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花鳥風月

気ままに回文歌、いろは歌を書いています。

まわりうた 

なかききろ ことむけやはし
  まいのちの いましはやけむ ところききかな

(永き岐路 言向け和し 真命の 今し速けむ 所義気かな)

解説

岐路は「道が分かれる所。分かれ道。」「将来が決まるような重大な場面。」「本筋ではなく、わきにそれた道。」、今しは「たった今。今という今。」、義気(ぎき)は「正しいことを守り行おうとする意気。義侠心(ぎきょうしん)。」の意味です。

雑感

「永き岐路」は、永遠の分かれ道という意味にとれるが、今ここしかないという一期一会のようなニュアンス。

「言向け和す」は、相手を説き伏せて納得させるというような意味だが、漢字をそのまま見ると、言葉を向けて、相手を和ませる、というようなニュアンスを感じる。

「真命の 今し速けむ 所義気かな」は、自分の命が、今の今、速くなるだろう所、という意味で、いわば、無意識から出て来る言動というような意味と解釈したい。そしてそれが義気である、と。

つまりは、たとえば、困っている人がを見かけて、大丈夫ですか、と声をかける、など、そういう言動が義気だなぁ、と詠っているということ。

それは、その人が大丈夫だろうかと思う前に、自分の中の命がもう動いてしまっている、そういう働きのことを指している。

逆から言えば、その一瞬を逃せば、いや私がしゃしゃりでても一緒だし、とか、声をかけたら逆に迷惑かもしれない、とか、そういう思考が出て来て、一期一会の所を逃してしまう、ということでもある。だから「永き岐路」なのだ。

Posted on 2017/10/11 Wed. 08:42 [edit]

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11

まわりうた 

まいのちの ゆつりてきつく
  ほとりあり とほくつきてり つゆのちのいま

(真命の 移りて気付く 熱りあり 遠く月照り 露の地の今)

解説

移る(ゆつる)は「時間が経過する。うつる。」、熱り(ほとり)は「熱くなること。熱気をおびること。熱さ。」、露は「空気中の水蒸気が地面近くの冷たい物体の表面に凝結して水滴となったもの。温度が露点以下になるとできる。」「はかないこと、消えやすいことのたとえ。」「涙のたとえ。」の意味です。

余談

この歌は、ジブリの「かぐや姫の物語」を見て、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

以下、「かぐや姫の物語」のネタバレあり。

かぐや姫が、極楽浄土にたとえられる月から、どうして穢れたこの地にやってきたのかは、それとなく劇中で語られているが、今回の歌はとりわけ、その点についてスポットを当てて書いたものになります。

「熱り」は煩悩の火でもあるが、同時に体温、即ち生命の火でもある。

「露」は、ここでは儚い命や、涙にくれるかぐや姫の象徴でもあると解釈したい。或いは露は丸い水滴でもあるので、丸い水の惑星、地球も連想させられる。

「遠く月照り」もまたおもしろい。

地上から見ている限りの月は美しいが、かぐや姫の視点からみると、そうでもない、ということがあげられる。これは穢土から見た極楽浄土は美しく感じられるが、そうではない可能性がある、という示唆でもあるように思う。

だから「遠く月照り 露の地の今」は、不幸ではないけれども、無機質な、無感情な月の世界から遠く離れて、たとえ煩悩に塗れていたとしても、喜怒哀楽を目一杯表現できるこの地上に今自分がいるということは、ある意味幸せだ、というニュアンスが込められているように思う。

つまり物理的な距離だけでなく、かぐや姫にとっての月の世界は、あまり魅力的に映らない遠い世界でもある、というニュアンスがあるように思う。

物語中に「生きている手応え」云々のセリフがあったが、歌ではその部分を「熱り」と表現している。物語では、恋愛もまた大きな一つのテーマになっているので、この部分を初恋の気持ちなどと解釈しても、またおもしろいかもしれない。

蛇足だが、物語中に出て来た天人達のふるまいが、アメリカドラマの「スーパーナチュラル」に出て来た天使達と似通っていたのは、中々面白かった。おそらく、彼らが感情というものがほとんど無い形で描かれているからだろう。

