り果てぬ
 賢母良妻家に泣き  蓄妾常に逸楽す
 芸妓屋娼妓屋繁昌し  良家益々相寂し
 国家の元老はただすらに  老後を急ぎ勢力を
 争ひ乾児を相募り  政客権を弄び
 党弊擁護に余念なく  神聖無垢の議事堂に
 禽獣叫び蛇を投げ  雲助輩の行動を
 演出するこそ慷慨けれ  国家の選良は大切な
 国議を軽視し侮辱して  喧々囂々市場の如し
 国帑を猥に浪費して  民の負担は日に重く
 賦課は益々大となり  国家破産の緒を開く
 眼を転じて眺むれば  外侮頻りに相到り
 国交益々非運なり  人の思想は悪化して
 噴火山上にある如く  何時爆発も計られず
 これをば思ひ彼想ひ  夜も碌々に眠られず
 涙は腮辺に滂沱たり  古今未曾有のこの惨状
 救ひて松の神の代に  開かむための神の道
 樹てさせ玉ひし尊さよ  あゝ惟神々々
 御霊幸へましまして  五逆十悪の濁世を
 誠の神の現はれて  治め玉はる時はいつ
 松間の長き鶴の首  亀の齢の常久に
 守らせたまへと祈りまつる  天地の神も放り坐し
 風伯怒りを相発し  颱風屡到来し
 雷電ひらめき激怒して  天津御空に鳴り渡る
 水神忽ち嚇怒して  水難頻りに続発し
 海神怒濤を捲き起し  地上の蒼生を洗ひ去り
 大地の神は旱魃を  もたらし地疫を払ひまし
 地震の神は地軸をば  時々に動揺し玉ひつ
 汚れし家屋を焼倒し  火竜は紅蓮の舌を吐き
 地上の汚穢を焼き尽す  軍神怒りて天賊や
 地妖を隈無く鏖殺し  清め玉ふぞ畏けれ
 神の恵の幸ひて  天来未知の大偉人
 現はれ来り天地の  諸の穢を潔斎し
 誠の道にかなひしと  神に選まれ了ふせたる
 民をば常永に救ひまし  五六七の御代と成るなれば
 ここに初めて天国は  地上に芽出度顕現し
 無上至楽の世と成らむ  邪神を懲し善神を
 救はせ玉ふ御経綸  謂ふも畏き限り也
 これぞ全く皇神の  吾等に賜ひし御遺訓ぞ
 万代倦まず皇神は  神訓垂れさせ玉へども
 世人の心いや曇り  神意を解するものも無く
 大義を没し名分を  覚らざるものばかりなり
 皇大神は世を歎き  神の教を立て玉ひ
 世人を導き救はむと  綾の聖地に現れまして
 皇道本義を宣り玉ふ  尊き世とは成りにけり
 神の御綱に曳かれつつ  寄り来る人は押並べて
 この御教を遵奉し  模範を世界に示しなば
 人は次第に善良の  身魂と化りて世のために
 尽す真人となりぬべし  さすれば神は喜ばし
 自然に天地は清まりて  五風十雨の順序よく
 日月双び輝きて  万民歓喜の雨に濡れ
 草木は緑に禽鳥は  神の御国に泰平を
 謳ひて神の御恵に  浴する御代となりぬべし
 あゝ惟神々々  神代の遠き物語
 『舎身活躍』寅の巻  序文に代へて述べ立つる。』
(第39巻 舎身活躍 寅の巻 序歌)

※序歌のルビ付きはこちらから
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm390001

『上に大名あれども、時代を解し国家永遠の神策を弁へたる輔弼棟梁たるべき小名なく、あらゆる虚偽と罪悪と権謀術数を以て施政の大本となし、重税を課して膏血を絞り、上に立てるブルジョア階級なる者は、肥馬軽裘、あらむ限りの贅を尽し、行人の迷惑を顧みずブウブウと自動車を飛ばして、臭気紛々たる屁と土埃を浴びせて平気に行く。貧民の子は自動車に轢き殺されても、これを訴へ出づる術も無く、~以下略~。』(第68巻 山河草木 未の巻 第3篇 民声魔声 9章 衡平運動)

※9章衡平運動の全文はこちらから
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm6809

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まわりうた 

なかきよの しろくろみては
  いさめさめ さいはてみろく ろしのよきかな

(永き代の 白黒見ては いざ目覚め 最果て弥勒 路次の良きかな)

解説

白黒は「白と黒。」「写真・映画・テレビなどで,白と黒の濃淡だけで画像が表されているもの。モノクローム。」「 物事の是非。善悪・正邪。無罪と有罪。」、最果ては「最終。最後。」、路次は「みちすじ。道すがら。道の途中。途次。」の意味です。

余談

この歌は、元ちとせさんの「いつか風になる日」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

今回は善も悪も永遠に続くという。善は良いが、悪はほんとに、冗談抜きで相当にきつい。今改心すれば神は許してくれるが、後々ではもう地団太をいくら踏んでも間に合わない。永遠に後悔しながら、辛い毎日を送らなければならない。

極悪となれば、自分の我と限られた力のみ頼るようになって、周り全部が敵となって、神などそっちのけになるので、神にもすがれない中で、永遠に満たされない世界をぐるぐるしなければならない。さらなる我と力を得て上にあがっても、常に孤独で心許せる存在はおらず、いつ自分の地位がひっくり返されるかもしれないと疑心暗鬼になる中、誰にも弱みを見せることができず、周りをだまして、自分をだまして生き続けなければならない。

願わくば、誰一人落ちることなく、皆でミロクの世を迎えたいと強く強く思う。

日月神示参照。

『今度 役目きまったら、末代続くのざぞ、神示に出た通りの規則となるぞ。善も末代ぞ、悪も末代ぞ。此の世は一(ひとつ)であるぞ。われの身体われに自由にならぬ時来たぞ。神に縋(すが)るより仕方なくなって、すがったのでは、間に合はんぞ。今度はいろはの世に戻すぞ。ひふみの世に戻すぞ。素直にすればタマ入れかへて、よい方に廻してやるぞ。よろこびの身といたしてやるぞ。』(松の巻 第十帖)

