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花鳥風月

気ままに回文歌、いろは歌を書いています。

まわりうた 

きしなかめ ほとりあまたの
  ちこくいく こちのたまあり とほめかなしき

(岸眺め 辺数多の 地獄行く 固持の魂あり 遠目悲しき)

解説

辺(ほとり)は「川や池などの水際。きわ。ふち。」、数多(あまた)は「数が多いさま。たくさん。多数。」、固持(こじ/こぢ)は「」「意見や信念などをかたく守って変えないこと。固執。」、魂(たま)は「たましい。」、遠目は「遠くから見た感じ。遠くから見えるぐあい。遠見。」の意味です。

余談

この歌は、地獄少女二籠オリジナルサウンドトラックの中にある「あいぞめ」を聴きながら書いた歌です。

雑感

数日前、地獄少女宵伽(よいのとぎ)を見たのだが、中々おもしろかった。後半の回顧録は、実質過去の再放送で残念だったが……。

ちなみに地獄少女がどういうアニメかを簡単に言うと、下記のような流れになる。

(以下重要なネタバレあり)

1. いじめられる、誰かに無実の罪を着せられる、等々、誰かに理不尽な仕打ちを受ける
2. 被害者が加害者を恨む
3. 地獄少女に頼んで加害者を地獄に流してもらう。(いわゆる地獄流し)
5. 「人を呪わば穴二つ」で、その依頼者(被害者)もまた死後地獄に行く

全ての話がこの構図になっているわけではないが、オーソドックスなパターンはだいたい上記の通り。

ということで、歌の内容としては、この地獄流しをイメージしたものです。

今回の放送は第4期になるが、確か第1期では、地獄少女になった由来なんかも明かされていたように思う。

もう見たのが十年以上前なので、あまりよく覚えていないが、こんな話だったと記憶している。

地獄少女の前身である少女もまた、何の落ち度もないのに、否応なしに人身御供にされ、生き埋めになるという理不尽な殺され方をされていた。

しかし、そのひどい仕打ちを受けたことによる凄まじい怨念によって、最後は村中に火を放ち、その復讐を遂げるのだが、それが罪となってしまった。

そしてその贖罪のため、地獄少女の仕事を与えられた、という話だったと思う。

なぜこの仕事をすることが贖罪になるのか、と考えてみると、おそらく復讐を遂げても、その恨みの連鎖が広がっていくだけで、根本的な解決にならない、ということを知りなさい、ということなのだと思う。

今回の地獄少女宵伽では、ミチルという少女が出て来て、似たような話が展開されている。

舞台は大正か昭和初期。ミチルの家は比較的裕福で、両親は常に人の為、村の為を思って行動していたので、村人からの人望も厚かった。

だが、それをよく思わない人々がいて、娘が拉致監禁されてしまう。それに気づいた両親は助け出そうとするが、両親共々、殺されてしまう。

ミチルは殺されるまさにその時、凄まじい怨念を発し、村中に火を放つ。そしてミチルは彷徨う魂となってしまった。

両親については、その後のことが描かれていないことから、成仏したものと思われる。おそらく両親は、そのような仕打ちを受けても相手を恨まず、それを受け入れたのだろう。

出来れば怨恨は地獄に流さずに、水に流したいものである。とはいえ、それは中々難しい。

かつて、この世を治めていた国常立大神様は、上と似たような構図で、八百万の神々から、冤罪により艮に押し込められたのだとか。しかしその時、仕返しをする力が十分にあるにも関わらず、じっと耐えていたという。驚くことに、その年数は三千年。

水に流すことは中々難しいので、怨恨に蝕まれた魂は、その魂自体を流せば良いのかもしれん。どこに流すのかというと、神の方向へと流すのだ。これも一種の惟神(かんながら)に通じるものがあるように思う。

そういえば昔、五井昌久という宗教家の本を読んだ時、神様、神様、と思っていたら、神様の中に入っちゃった、みたいなことが書かれていたが、あの感じにニュアンスとしては似ているかもしれない。

日月神示参照。

『そなたはつまらんことにいつも心を残すから つまらんことが出てくるのであるぞ。心を残すと云うことは、霊界とのつながりがあることぞ。つまらん霊界にいつ迄くっついてゐるのぢゃ。何ごとも清めて下されよ。清めるとは和すことであるぞ。同じもの同士では和ではない。違ったものが和すことによって新しきものを生むのであるぞ。奇数と偶数を合せて、新しき奇数を生み出すのであるぞ。それがまことの和であり清めであるぞ。善は悪と、陰は陽と和すことぢゃ。和すには同じあり方で、例へば五と五との立場で和すのであるが、位に於ては陽が中心であり、陰が外でなければならん。天が主であり地が従でなければならん。男が上で女が下ぢゃ、これが和の正しきあり方ぞ。さかさまならんぞ。これを公平と申すぞ。口先ばかりでよいことを申すと悪くなるのぢゃ。心と行が伴はねばならん。判りきったこの道理が行はれないのは、そなたをとり巻く霊の世界に幽界の力が強いからぢゃ。そなたの心の大半を幽界的なもので占めてゐるからぞ。己自身のいくさ まだまだと申してあろうがな。このいくさ中々ぢゃが、正しく和して早う弥栄結構ぞ。そなたのもつ悪いくせを治して下されよ。そのくせ治すことが御神業ぞ。自分で世界を建直すような大きこと申して御座るが、そなたのくせを治すことが最も大切な御用でないか。これに気がつかねば落第ぞ。おそれてはならん。おそれ生むからぞ。喜べ、喜べ、喜べばよろこび生むぞ。喜びは神ぢゃ。神様御自身も刻々弥栄して御座るぞ。故にこそ生長なされるのぢゃ。人間も同様でなくてはならん。昨日の自分であってはならん。今の自分ぞ。中今のわれに生きねばならん。われにどんな力があったとて、我を出してはならんぞ。我を出すと力なくなるぞ。我を、大き我に昇華させよ。大我にとけ入らねばならん。大我にとけ入ったとて、小我がなくなるのではないぞ。人おろがめよ。物おろがめよ。おろがむと自分の喜びとなり、拝まれたものも喜びとなるぞ。うれしうれしとはそのことぞ。』(月光の巻 第五十二帖)

Posted on 2017/10/07 Sat. 09:16 [edit]

category: まわりうた

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