Posted on 2017/10/09 Mon. 15:12 [edit]

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09

まわりうた 

きよきあめ たかそらすまる
  このときと のこるますらそ かためあきよき

(清き天 高空統まる この時と 残る益荒ぞ 堅め秋良き)

解説

天(あめ)は「空。天。あま。」「天上界。」、高空は「澄みきって高く見える空。」、統まる(すまる)は「集まって一つになる。すばる。」、益荒(ますら)は「神や男の勇ましく力強いさまをいう語。また、雄々しい神や男。」の意味です。

余談

この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

秋は明きと掛かっているように思う。

「清き天 高空統まる この時」は、そのまま解釈すれば神界(天上界)の統一を指すので、そのことが明らかになる、という意味であろう。

その時節に従い、ついにこの時が来た、とそれぞれ縁ある身魂は、知らず知らずのうちに御用に使われ、全てが明きとなる良き秋(とき)が来た、ということかと思う。

このようにして天の岩戸も地の岩戸も、同時進行で開かれてゆく、ということかと思う。

日月神示参照。

『いよいよとなれば、外国強いと見れば、外国へつく臣民 沢山できるぞ。そんな臣民一人もいらぬ、早うまことの者ばかりで神の国を堅めて呉れよ。』(上つ巻 第二十二帖)

『神の臣民に楽な事になるぞ。理屈無い世にするぞ。理屈は悪と申してあろが、理屈ない世に致すぞ。理屈くらべのきほひ無くして仕舞ふぞ。人に知れん様によいことつとめと申してあろが。人に知れん様にする好い事 神こころぞ。神のした事になるのざぞ。行けども行けども白骨と申したが、白骨さへなくなる所あるぞ。早よ誠の臣民ばかりで固めて呉れよ。神世の型 出して呉れよ。時、取違へん様に、時、来たぞ。』(夜明けの巻 第七帖)

『マコトの者は千人に一人ざぞ、向ふの国にはまだまだドエライ仕組してゐるから今の内に神の申すこと聞いて、神国は神国のやりかたにして呉れよ。人の殺し合ひ許りではケリつかんのざぞ、今度のまけかちはそんなチョロコイことではないのざぞ、トコトンの処まで行くのざから神も総活動ざぞ、臣民 石にかじりついてもやらねばならんぞ、そのかわり今後は万劫末代のことざから何時迄もかわらんマコトの神徳あたへるぞ。云はれぬこと、神示に出せぬことも知らすことあるぞ。』(磐戸の巻 第十二帖)

『天(あま)さかり地(くに)さかります御代となるぞ、臣民の心の中にいけおいた花火 愈々ひらくとききたぞ、赤い花火もあるぞ、青いのもあるぞ、黄なのもあるぞ、それぞれのミタマによりて、その色ちがふのざぞ、ミタマ通りの色出るのざぞ。金は金ぞ、鉄は鉄ぞ、鉛は鉛として磨いてくれよ、金のまねするでないぞ。地つちの軸 動くぞ、フニャフニャ腰がコンニャク腰になりて どうにもこうにもならんことになるぞ、其の時この神示、心棒に入れてくれよ、百人に一人位は何とか役に立つぞ、あとはコンニャクのお化けざぞ。』(磐戸の巻 第五帖)

『イワトの巻かき知らすぞよ、イワトひらくには神人共にゑらぎにぎはふのざぞ、カミカカリして唱ひ舞ふのざぞ、ウズメノミコトいるのざぞ。ウズメとは女(おみな)のみでないぞ、男(おのこ)もウズメざぞ、女のタマは男、男のタマは女と申してあろがな。ヤミの中で踊るのざぞ、唄ふのざぞ、皆のものウズメとなりて下されよ、暁(あけ)つげる十理(とり)となりて下されよ、カミカカリて舞ひ唄ひ下されよ、カミカカリでないと、これからは何も出来ぬと申してあろがな。』(磐戸の巻 第一帖)