『今迄して来た事が、成程 天地の神の心にそむいてゐると云ふこと心から分りて、心からお詫びして改心すれば、この先末代身魂をかまうぞ、借銭負うてゐる身魂はこの世にはおいて貰へん事に規則定まったのざぞ、早う皆に知らしてやれよ。タテコワシ、タテナホシ、一度になるぞ、建直しの世直し早うなるも知れんぞ、遅れるでないぞ。建直し急ぐぞ、建直しとは元の世に、神の世に返す事ざぞ、元の世と申しても泥の海ではないのざぞ、中々に大層な事であるのざぞ。上下グレンと申してあることよく肚に入れて呉れよ。』(キの巻 第八帖)

『コトちがふから、精神ちがふから、ちがふことになるのざぞ、コト正しくすれば、正しきこととなるのざぞ。日本の国は元の神の血筋のまじりけのないミタマで、末代 世治めるのざ。何事も末代のことであるから、末代動かん様に定めるのざから、大望であるぞ。』(磐戸の巻 第十三帖)

『天の規則 千でやる事になってゐるのざぞ、今度 規則破りたら暗い所へ落ち込んで末代浮ばれんきつい事になるのざから、神くどう気付けておくぞ。』(雨の巻 第十四帖)

『上面(うわっつら)洗へばよくなるなれど、肚の掃除なかなか出来んぞ、道広める者から早う掃除まだまだであるぞ、今度 神から見放されたら末代浮ぶ瀬ないぞ。』(雨の巻 第十二帖)

『マコトの者は千人に一人ざぞ、向ふの国にはまだまだドエライ仕組してゐるから今の内に神の申すこと聞いて、神国は神国のやりかたにして呉れよ。人の殺し合ひ許りではケリつかんのざぞ、今度のまけかちはそんなチョロコイことではないのざぞ、トコトンの処まで行くのざから神も総活動ざぞ、臣民 石にかじりついてもやらねばならんぞ、そのかわり今後は万劫末代のことざから何時迄もかわらんマコトの神徳あたへるぞ。云はれぬこと、神示に出せぬことも知らすことあるぞ。』(磐戸の巻 第十二帖)

『一度に立替へすると世界が大変が起るから、延ばし延ばしてゐるのざぞ、目覚めぬと末代の気の毒できるぞ。国取られた臣民、どんなにむごいことになりても何も言ふこと出来ず、同じ神の子でありながら余りにもひどいやり方、けものよりもむごいことになるのが、よく分りてゐるから、神が表に出て世界中救ふのであるぞ、この神示腹に入れると神力出るのざぞ、疑ふ臣民沢山あるが気の毒ざぞ。一通りはいやがる臣民にもこの神示一二三(ひふみ)として読むやうに上の人してやりて下されよ。生命あるうちに神の国のこと知らずに死んでから神の国に行くことは出来んぞ、神の力でないと、もう世の中は何うにも動かんやうになってゐること、上の番頭どの分かりて居らうがな、何うにもならんと知りつつ まだ智や学にすがりてゐるやうでは上の人とは申されんぞ、智や学越えて神の力にまつはれよ、お土拝みて米作る百姓さんが神のまことの民ぞ、神おろがみて神示取れよ、神のない世とだんだんなりておろがな。真通(まつ)ることは生かす事ぞ。生かす事は能(はたら)かす事ぞ。神の国には何でもないものないのざぞ、神の御用なら何でも出て来る結構な国ぞ、何もなくなるのは やり方わるいのぞ、神の心に添はんのぞ。』(地つ巻 第三十帖)

『空に変りたこと現はれたなれば地に変りたことがあると心得よ、いよいよとなりて来てゐるのざぞ。神は元の大神様に延ばせるだけ延ばして頂き、一人でも臣民助けたいのでお願ひしてゐるのざが、もうおことはり申す術(すべ)なくなりたぞ。玉串 神に供へるのは衣(ころも)供へることぞ、衣とは神の衣のことぞ、神の衣とは人の肉体のことぞ。臣民をささげることぞ、自分をささげることぞ、この道理分りたか。人に仕へるときも同じことぞ、人を神として仕へねばならんぞ、神として仕へると神となるのざから、もてなしの物出すときは、祓ひ清めて神に仕へると同様にして呉れよ、喰べ物 今の半分で足りると申してあるが、神に献げたものか、祓ひ清めて神に献げると同様にすれば半分で足りるのぞ、てんのゐへん気つけて居れよ。神くどう気つけて置くぞ。神世近づいたぞ。』(天つ巻 第十三帖)

『一二三(ひふみ)の仕組が済みたら三四五(みよいづ)の仕組ぞと申してありたが、世の本の仕組は三四五の仕組から五六七(みろく)の仕組となるのぞ、五六七の仕組とは弥勒(みろく)の仕組のことぞ、獣と臣民とハッキリ判りたら、それぞれの本性出すのぞ、今度は万劫末代のことぞ、気の毒出来るから洗濯大切と申してあるのぞ。今度お役きまりたら そのままいつまでも続くのざから、臣民よくこの神示(ふで)よみておいて呉れよ。』(富士の巻 第四帖)

Posted on 2016/05/27 Fri. 04:37 [edit]

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27

まわりうた 

なかきよの なみたかみのこ
  いさきよき さいこのみかた みなのよきかな

(永き代の 涙神の子 潔き 最後の御型 皆の良きかな)

解説

潔いは「汚れがない。清浄だ。」「清らかで気持ちがよい。」の意味です。

雑感

ふと出て来た歌です。

Posted on 2016/05/27 Fri. 03:29 [edit]

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27

まわりうた 

なかきよの ねかひむなしく
  いたりけり たいくしなむひ かねのよきかな

(長き夜の 願ひ空しく 至りけり 大愚死なむ日 鐘の良きかな)

解説

大愚(たいぐ)は「自分のことをへりくだっていう語。」の意味です。

余談

この歌は、バッハの「小フーガト短調 BWV578(ピアノ編曲版)」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

高倉健さんの座右の銘「往く道は精進にして 忍びて終わり 悔いなし」ではないが、最近はやたらと心が晴れやかである。

思っていた人生とは遠くかけ離れた挫折ばかりの人生だったが、それもまた良かったのだと最近では思えるようになった。やがて死ぬだろう日にも、同じ気持ちでいたいものだ。

Posted on 2016/05/26 Thu. 00:44 [edit]

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26

まわりうた 

なかきよの ひつみかへすと
  ひとめさめ とひとすへかみ つひのよきかな

(永き世の 歪み返すと 人目覚め 肚皮と皇神 終の良きかな)

