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花鳥風月

気ままに回文歌、いろは歌を書いています。

まわりうた 

かみのうよ いめみるはたて
  きおくとく おきてたはるみ めいようのみか

(神の紆余 夢見る果たて 記憶解く 起きて賜ばる身 名誉のみが)

解説

紆余(うよ)は「うねり曲がっていること。」「伸び伸びとしてゆとりのあること。」、夢(いめ)は「ゆめ。」、果たては「端。はし。はて。」、賜る(たばる)は「いただく。頂戴する。」、名誉(めいよう)は「珍しいこと。また、そのさま。不思議。」の意味です。

余談

この歌は、ゲームluv waveの中にある「stream memory」(ブート画面でのBGM)を聴きながら、それをモチーフに描いた歌です。

雑感

紆(う)という漢字は糸のように曲がりくねった道の意味なのだそうだ。

「神の紆余」から感じるイメージは、神が見ている夢の中の世界、という感じ。夢なので、その内容は曲がりくねっていて、つじつまが合わない。

神の世界は本来は完全無欠で悪い所は存在しないわけだが、ここは夢の中の世界というわけだ。

要するに、私たちの住む世界は、まるで不完全で、悪がはびこっているように見えるわけだが、それは神が見ている夢の世界であり、神自身が目覚めればフッと消えてしまう世界なわけである。

こうして見ていた夢の果てで、今までの夢の中での記憶を解く、即ち夢から目覚めて起きれば、夢の中の感覚世界ではなく、現実の身体感覚が蘇って、あぁ、今までの夢は不思議だったなぁ、と判るわけである。

ちょうど、不思議の国のアリスが物語の最後で目覚めた時のように、夢から覚めることで、今までの奇妙奇天烈な世界が全部無くなっていた、というイメージである。

仏教的に言えば、いろは歌にあるように「有為の奥山」を越えて、もう浅い夢は見ない、と言っているのと同じだ、ということ。

おもしろいのは、夢の中も奇妙奇天烈だが、現実の中も奇妙奇天烈だということ。だから最後は、不思議のみだなぁ、となっている。

個人的な体験だが、何か月か前に一度だけ、夢に入る時のプロセスを、おぼろげながら意識できたことがあった。

通常は、いつの間にか眠っていて、気付いたら夢の中に居て、いろいろその中で体験して、目が覚めたら、あぁ夢だったなぁ、と判る、いうプロセスが一般的だと思うが、その時は、自分の中から次々に出て来る意味の為さない思考が、夢の映像として形作られていく様を、リアルタイムで意識していた。

これらプロセスは現実世界から見れば辻褄が合わず、奇妙奇天烈なのだが、非常に自由で面白いわけである。

たとえばその日、かわいい子豚の写真を見たとする。また別の場面では、ふと空を見上げて、幾ばくかの解放感を感じたとする。

それは現実的に見れば全く関連性のない、別々の事柄だが、写真を見た時の「かわいい」と思った気持ちと、空を見上げた時の「綺麗だな」と思った気持ちが、夢の中で合わさって、結果、空に子豚が飛んでいる、という夢を見るかもしれない。

現実では、豚が空を飛ぶはずもないが、まあ、こうして夢の中では実現する。

それが歌の最後の「名誉(不思議)」の本質の部分ではないかと思うのである。思ったり議論したりすることが不(出来ない)、まさに奇妙奇天烈で不思議な世界だと。

ざっくり言えば「豚が空を飛ぶ」ことは、夢の中では常識なわけである。しかし、夢から覚めて初めてそれが奇妙奇天烈、非常識な世界だったことが判る。

このように、夢の中での常識が、目が覚めてから非常識だと判るように、神の夢を見ている我々がその夢から覚めると、今まで当たり前だと思っていたことが、全く当たり前でなく、奇妙奇天烈な世界であったことを認識する、ということかと思う。

一言で言うと「この世界は何てナンセンスなんだ!」と心から開き直ることが、夢から覚めるということかと思う。

ゲームluv waveの中で、自分の身体も記憶も感情も自分の物ではないと認識する少女(真由美)が出て来るが、もし自分が素直に感じる感情、脳内から出て来る思考が、全く自分の物ではないという心境にまで追い詰められたら、その人は世界をどう感じるだろうか。

きっとその人は、自分が存在していないナンセンスなその世界を、とても愛おしく感じるに違いない。

Posted on 2017/07/23 Sun. 14:11 [edit]

category: まわりうた

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