06 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 08

花鳥風月

気ままに回文歌、いろは歌を書いています。

まわりうた 

とりのとき いせといつもと
  かみしふし みかともついと せいきとのりと

(酉の秋 伊勢と出雲と 神十字 帝持つ意図 正義と法と)

解説

秋(とき)は「大事な時期。」、正義は「正しい道義。人が従うべき正しい道理。」「他者や人々の権利を尊重することで、各人に権利義務・報奨・制裁などを正当に割り当てること。アリストテレスによると、名誉や財貨を各人の価値に比例して分配する配分的正義と、相互交渉において損害額と賠償額などを等しくする矯正的(整調的)正義とに分かれる。また、国家の内で実現されるべき正義には自然的正義と人為的正義とがあり、前者が自然法、後者が実定法につながる。国家権力の確立した社会では、実定法的正義は国家により定められるが、これは形式化・固定化されやすい。そこで、各人がその価値に応じた配分を受け、基本的人権を中心とした諸権利を保障されるべしという社会的正義の要求が、社会主義思想などによって掲げられることになる。公正。公平。」、法(のり)は「法律。法令。」「道理。道徳。」の意味です。

余談

この歌は、WAVEのアルバム「Citra re:verse -其歌は真言顕す欠片と為りて-」の中にある「天照大御神-AMATERAS SYSTEM-」~「月読命-TSUKUYOMI SYSTEM-」~「須佐能乎命-SUSANOWO SYSTEM-」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

「酉の秋」は、そのまま見れば酉年の大事な時期ということだが、秋(とき)は秋(あき)に通じる。また「取り(最後)の時」とも読める。

どうして「時」をわざわざ「秋」(とき)と読ませて「大事な時期」の意味になっているのか?

神が言葉を作ったという前提に立てば、それは秋(あき)の時期に大事なことが起こるからであろう。

ということで、歌をそのまま解釈すれば、いよいよ今年の秋から最後の締めくくりの立替が始まると読み取れる。

その説明が、その次からの部分と思われる。

「伊勢と出雲と 神十字」は、|(天)と―(地)が、縦と横が十(合わさる)ということを示しているように思う。

「帝持つ意図 正義と法と」は、天帝が持っている意図、即ち正義と法が復活するということだろう。

なので今一度ここで、自らを正義と法に照らし合わせて、問題が無いかを考えるべきなのだろう。

何気、出口王仁三郎聖師の下記歌を思い出す。

『立替を 世人のことと 思ふなよ 立替へするは 己が身魂ぞ』(霊界物語 13巻 如意宝珠 子の巻 余白歌より)

Posted on 2017/07/31 Mon. 21:36 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

31

まわりうた 

なかきよて へすわるかひの
   むつひあひ つむのひかるわ すへてよきかな

(永き代で 辺座る佳美の 睦び合ひ 頭の光る輪 全て良きかな)

解説

辺(へ)は「辺り。ほとり。そば。」、佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、睦ぶ(むつぶ)は「仲よくする。むつまじくする。むつむ。」、頭(つむ)は「人間のあたま。つぶり。かしら。つむり。おつむ。」の意味です。

余談

この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「鳥は鳴き、僕は歌う」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

「辺座る」は、側で座るという意味になるが、何の側かというと、おそらく天帝の意味であろう。だから「永き代で 辺座る」は、永遠の世界で(天帝の)側に座る、という意味になる。

だが、歌から感じるイメージでは、色とりどりの花が咲き匂う、丘っぽいところで座っている天国的な情景である。

だから天帝の側で座っているといっても、物理的に側にいるのではなく、心境的に常に側にいるように感じている、と解釈できそうだ。

その心境が「佳美の 睦び合ひ」と「頭の光る輪」で説明されているように思う。

まあ要するに、お互いに仲が良くて、そこにいる人々は天真爛漫でありながらも、智慧証覚(ちえしょうかく)に満ちていて、大変徳が高い、ということかと思う。

徳云々と言うと、何やら堅苦しく感じられるが、徳は「行+直+心」である。自らの内に元々備わっている、神と直に繋がっている心をそのまま行動に移すと、それが勝手に徳になっているように思う。

智慧証覚については下記参照。

『出口王仁三郎全集 第1巻 皇道編 第6篇 愛善の真意義 第3章 人類愛善の真義』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館」さん)
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121801c49

『出口王仁三郎全集 第5巻 言霊解・其他 【随筆・其他】瑞言祥語 智慧と証覚』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館」さん)
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121805c255

Posted on 2017/07/30 Sun. 10:53 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