解説

歪み(ひずみ)は「物体に外力を加えたときに生じる,のび・ちぢみ・ねじれなどの変化の割合。ゆがみ。」「ある事の結果としてあらわれた悪い影響。弊害。しわよせ。」、肚皮は「心の中。腹の中。」、皇神は「神を敬っていう語。すめかみ。」、終は「つまるところ。最後。はて。」の意味です。

余談

この歌は、WAVEのアルバム「Citra re:verse -其歌は真言顕す欠片と為りて-」の中にある「天照大御神-AMATERAS SYSTEM-」~「月読命-TSUKUYOMI SYSTEM-」~「須佐能乎命-SUSANOWO SYSTEM-」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

「歪」の字はそのまま「不正」を連想させる。誰もが知る大企業のデータ改ざんなど、数々の不祥事が明らかになっているが、これも時節の流れというべきだろう。

企業だけでなく、放射能汚染の現状隠ぺいを筆頭に、国自体もウソをついているのだから、この代償は必ずどこかで出て来る。法律を強化して国民をがんじがらめにしようとしても、すでに戦前、出口王仁三郎聖師が大日本帝国を潰す型をしたので、今回も九分九厘でオジャンになるだろう。

神示にも、国民が皆兵隊になったときどっと大変が起こる、と書いてある。いずれどこかの時点で徴兵制も復活するだろう。

日月神示参照。

『今迄は闇の世であったから、どんな悪い事しても闇に逃れる事出来てきたが闇の世はもうすみたぞ。思ひ違ふ臣民 沢山あるぞ。何んな集ひでも大将は皆思ひ違ふぞ。早ふさっぱり心入れ換へて下されよ。神の子でないと神の国には住めんことになるぞ。幽界(がいこく)へ逃げて行かなならんぞ。二度と帰れんぞ。幽界(がいこく)行きとならぬ様、根本から心入れかへて呉れよ。日本の国の臣民 皆兵隊さんになった時、一度にどっと大変が起るぞ。皆思ひ違ふぞ。カイの御用はキの御用ぞ。それが済みたら、まだまだ御用あるぞ。行けども行けども、草ぼうぼう、どこから何が飛び出すか、秋の空グレンと変るぞ。この方 化(ば)けに化けて残らずの身魂調べてあるから、身魂の改心なかなかにむつかしいから、今度と云ふ今度は、天の規則通り、びしびしとらちつけるぞ。御三体の大神様 三日此の世をかまひなさらぬと この世はクニャクニャとなるのざぞ。結構近づいて居るのざぞ。大層が近づいて居るのざぞ。この神示読みて神々様にも守護神殿にも聞かせて呉れよ。いよいよあめの日津久の神様おんかかりなされるぞ。』(水の巻 第十四帖)

きっかけは大地震か経済クラッシュか外国からの軍事攻撃かはわからないが、今の国体は必ず潰れるはずだ。福島原発事故が起こったとき、マコトを基(もとい)とする国体へと変わっていれば神風は吹いただろうが、事故後全ての流れがマコトを隠す方向へ向かい、今はさらにその速度が増してしまっている今、とことんの所まで行くだろう。

いち国民としては大変が起こるその前までに、可能な限り精一杯自らの歪みを正しておくことが、今回の大峠を乗り切る唯一の手段のように思う。つまり口と心と行を一致させて、マコトに生きるということだ。

歪みを自ら直せば直すほど大難が小難、または無難となり、見ないふりをすればするほど大きな難となってその身に降りかかる。自らの歪みさえ直しておけば、どこで何が起ころうが何も心配はいらない。仮に死んだ所で、魂までは殺されることはない。

