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花鳥風月

気ままに回文歌、いろは歌を書いています。

まわりうた 

むからひう ちうのうかいへ
  うさりけり さうへいかうの うちうひらかむ

(無から非有 宙の有界へ 失さりけり 左右並行の 宇宙開かむ)

解説

非有(ひう)は「この世の事物は煩悩の生み出したもので、実体ではないということ。」、宙は「大空。天。また、地面から離れた所。空中。空間。」、有界(うかい)は「輪廻転生する苦のある世界。三界(さんがい)。」、失さる(うさる)は「なくなる。消えうせる。」、左右(さう)は「左と右。さゆう。」「かたわら。そば。また、そば近くに仕える人。 」の意味です。

余談

この歌は、ゲームluv waveの中にある「stream memory」(ブート画面でのBGM)を聴きながら、それをモチーフに描いた歌です。

雑感

解釈が中々難しいが試みる。

「無から非有 宙の有界へ 失さりけり」は、無から産まれた私達は、非有の世界、または宙の有界へ消えていく、ということを言っているように思う。

この部分については、日月神示の下記箇所が参考になるのではないかと思う。

『信仰の始めは感情に支配されがちぢゃ。理智を強く働かせねばならんぞ。人間は絶えずけがれてくる。けがれは清めることによって、あらたまる。厄祓ひせよ。福祓ひせよ。想念は永遠にはたらくから、悪想念は早く清算しなければならんぞ。中の霊は天国へ行っても、外の霊はこの世に残るぞ。残ることあるぞ。残ってこの世の事物にうつって同じこと、所業をくりかへすことあるぞ。早く洗濯せよと申してあろうがな。梅の実から梅が生へるのぢゃ。その梅に実出来て又梅が生へるのぢゃ。人間も生れかわっても死にかわっても、中々に悪いくせは直らんもんぢゃぞ。それを少しづつ直してかからねばならん。努力次第で漸次直るのぢゃぞ。宗教は霊、芸術は体ぞ。』(春の巻 第三十二帖)

ちょっと判りにくいかと思うので、別の個所も参考にしたい。

『そなた達は父と母と二人から生れ出たのか。さうではあるまいがな。三人から生れ出てゐること判るであらうがな。どの世界にも人が住んでゐるのであるぞ。◎の中に◎があり、その中に又◎があり、限りないのざと知らせてあらうが。そなた達の中に又人がゐて限りないのぢゃ。このほう人民の中にゐると知らしてあらうがな。そなた達も八人、十人の人によって生きてゐるのぞ。又十二人でもあるぞ。守護神と申すのは心のそなた達のことであるが、段々変るのであるぞ。自分と自分と和合せよと申すのは、八人十人のそなた達が和合することぞ。それを改心と申すのざぞ。和合した姿を善と申すのぢゃ。今迄の宗教は肉体を悪と申し、心を善と申して、肉体をおろそかにしてゐたが、それが間違ひであること合点か。一切がよいのぢゃと云ふこと合点か。地獄ないこと合点か。悪抱き参らせよと申してあること、これで合点か。合点ぢゃナア。各々の世界の人がその世界の神であるぞ。この世ではそなた達が神であるぞ。あの世では、そなた達の心を肉体としての人がゐるのであるぞ。それがカミと申してゐるものぞ。あの世の人をこの世から見ると神であるが、その上から見ると人であるぞ。あの世の上の世では神の心を肉体として神がゐますのであって限りないのであるぞ。裏から申せば、神様の神様は人間様ぢゃ。心の守護神は肉体ぢゃと申してあらうがな。肉体が心を守ってゐるのであるが、ぢゃと申して肉体が主人顔してはならんぞ。何処迄も下に従ふのぢゃ。順乱すと悪となるぞ。生れ赤児ふみこえ、生れ赤児になって聞いて下されよ。そなた達の本尊は八枚十枚の衣着ているのぢゃ。死と云ふことは、その衣、上からぬぐことぢゃ。ぬぐと中から出て来て又八枚十枚の衣つけるやうになってゐるのぢゃ。判るやうに申してゐるのぢゃぞ。取違ひせんやうにせよ。天から気が地に降って、ものが生命し、その地の生命の気が又天に反影するのであるが、まだまだ地には凸凹あるから、気が天にかへらずに横にそれることあるぞ。その横の気の世界を幽界と申すのぢゃ。幽界は地で曲げられた気のつくり出したところぢゃ。地獄でないぞ。』(白銀の巻 第一帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)

