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花鳥風月

気ままに回文歌、いろは歌を書いています。

まわりうた 

なかきよち ここるみうさる
  つゆのまの ゆつるさうみる ここちよきかな

(長き輿地 凝る身失さる 露の間の 移る像見る 心地良きかな)

解説

輿地(よち)は「大地。地球。全世界。」、凝る(こごる)は「液体状のものが、冷えたり凍ったりして凝固する。」「手足がかじかんで、自由がきかなくなる。」、失さるは「なくなる。消えうせる。」、露の間は「露がおいてから消えるまでの間。転じて、ちょっとの間。」、移る(ゆつる)は「時間が経過する。うつる。」、像は「かたち。姿。ありさま。」の意味です。

余談

この歌は、Chopinの「幻想即興曲」(演奏者:Artur Rubinstein)を聴きながら、下記ブログを読んで、それをモチーフに書いた歌です。

『歌や踊りの起源・天皇と神道(66)』(「ネアンデルタール人は、ほんとうに滅んだのか」さん)
http://d.hatena.ne.jp/HIROMITI/20170731

雑感

映画「戦場のピアニスト」を見たら、突然クラシックを聴きたくなり、その世界観に浸りながら書いたものです。

解釈するのは野暮な気がするが、ニュアンスがわかりにくいかもしれないので一応試みることにする。

「長き輿地 凝る身」とは、まあいわゆるケガレのことで、ケ(=日常)の中で固まって、枯れていく様のこと。

或いは、過去から現在まで歴史があって、時間が続くかぎり未来永劫その歴史が紡がれていく、という時間軸の中に身を置いている、とても窮屈な自分のこと。

しかし、そういううっとおしさが全部無くなる、ということだ。

自分の体の中に沈んだ過去が、この身体を重くし、まだ見ぬ未来に恐れおののくことで、この意識はそこに釘付けにされる。こうして、そこから逃れんがために、死から逃れんがために、意識は半自動的にこの生にしがみついていく。

そのような感覚が、全部無くなり、ただ露の間の中の移り変わっていく像を見るだけとなる。それが非常に心地よいのだ。

ちょうどピアノを弾いている時、指がものすごい速さで動いているのに、意識はその音と一体になりながら、出て来る一音一音の上を軽やかに弾んでいくような、そのような心地よい感覚。

弾いている最中は過去も未来もなく、ただその感覚のみが指を、身体を支配し、意識はただ、その心地よさの中にまどろんでいく。そのような心地よさ。

この時、目の前の映像は常に一歩前の残像として移り流れていくだけ。意識はそこに見向きもしていない。意識は常に、今の中の中へと沈んでいき、その深度に比例した無意識の動作が、曲の一音一音を紡いでいく。

こうして自分はどこにも居なくなって、そこに音のみが存在するようになるのだ。つまりケガレに対してハレになるということ。

ハッとした連続模様が、目の前で展開されていくということ。何もかも解放された、放たれた自分が、それら物や事を通して、目の前でリアルタイムに列挙されていく、連続されていく、そういう心地よさだ。

だから、この心地よさは自己満足のような、何かに満たされて心地よい、という方向とは逆の、むしろ何もかも空っぽになってすっきりする、清々する、といった心地よさなのだ。

Posted on 2017/08/02 Wed. 13:00 [edit]

category: まわりうた

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