一番怖いのは後の祭り(真釣り)となることだ。これから残念無念とならぬよう、今から自らの真中にある心と神を頼りにして、無事ミロクの世を迎えたいと思う。

火水伝文参照。

「 心のお宮が曇りて居れば、汝の成す事、思う事、総て悪花に結びて居るのじゃ。心のお宮が曇りて来ると、右りの勢い強くなりて十字が傾き行きて『×』となる。汝等が《身欲》を基にご苦労から逃れんと、『あやま知』使うて『利便』に走りたが【メグリ】の始まりと知りて下されよ。《身欲》が曇りの産みの親じゃ。
 解かりたでござろうか。三真釣り持ち行く申すは、元つ天地の真釣り成す、マコト至善のコトワリを、身欲を控えて聞き戻し、火のマコトをタテワケル、真釣り支えるハタラキを、スミキル心に立て据えて、水の現す御ハタラキ、副うて控えて真釣り和す、水の清きを顕ずるが、マコト、マコトの三真釣り申すのじゃ。【口・心・行】を違えず、行に一如に真釣り縫う事じゃ知らせ居ろうがな。
 三真釣り持ち行くに、心スミキリあるは、こ度外せぬ肝腎要の大事にてあるが、マコトをタテワケ、真釣りを支えある火の御ハタラキ、強く護持致して下されよ。今サマの人民様申すは、口の御座の尊きを知りて無いが由、自らにご都合の良き嘘をつく者、ぐちぐちと自らの辛きを嘆く者、数多居られるが、周りの者が心配なさる様な事どもも、ご自分の事しか頭にないから平気で申されて、そ度、自らにも、周りにも、不調和の響きバラ蒔いて居るのじゃぞ。口の座にまし座す火の御ハタラキ申すは、真釣りを支える強きご苦労の御役なれば、ウソと言う事は申されず。虚言や弱音を吐き居れば、キッチリそれだけのメグリをお渡し致すのぞ。真釣りを支える強きマコトの言魂以外、座すは許さぬ神座ざ申した事、今一度ハラにお入れなされよ。汝等が虚言あれ弱音あれ、吐くは汝等の勝手なれど、そがために巻き込まれ、作らいでもよいメグリを他人に作らせ参るは、マコト心卑しき業なれば、少しはマコトを出されて、ご自分の事より、他人を支える火の御ハタラキを、口の御座に座さして下されよ。真釣りに仇なす不調和を、バラ蒔く者と成るよりは、調和をふり蒔く者と成りて下されよ。土台が狂うてござるぞよ。
 口受けて心動くのぞ、心動きて行成るのぞ。【霊主心従体属】であるぞ。【口・心・行】のタテワケも出来て無くれば、口の御座に火の座されるマコト、マコトの神真釣る、マコト一如のハタラキも、成すは適わぬ事になるぞ。そのままにありては汝等の歩み行く所、段々狭く成りてしもうて、しまいには足場まで無う成るやも知れんぞ。そは汝等の足場申すが『あやま知』土台に作りあるが由なるぞ。『あやま知』の響き今今は、タテカエの末期であるぞ。どんどん暴かれ消え行きて居るのが解からんか。何時までも『あやま知』で作りし、土台に立ちて居りては落ち行くだけでござろうが。三真釣る行いがマコトの土台ぞ。鳴り出す響きがマコトの足場じゃ。【足場】早う創れ申すこと解かりて下されよ。
 【足場】は【ア】じゃぞ。コトの初めであるぞ。言魂であるぞ。鳴り成る響きであるぞ。三真釣り持ち行かねば、マコトの響き出すは難いぞ。三真釣り持ち行くその事が【足場】のタテカエ、タテナオシ、同時に叶える事になるのじゃぞ。マコトの響き、いずる様に成りて初めて、神のお宮と鳴りて参るのじゃ。神のお宮が【足場】でござる。神社の事にては無いぞ。汝ご自身の事にてあるぞ。この世の事は汝ご自身が変わらねば、何一つ変わりはせんのじゃ。今世に残りて居る【足場】、一厘にござるぞ。九分九厘ウソざ申す事、汝、存じて居りたかや。
 今世申すは何でも九分九厘対一厘であるぞ。何事も『あやま知』含みて成るものは、精一杯鳴りたところで、九分九厘にて仕舞いであるぞ。どうあがきても十【カミ】には鳴れぬ魔釣り道じゃ。小さき事どもから大き事ども迄、そうなりて居るのじゃぞ。身欲を基の台と成す『あやま知』病みたる母体から、産まれ鳴りたる事どもは、汝ご一人の思いから世界を統べる企み迄、総ての総てが九分九厘で引っ繰り返るぞ。もはや悪の芽切りたから新たな悪は育たぬぞ。芽吹いた先から滅んで行くがさだめであるよ。今今に悪に見ゆるは、悪を使うて悪払うこ度に使う道具なれば、まだまだ悪の世が続く思いて居ると、怪我をする伝えあろうがな。これからは悪と悪の共食いになりて参りて、悪神も苦しくあるから暴れる程に益々危うき世となりて参るから、汝等は巻き込まれん様に気を付けて下されよ。メグリ多く持ちあると巻き込まれてしもう由、早う自ら清まりてメグリ払いて下され申し参りたのじゃ。自らに厳しく三真釣り持ち行くが急ける事にてござるぞ。
 人民様の真中にありても同じ事が起こりて居るのじゃ。汝、未だ気付かず。なれど汝等は宇宙コトワリのに似素型にてある。なれば今今の神経綸の御ハタラキ、そっくりそのまま、汝等の真中にても既にハタラキあるを知りて下されよ。汝等の真中に残りありた一厘のマコト、元つ大神のお出ましに呼応致して、汝の真中を占拠する身欲を基の台と成す、九分九厘の『あやま知』を自ら払わんと鳴り響きて居るのじゃ。一厘対九分九厘の戦でござるぞ。汝が早う気が付きて、孤立無援で戦する、汝の真中の一厘に、三真釣る行にてマコト出し、透け切る心に火を立てて、真中と一如に共鳴れば、勝てる戦にあるなれど、汝のメグリ必ず暴れるから、一厘のマコト余程しかりご守護なさなば危ういぞ。この方は全く心配ござらぬが、汝等はこ度は自らが清まりて、マコトの少しなりと鳴り出される様に成りて下さらねば、この方も手を貸す事は出来ぬのぞ。こ度は汝等お一人お一人が、自ら三真釣り持ち行き少しでも、清まりマコトを出す事が、こ度の仕組みの要にて、外すは適わぬ事にてあるのじゃ。こをどうありても解かりて下されよ。三歳苦難のタテカエ申すは、神々含む汝等を、一挙に一度に清める事にてござるのぞ。悪を使うて悪を払うお仕組みなれば、そがために九分九厘までは悪神に、勝ちを持たして上ぐるのじゃ。この方にとりてはこ程楽な事も無いなれど、それでは残る人民殆どないから、くどうくどう申して居るのじゃぞ。この方は人民様の酷きザマ見とう無いのじゃ。この方も辛いのぞ。神、頼むぞ。三歳苦難のタテカエ迄に少しなりともマコト磨きて下されよ。マコト三真釣り持ち来たりて、マコトの響き鳴りてる者は、正神真神のご一統がご守護に回りて汝を支えるから、どんな事がありても起こりても、何のご心配も無いぞ。安心致して見て居るが善いぞ。
 何かに付け三真釣り持ち行く申すは、口と心と行いを、少しも違えず行に結ぶことでござるから、【違えず行に結ぶこと】だけを念頭に、身欲損得を捨てて行じて下されよ。考え深くあるよりは、真釣り深くありて下されよ。真釣りに響く考えるは【カミカエル】でござるから、善いのであるが、魔釣りに響く考えるは《我が得る》だけであるからぞ。《我が得る》だけでは、益々真釣りを外すだけではござらぬか。神のご用に使う程の者は、我があり過ぎても無さ過ぎても困るのであるから、真中と我、どちらが汝の主であるか、今今にハキリ、タテワケ致しおいて下されよ。汝等の真中と我、同じじゃ思い見なし居りては間違うぞ。