『八のつく日に気つけと申してあろう。八とはひらくことぞ。ものごとはひらく時が大切ぢゃ。第一歩の前に○歩があるぞ。○歩が大切ぞ。心せよ。そなたは行き詰って苦しんで御座るなれど、それは間違った道を歩んで来たからぞ。行き詰りは有りがたいぞ。省みる時を与えられたのぢゃ。ミタマ磨きさえすれば何ごともハッキリとうつりて、楽に行ける道がちゃんとつくってあるのぢゃ。その人その人に応じて如何ようにでも展け行くぞ。犬猫でさえ楽々と栄えてゐるでないか。洗濯次第でどんな神徳でも与えるぞ。』(月光の巻 第四十七帖)

『八のつく日に気つけてあろうが、八とはひらくことぞ。今が八から九に入る時ぞ、天も地も大岩戸ひらき、人民の岩戸ひらきに最も都合のよい時ぞ、天地の波にのればよいのぢゃ、楽し楽しで大峠越せるぞ、神は無理申さん、やればやれる時ぞ、ヘタをすると世界は泥の海、神々様も人民様も心の目ひらいて下されよ、新しき太陽は昇ってゐるでないか。』(五葉の巻 第十二帖)

『ツギ、アメノトコタチノミコト、ツギ、クニノトコタチノミコト、ツギ、トヨクモヌノミコトトナリナリテ、アレイデタマイ、ミコトスミキリタマヒキ。 辛酉(かのととり)の日と年はこわい日で、よき日と申してあろがな。九月八日は結構な日ざが、こわい日ざと申して知らしてありた事少しは判りたか。何事も神示通りになりて、せんぐりに出て来るぞ。遅し早しはあるのざぞ。この度は幕の一ぞ。日本の臣民これで戦済む様に申してゐるが、戦はこれからぞ。九、十月八日、十八日は幾らでもあるのざぞ。三月三日、五月五日はよき日ぞ。恐ろしい日ざぞ。今は型であるぞ。改心すれは型小(ち)さくて済むなれど、掃除大きくなるぞ。猫に気付けよ、犬来るぞ。臣民の掃除遅れると段々大きくなるのざぞ。神が表に出ておん働きなされてゐること今度はよく判りたであろがな。◎と神との戦でもあると申してあろがな。戦のまねであるぞ。神がいよいよとなりて、びっくり箱開いたら、臣民ポカンぞ。手も足も動かすこと出来んぞ。たとへではないのざぞ。くどう気付けておくぞ。これからがいよいよの戦となるのざぞ、鉄砲の戦ばかりでないぞ。その日その日の戦烈しくなるぞ、褌締めて呉れよ。』(日月の巻 第十帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)

『旧十月八日、十八日、五月五日、三月三日は幾らでもあるぞと申してあろが、此の日は臣民には恐い日であれど神には結構な日ざぞと申してあろが、神心になれば神とまつはれば神とあななへば臣民にも結構な日となるのぞ。其の時は五六七(みろく)の世となるのざぞ。桜花(さくらばな)一度にどっと開く世となるのざぞ、神激しく臣民静かな御代となるのざぞ、日日(ひにち)毎日富士晴れるのざぞ、臣民の心の富士も晴れ晴れと、富士は晴れたり日本晴れ、心晴れたり日本晴れぞ。』(日の出の巻 第四帖)

