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花鳥風月

気ままに回文歌、いろは歌を書いています。

まわりうた 

かみのたま たふときしとく
  をはりなり はをくとしきと ふたまたのみか

(神の玉 尊き至徳 終はりなり 破屋と磯城と 二叉のみが)

解説

破屋(はおく)は「こわれ破れた家。あばらや。」、至徳は「最上の徳。また、それを備えた人。」、磯城(しき)は「城。とりで。」「周囲に岩石をめぐらした祭場。」、二叉は「もとが一つで先が二つに分かれていること。また、そのもの。」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk3の中にある「両島原 其の一~両島原 其の二」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

歌の内容をそのまま読めば、神の玉、尊い至徳が表れて、終わりが来た、となる。

神の玉が何を意味するかはわからないが、玉は「王+ヽ」なので、神のヽ(中心)なる王、ヽ王(てんおう)、天王、即ち天帝と解釈できる。

また、神はもともと「示+申」とも書く。この「申」は稲妻の象形なので、天帝が現れる、示される時は、稲妻のように現れるのではないかと推察される。

ネットで身代金要求型の大規模なサイバー攻撃が起きたり、トランプ大統領の支持率が40%割れを起こしてきて、北朝鮮への攻撃でもってその支持率回復を狙うのではないかとの噂もある中、どういう形になるかは判らないが、天帝が電撃的に表れて、これまでの和光同塵の世を終わりにする、というのは大変に有り難い。

しかし、問題なのは歌の後半だ。

「破屋と磯城と 二叉のみが」とは、まあつまり、天帝が表に現れるとどうなるかというと、今までは弱肉強食の世の中で、力と我(が)の強さで勝ち負けが決まったのが、今度は天帝が示される基準で勝ち負けが決まってしまう、ということである。

天帝の出現の予告は、聖書の最後の審判や、仏教の弥勒菩薩降臨などでも示されているが、天理教の「おふでさき」、大本教の「霊界物語」、また日月神示でも、善と悪とをくっきり分ける、という旨のことが書かれてある。

おふでさき参照。

「これをみて いかなものでも とくしんせ 善とあくとを わけてみせるで」(おふでさき第五号 006)

霊界物語参照。

『霊界物語 第1巻 (前付) 基本宣伝歌』(「霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館」さん)
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm010002

日月神示参照。

『神界は七つに分かれてゐるぞ、天つ国三つ、地(つち)の国三つ、その間に一つ、天国が上中下の三段、地国も上中下の三段、中界(ちうかい)の七つぞ、その一つ一つがまた七つに分かれてゐるのぞ、その一つがまた七つずつに分れてゐるぞ。今の世は地獄の二段目ぞ、まだ一段下あるぞ、一度はそこまで下がるのぞ、今一苦労あると、くどう申してあることは、そこまで落ちることぞ、地獄の三段目まで落ちたら、もう人の住めん所ざから、悪魔と神ばかりの世にばかりなるのぞ。この世は人間にまかしてゐるのざから、人間の心次第ぞ、しかし今の臣民のやうな腐った臣民ではないぞ、いつも神かかりてゐる臣民ぞ、神かかりと直ぐ分かる神かかりではなく、腹の底にシックリと神鎮まってゐる臣民ぞ、それが人間の誠の姿ぞ。いよいよ地獄の三段目に入るから、その覚悟でゐて呉れよ、地獄の三段目に入ることの表(おもて)は一番の天国に通ずることぞ、神のまことの姿と悪の見られんさまと、ハッキリ出て来るのぞ、神と獣と分けると申してあるのはこのことぞ。何事も洗濯第一。』(富士の巻 第九帖)

『いよいよ戦烈しくなりて喰ふものもなく何もなくなり、住むとこもなくなりたら行く所なくなるぞ。神の国から除かれた臣民と神の臣民と何ちらがえらいか、その時になりたらハッキリするぞ、その時になりて何うしたらよいかと申すことは神の臣民なら誰でも神が教えて手引張ってやるから、今から心配せずに神の御用なされよ、神の御用と申して自分の仕事をなまけてはならんぞ。何んな所にゐても、神がスッカリと助けてやるから、神の申すやうにして、今は戦して居りて呉れよ。てんし様 御心配なさらぬ様にするのが臣民のつとめぞ。神の臣民 言(こと)に気をつけよ、江戸に攻め来たぞ。』(富士の巻 第十帖)

さらに踏み込んで見てみると、磯城(しき)には「城。とりで。」の他、「周囲に岩石をめぐらした祭場。」の意味もある。ちなみに百磯城(ももしき)は「宮中。内裏。皇居。」の意味だが、各人においても、おそらくこれからは神を祭るということが大事になって来るのではないかと思われる。

下記ブログによれば、天帝の基準は「良心」とある。なので、神を祭るというのは即ち、良心に従って日々を過ごしていく、ということに他ならない。いくら大層な神棚で神を祭っても、その人に良心がなければ、天帝はそれを受け取ることはない、ということかと思う。

『神の教えは十年一日が如く説く。イエスは悔い改めよ、修験は懺悔、懺悔』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)
http://kamikotokai-b.jugem.jp/?day=20150627

また善悪についても書かれている。

『左翼に展開する唯物論(悪)と右翼に展開する唯心論(善)』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)
http://kamikotokai-b.jugem.jp/?day=20130711

『悪の「亞」に秘められた意味、主の墓を暴く』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)
http://kamikotokai-b.jugem.jp/?day=20120121

善と悪が永遠に別れ別れになる時、どちらにせよ各々が行きたい世界に行くので、どちらの世界が善い悪いは、もはや言えないとは思うが、やはり悪の世界はちょっと、いや、かなり住みにくいように思う。

人は自由が与えられているので、神への信仰をするしないは各人に任されているが、しかし神への信仰があれば、いざという時「鬼の目にも涙」で、神様から助け舟が出せる。もしもの時、その助け舟に乗れるように、普段から自分の心の中心に良心を据えて信仰していくことは、信仰前の自分と比べても、何ら損することではないようには思う。

記事参照。

『みろく神の「芋」の教え。最後の審判【火の雨】が降り注ぐ時、どこに逃げるか?。』(「人に内在する良心神(神言会)」さん)
http://kamikotokai-b.jugem.jp/?day=20150419

『宗教論』(出口王仁三郎ミュージアム 王仁魂復活プロジェクトさん)
http://www.onitama.net/modules/ot/index.php?content_id=13

Posted on 2017/05/17 Wed. 17:30 [edit]

category: まわりうた

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