 〔我〕申すは、汝等生来の色にござるのじゃ。色の響きざ申しても善いぞ。元々のものなれば『我善し』思うも『我悪し』思うも、偏りたるハタラキの顕れにござるを知りて下されよ。〔我〕に元々善悪は無いのであるぞ。双方〔我〕を律し切れぬが因でござるよ。双方ご自身の真中を知らぬが由の不手際にござるよ。
 汝等皆々〔我〕を空しゅう致されて〔我〕を律するお力、持ちて居るではござらぬか。なれど汝等今今は〔我〕に首輪をかけられ居るを知りて居るか。主従が逆様になりてござるぞ。もともと〔我〕は汝が真釣れば、一如に和し真釣る響きにてはあるが、〔犬〕の如く自らの真中の響きの固持に忠実な響きでござるから、汝が《身欲》を基の『あやま知』に囚われ、汝の真中に《身欲》を据えて居らるれば《欲》の響きと共鳴り致すも道理でござろう。汝自身が真中のマコトに気付きて無くれば、真中に居座る《身欲》を主と思うぞ。汝のマコトが命令せなで、いかで汝の真中の本懐が立つ思いてか。汝等がそのようなザマであるから〔犬〕は知らず《欲》に使われ居るのぞ。《欲》を操る者どもが〔犬〕に命令を下し居るのぞ。主に忠実な〔犬〕は〔我〕に命令与えあるを主ざ思う由、《欲》の言いなりになりて居るのじゃ。これ解かるか、汝のマコトの真中で無き者が、犬なる〔我〕を使うて汝を動かし居るのぞ。ざから首輪が逆になりて居る申して居るのじゃ。汝は気付けず、引きずり回される居るも解からぬのじゃ。情け無き申しても余りであろうが。今今の今に首輪かけ換えて下されよ。誰がマコトの主かハキリ、タテカエ、タテナオシなされて下され。主人が何時までも気付けぬ、ふ抜けのままにあれば、〔犬〕は慢心致して、これで間違い無い思うに至るのぞ。悪き《我善し》の誕生でござるよ。四つ足が汝の主となりてしもうのぞ。〔犬〕自ら《欲》を求める様になりてしもうたら、足、早いぞ。転ぶまで止まるは適わぬ馬車馬の如き有り様となるぞ。こう成りては汝の申す事など一つも開かず、汝に仇成す事ばかり致す様に成りてしもうぞ。〔犬〕が勝手に一人立ちなされた申されても〔犬〕の成したる行状の転びた先の後始末、総てはマコトの主の汝等が、詫びてなさるは解かりて居ろうな。《欲》を抱き参らせた〔犬〕自らが主ざ思う様になりては、自ら求むるものなれば、どんな欲にも手を出すぞ。そに善悪の判断は無いのじゃ。後先の事も無いぞ。総て《我善し》力で押し通す様になるのぞ。
 こが『あやま知』操る者どもが、汝の《身欲》に入り込み、汝の真中を占拠して《欲》を使いていと易く、汝の〔我〕を手なずけて、《我欲》と組み成し動かして《我善し》力で得る事が、正しき如くに調教致し参りた果であるよ。されば欲と見ゆれば、後先考えず飛び付く〔我〕と成りて居るのじゃ。早う汝が真中を取り戻さねば危ういぞ。今様の人民様の飼い犬にありては、なまなかな事で聞くような〔我〕にてないから、人民様自ら手厳しくキチリ調教致さねば、三歳苦難のタテカエで、人民様の真中とこの方が、成敗するしか無かろうが。飼い犬の成せしメグリの責総て、主にござる皆々が、自ら背負うは今今に、伝え知らせあるなれば、よもや不服はなかろうまいぞ。なれどこの方は汝を酷き目に合わせとうは無いので有るから、早う調教致して下され申すも解かるでござろうが。
 自らの飼い犬をキチリ調教致すは、なかなかにご苦労の要る事にてあるなれど、そもマコト三真釣り持ち行くに、キチリとなさなばならぬ事にてあるのじゃぞ。人民様、今今は他人のマコト無きをなじりて居る時には無いぞ。自らの足元を真先に正さねばならぬ時に入りてござるのぞ。我欲に負けるで無いぞ。我は汝の臣下にてはござらぬか。汝が早うマコトをタテワケて、善き臣下と成しくれよ。
 聞く耳出来たか。今今より先々に注意深くありて欲しいから、大事な事を申して置くぞ。汝等のこれからはメグリ避けて通るは難き事であるが、せめて【真釣り】の何かが取るる迄、何とか無事でありて欲しいから申すのであるぞ。言葉でないぞ。お札でもないぞ。今今の時節はそんなものではども成らんぞ。行いの事を申すぞ。行いで響き出すぞ。響き鳴り成るぞ。汝等ご自身がなさるのであるぞ。
 今今より汝等皆々、何に付けご自身の思いは、身欲は最後の最後に致す様に慎みて下されよ。こはこれからに関わりて大事な事であるから、違わず身に備わしめるのじゃぞ。この方からも汝の真中に頼み参らせるぞ。家の内にありても、家の外にありてもそう成されて下されよ。今今は悪き響きを摘み行く時節であるから《我先》いう響きは《我先にメグリ頂く》いう事に成りて居るを知らせ置くぞ。
 いつあれ、どこあれ《ワレ先》の成さり様でありたら危ういぞ。摘み行く響き鳴り鳴り高まり成りてあるが解からん様では、この先既に糸は切れて居るやも知れんぞ。何事か起こりありても堪えられる迄堪えて、他人を先に譲りてやりて下されよ。自分の思いは引っ込めて、他人の思いを先に立ててやれよ。美味しい物も、残りありたら頂かせてもらうが善いぞ。急けて居りても、他人に先にやらせて上ぐるが善いぞ。メグリ既に汝等お一人お一人の足元に添い控えあるのぞ。悪き響きに呼応して災い装い現れて、辛苦を表に開くなり。情けを裏に開くなり。
 《ワレ先》いうは《悪き響き》ざ申して居るのじゃ。今や遅しと出番を狙うてウズウズなさりて居るメグリを、自ら解き放つ様な真似は成さらいで下されよ。世間の流れに逆らわず、けして染まらず、異を自ら唱えず、慎み深く身を持ち行きて、後の方からゆっくり歩み参りておいでなされ。この方が供するぞ。慌てる事は何もないのじゃ。口を慎み、心を慎み、行を慎み、三真釣り持ち行くことが、汝の足元を払い清め、メグル響きを真釣る響きに換え行くミチざ申すこと、ハラに入れよ。良いな。口慎しまれよ、心慎しまれよ、行慎しまれよ。
 今今、病みにありて、辛き思い致され居る人民様には、酷な言い様と憎まれるを知りて尚、取りて解かりて欲しくある大事な事を申し置くから、カンニンなされて聞いて下されよ。今、暫し身欲を捨てなされて、心スミキリて聞いて下され。
 汝等が今辛くあるはメグリ由の型示しであるを存じて居るか。汝等もともと神なる身なれば、神の決まりを破りし時には、気付きある様、情けかくるがマコトその事でござるのぞ。痛き辛きが何で情けであるものか、と人民様申さるるは知りて居るが、今はまげて聞き取りて下され。病みのマコトの因を知りて欲しいからぞ。汲めど尽きせぬ型示しあるも、マコトの因はただの一つであるを知りて下され。そは真釣りを外したが為でありたのじゃ。神の決まりとは真釣りの事でござりたのぞ。ざからマコト、マコトにマコトの改心から、感謝の響き鳴り成り出くれば、その時その場から心が軽きなりて、善き方に向き進むが解かりてくるぞ。マコト気付きありた時、顕幽双方にわたりたメグリ、癒しなさるを花言うぞ。」