30

まわりうた 

なかきしか むねのひかりか
  なつきぬき つなかりかひの ねむかしきかな

(永き詩歌 胸の光が 脳貫き 繋がり佳美の 音むがしきかな)

解説

詩歌(しか)は「和歌・俳句・詩など韻文の総称。」、脳(なずき)は「脳・脳髄・脳蓋(のうがい)などの称。転じて頭。」、貫く(ぬく)は「通す。つらぬく。」、佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、むがしは「喜ばしい。ありがたい。」の意味です。

余談

この歌は「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX O.S.T」の中にある「Fish - Silent Cruise」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

Posted on 2017/07/29 Sat. 22:25 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

29

まわりうた 

なかやみの かすかなるみち
  たたくしく たたちみるなか すかのみやかな

(長闇の 幽かなる道 ただ奇しく 直路見る中 須賀宮かな)

解説

奇し(くし)は「神秘的である。不思議である。」、直路(ただじ)は「まっすぐな道。」「正しい筋道。正道。」の意味です。

余談

この歌は、「大神 オリジナル・サウンドトラック」にある「ヤマタノオロチ退治 其の一」~「ヤマタノオロチ退治 其の二」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

ふと湧いて来た歌です。

調べてみると「須賀宮」(すがのみや)は古事記に出て来ることが判ったのだが、具体的にどこを指すのかちょっとよくわからない。清々しい宮で清の宮という意味で受け取ればよいようにも思う。

或いは主賀(すが)として、主神のお出ましを賀する御屋(みや)という意味でもあるのかもしれない。

また別の視点で見ると、長闇は長い八つの身で、ヤマタノオロチのことかと思われる。長はナーガ(蛇)にも通じる。

「幽かなる道」は幽界の道のことかと思われる。

だから「長闇の 幽かなる道 ただ奇しく」は、ヤマタノオロチが敷いた幽界の道は、ただただ不思議で奇妙なので、迷いやすいという意味か。しかしその中でも正しい筋道を見ることによって、目の前に須賀宮が見える、ということかと思う。

おそらく、幽界的な力を手に入れるよりも、神への素直な信仰こそが、正しく神へと至る一番遠くて近い道なのだ、ということを、この歌は言いたいようにも感じる。

逆に言うと、神への信仰を持つというのは、暗闇の幽かなる道を歩いているようなものだ、ということでもあるようにも思う。なにせ、いるかどうかもわからない神を信仰するのだから、中々その実態はつかみにくい。しかしながら、自らの内に信仰があれば、それは不可能なことではなく、その信仰の中に、はっきりと神の姿が見て取れるようになる、ということかと思う。

Posted on 2017/07/29 Sat. 15:56 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

29

まわりうた 

しらなみの しほのかにくも
  なみたまた みなもくにかの ほしのみならし

(白波の 潮の香に雲 涙また 水面国処の 晡時のみならし)

解説

香(か)は「におい。かおり。」、晡時(ほじ)は「申(さる)の刻。午後四時頃。転じて,夕方。」、ならしは「…であるよ。…だなあ。」の意味です。

余談

この歌は、「千と千尋の神隠し サウンドトラック」の中にある「6番目の駅」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

国処(くにが)はどこかの国の処(ところ)を指しているのではなく、単に陸地の意味で使っている。

辞書にこの言葉自体は載っていなかったが、国処から転じて陸(くぬが)になった、と解説があったので、この言葉を使うことにした。

別の視点で見れば、国には「故郷」という意味もあるので、そのニュアンスも含まれている、と見ても良いかもしれない。

白い波の立つ音、そして潮の香りに空に浮かぶ雲。それら光景に涙がまた流れ、目の前の水面と今ここに立っている陸地全てが、夕方の時間帯特有の雰囲気に包まれている。それらひっくるめて、どこか故郷めいた懐かしさを感じる、ということ。

Posted on 2017/07/29 Sat. 10:41 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

29

まわりうた 

なかれくも ついさうしては
  なみのまの みなはてしうさ いつもくれかな

(流れ雲 追想しては 波の間の 皆果てし憂さ 何処も暮れかな)

解説

追想(ついそう)は「過去を思い出してしのぶこと。追憶。追懐。」、憂さ(うさ)は「心が晴れ晴れしないこと。気がめいること。」、何処(いず)は「不定称の指示代名詞。場所を表す。どこ。 」、暮れは「日が沈みかけてあたりが暗くなる頃。夕方。夕べ。」の意味です。

余談

この歌は、「千と千尋の神隠し サウンドトラック」の中にある「6番目の駅」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

