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花鳥風月

気ままに回文歌、いろは歌を書いています。

まわりうた 

みかへすて みのりきみすて
  こころうろ ここてすみきり のみてすへかみ

(身替へ捨て 身の力み捨て 心空 此処で澄み切り 祈みて皇神)

解説

替える(かえる)は「今まで使っていたものを別のものにする。古くなったものを新しいものにする。」、力みは「りきむこと。また、りきんだ様子。」、空(うろ)は「内部が空になっているところ。うつろ。ほら。空洞。」、祈む(のむ)は「頭を下げて請い願う。頭をたれて神仏に祈る。」、皇神(すべかみ)は「神を敬っていう語。すめかみ。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

「身替へ捨て」は身体を替えて、今までのものを一切捨てるというニュアンスで、いわば脱皮のような感覚。

変な例になるが、明日急に自分がキリギリスになったら、もうキリギリスとして生きていくしかない。そこまで極端でなくても、明日急に自分が末期癌だと判ったら、今までの生活様式や自分の日頃の心も持ち様などを一新して、それを受け入れて生きていくしかない。

この部分は何が言いたいのかというと、おそらく、今日ある身体は、昨日までの身体とは違うものだと認識するということかと思う。自分の身体が常に新しく、目に見えない内側から生まれ出ていることを感覚する、ということ。また身は見(み)に通じる、身替えは見替えであり、見方を新しくする、ということでもあるように感じる。

「身の力み捨て」は文字通り、身体の力みを捨てて、ということ。力むとは自分で何とかしようとする意識から生まれるが、そうではなく、目に見えない内側から、全てを一新していく身体の作用に、自分の意識をそっくりそのまま乗っけるということである。だからその後「心空」となっている。

こうして、今までの身を替えて捨て、力みを捨てて、心を空っぽにしたこの場所、此処で澄み切りという現象が起こる。そしてこの澄み切りを経験することで、思わず神に「あぁ!!!」と祈ってしまう。

また、この祈む(のむ)は呑むに通じることから、この澄み切りの現象をごくんと呑む、肚(はら)に収めるというニュアンスを感じる。

そしてこの祈りは、具体的に何かを神に頼むという類のものではなく、内から出て来る感動的な感覚というか、もう祈らざるを得ない心境と、それに伴う肉体感覚というか、そういうニュアンスである。

つまり澄み切りの状態に意乗る(いのる)のだ。

心を澄み切りの状態にさせるのではなく、澄み切りという状態に心が乗るのである。だから、心を澄み切らせようとして澄み切るのではなく、まず内側から澄み切りの作用があって、意識はそこにただ乗っていくだけ、ということになる。

皇神は統(す)べて噛み合う、というニュアンスを感じる。だから澄み切りと感じるということだろう。

身体が怪我をしたり病気をすれば、その部分が気になるが、健康状態であれば、普段は特に自分の身体を意識することはないかと思う。たとえば、小指を怪我したら、何か手作業をする時には、特に気になって不便に感じるだろうが、怪我をしていないなら、それほど意識せずに手作業をしているだろうということ。

このように澄み切りとは、自分の身体が一つに統べられて、全てが噛み合っている状態であると言える。

ということでこの歌は、外からでは見えない澄み切りの作用に神を感じて、もう祈らざるを得ない、という感覚を詠っているように思う。

何気、西行が伊勢神宮を参拝した時に詠った下記歌を思い出す。

「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」

Posted on 2017/05/09 Tue. 15:11 [edit]

category: まわりうた

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