「 汝は汝の身魂を磨き出して下されよ。外した真釣りをタテナオス事が、和する響きを出す事に鳴るのざぞ。メグリも和するが出くるのじゃ。真釣り和する響き、汝ご自身が出さらいで、誰が鳴するのぞ。されば、今今は心鍛えスミキリある様なさりて下されよ。心スミキリあればある程、真釣る響き出くる様に鳴りて来るのじゃ。汝ご自身が真釣る【足場】と鳴り成されたら、ご立派でござるぞ。周りに真釣り和す響きを与うが出くるのじゃ。皆々に居るだけで喜ばれる者と鳴るぞ。
 今世の家族申すものは、最期の最後のメグリ合いにござるから、今生の小さき家族の枠中だけに、囚われ居りては過つぞ。何時かの生の折々に、真釣り合うたミタマばかりの家族で無いぞ。真釣り外し合うたミタマの家族も数多あるのじゃ。それぞれにメグル因縁を背負いて、今世にお出ましあそばされて居るのじゃ。酷きメグリの家族もあれば、軽ろきメグリの家族もあるのじゃ。なれどこ度の大切は、お一人お一人が真釣りを取りて参らねば、鳴らぬ事にてござるから、それぞれに適した舞台が次々と鳴り鳴りて参るぞ。ざから、自ら背負い参られたメグル響きにフタをせず、現れ参りた不都合に詫びて感謝の響き持て、三真釣るマコトの行持ちて、和する響きに少しでも鳴り鳴るカタチに従うが、汝の真釣りに至るミチじゃ。身欲を捨てて、なされて見なされ。家族の者が解からいでも、罵られありても、そがマコト自ら真釣る響きであるなれば、至慈至誠を持ちてやりて見なされよ。汝ご自身が罵り居りては、どう思い込みて居られ様が汝にもマコトはありもさん。マコトが何処にあるのかも解からぬ今世にござるから、馬鹿だ。ウツケだと近しき者から非難を浴びても、自らのマコトは自らが磨かねば誰も磨いてくれはせんのぞ。なれど、そに至慈至誠を持ち行くを忘れて下さるなよ。こが無くれば中身はからっぽじゃ。こがあればマコトに真釣る響き鳴りて来るのじゃ。
 解かりてもらおう思いてなさるは身欲にござるぞ。通ぜねば、すぐに怒りに変わる底の浅きものじゃ。恥ずかしいぞ。そが我善し汝お一人の思い込みじゃ申して居るのぞ。これからは、汝の大切に思いて居る事どもが、次から次に消え行く時節ぞ。今ザマの汝の響きにありてはマコトを取るにお邪魔と鳴るからであるぞ。汝にマコトの無きが分、消えるが情けの知らせであるよ。【幸せ】申すは、汝が思い込みで握り持つものにて無いぞ。そは身欲にござろうが。総ての総ては授けものなれば、神に一旦自らお返し致して、後々の事は神にお任せなさるが善いぞ。今の様に、汝が欲糸しっかり握り絞めて居られたら、渡すものも渡せんではござらぬか。我欲の思い強ければ強い程、辛う鳴るぞ。汝が辛うあれば、この方も辛いのじゃ。家族にも、社会にも、男にも、女にも至慈至誠を心に持ちて、三真釣り尽くして裏切られ、尚、心底笑みで応え得る者が、マコトの嬉し楽しを手にするのじゃ。身欲がありては適わんことなり。最期の最後ではござらぬか、万分の一鳴りと、行いにて清き響き、三真釣り持ち行き鳴り鳴る様、なされて下されよ。
 解かりたでござろうが。汝等は何時までも、身欲を基のイサカイや汝病みをぐじぐじと、こねくり回し居る時にてはなかろうが。喜怒哀楽激しきはハラの座りて無きが証ぞ。早う三真釣り持ち行きて心の掃除をなしくれよ。後数年で総ての『過つカタチ』使え無うなりて来るのぞ。汝等を取り巻くカタチ九分九厘『過つカタチ』であるぞ。仕舞いには真釣りたマコトのカタチも、総ては一旦引き上げじゃ。カタチに総てを魔釣ろわせ、自らは何一つ真釣ろい産むが出くなくなりた汝等は、いかでこれより生くるのぞ。真っぱだかであるぞよ。衣食住ある思うなよ。穴に住まねばならぬぞよ。生もの食べねばならぬぞよ。マコトぞ。その日その日生くるがやっとに鳴りて来るのじゃ。頼れるものは、汝の真中唯一つ。それまでに真中スミキリ無くれば、透みて無い分、お苦しみぞ。こ度は真中透みて無くれば、いかな神に頼む申せど、この方が一切許さぬのぞ。真中スミキルがこ度のお仕組みの仕上げにござるからじゃ。汝等、地の日月の神成る身なれば余りに酷きザマとなる前に、見事、汝の真中磨いてござれよ。自ら磨くがこ度の要じゃ。ミロク明けますその時は、この方と共にハタラク申したではござらぬか。」