憂さは有作(うさ)とかかっている気がする。有作は「因縁によって生じたもの。有為。」の意味です。

ちなみにこの歌は、自分の中にある原風景を、可能な限りイメージして書いたものです。

イメージとしては、流れ雲を見ながら、いろいろと昔のことを思い出しては、感慨に耽っているのだけれども、繰り返す波の音を聞いているうちに、それら記憶が思い出す先から抜け落ちていって、最後は晴れ晴れとしない心も朽ち果てていって、永遠なる夕べの中に自分自身も溶け込んでいく、というような感じです。

Posted on 2017/07/28 Fri. 02:20 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

28

いろはうた 

ゆふさりつかた をとくれて
ゐあきぬへいろ よみせなむ
まそほのえもん けすちめに
うねるおはやし わらひこゑ

夕さりつ方 遠暮れて
居飽きぬ平路 夜店並む
真赭の衣紋 毛筋目に
うねる御囃子 笑ひ声

解説

夕さりつ方(ゆふさりつかた)は「夕方。」、遠(をと)は「遠い所。遠方。」、平路(へいろ)は「平らな道。平坦(へいたん)な道。」、並むは「並ぶ。連なる。」、真赭(まそほ)は「赤い色。ますお。」、衣紋(えもん)は「衣服。身なり。」、毛筋は「結い上げた髪の毛の流れ。」、うねるは「上下・左右に大きく波うつ。また、うねりが寄せる。」、御囃子(おはやし)は「囃子を丁寧にいう語。」の意味です。

余談

この歌は新日本風土記のテーマ曲「あはがり」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。「あはがり」は奄美の島言葉で「全てが明るい」という意味だそうです。

雑感

見ての通り、夏祭りのイメージを膨らませて作った歌です。

Posted on 2017/07/27 Thu. 23:54 [edit]

category: いろはうた

TB: --    CM: --

27

まわりうた 

なかきよの うくるれいちの
  いまのみの まいのちいれる くうのよきかな

(永き代の 受くる霊智の 今のみの 真命入れる 空の良きかな)

解説

霊智は「霊妙な知恵。はかりしれないほどすぐれた不思議な知恵。」、入る(いる)は「はいる。はいってゆく。」「至る。なる。達する。」の意味です。

余談

この歌は、ゲームluv waveの中にある「stream memory」(ブート画面でのBGM)を聴きながら、それをモチーフに描いた歌です。

雑感

霊智は霊妙なる智恵という意味だろうが、個人的には0の智というイメージが湧く。

0を知っている状態というか、0に成り切った状態。

しかし自分(自我)というものがある限り、それは実現できないように見える。しかし、0なる状態を表している、次の「今のみの 真命」の部分を見ると、何となくイメージが湧く。

この部分はおそらく、今のみにある自らの命の行方のままに身を任せる、ということだと思う。

たとえば反射神経。これは自分が気付く前に、身体が勝手に動いている現象だ。これは自分が意志したというよりも、自らの命を司る部分が、そのままに動いたと言えると思う。そこに自我は介入していない。

或いは朝に目覚めたら、自然に体が起き上がる。これも自分が思うよりも先に身体が動いている。自我が気付くのは、そうしてしまってから気付く。

いわば自我というものは今ここではなく、有るはずのない過去や未来しか認識できない、ということになる。だから今に集中すると、何かに熱中すると、没我状態となって自分が無くなる。

反対に、この命は常に今にしか存在していない。

常に脈打つ心臓が、もし「明日の晩飯何食べようか」と急に思い立って、その動きを一瞬でも止めたら、その途端に自分の命は危機にさらされる。

だから自分も、自分の存在を忘れるぐらいに、自らの命の行方のままに身を任せればよいのだ。

こうなることによって「入れる空」になるということだろう。

ちなみに、この入れるは「ボールを箱に入れる」などの意味の入れるではなくて、入る(いる)の命令形「入れ」に、完了を表す助動詞りの連体形「る」がついたものと考えられるので、入った、または達した、至った、という意味になる。

だから自分をそこに入れるのではなくて、命の行方のままに身を任せると、自然と空の中に入るわけである。

つまるところ、私たちは目の前の世界を、常に過去や未来の視点でしか見ていないように思う。

本当は目の前には、今のみの世界が広がっているのに、それを認識せず、そこに有るはずのない過去を、或いは未来を常に見ているのだ。

その錯覚を取っ払って、今のみの世界に丸々入り切ることが、いわゆる悟りというやつではないかと思うのである。

去年か一昨年か、一瞬だけそれと思われる世界を垣間見たことがあるが、とても美しかった。

たとえるならば、一匹の蟻が象になる夢を見て、さらに夢の中の象が、今度は人間になる夢を見ている、というぐらいに理解不能な世界であった。

目覚めた後の蟻が、何が起こっているのかちんぷんかんぷんだったのは言うまでもない。だが、その理解不能の世界が、やたら壮大であった印象だけは、今も記憶として残っている。