『今の臣民見て褒める様な事は皆奥知れてゐるぞ。之が善である、まことの遣り方ぞと思ってゐる事九分九厘迄は皆悪のやり方ぞ。今の世のやり方、見れば判るであらうが、上の番頭殿 悪い政治すると思ってやってゐるのではないぞ。番頭殿を悪く申すでないぞ。よい政治しようと思ってやってゐるのぞ。よいと思ふ事に精出してゐるのざが、善だと思ふ事が善でなく、皆悪ざから、神の道が判らんから、身魂曇りてゐるから、臣民困る様な政治になるのぞ。まつりごとせなならんぞ。わからん事も神の申す通りすれば自分ではわからんこともよくなって行くのざぞ。悪と思ってゐることに善が沢山あるのざぞ。人裁くのは神裁くことざぞ。怖いから改心する様な事では、戦がどうなるかと申す様な事ではまことの民ではないぞ。世が愈々のとことんとなったから、今に大神様迄 悪く申すもの出て来るぞ。産土様(うぶすなさま)何んぞあるものかと、悪神ばかりぞと申す者 沢山出てくるぞ。此の世始まってない時ざから我身我家が可愛い様では神の御用つとまらんぞ。神の御用すれば、道に従へば、我身我家は心配なくなると云ふ道理判らんか。何もかも結構な事に楽にしてやるのざから、心配せずに判らん事も素直に云ふ事聞いて呉れよ。子に嘘吐く親はないのざぞ。神界の事知らん臣民は色々と申して理屈の悪魔に囚はれて申すが、今度の愈々の仕組は臣民の知りた事ではないぞ。神界の神々様にも判らん仕組ざから、兎や角申さずと、神の神示腹に入れて身魂磨いて素直に聞いて呉れよ。それが第一等ざぞ。此の神示は世に出てゐる人では解けん。苦労に苦労したおちぶれた人で、苦労に負けぬ人で気狂いと云はれ、阿呆と謂はれても、神の道 素直に聞く臣民でないと解けんぞ。解いてよく噛み砕いて世に出てゐる人に知らしてやりて下されよ。苦労喜ぶ心より楽喜ぶ心高いぞ。』(日月の巻 第三十六帖)

『何事も天地に二度とないことで、やり損ひしてならん多陀用幣流天地(たたよへるくに)の修理固成(かため)の終りの四あけであるから、これが一番大切の役であるから、しくじられんから、神がくどう申してゐるのざ、神々さま、臣民みなきいて呉れよ。一二三(ひふみ)の御用出来たら三四五(みよいつ)の御用にかからなならんから、早う一二三の御用して呉れよ。何も心配ないから神の仕事をして呉れよ、神の仕事して居れば、どこにゐても、いざといふ時には、神がつまみ上げて助けてやるから、御用第一ぞ。一日(ひとひ)に十万の人死ぬ時来たぞ、世界中のことざから、気を大きく持ちてゐて呉れよ。』(上つ巻 第三十四帖)

Posted on 2017/10/08 Sun. 11:36 [edit]

category: まわりうた

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08

まわりうた 

きしなかめ ほとりあまたの
  ちこくいく こちのたまあり とほめかなしき

(岸眺め 辺数多の 地獄行く 固持の魂あり 遠目悲しき)

解説

辺(ほとり)は「川や池などの水際。きわ。ふち。」、数多(あまた)は「数が多いさま。たくさん。多数。」、固持(こじ/こぢ)は「」「意見や信念などをかたく守って変えないこと。固執。」、魂(たま)は「たましい。」、遠目は「遠くから見た感じ。遠くから見えるぐあい。遠見。」の意味です。

余談

この歌は、地獄少女二籠オリジナルサウンドトラックの中にある「あいぞめ」を聴きながら書いた歌です。

雑感

数日前、地獄少女宵伽(よいのとぎ)を見たのだが、中々おもしろかった。後半の回顧録は、実質過去の再放送で残念だったが……。

ちなみに地獄少女がどういうアニメかを簡単に言うと、下記のような流れになる。

(以下重要なネタバレあり)

1. いじめられる、誰かに無実の罪を着せられる、等々、誰かに理不尽な仕打ちを受ける
2. 被害者が加害者を恨む
3. 地獄少女に頼んで加害者を地獄に流してもらう。(いわゆる地獄流し)
5. 「人を呪わば穴二つ」で、その依頼者(被害者)もまた死後地獄に行く