Posted on 2016/05/25 Wed. 22:38 [edit]

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25

まわりうた 

なかきよの くにとこたちの
  かみめさめ みかのちたこと にくのよきかな

(永き代の 国常立の 神目覚め 三日の地打鼓と 肉の良きかな)

解説

三日(みか)は「三つの日数。みっか。」、打鼓(だこ)は「太鼓を打ち鳴らすこと。」、肉は「霊に対して,肉体。」の意味です。

余談

この歌は、「大神 オリジナル・サウンドトラック」にある「妖怪退治」~「双魔神 モシレチク コタネチク退治」~「妖魔王キュウビ退治」~「ヤマタノオロチ復活」~「ヤマタノオロチ退治 其の一」~「ヤマタノオロチ退治 其の二」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

今回の歌はちょっと遊びすぎた感がないわけではないが……、一瞬にして地上が一変するほどの何かが起こらないとは、絶対に言い切れないとは思う。

具体的には、暗黒の三日間の出現とそれに伴うDNA変化だと個人的には思う。たぶんその時には、太鼓を聴いたときに肉体が振動するような感覚になるのではないかと思う。

日月神示参照。

『岩戸ひらき 御祷(みほぎ)の神宝(たから) たてまつらまし。 月は赤くなるぞ、日は黒くなるぞ、空はちの色となるぞ、流れもちぢゃ。人民四つん這(ば)ひやら、逆立ちやら、ノタウチに、一時はなるのであるぞ、大地震、ヒの雨降らしての大洗濯であるから、一人のがれようとて、神でものがれることは出来んぞ、天地まぜまぜとなるのぞ、ひっくり返るのぞ。』(紫金の巻 第五帖)

『一日のひのまにも天地引繰り返ると申してあろがな、ビックリ箱が近づいたぞ、九、十に気附けと、くどう申してあろがな、神の申すこと一分一厘ちがはんぞ、ちがふことなら こんなにくどうは申さんぞ、同じことばかり繰り返すと臣民申して居るが、この方の申すこと みなちがってゐることばかりぞ、同じこと申していると思ふのは、身魂曇りてゐる証拠ぞ。改心第一ぞ。』(天つ巻 第三帖)

『八方的地上から十方的地上となるのであるから、総ての位置が転ずるのであるから、物質も念も総てが変るのであるぞ。これが元の元の元の大神の御神策ぞ、今迄は時が来なかったから知らすことが出来んことでありたなれど、いよいよが来たので皆に知らすのであるぞ。百年も前からそら洗濯ぢゃ、掃除ぢゃと申してありたが、今日の為であるぞ、岩戸ひらきの為であるぞ。今迄の岩戸ひらきと同様でない、末代に一度の大岩戸(言答)ひらきぢゃ。』(至恩の巻 第十四帖)

『太陽は十の星を従へるぞ、原子も同様であるぞ。物質が変るのであるぞ、人民の学問や智では判らん事であるから早う改心第一ぞ、二二と申すのは天照大神殿の十種(とくさ)の神宝にヽ(テン)を入れることであるぞ、これが一厘の仕組。二二となるであろう、これが富士の仕組、七から八から鳴り鳴りて十となる仕組、なりなりあまるナルトの仕組。富士(不二)と鳴門(ナルト)(成答)の仕組いよいよぞ、これが判りたならば、どんな人民も腰をぬかすぞ。一方的に一神でものを生むこと出来るのであるが、それでは終りは完う出来ん、九分九厘で【リンドマリ】ぞ、神道も仏教もキリスト教もそうであろうがな、卍(ぶつ)も十(キリスト)もすっかり助けると申してあろうがな、助かるには助かるだけの用意が必要ぞ。用意はよいか。このこと大切ごと、気つけおくぞ。なりなりなりて十とひらき、二十二となるぞ、富士(普字)晴れるぞ、大真理世に出るぞ、新しき太陽が生れるのであるぞ。』(至恩の巻 第十六帖)

『今に大き呼吸(いき)も出来んことになると知らせてあろうが、その時来たぞ、岩戸がひらけると言ふことは【半分のところは天界となることぢゃ、天界の半分は地となることぢゃ】、今の肉体、今の想念、今の宗教、今の科学のままでは岩戸はひらけんぞ、今の肉体のままでは、人民生きては行けんぞ、一度は仮死の状態にして魂も肉体も、半分のところは入れかえて、ミロクの世の人民としてよみがへらす仕組、心得なされよ、神様でさへ、この事判らん御方あるぞ、大地も転位、天も転位するぞ。』(五葉の巻 第十五帖)

『豊栄に 栄り出でます 大地(くに)(九二)の太神。 大掃除はげしくなると世界の人民皆、仮四の状態となるのぢゃ、掃除終ってから因縁のミタマのみを神がつまみあげて息吹きかへしてミロクの世の人民と致すのぢゃ、因縁のミタマには◎(カミ)のしるしがつけてあるぞ、仏教によるもののみ救はれると思ってはならんぞ、キリストによるもののみ救はれると思ってはならん、神道によるもののみ救はれると思ってはならん、アラーの神によるもののみ救はれるのでないぞ、その他諸々の神、それぞれの神によるもののみ救はれるのではないぞ、何も彼も皆救はれるのぢゃ、生かすことが救ふこととなる場合と、小呂すことが救ふことになる場合はあるなれど。』(紫金の巻 第四帖 ◎は「○にヽ」の形)

Posted on 2016/05/24 Tue. 19:26 [edit]

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24

まわりうた 

なかきよの ひしりかひのた
  きまりけり まきたのひかり しひのよきかな

(永き代の 聖佳美の田 決まりけり 真北の光 紫微の良きかな)

解説

聖(ひじり)は「天皇。▽高い徳で世を治める人。」「聖人。▽徳の高いりっぱな人。」、佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、紫微(しび)は「古代中国の天文学で,北斗星よりも北極に近い部分で,天帝の常にいる所とされた星座。天子・天位・王宮にたとえる。紫微垣。紫微宮。紫宮。紫垣。」の意味です。

余談

この歌は、WAVEのアルバム「Citra re:verse -其歌は真言顕す欠片と為りて-」の中にある「天照大御神-AMATERAS SYSTEM-」~「月読命-TSUKUYOMI SYSTEM-」~「須佐能乎命-SUSANOWO SYSTEM-」を聴きながら、下記記事を見てそれをモチーフに書いた歌です。

雑感

歌から感じるイメージでは、おそらく天帝(型示しとしての天皇ではなく、三千世界を統括する天の帝の意味)の命令が降って、それぞれの霊的な地位が確定したということであろう。

「永き代の 聖」とあることから、いずれにしてもこれは永遠の地位であり、また聖書の麦の刈り取りのたとえ話(マタイによる福音書13章)ではないが、それぞれの身魂の米(コ・メ=光(こ)命(め))の刈り取りの時期が来たということだろう。

善徳を積んできた人にとっては、今まで全く報われてこなかったものが、今ここにきて永遠にしぼまない花となって開く時となったということであり、悪徳を積んできた人にとっては、今まで好き勝手してきたツケを、今度は永遠の世界で支払う時となったということかと思われる。