もうあまり覚えていないが、永遠に戻ってこない世界が、目の前でリアルタイムで動いていく美しさが、とにかくすごかったのだ。

日常と変わらない風景なのに、そこには見たこともない光景が広がって、まるで別の星に来たかのようであった。

あまりに美しいので、今この瞬間の時間と空間をそっくりそのまま固めて、永遠にその中で眺めていたいと思いながらも、目の前の世界は否応なしに流れていく、その惜しさ。

いや、厳密にいうと、そんなことを思う間もなかった。響きとしては、そういう響きだったが、とにかくただ惚けていた。

そして、ああ、これは何だろう、これがいわゆる悟りというやつだろうか? と、それを理解しようと思考した瞬間、その世界は消えてなくなった。

Posted on 2017/07/26 Wed. 12:24 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

26

まわりうた 

なはのこる けさのこかねの
  しふかふか ふしのねかこの さけるこのはな

(名は残る 今朝の黄金の 十合が 富士の峰加護の 咲ける木の花)

解説

名(な)は「名声。名誉。」、峰(ね)は「山の頂。みね。」、加護は「神仏が力を加えて守り助けること。」、木の花(このはな)は「木に咲く花。特に、桜の花や梅の花。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

中々解釈が難しいが試みてみる。

「名は残る」は、名誉は残る、と解釈したい。

「今朝」は時代の夜明けを意味し、「黄金の十合」は黄金色に輝く十合目(頂点)の神が出て来ることを意味する。

黄金色に輝く神様と言えば、艮の金神様が有名なので、国常立大神のお出ましということだろう。

「富士の峰」は不二の音に通じ、絶対的な響きを意味する。つまり、揺るがない軸が出て来るということ。いわば法(ダルマ)のようなイメージ。

「加護」は火凝(かご)で、これは火が凝り固まるイメージを受ける。この火の凝り、火の固まりが、人にはヒ・カ・リ(光)として感じられるように思う。

なので「加護の 咲ける木の花」は、その光(霊化理)の法の加護の下、それぞれ花を咲かせるように、嬉し楽しの状態になる、という意味かと思う。

ただこの歌は同時に、富士山頂からの噴火もイメージできるので、中々厳しい内容としても受け取れるかもしれない。

具体的に解釈すれば、朝日が昇らんとする早朝に、富士山頂から黄金色の光(火)の花が咲き乱れるというもの。そしてその噴火は、今後の歴史に名を残すほどの大噴火になる。

そもそも霊界と現界は映し鏡のようだと言われているので、霊的に見ると良いことが、現実的には厳しい現象として出て来る、ということは十分ありえる。

日月神示でも「富士はいよいよ動く」とあるので、その現象が近々出て来ないとは言い切れない。人である身としては勘弁して欲しいところだが、反面これぐらいの大きな変化がないと、もう世の中は良くならない、人の心は根本から変わらない、とも感じるので、中々難しい所ではあると思う。

日月神示参照。

『世の元の大神(かみ)の仕組といふものは、神々にも分らん仕組であるぞ、この仕組 分りてはならず分らねばならず、なかなかに六ヶ敷い仕組であるぞ、知らしてやりたいなれど、知らしてならん仕組ぞ。外国がいくら攻めて来るとも、世界の神々がいくら寄せて来るとも、ぎりぎりになりたら神の元の神の神力出して岩戸開いて一つの王で治める神のまことの世に致すのであるから、神は心配ないなれど、ついて来れる臣民 少ないから、早う掃除して呉れと申すのぞ、掃除すれば何事も、ハッキリと映りて楽なことになるから、早う神の申すやうして呉れよ。今度はとことはに変らぬ世に致すのざから、世の元の大神でないと分らん仕組ざ。洗濯できた臣民から手柄立てさしてうれしうれしの世に致すから、神が臣民にお礼申すから、一切ごもく捨てて、早う神の申すこと聞いて呉れよ。因縁の身魂は何うしても改心せねばならんのざから、早う改心せよ、おそい改心なかなか六ヶ敷ぞ。神は帳面につける様に何事も見通しざから、神の帳面 間違ひないから、神の申す通りに、分らんことも神の申す通りに従ひて呉れよ。初めつらいなれど だんだん分りて来るから、よく言うこと聞いて呉れよ、外国から攻めて来て日本の国丸つぶれといふところで、元の神の神力出して世を建てるから、臣民の心も同じぞ、江戸も昔のやうになるぞ、神の身体から息出来ぬ様にしてゐるが、今に元のままにせなならんことになるぞ。富士から三十里四里離れた所へ祀りて呉れよ、富士にも祀りて呉れよ、富士はいよいよ動くから、それが済むまでは三十里離れた所へ、仮に祀りて置いて呉れよ。富士は神の山ざ、いつ火を噴くか分らんぞ、神は噴かん積りでも、いよいよとなれば噴かなならんことがあるから、それまでは離れた所へ祀りて呉れよ、神はかまはねど、臣民の肉体 大切なから、肉体もなくてはならんから、さうして祀りて呉れ。まつりまつり結構。』(上つ巻 第二十一帖)