全ての話がこの構図になっているわけではないが、オーソドックスなパターンはだいたい上記の通り。

ということで、歌の内容としては、この地獄流しをイメージしたものです。

今回の放送は第4期になるが、確か第1期では、地獄少女になった由来なんかも明かされていたように思う。

もう見たのが十年以上前なので、あまりよく覚えていないが、こんな話だったと記憶している。

地獄少女の前身である少女もまた、何の落ち度もないのに、否応なしに人身御供にされ、生き埋めになるという理不尽な殺され方をされていた。

しかし、そのひどい仕打ちを受けたことによる凄まじい怨念によって、最後は村中に火を放ち、その復讐を遂げるのだが、それが罪となってしまった。

そしてその贖罪のため、地獄少女の仕事を与えられた、という話だったと思う。

なぜこの仕事をすることが贖罪になるのか、と考えてみると、おそらく復讐を遂げても、その恨みの連鎖が広がっていくだけで、根本的な解決にならない、ということを知りなさい、ということなのだと思う。

今回の地獄少女宵伽では、ミチルという少女が出て来て、似たような話が展開されている。

舞台は大正か昭和初期。ミチルの家は比較的裕福で、両親は常に人の為、村の為を思って行動していたので、村人からの人望も厚かった。

だが、それをよく思わない人々がいて、娘が拉致監禁されてしまう。それに気づいた両親は助け出そうとするが、両親共々、殺されてしまう。

ミチルは殺されるまさにその時、凄まじい怨念を発し、村中に火を放つ。そしてミチルは彷徨う魂となってしまった。

両親については、その後のことが描かれていないことから、成仏したものと思われる。おそらく両親は、そのような仕打ちを受けても相手を恨まず、それを受け入れたのだろう。

出来れば怨恨は地獄に流さずに、水に流したいものである。とはいえ、それは中々難しい。

かつて、この世を治めていた国常立大神様は、上と似たような構図で、八百万の神々から、冤罪により艮に押し込められたのだとか。しかしその時、仕返しをする力が十分にあるにも関わらず、じっと耐えていたという。驚くことに、その年数は三千年。

水に流すことは中々難しいので、怨恨に蝕まれた魂は、その魂自体を流せば良いのかもしれん。どこに流すのかというと、神の方向へと流すのだ。これも一種の惟神(かんながら)に通じるものがあるように思う。

そういえば昔、五井昌久という宗教家の本を読んだ時、神様、神様、と思っていたら、神様の中に入っちゃった、みたいなことが書かれていたが、あの感じにニュアンスとしては似ているかもしれない。

日月神示参照。

『そなたはつまらんことにいつも心を残すから つまらんことが出てくるのであるぞ。心を残すと云うことは、霊界とのつながりがあることぞ。つまらん霊界にいつ迄くっついてゐるのぢゃ。何ごとも清めて下されよ。清めるとは和すことであるぞ。同じもの同士では和ではない。違ったものが和すことによって新しきものを生むのであるぞ。奇数と偶数を合せて、新しき奇数を生み出すのであるぞ。それがまことの和であり清めであるぞ。善は悪と、陰は陽と和すことぢゃ。和すには同じあり方で、例へば五と五との立場で和すのであるが、位に於ては陽が中心であり、陰が外でなければならん。天が主であり地が従でなければならん。男が上で女が下ぢゃ、これが和の正しきあり方ぞ。さかさまならんぞ。これを公平と申すぞ。口先ばかりでよいことを申すと悪くなるのぢゃ。心と行が伴はねばならん。判りきったこの道理が行はれないのは、そなたをとり巻く霊の世界に幽界の力が強いからぢゃ。そなたの心の大半を幽界的なもので占めてゐるからぞ。己自身のいくさ まだまだと申してあろうがな。このいくさ中々ぢゃが、正しく和して早う弥栄結構ぞ。そなたのもつ悪いくせを治して下されよ。そのくせ治すことが御神業ぞ。自分で世界を建直すような大きこと申して御座るが、そなたのくせを治すことが最も大切な御用でないか。これに気がつかねば落第ぞ。おそれてはならん。おそれ生むからぞ。喜べ、喜べ、喜べばよろこび生むぞ。喜びは神ぢゃ。神様御自身も刻々弥栄して御座るぞ。故にこそ生長なされるのぢゃ。人間も同様でなくてはならん。昨日の自分であってはならん。今の自分ぞ。中今のわれに生きねばならん。われにどんな力があったとて、我を出してはならんぞ。我を出すと力なくなるぞ。我を、大き我に昇華させよ。大我にとけ入らねばならん。大我にとけ入ったとて、小我がなくなるのではないぞ。人おろがめよ。物おろがめよ。おろがむと自分の喜びとなり、拝まれたものも喜びとなるぞ。うれしうれしとはそのことぞ。』(月光の巻 第五十二帖)