要するに、人の心は時と場所によってコロコロ変わって、全部自分だと錯覚しているのだが、実はそれぞれの心に対応する霊が入れ代わり立ち代わり出入りしている、ということかと思う。

たとえば、怒る時には怒る霊がかかっていて、笑う時には笑う霊がかかっているということ。しかし、それぞれ過去からの経験や理解によって傾向というものがあって、真に心正しき人が、いきなり理由もなく殺人事件を起こすわけではない。

また重度のギャンブル依存症の人が、何も無く明日からいきなりギャンブルをやめる、ということにもならない。それは、それ相応の辛抱や、やめたいという意志を貫いた末で、初めてやめる、ということに繋がる。

このように、自分の中に複数の自分が居るといえども、それぞれに幅があって、それら複数の自分を和合していくことが改心だ、と神示は言っているように思う。

だから、心正しき人でも、嫌なことがあって、心の中で「ちくしょう! あいつおれにいじわるしやがって! いつか仕返ししてやる!」と罵倒するかもしれないし、ギャンブル依存症の人でも、大勝して大金が手に入った日に、たまたま懐かしい友達にあって、普段は絶対にしないのに、酒の一杯もおごってやるかもしれない。

程度の差はあるものの、このように神的な自分や獣的な自分が同居しているわけだが、それは今の世界から見れば自分という一人の人間の中に同時に内包されているわけであるが、おそらく並行宇宙全体から見れば、それらは分離して存在しているわけである。

たとえば、自分の気分の良い時に、心から人を褒めたくなって誰かを褒めたとする。一方、気分が悪い時に、そのうっぷんを晴らすために誰かを罵倒したとする。

その褒めた自分、罵倒した自分というのは、どっちも自分なのだが、並行宇宙では、時間と空間の制限を受けないがゆえに、そのどちらの自分も同時に存在していて、今現在の自分の立ち位置を決める、潜在的な因子になっているわけである。

ちなみに、もしその人が今後罵倒したくないと思えば、思うだけではだめで、罵倒した相手が感じた屈辱感を解消するような善行を、その相手にする、或いはその相手と縁が切れて出来ないならば、別の誰かにする、という行為でもって解消できるわけである。

おそらく数々の宗教が「善行を為せ」と口をそろえて言うのは、これがあるがためと思われる。

話を戻すと、この歌では、並行宇宙が完全に開かれた時、今までの褒めた自分、罵倒した自分、○○の自分、という無数の自分が、非有の状態、宙の有界へ消えていく、ということを詠っているわけである。

非有の状態というのは、褒めた自分も罵倒した自分も、もう存在しなくなって、単なる実体としての存在に戻る、ということである。それは言い換えれば、善なる自分も悪なる自分もなくなって、自分が有るとも無いとも言えない存在になる、ということである。

それはつまり、自分すらも超えた実体のみになるということだ。これまでの褒める、罵倒する、というのは、複数ある自分の中の、いずれかの階層から出て来たものだと思っていたのが、そうではなかったことを知るということ。

このようにして実体のみが現れるということ。この「実体」は、言い換えればアートマン(真我)のことに他ならない。

一方「宙の有界」は、褒めた自分、罵倒した自分、この「自分」というものが、今までの三界の中に消えていくように無くなる、ということを示している。

三界、つまり三千世界(=自分のすぐ左右にある無数の並行宇宙)が一度に開かれるというのは、これまでの三千世界が一斉に消えてなくなる、というか、初めから無かったことになる、というか、今までの三千世界は何も無い無(む)の世界に存在していたことを知る、ということである。

だから、その無(=これまでの三千世界)から非有(=有るとも無いとも言えない世界、実体の世界)に生まれるということ。そしてこれは有るんだ、いやこれは無いんだ、という世界は、もともと存在しなかった「宙の有界」へ消えていく、ということ。

簡単にいうと、夢から覚めて、夢の中で見ていた風景、全ての存在、その夢の中に居たはずの自分でさえ消えてなくなったことを、目覚めたがゆえに知った、ということです。

そうして夢の中の自分が消えた代わりに、現実に目覚めた自分を知ったということ。だから夢の世界と現実の世界の自分は本質的には同じなのだけれども、起きて見れば周りの世界が、三千世界がガラっと違っているのである。そして夢の世界を正しく夢の世界だったと知るということである。そしてその現実世界は、梵我一如の世界に他ならない。