いよいよ神示でいうところのうれしいこわい時節となってきたようだ。

ただ神には情けというものがある。もうここまできたら、神の情けにすがって心底改心するより他ないように思う。

『世界丸めて一つの国にするぞと申してあるが、国はそれぞれの色の違ふ臣民によりて一つ一つの国作らすぞ。その心々によりて、それぞれの教作らすのぞ。旧きものまかりて、また新しくなるのぞ、その心々(こころこころ)の国と申すは、心々の国であるぞ、一つの王で治めるのざぞ。天つ日嗣の実子様が世界中照らすのぞ。国のひつきの御役も大切の御役ぞ。道とは三つの道が一つになることぞ、みちみつことぞ、もとの昔に返すのざぞ、つくりかための終りの仕組ぞ、終は始ぞ、始は霊(ひ)ぞ、富士、都となるのざぞ、幽界(がいこく)行きは外国行きぞ。神の国光りて目あけて見れんことになるのざぞ、臣民の身体からも光が出るのざぞ、その光によりて その御役、位、分るのざから、みろくの世となりたら何もかもハッキリして うれしうれしの世となるのぞ、今の文明なくなるのでないぞ、たま入れていよいよ光りて来るのぞ、手握りて草木も四つあしもみな唄ふこととなるのぞ、み光にみな集まりて来るのざぞ、てんし様の御光は神の光であるのざぞ。』(地つ巻 第十一帖)

『高天原に 千木高しりて 仕へまつらむ。 岩戸(言答)のひらけた、その当座は、不合理に思へることばかりでてくるぞ、逆様の世界が、この世界に入り交じるからであるぞ、親よりも子の方が早く目さめるぞ、子が親となるぞ、さかさまの世界と申しても悪の世界ではないぞ、霊の世界には想念のままにどんなことでも出来るのであるぞ、うれしい、こわい世界が近づいて来ているのであるぞ。』(扶桑の巻 第三帖)

『神の堪忍袋 切れるぞよ、臣民の思ふやうにやれるなら、やりて見よれ、九分九厘でグレンと引繰り返ると申してあるが、これからはその場で引繰り返る様になるぞ。誰れもよう行かん、臣民の知れんところで何してゐるのぞ、神には何も彼も分りてゐるのざと申してあろがな、早く兜脱いで神にまつはりて来いよ、改心すれば助けてやるぞ、鬼の目にも涙ぞ、まして神の目にはどんな涙もあるのざぞ、どんな悪人も助けてやるぞ、どんな善人も助けてやるぞ。江戸と申すのは東京ばかりではないぞ、今の様な都会みなエドであるぞ、江戸は何うしても火の海ぞ。それより他 やり方ないと神々様申して居られるぞよ。秋ふけて草木枯れても根は残るなれど、臣民かれて根の残らぬやうなことになりても知らんぞよ、神のこのふみ早う知らしてやって呉れよ。八と十八と五月と九月と十月に気つけて呉れよ、これでこの方の神示の終わりぞ。この神示は富士(二二)の巻として一つに纒(まと)めておいて下されよ、今に宝となるのざぞ。』(富士の巻 第二十七帖)

Posted on 2016/05/24 Tue. 00:36 [edit]

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まわりうた 

なかきよの ねふりのみるく
  ときのまの きとくるみのり ふねのよきかな

(永き世の 眠りのミルク 時の間の 来と来る実り 船の良きかな)

解説

眠り(ねぶり)は「ねむり。」、ミルクは「弥勒。」、時の間は「少しの間。きわめて短い時間。つかのま。」、来と来(きとく)は「遠い地を急いでやって来る。遠い所からせっせと来る。」「次々に来る。」の意味です。

余談

この歌は新日本風土記のテーマ曲「あはがり」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。ちなみに「あはがり」は奄美の島言葉で「全てが明るい」という意味だそうです。

雑感

ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。

沖縄の久高島に天露之命神(ミルク神)の御嶽があるそうだ。ミルクはミロクのことで、五穀豊穣をもたらす神である。宝船の例に見られるように、海上から様々な恵みと幸を乗せた船に乗りながらミルク神はやって来る。

五穀豊穣をもたらすとは、すなわち衣食住の心配がなくなる世の中のことだ。海は産みに通じ、無限に恵みが産み出される世界観のことであろう。

今はお金の世で、全ての価値はお金を中心に相対的に決まってしまうが、しかし考えてみれば全ての恵み、全ての資源は神からもたらされているというのがゆるぎない事実で、本来そこにお金を挟む余地は微塵もない。

思うに神と人との関係は、本来もっとシンプルなものだったように思う。神は人へ尽きることのない恵みを与え、人は神へただただ感謝をする、というものだ。

今は神の音(かみのね)の響き、か・ねの響きが、金の響きに覆われて、見えなくなっているように思う。

今日食べる食料は自分が稼いだ金で買ったのだから自分の物だ、という思いが、本来あった神と人との関係を、自らの手で壊しているように思う。全ては神からもたらされているのに、自分の力で手に入れたように思い違いしたところから狂いが生じたように思う。

なぜなら本来、傍(はた)を楽(らく)にさせる意義の働くことと、食べていくことは別だからである。神から頂いた食料と思わずに、自分の金で買った食料と思うから、自分で創り出した食料と思うから、日々食えなくなるのだ。なぜなら神の力徳は無限だが、自分のお金は有限だからである。

さらに日々の恵みだけでなく、一日一日起こる全ての事柄すらも神からもたらされているものだと皆が考えることが出来れば、すでにミロクの世が訪れていたことに気付けるだろう。

そうなった折には、人はただ神に感謝しながら、尽きることのない恵みを受け取ることになる。最高の物やサービスが無料で、皆好きな時、好きなだけ楽しむことができるようになる。

そして自ずから湧き出る言葉、思い、行動が、そのまま傍を楽にする働きとなって世界を照らす。このように、一人一人の正しい働きによって天地が輝きはじめ、まことの歓喜弥栄が永遠に続いてゆくミロクの世となるのだ。

こうして初めて神の何たるかを皆、身魂の芯から判るようになる。自らの深い所から感謝が止め処なく溢れ出て来て、身も心も晴れ晴れとした感覚が蘇るのだ。

Posted on 2016/05/22 Sun. 13:03 [edit]

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