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花鳥風月

気ままに回文歌、いろは歌を書いています。

まわりうた 

なはのこる けさのこかねの
  しふかふか ふしのねかこの さけるこのはな

(名は残る 今朝の黄金の 十合が 富士の峰加護の 咲ける木の花)

解説

名(な)は「名声。名誉。」、峰(ね)は「山の頂。みね。」、加護は「神仏が力を加えて守り助けること。」、木の花(このはな)は「木に咲く花。特に、桜の花や梅の花。」の意味です。

余談

この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

中々解釈が難しいが試みてみる。

「名は残る」は、名誉は残る、と解釈したい。

「今朝」は時代の夜明けを意味し、「黄金の十合」は黄金色に輝く十合目(頂点)の神が出て来ることを意味する。

黄金色に輝く神様と言えば、艮の金神様が有名なので、国常立大神のお出ましということだろう。

「富士の峰」は不二の音に通じ、絶対的な響きを意味する。つまり、揺るがない軸が出て来るということ。いわば法(ダルマ)のようなイメージ。

「加護」は火凝(かご)で、これは火が凝り固まるイメージを受ける。この火の凝り、火の固まりが、人にはヒ・カ・リ(光)として感じられるように思う。

なので「加護の 咲ける木の花」は、その光(霊化理)の法の加護の下、それぞれ花を咲かせるように、嬉し楽しの状態になる、という意味かと思う。

ただこの歌は同時に、富士山頂からの噴火もイメージできるので、中々厳しい内容としても受け取れるかもしれない。

具体的に解釈すれば、朝日が昇らんとする早朝に、富士山頂から黄金色の光(火)の花が咲き乱れるというもの。そしてその噴火は、今後の歴史に名を残すほどの大噴火になる。

そもそも霊界と現界は映し鏡のようだと言われているので、霊的に見ると良いことが、現実的には厳しい現象として出て来る、ということは十分ありえる。

日月神示でも「富士はいよいよ動く」とあるので、その現象が近々出て来ないとは言い切れない。人である身としては勘弁して欲しいところだが、反面これぐらいの大きな変化がないと、もう世の中は良くならない、人の心は根本から変わらない、とも感じるので、中々難しい所ではあると思う。

日月神示参照。

『世の元の大神(かみ)の仕組といふものは、神々にも分らん仕組であるぞ、この仕組 分りてはならず分らねばならず、なかなかに六ヶ敷い仕組であるぞ、知らしてやりたいなれど、知らしてならん仕組ぞ。外国がいくら攻めて来るとも、世界の神々がいくら寄せて来るとも、ぎりぎりになりたら神の元の神の神力出して岩戸開いて一つの王で治める神のまことの世に致すのであるから、神は心配ないなれど、ついて来れる臣民 少ないから、早う掃除して呉れと申すのぞ、掃除すれば何事も、ハッキリと映りて楽なことになるから、早う神の申すやうして呉れよ。今度はとことはに変らぬ世に致すのざから、世の元の大神でないと分らん仕組ざ。洗濯できた臣民から手柄立てさしてうれしうれしの世に致すから、神が臣民にお礼申すから、一切ごもく捨てて、早う神の申すこと聞いて呉れよ。因縁の身魂は何うしても改心せねばならんのざから、早う改心せよ、おそい改心なかなか六ヶ敷ぞ。神は帳面につける様に何事も見通しざから、神の帳面 間違ひないから、神の申す通りに、分らんことも神の申す通りに従ひて呉れよ。初めつらいなれど だんだん分りて来るから、よく言うこと聞いて呉れよ、外国から攻めて来て日本の国丸つぶれといふところで、元の神の神力出して世を建てるから、臣民の心も同じぞ、江戸も昔のやうになるぞ、神の身体から息出来ぬ様にしてゐるが、今に元のままにせなならんことになるぞ。富士から三十里四里離れた所へ祀りて呉れよ、富士にも祀りて呉れよ、富士はいよいよ動くから、それが済むまでは三十里離れた所へ、仮に祀りて置いて呉れよ。富士は神の山ざ、いつ火を噴くか分らんぞ、神は噴かん積りでも、いよいよとなれば噴かなならんことがあるから、それまでは離れた所へ祀りて呉れよ、神はかまはねど、臣民の肉体 大切なから、肉体もなくてはならんから、さうして祀りて呉れ。まつりまつり結構。』(上つ巻 第二十一帖)

『岩戸開く役と岩戸しめる役とあるぞ。一旦世界は言ふに言はれんことが出来るぞ、シッカリ身魂みがいて置いて呉れよ、身魂みがき第一ぞ。この道開けて来ると、世の中のえらい人が出て来るから、どんなえらい人でも分らん神の道ざから、よくこの神示読んで置いて何んな事でも教へてやれよ、何でも分らんこと無いやうに、この神示で知らして置くから、この神示よく読めと申すのぞ。この道はスメラが道ざ、すめるみ民の道ぞ。みそぎせよ、はらひせよ、臣民 早くせねば間に合はんぞ。岩戸開くまでに、まだ一苦労あるぞ、この世はまだまだ悪くなるから、神も仏もこの世には居らぬのざといふところまで、とことんまで落ちて行くぞ。九月に気をつけよ、九月が大切の時ぞ。臣民の心の鏡凹(くぼ)んでゐるから、よきことわるく映り、わるきことよく映るぞ。今の上に立つ人、一つも真の善い事致しては居らん、これで世が治まると思ふてか、あまりと申せばあまりぞ。神は今まで見て見んふりしてゐたが、これからは厳しくどしどしと神の道に照らして神の世に致すぞ、その積りでゐて呉れよ。神の申すこと、ちっともちがはんぞ。今の世に落ちてゐる臣民、高い所へ土持ちばかり、それで苦しんでゐるのざ。早う身魂洗濯せよ、何事もハッキリと映るぞ。』(上つ巻 第十八帖)

『岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。素盞鳴の命にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ。神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのであるぞ、その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸しめであるぞ。』(碧玉の巻 第十帖)

火水伝文参照。

「 今までの世は、悪の力が強ければ強き程、上へ上へと上がれた世なれど、既に悪の世は終わりて居るのぞ。今今に悪に見ゆるはこ度の大掃除の舞台造り由、勘違い致してまだまだ悪の世が続く思いて、好い加減なことをなして居ると、残念では済まなくなるから、今今に心入れ替えて、清まれる程に心鍛えて下されよ。
 新しき御代は、汝等も含め万象万物マコトのもので無くれば、生くるは適わぬ御代にござるから、何事も上から下までマコトがキリリと立て分けられて何でも透けりて解かる御代で御ざるから、人民様皆々ご安心なされて得心なされて全く口舌の無いご苦労も悩みもない、嬉し楽しの歓喜弥栄の御代となりて来るのじゃ。マコト持ち来た汝等が、幾久しく待ちて居りたは知りておるのぞ。嬉し慶び取りて善いのじゃぞ。新しき御代に入るれば、もはや悲しき目には合わせぬ由、ミロク代至るまで今暫しの辛抱じゃ。富士動くまで何がありても堪えて下されよ。死に急ぎなさるで無いぞ。時至りなばこの方とミロクの岩戸を共に開かん。」

Posted on 2017/07/25 Tue. 17:57 [edit]

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