Posted on 2017/05/20 Sat. 14:56 [edit]

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まわりうた 

けんとうた かみのひかりの
  せかいあい かせのりかひの みかたうとんけ

(絃と歌 神の光の 世界愛 風乗り佳美の 御象優曇華)

解説

絃(げん)は「楽器に張り、はじいたりこすったりして音を出す糸。また、それを張った楽器。琴・三味線・バイオリンなどの弦楽器。」、佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、御象(みかた)は「神体。また、仏像。お姿。」、優曇華(うどんげ)は「インドの想像上の植物。三千年に一度その花の咲くときは転輪聖王が出現するという。」の意味です。

余談

この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk1にある「melfes~輝ける青」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

まあ、何というか、歌のイメージとしては、ある日突然、世界中の人々の心の中に、尽きることのない愛なる想いが溢れんばかりに満ちて来て、皆の心に永遠に平安をもたらし、それら流れはまるで風に乗るかのように世界中を駆け巡り、あっという間にこの地上世界が、大いなる愛の渦の中に引き込まれるというものです。

それは霊的に見ると、大元の神様が何とも言えない心地よい琴というか竪琴というか、或いはバイオリンのような三味線のような、如何様にでも聞こえてしまう弦楽器を弾きつつ、これまた聴くだけで心が自然と洗われて、知らず知らずのうちにうっとりするような歌と共に現れる、というもの。

こうして、耳には聞こえないけれども、人々はそこに神の姿を観(かん)じて、心の中から何となく平安の気持ちが湧いてきてうっとりし、その歌声に呼応するかのように優曇華の花も咲く、ということです。

優曇華の花が咲くというのはどういうことかというと、優曇華は「人+憂」+「曇」+「華」なので、一見理想的に見えるこの世界、表から見れば華やかな世界の内にある、人々の憂いや心の曇り様を端(はな)から裂く(さく)と解釈できるかと思います。

さらに深読みすれば、絃は「糸+玄」で、糸は意図、玄は天、始まり、の意味があり、また源に通じるので、これをもって天界の始まりとなす、という天帝の意図を感じられる。

歌はウタで宇宙(‘う’ちゅう)の多様性(‘た’ようせい)の「う」「た」、かと思われる。まあ要するに、そういう愛の気持ちが溢れて来るのは皆一緒だけれども、歌はその人の心の現れでもあるので、皆好き好きに違った歌を口ずさむように、その喜びを表現するということかと思います。

また歌は「可」(口と喉の奥を表す象形)と「欠」(人が口を開けている象形)で成り立っているのだそうだ。

或いは、この「可」の口の部分は祝詞をおさめる口(サイ)、丁(可の口以外の部分)は木の枝を表すので、「可」は祝詞の入ったサイに対して、木の枝を振りかざして打ち、神に願いがかなうように、実現すべしと迫ることを表すものとし、これに欠(人が口を開いて叫んでいる姿)を加えて「歌」とする解釈もあるのだとか。

なので「絃と歌」は、ちょうど神と人の関係を表しているとも解釈できる。もともとある、世の中を歓喜弥栄の渦に巻き込みたい絃(天の意図、神の意図)と、世の中がどうにもならないほどに悪くなってきて、この状況をどうにか良くしたい、もはやここまで来れば神様に頼むしかない、と思う人々の歌(心の叫び)がピタリと一致して、そのような様相が生まれて来るということでもあるかと思います。

Posted on 2017/05/20 Sat. 11:15 [edit]

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まわりうた 

しらなみの たかくふしはれ
  ほのしろし のほれはしふく かたのみならし

(白波の 高く富士晴れ 仄白し 昇れば至福 潟のみならし)

解説

仄白しは「ほのかに白い。うす明るい。」、潟は「浦。入り江。湾。」、ならしは「…であるよ。…だなあ。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

意訳

白波の高くうねる様(さま)に、富士晴れのあの姿。仄白い空に(太陽が)昇れば、この上ない幸福感が満ち溢れて来る。(あぁ、このような絶景が見られるのは)この入り江のみだなぁ。

雑感

見ている光景のイメージとしては、葛飾北斎の「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の感じです。

Posted on 2017/05/20 Sat. 01:46 [edit]

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