『岩戸開く役と岩戸しめる役とあるぞ。一旦世界は言ふに言はれんことが出来るぞ、シッカリ身魂みがいて置いて呉れよ、身魂みがき第一ぞ。この道開けて来ると、世の中のえらい人が出て来るから、どんなえらい人でも分らん神の道ざから、よくこの神示読んで置いて何んな事でも教へてやれよ、何でも分らんこと無いやうに、この神示で知らして置くから、この神示よく読めと申すのぞ。この道はスメラが道ざ、すめるみ民の道ぞ。みそぎせよ、はらひせよ、臣民 早くせねば間に合はんぞ。岩戸開くまでに、まだ一苦労あるぞ、この世はまだまだ悪くなるから、神も仏もこの世には居らぬのざといふところまで、とことんまで落ちて行くぞ。九月に気をつけよ、九月が大切の時ぞ。臣民の心の鏡凹(くぼ)んでゐるから、よきことわるく映り、わるきことよく映るぞ。今の上に立つ人、一つも真の善い事致しては居らん、これで世が治まると思ふてか、あまりと申せばあまりぞ。神は今まで見て見んふりしてゐたが、これからは厳しくどしどしと神の道に照らして神の世に致すぞ、その積りでゐて呉れよ。神の申すこと、ちっともちがはんぞ。今の世に落ちてゐる臣民、高い所へ土持ちばかり、それで苦しんでゐるのざ。早う身魂洗濯せよ、何事もハッキリと映るぞ。』(上つ巻 第十八帖)

『岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。素盞鳴の命にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ。神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのであるぞ、その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸しめであるぞ。』(碧玉の巻 第十帖)

火水伝文参照。

「 今までの世は、悪の力が強ければ強き程、上へ上へと上がれた世なれど、既に悪の世は終わりて居るのぞ。今今に悪に見ゆるはこ度の大掃除の舞台造り由、勘違い致してまだまだ悪の世が続く思いて、好い加減なことをなして居ると、残念では済まなくなるから、今今に心入れ替えて、清まれる程に心鍛えて下されよ。
 新しき御代は、汝等も含め万象万物マコトのもので無くれば、生くるは適わぬ御代にござるから、何事も上から下までマコトがキリリと立て分けられて何でも透けりて解かる御代で御ざるから、人民様皆々ご安心なされて得心なされて全く口舌の無いご苦労も悩みもない、嬉し楽しの歓喜弥栄の御代となりて来るのじゃ。マコト持ち来た汝等が、幾久しく待ちて居りたは知りておるのぞ。嬉し慶び取りて善いのじゃぞ。新しき御代に入るれば、もはや悲しき目には合わせぬ由、ミロク代至るまで今暫しの辛抱じゃ。富士動くまで何がありても堪えて下されよ。死に急ぎなさるで無いぞ。時至りなばこの方とミロクの岩戸を共に開かん。」

Posted on 2017/07/25 Tue. 17:57 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

25

まわりうた 

みるかある かひいのちのき
  つなかるか なつきのちのい ひかるあかるみ

(見るが在る 佳美命の木 繋がる我 脳の知の網 光る明るみ)

解説

佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、脳(なずき)は「脳・脳髄・脳蓋(のうがい)などの称。転じて頭。」、網(い)は「くもの糸。また、その巣。」、明るみは「明るい所。また、明るさ。」の意味です。

余談

この歌は、ゲームluv waveの中にある「stream memory」(ブート画面でのBGM)を聴きながら、それをモチーフに描いた歌です。

Posted on 2017/07/24 Mon. 17:22 [edit]

category: まわりうた

TB: --    CM: --

24