Posted on 2017/10/07 Sat. 09:16 [edit]

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07

まわりうた 

きしみさけ とほそらのしき
  にしのへの しにきしのらそ ほとけさみしき

(岸見放け 遠空の色 西の方の 死に帰し野良ぞ 仏寂しき)

解説

見放く(みさく)は「遠くを見る。はるかに眺める。」、遠(とお)は「‘とおつ’‘とおの’の形で、または直接に名詞の上に付き、遠いことの意を表す。」、色(しき)は「目で見ることのできるもの、すなわち色(いろ)と形。」、方(へ)は「そのものにごく近い場所、また、それへの方向を示す。近く。ほとり。あたり。」、帰すは「最後に一つのところに落ち着く。帰着する。」、野良(のら)は「野。野原。」「田や畑。」の意味です。

余談

この歌は、地獄少女オリジナルサウンドトラックの中にある「かりぬい」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。

雑感

イメージとしては、三途の川を渡って、西方の寂静(じゃくじょう)の世界に行き着いた時の心境を詠っている。

なので「岸見放け」は、岸を遠くはるかに眺めて、という意味になるので、この岸は彼岸(=あの世)から見た此岸(=この世)のことと解釈したい。

「遠空の色」は、向こう側の岸(此岸)の方の、遠くに見える空色(が美しいなぁ)というニュアンスなのだが、これは色(しき)でもあるので、要するに、死後、生前の世界を改めて見て、生の世界特有の色(しき)の世界、形ある世界のその美しさというか、懐かしさというか、そういう感慨深さが魂に沁みて来るニュアンスが含まれているように思う。

だから最後が「寂しき」となっているのだろうと思う。

あんなに嫌だと思っていた生前の世界が、思い出す一瞬一瞬の全てが狂おしいほど懐かしく、また美しく輝いている様を見て、とてもとても寂しくなってしまうのである。

もっと自分は良い対応ができなかったのか、と思ってしまうのである。

それは、あたかも、身近な人が死んだ時のような寂しさでもある。だが、死後、西方の寂静の世界に行き着いた自分は、すでに生前に持っていた色(しき)から離れているがゆえに、空(くう)であるがゆえに、その寂しささえも、愛おしく感じられるのである。

そしてその心境こそが仏の心境でもある、ということ。

歌の最後にある「仏」は、仏に成った(=死んだ)自分という意味でもあるが、西方世界にいらっしゃる仏様という意味でもある。西方の仏様は阿弥陀如来なので、まあこの仏様という意味でもある、ということでもある。

というよりも、自分と阿弥陀如来とが一つになって、何とも言えない感慨深さの中に身を置くことになるのである。

嫌な記憶、辛い記憶だと思っていたその記憶全てが、まるで夕日の光に照らされて流されて行くように抜け落ちて行くというか、その辛さをひっくるめて美しく感じるというか、まあ、うまく言えないが、そのような感情に変わり、後には楽しかった思い出、嬉しかった思い出、感動した思い出、そのような思い出だけが残り、生前にあった全ての全てが自分の中で消化(昇華)され、肯定されて行くのである。

そうして、自分の中で生前の人生全てが納得できた時、生前あった私というものは消え、仏になるのである。仏は火(ほ)の解け(とけ)であり、煩悩の火が一切合財解けて消え去った状態のことをいう。

そうして今度は、自分の中に残った楽しかった思い出、嬉しかった思い出等の、その思念が土台となって、それにふさわしい世界へと旅立つのである。

Posted on 2017/10/06 Fri. 18:55 [edit]

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